平城京への遷都
7世紀以降、奈良南部の飛鳥・藤原が都でしたが、710年、元明天皇(在位707〜715)の時代に藤原京から盆地北部の
平城京への遷都が行われました。
平城京は碁盤の目のように整然とした区画で整備された都で、中央の朱雀大路を中心に東の左京と西の右京に分かれ、北部中央の平城宮がありました。平城宮には天皇の日常生活の場である内裏、政務・儀礼の場である大極殿・朝堂院、官庁地区に分かれていました。
都は人口10万人で、貴人・官人・庶民の家が立ち並び、飛鳥地方の大安寺・薬師寺・元興寺などの寺院が移設されました。
左京・右京には官営の市が設けられ、全国各地から集まった様々な商品が交換されました。
都と地方を結ぶ官道として
七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)が整備され、およそ16kmごとに駅屋を設ける駅制が確立しました。
諸国には、中央から派遣される国司の拠点として国府が、その下の郡には郡家が設置され、地方の役所として機能しました。
708年(和銅元年)、武蔵国から銅が献上されると、政府は元号を和銅に改めて、唐を模範にし、国産の銭貨として和同開珎を鋳造しました。
この後10世紀の乾元大宝まで、12種類の銭貨が作られます。これを
本朝(皇朝)十二銭といいます。
政府は銭貨の流通を図るため、蓄銭叙位令を発布しましたが、京や畿内以外の地域では稲や布などを中心とした交易が盛んだったため、銭貨の流通は広がりませんでした。
政府はその他にも、鉄製農具や灌漑技術を導入し耕地の拡大を目指し、銅山(周防)・金山(陸奥)の掘削も進めました。また、養蚕や高級織物の技術者を地方に派遣し、租税の為の特産品生産が盛んになりました。
一方、支配領域の拡大もはじまります。東北では蝦夷と言われた人々を支配下に置き、大化の改新直後には渟足柵(新潟県に新潟市付近)・磐船柵(新潟県村上市付近)が設置され、阿倍比羅夫が秋田や以北の蝦夷とも関係を結びました。
8世紀になると、日本海側に出羽国がおかれ、秋田城が築かれ、太平洋側にも多賀城(宮城)が築かれ、出羽国・陸奥国が北の蝦夷対策の拠点となります。
南九州では隼人と呼ばれた人々の地域にも大隅国がおかれ、種子島や屋久島が交易下に入りました。