聖武天皇の治世
律令制度は、藤原鎌足の子藤原不比等らが中心となり確立していきましたが、藤原氏の権力が強大化していくにつれ、旧勢力の大伴氏や佐伯氏などの有力豪族との間に軋轢がうまれてきました。
こうした中、藤原不比等は、娘の宮子を文武天皇の妃とし、その皇子(聖武天皇)の即位をはかり、更に娘の光明子をも聖武天皇の妃とし、天皇家と藤原家の結びつきを築きました。
不比等の子供
武智麻呂・房前・宇合・麻呂の兄弟も次第に政界に進出し、それぞれが後に藤原氏の南家・北家・式家・京家の祖となりました。720年(養老4年)に不比等は亡くなり、壬申の乱で活躍した高市皇子(天武天皇の皇子)の子長屋王が政界の首班となりますが、天武天皇の皇位継承に不安を感じた藤原四兄弟は、策謀により左大臣だった長屋王を自殺に追い込み(
長屋王の変)、光明子を皇后にたて、天皇家との結びつきを強めました。
長屋王の変の後、大納言になった武智麻呂ら藤原四兄弟は、光明皇后を通じて権力を振るうようになりました。しかし、737年(天平12年)に九州から天然痘が広まり、藤原四兄弟も相次いで亡くなり、藤原氏の勢力は一時的に衰えます。
その後、皇族出身の
橘諸兄(684〜757)が政権を主導し、唐で学んだ吉備真備や玄昉が聖武天皇の信任を得て活躍しました。
しかし天平時代、日本各地で飢饉や疫病が続き、社会不安が広がっていました。740年(天平12年)には藤原氏の中から式家宇合の長男で太宰府に赴任していた藤原広嗣が、政治の中央にいた玄昉や吉備真備の排除を目的に九州で乱を起こしました(
藤原広嗣の乱)。この乱は中央から大群が派遣され最終的に鎮圧されますが、朝廷の動揺は続き、聖武天皇はその後、恭仁京(京都府山城郡加茂町)・難波京(大阪市)・紫香楽京(滋賀県甲賀郡信楽町)など次々に都を移しました。
社会不安が広がる中、仏教を信仰していた聖武天皇は、仏教の鎮護国家の思想のもと、国家の平和と安定を目指そうとします。741年(天平13年)には
国分寺建立の詔を出して、国ごとに国分寺・国分尼寺を設けさせました。各寺には七重塔・丈六の釈迦像・金光明最勝王経など護国の経典を備えさせ、国分寺には20人、国分尼寺には10人ずつ僧を置きました。また、743年(天平15年)には、大仏造立の詔が出されます。
745年(天平17年)、再び平城京に都が戻ると、仏像事業も奈良に移り、聖武天皇の娘で皇位を継いだ孝謙天皇(在位749〜758)の時代に入ると、752年(天平勝宝4年)に高さ5丈3尺5寸(16.1m)の東大寺大仏が完成し、盛大な開眼供養が行われ、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ、文武百官・インドや中国からの僧など1万人が参列した壮大な儀式となりました。