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17_80 近世の社会・文化と国際関係 / 江戸時代

【関ヶ原の戦い、江戸幕府の成立】 受験日本史まとめ 37

著者名: Cogito
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幕藩体制の確立

大坂の役の直後、1615年(元和元年)に徳川幕府は一国一城令を出し、全国の大名に本城以外の支城を破壊させ、有力大名の軍事力を削ぎ、また、金地院崇伝に命じて武家諸法度を作らせ、これをもとに大名を統制しました。徳川家康が死去すると、第2代将軍の徳川秀忠は大名・公家・寺社に領地の確認文書の領地宛行状を出し、全国の土地所有者であると示しました。また、広島城主(49万8000石)福島正則を城郭修補の項に違反した理由で津軽へ、のちに信州川中島(4万5000石)へ転封するなど、武家諸法度を尊守させ、全国に配置換えを行いました。

大名は徳川将軍との関係の深さにより、親藩・譜代・外様に分けられました。親藩は、尾張・紀伊・水戸の御三家、譜代は、三河以来の徳川家家臣や幕府の信任があつい大名、外様は関ヶ原の戦い以後に徳川氏に臣従したもので、加賀の前田(102万石)・薩摩の島津(73万石)・陸奥の伊達(56万石)などの有力大名がおり、こうした外様大名は東北・四国・九州などの辺境に配置され、関八州は幕領・旗本知行地・譜代大名で固め、東海道・中山道・近畿なども将軍家への忠誠心の高い大名を配置しました。

家康と同じように、1623年(元和9年)に3代将軍職を家光にゆずった秀忠は、大御所として幕府権力を高める政策を行い、1632年(寛永9年)に死去しました。3代将軍となった徳川家光(1604〜51)は、肥後の外様大名加藤忠広(清正の子)を処分して出羽庄内に配流し、その後小倉から細川氏を転封し、小倉には譜代の小笠原氏を封じて、九州にも将軍の力が及ぶようにしました。また、弟の徳川忠長を改易し、外様29名、一門・譜代19名を改易し、大名統制を進めました。

1616年(元和2年)の軍務規定を1633年(寛永10年)に改定した徳川家光は、1000石の旗本は鑓2本・弓1張・鉄砲1挺で総勢23人の出陣、1万石の大名は馬上の武士10騎、鉄砲20挺・弓20張・鑓30本・旗2本と規定しました。また、大名は平時には江戸城の改修や河川の普請を負担しました。

1635年(寛永12年)、徳川家光は新たに武家諸法度を発布し、大名に国元と江戸を一年交代で往復させる参勤交代制度を義務づけ、妻子の江戸居住を強制しました。関東の大名は半年交代、対馬の宗家は3年に1度、水戸家は江戸に詰めるなど、国元との距離により異なりました。大名には多大な負担となり、幕府は有力大名の経済力を削ぐことに成功し、江戸と街道宿場がにぎわい、交通が発達しました。江戸に参勤した大名たちは、軍役として江戸城の警護や火事の対応などの役目を負いました。こうして3代将軍徳川家光の時代までに、徳川将軍と全国の諸大名の間で主従関係が確立し、将軍と大名が人民と土地を統治する幕藩体制が確立し、安定した社会がはじまりました。
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『詳説日本史』 山川出版社
『日本史用語集』 山川出版社

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