平家物語
祇王
母とぢこれを聞くにかなしくて、いかなるべしともおぼえず。なくなく教訓しけるは、
「いかに祇王御前、ともかうも御返事を申せかし、左様にしかられまいらせんよりは」
と言へば、祇王、
「参らんと思ふ道ならばこそ、やがて参るとも申さめ。参らざらむ物故に、何と御返事を申すべしともおぼえず。
「この度召さんに参らずは、はからふむねあり」
と仰せらるるは、都の外へ出ださるるか、さらずは命を召さるるか、この二つにはよも過ぎじ。たとひ都を出ださるるとも、嘆くべき道にあらず。たとひ命を召さるるとも、おしかるべきまた我が身かは。一度憂きものに思はれまいらせて、ふたたびおもてを向かふべきにもあらず」
とて、なを御返事をも申さざりけるを、母とぢかさねて教訓しけるは、
「天が下に住まんほどは、ともかうも入道殿の仰せをば背 (そむく)まじきことにてあるぞとよ。男女の縁、宿世、今にはじめぬ事ぞかし。千年・万年とちぎれども、やがてはなるる中もあり。あからさまとは思へども、ながらへ果つることもあり。世に定めなきものは男女のならひなり。それにわごぜは、この三年 (みとせ)まで思はれまゐらせたれば、ありがたき御情でこそあれ、召さんに参らねばとて、命をうしなはるるまではよもあらじ。ただ都の外へぞ出されんずらん。たとひ都を出ださるとも、わごぜたちは年若ければ、いかならん岩木のはざまにても、過ごさん事やすかるべし。年老いおとろへたる母、都の外へぞ出だされんずらむ。ならはぬひなのすまゐこそ、かねて思ふもかなしけれ。ただ我を都のうちにて、住み果てさせよ。それぞ今生 (こんじょう)・後生 (ごしょう)の孝養と思はむずる」
と言へば、祇王憂しと思ひし道なれども、おやの命をそむかじと、なくなくまた出で立ちける。心のうちこそ無慙 (むざん)なれ。
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