風姿花伝『二十四、五』
このテキストでは、
風姿花伝の一節『
二十四、五』のわかりやすい現代語訳(口語訳)を記しています。
※
風姿花伝は、15世紀の初めごろに
世阿弥が記した能の理論書です。
原文(本文)
このころ、
一期の芸能の定まる初めなり。さるほどに、稽古の境なり。声もすでになほり、体も定まる時分なり。
されば、この道に二つの果報あり。声と身なりなり。これ二つは、この時分に定まるなり。歳盛りに向かふ芸能の生ずるところなり。さるほどに、よそ目にも、すは、上手で来たりとて、人も目に立つるなり。もと名人などなれども、
当座の
花にめづらしくして、立会勝負にも、いったん勝つときは、人も
思ひ上げ、主も上手と思ひしむるなり。これ、
返す返す主のため仇なり。これも、まことの花にはあらず。年の盛りと、見る人の、いったんの心の珍しき花なり。まことの目利きは見分くべし。このころの花こそ、初心と申すところなるを、きはめたるやうに主の思ひて、はや申楽にそばみたる
輪説とし、いたりたる風体をすること、
あさましきことなり。たとひ、人もほめ、名人などに勝つとも、これはいったん珍らしき花なりと思ひ悟りて、
いよいよ物まねをもすぐにしさだめ、名を得たらん人にことをこまかに問ひて、稽古を
いやましにすべし。
現代語訳(口語訳)
この時期は、生涯の芸能(の形)が定まる初期です。ですので、稽古の(内容の)変わり目となります。声変わりもすでによくなり、体つきも決まる時期です。それゆえに、芸能の道を求める者にとって、(この時期には)2つの果報(といえるもの)を得ます。声と体つきです。この2つは、この時期に定まるものです。年の盛りに、目指すべき芸能(のスタイル)が生まれるもととなります。ですので、他人の目からみて、ああ、(若い世代から)上手な人が出てきたと、人の目にもとまるのです。(一緒に演じた人が)かつての名人などであっても、その場の芸の美しさが珍しいために、演じ合いをしても、(若者が名人相手に)一度勝つことがあり、(そのために)他人も実際より高く評価し、本人も(自分は)上手だと思い込んでしまうものです。これは、どう考えても本人にとってはよくないことです。これも、本当の意味での花ではありません。(演者の)年齢が若々しいのと、見る人が珍しいと思って見るから、珍しい花と(してとらえられるのです。)思うのです。本当の目利きは(そのことを)見分けるでしょう。この二十四、五歳のころの花を、初心と申すべきですが、芸を極めたように本人が思って、はやくも猿楽の本筋を無視した勝手気ままなやり方をし、(芸の極みまで)至ったような雰囲気をだすことは、とても情けないことです。たとえ、周りの人がほめ、名人などに勝ったとしても、これは(極めたのではなく一時的な)珍しい花として(名声を受けているのだ)のものであると悟って、よりいっそう物まねを体得し、名声を得ている人に細部を尋ねて、稽古をますます積んでいくべきです。
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