更級日記
いにしへ、いみじうかたらひ
いにしへ、いみじうかたらひ、夜昼歌などよみかはしし人の、ありありても、いと昔のやうにこそあらね、たえずいひわたるが、越前守の嫁にてくだりしが、かきたえ音もせぬに、からうじてたよりたづねて、これより、
絶えざりし思ひも今は絶えにけり 越のわたりの雪のふかさに
といひたる返事(かへりごと)に、
白川の雪の下なるさざれ石の 中のおもひは消えむものかは
弥生のついたちごろに、西山の奥なる所にいきたる。人目も見えず、のどのどとかすみわたりたるに、あはれに心細く、花ばかり咲き乱れたり。
里遠みあまり奥なる山路には 花見にとても人こざりけり
世の中むつかしうおぼゆるころ、太秦(うずまさ)にこもりたるに、宮にかたらひきこゆる人の御もとより文ある、返事きこゆるほどに、鐘のおとのきこゆれば、
しげかりしうき世の事も忘られず 入りあひの鐘の心ぼそさに
とかきてやりつ。
うらうらとのどかなる宮にて、同じ心なる人、三人ばかり、物語などして、まかでて、またの日、つれづれなるままに、恋しう思ひ出でらるれば、二人の中に、
袖ぬるる荒磯浪としりながら ともにかづきをせしぞ恋しき
ときこえたれば、
荒磯はあされど何のかひなくて うしほにぬるるあまの袖かな
いま一人、
みるめおふる浦にあらずば荒磯の 浪間かぞふる海女もあらじを
おなじ心に、かやうにいひかはし、世の中のうきもつらきもをかしきも、かたみにいひかたらふ人、筑前にくだりてのち、月のいみじう明かきに、かやうなりし夜、宮にまいりて、あひては、つゆまどろまずながめあかいしものを、恋しく思ひつつ寝入りにけり。宮にまいりあひて、うつつにありしやうにてありと見て、うちおどろきたれば、夢なりけり。月も山の端ちかうなりにけり。さめざらましを、といとどながめられて、
夢さめてねざめの床の浮くばかり 恋ひきとつげよ西へゆく月