織田信長(おだのぶなが)(1534〜1582年)とは、尾張から身を起こし、天下統一まであと一歩に迫った戦国大名です。この記事では、桶狭間から「天下布武」、そして本能寺の変までの歩みを、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる織田信長」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つの謎を考察していきます。
・「天下布武」の「天下」はどこを指すのか
・室町幕府は本当に1573年に滅んだのか
・なぜ光秀は裏切ったのか
1分でわかる織田信長
織田信長とは、一言でいえば、天下統一まであと一歩に迫り、最後は家臣に討たれた戦国の主役です。
桶狭間から「天下布武」へ
尾張の大名だった信長は、1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破って名を上げます。1567年に美濃を平定すると「天下布武」の印を使い始め、翌1568年、足利義昭を奉じて京都に上りました。
戦いを重ね、安土へ
姉川の戦い(1570年)、比叡山焼き討ち(1571年)、長篠の戦い(1575年・武田勝頼を破る)と戦いを重ね、1573年には義昭を京都から追放。通説ではこれをもって室町幕府の滅亡とされます。1576年からは琵琶湖のほとりに安土城を築きました。
本能寺で最期を迎える
1582年6月2日、京都の本能寺で重臣・明智光秀の謀反に遭い、自害します。天下統一まであと一歩——その動機がなぜだったのかは、いまも分かっていません。
「天下布武」は長く「武力で天下を統一する宣言」と説明されてきました。ただしこの「天下」は日本全国ではなく、京都を中心とする五畿内を指すと考えられています。言葉ひとつにも、信長像の見直しは進んでいます。
おまけトリビア
「岐阜」という地名は、信長が美濃平定のときに城下の「井ノ口」から改めたのが始まりです。県名にいまも残る、信長の置き土産なんです。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、織田信長をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■織田信長の背景
信長は1534年、尾張の織田信秀の子として生まれました。幼名は吉法師。1560年、尾張に攻め込んだ今川義元を桶狭間で討ち取ったことで、一躍その名を知られます(くわしくは桶狭間の戦いの記事へ)。
転機は美濃の平定です。1567年、斎藤氏を破って本拠を移した信長は、地名を「井ノ口」から「岐阜」へ改め、「天下布武」の印章を使い始めます。そして1568年、京都を追われていた足利義昭を奉じて上洛。義昭は第15代将軍となりました。
■人物と流れ
| 年 | 出来事 |
| 1534年 | 尾張に生まれる |
| 1560年 | 桶狭間の戦いで今川義元を破る |
| 1567年 | 美濃平定・「天下布武」の印を使用開始 |
| 1568年 | 足利義昭を奉じて上洛 |
| 1570年 | 姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破る |
| 1571年 | 比叡山焼き討ち |
| 1573年 | 足利義昭を追放(通説では室町幕府の滅亡) |
| 1575年 | 長篠の戦いで武田勝頼を破る |
| 1576年 | 安土城の築城開始 |
| 1582年 | 本能寺の変で自害(享年49) |
■史実と学説
「天下布武」の解釈は、信長像の見直しを象徴する論点です。かつては「武力による天下統一の宣言」と説明されてきましたが、ここでの「天下」は日本全国ではなく京都を中心とする五畿内を指し、室町幕府の再興の意志を込めたものだった、とする解釈が示されています。
室町幕府の「滅亡」も、実は断定しにくい論点です。1573年の義昭追放をもって滅亡とするのが通説ですが、義昭はその後も将軍の地位にとどまっており、資料でも戦国時代の終わりを1568年・1573年・1576年のどこに置くかは分かれています。
そして本能寺の変。明智光秀がなぜ謀反に及んだのかは、複数の説があるものの定まっておらず、どの資料も動機を断定していません。「分かっていない」が、現在の正確な答えです。
信長の生誕地(3説)や安土城天主の階数など、細部には資料間の食い違いがあります。このテキストでは食い違いのある数字・固有名詞は避けて書いています。なお信長は天下統一を完成させていません。
■トリビアの真相
「岐阜」の命名は、美濃平定と同じ1567年のことです。稲葉山城を整備して本拠とした信長が、城下の井ノ口を岐阜と改めました。現代の県名にまで残った地名を戦国大名が名づけた例として、意外と知られていないトリビアです。
そしてもうひとつ、記録の話を。信長の生涯を記した『信長公記』(太田牛一)は、後年これを物語風に潤色した『信長記』(小瀬甫庵)とは別の書物です。桶狭間の「奇襲」のように、この2冊の違いが通説の見直しにつながった例もあります。信長という人物は、史料の読み直しとともに、いまも更新され続けています。
試験に出るポイント
1560年桶狭間→1567年「天下布武」→1568年上洛(足利義昭)→1573年義昭追放→1575年長篠→1576年安土城→1582年本能寺の変、の年号の流れが最頻出。長篠の相手は武田勝頼(信玄ではない)に注意。