平安京への遷都
奈良時代後期、
称徳天皇の死去とともに、それまで政治の中心にいた
道鏡が失脚し、式家の
藤原百川らが中心となり、
天武天皇系の皇統に代わり、
天智天皇系の
白壁王(施基皇子の子)が即位し
光仁天皇となり、新しい政治体制がはじまりました。
光仁天皇のあと、山部親王が即位し、
桓武天皇となりました。桓武天皇は、政治再建政策をすすめ、仏教政治の弊害を断つ意味も込めて、784年(延暦3年)に大和の
平城京から山背国乙訓郡長岡の
長岡京(現京都府向日市など)に遷都しました。しかし、桓武天皇の地盤は確立しておらず、反対派らが腹心で長岡京遷都を主導していた
藤原種継を暗殺し、この事件をきっかけに皇太子の
早良親王や大伴氏・佐伯氏の人々が退けられ、皇族・貴族内の対立が深まりました。また、同時期に桓武天皇の母や皇后が相次いでなくなり、桓武天皇はこれが早良親王の怨霊のせいであると恐れ、794年(延暦13年)に造営が進まない長岡京から山背国葛野郡宇太の地(現京都市)の
平安京に遷都しました。
平安京遷都ともに、山背国も
山城国に改められ、以降源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでの約400年間を平安時代と呼びます。
桓武天皇は、東北地方の
蝦夷征伐を重点的に行い、支配を強めました。788年(延暦7年)に紀古佐美を征討大使に任命すると、翌年大軍を派遣し制圧に乗り出しましたが、蝦夷の族長
阿弖流為の抵抗により大敗します。
この大敗後、朝廷は周到に準備をすすめ、
大伴弟麻呂を征夷大使、
坂上田村麻呂を副使として再度大軍を組織し、一定の成果を上げました。坂上田村麻呂は、797年(延暦16年)に征夷大将軍となり、802年(延暦21年)に
胆沢城(岩手県水沢市)を築城し、その後阿弖流為を帰順させ胆沢地方を制圧しました。翌年803年(延暦22年)には
志波城を造営し、東北経営の拠点を作りました。
しかし、桓武天皇が目標とした都造営と蝦夷征伐の二大政策は、国家財政に大きな負担となっていました。そのため、805年(延暦24年)桓武天皇は藤原緒嗣の諫言を聞き入れ、征夷と造都の事業を打ち切りました。