国司の地方支配
902年(延喜2年)、朝廷は延喜の
荘園整理令を出し、班田を励行を図り令制の再建を図りましたが、うまくいきませんでした。
「
延喜・天暦の治」と言われた天皇親政の時代、律令体制は変質していきました。政府は方針を転換し、国司に一定額の税の徴収を請け負わせ、地方統治も委ねるようになっていきました。
国司は
田堵という有力農民に一定の期間を設けて耕作を請け負わせ、以前の租・調・庸、公出挙、雑徭などに相当する額の年貢(官物)や臨時雑役を課しました。租税徴収の田地は
名という徴税単位に分けられ、それぞれ負名という請負人の名がつけられました。田堵の中には、国司と組んで勢力を拡大し、
大名田堵と呼ばれる者も出てくるようになりました。
こうして戸籍に記載されて成年男子らに課税する律令的支配の原則が崩れ、有力農民が経営する名という土地に課税する支配体制に変わっていきました。
この支配体制に基づく国家を、律令国家と区別して
王朝国家と呼びます。
こうして徴税請負の権力を握った国司の中には、私腹をこやして巨利を得る者も出てきました。そのため、有力者の中には、私財を費やして朝廷の儀式や寺社の造営を助ける成功(じょうこう)という行為をして、代償として国司の官職を得たり、同じ国司に再任される重任も行われるようになっていきました。
任国に赴任した国司の最上席の者は
受領と呼ばれ、しばしば暴政を行い、その土地の有力農民や郡司たちに訴えられることもありました。
やがて受領の中には、
遙任といって赴任せずに目代を派遣して国司としての収入を得ることが多くなり、主に京に住み、摂関家に仕え経済的な奉仕を行いつつ、重任や他国の国司に移る遷任を繰り返して蓄財していきました。現地の国の政庁には、受領の派遣した
目代を中心となり留守所が作られ、その指揮のもとで国衙の行政事務が豪族から選ばれた役人によって行われるようになり、この在庁官人の地位は世襲化されていきました。