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枕草子 原文全集「うちとくまじき物」

著者名: 古典愛好家
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うちとくまじき物

うちとくまじき物。ゑせもの。さるは、よしと人にいはるる人よりも、うらなくぞみゆる。


船のみち。日のいとうららかなるに、海の面のいみじうのどかに、浅みどりの打ちたるをひきわたしたるやうにて、いささかおそろしきけしきもなきに、わかき女などの袙(あこめ)、袴などきたる、侍のものの若やかなるなど、櫓といふもの押して、歌をいみじううたひたるは、いとをかしう、やむごとなき人などにも見せたてまつらまほしう思ひいくに、風いたうふき、海の面ただあしにあしうなるに、ものもおぼえず、とまるべき所に漕ぎつくるほどに、船に浪のかけたるさまなど、かた時にさばかりなごかりつる海とも見えずかし。
 

思へば、船に乗りてありく人ばかり、あさましうゆゆしきものこそなけれ。よろしき深さなどにてだに、さるはかなきものに乗りて漕ぎいづべきにもあらぬや。まいて、そこゐもしらず、千尋などあらむよ。ものをいとおほく積み入れたれば、水際はただ一尺ばかりだになきに、下衆どもの、いささかおそろしとも思はではしりありき、つゆあしうもせば沈みやせむと思ふを、大きなる松の木などの、二三尺にて丸なる、五つ六つ、ほうほうと投げいれなどするこそいみじけれ。
 

屋形といふもののかたにておす。されど奥なるはたのもし。端にて立てるものこそ、目くるる心地すれ。早緒とつけて、櫓(ろ)とかにすげたるものの、弱げさよ。かれが絶へば、なににかならむ。ふと落ちいりなむを。それだに太くなどもあらず。


わが乗りたるはきよげにつくり、妻戸あけ、格子あげなどして、さ水とひとしう下りげになどあらねば、ただ家のちひさきにてあり。小船を見やるこそいみじけれ。遠きはまことに笹の葉をつくりて、うち散らしたるにこそ、いとようにたれ。とまりたる所にて、船ごとに灯(とも)したる火は、またいとをかしう見ゆ。
 

はし舟とつけて、いみじう小さきに乗りて漕ぎありく。つとめてなど、いとあはれなり。あとの白波は、まことにこそ消えもて行け。よろしき人は、なほ乗りてありくまじきこととこそおぼゆれ。徒歩路(かちぢ)もまた、おそろしかなれど、それはいかにもいかにも地につきたればいとたのもし。
 

海はほいとゆゆしと思ふに、まいて海女のかづきしに入るは、うきわざなり。腰につきたる緒の、絶えもしなばいかにせむとならむ。男だにせましかば、さてもありぬべきを、女はなほおぼろげの心ならじ。舟に男は乗りて、歌などうちうたひて、この栲縄を海に浮けてありく。あやふく、うしろめたくはあらぬにやあらむ。のぼらむとて、その縄をなむひくとか。惑ひくり入るるさまぞ、ことわりなるや。舟の縁(はた)をおさへて放ちたる息などこそ、まことにただ見る人だにしほたるるに、落しいれてただよひありく男は、目もあやにあさましかし。


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・枕草子 原文全集「うちとくまじき物」

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渡辺実 1991年「新日本古典文学大系 枕草子・方丈記」岩波書店
松尾聰,永井和子 1989年「完訳 日本の古典 枕草子」小学館
萩谷朴 1977年「新潮日本古典集成 枕草子 下」 新潮社

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