フランク王国の発展で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
フランク王国の発展
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メロヴィング家出身のフランク王国国王
クローヴィス(在位481〜511)は、フランク族を統一し
メロヴィング朝(481〜751)をひらき、周辺のブルグント族や西ゴート族を打ち破った。
・
496年、クローヴィスは家臣とともに
アタナシウス派キリスト教に改宗した。周辺のゲルマン民族は
325年の
ニケーア公会議で異端とされた
アリウス派を信仰しており、正統派であるアタナシウス派への改宗は、ローマ系住民やキリスト教会との関係を深める事となった。
・フランク王国は
分割相続制を採用していたため、クローヴィスの死後王国は分裂した。6世紀後半には、東部のアウストラシア、西部のネウストリア、南部のブルグントにわかれ、メロヴィング朝の王権は次第に衰えていった。
・メロヴィング朝の王権が衰退するなか、各国の
宮宰(マヨル=ドムス)が実権を握るようになった。宮宰は行政・財政面の権力を握り、世襲であった。
カール=マルテル、ピピンの活躍とカロリング朝のはじまり
・宮宰が実権を握るようになると、アウストラシアの宮宰を務めた
カロリング家が有力となっていった。フランク王国メロヴィング朝の宮宰
カール=マルテルは、
732年のトゥール=ポワティエ間の戦いでフランク領内に侵入したイスラーム軍を撃破し、ヨーロッパ世界を救った。こうしたことから、この戦い以後、フランク王国の実権がメロヴィング家からカロリング家へと移った。
・カール=マルテルの子
ピピンは、ローマ教皇の支持を経て正式にメロヴィング朝を廃し、新たに
カロリング朝(751〜987)をひらいた。こうしてカロリング家とローマ教皇の関係はより一層深まり、ローマ教会を圧迫していた
ロンバルド(ランゴバルド)をピピンが攻撃し、その際獲得した北イタリアの
ラヴェンナ地方を
756年ローマ教皇に献上した。これが
ピピンの寄進で、これ以降
教皇領が成立し教皇の経済的基盤ができあがった。
カール大帝の登場
・ピピンの子
カールは、フランク王国国王(在位768〜814)に即位すると、
774年
ロンバルド(ランゴバルド)王国を滅ぼし、804年サクソン族を征服、イベリア半島のイスラーム軍を攻撃し、モンゴル系遊牧民族
アヴァール人の侵入を阻止するなど、積極的に遠征を行い、ヨーロッパの主要部分を統一していった。カールは各地に
伯を置き、これを監督する
巡察使を派遣し中央集権化をすすめた。
・カールの遠征活動により、フランク王国は強国となっていった。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と対立していた
ローマ教会は、フランク王国を新たな後ろ盾とするため、
800年サン・ピエトロ大聖堂でカールに
西ローマ帝国皇帝の帝冠を授けた。このカール戴冠により、西ローマ帝国が形の上で復活し、東ローマ帝国に対抗しうる
ゲルマン・ローマ・キリスト教文化からなる西ヨーロッパ世界の基礎が築かれた。
・文化的には、聖職者を育成するための学校を各地に作り、学者を招いてラテン語や古典文化の研究を行わせた。イングランドから招かれた神学者の
アルクィンなどが代表的学者で、これにより、
カロリング=ルネサンスという古典復興がおこった。
フランク王国の分裂
・カール大帝の死後、フランク王国は再び分裂した。
843年の
ヴェルダン条約で東・中・西フランクの3国に分かれ、
870年の
メルセン条約で中フランクが分割され東フランクと西フランクに併合された。こうしてフランク王国はドイツ・フランス・イタリアへと変化していく。
ドイツ(東フランク)
・東フランク(ドイツ)では、各地で諸侯の勢力が拡大していった。
911年にカロリング家が断絶すると、有力諸侯の
ザクセン家が有力となり、
ハインリヒ1世(919~936)が
ザクセン朝(919~1024)を創始した。ハインリヒ1世はノルマン・マジャール・スラヴを撃退し、西フランクやブルグンドと良好な関係を保った。
・ザクセン朝第2代の
オットー1世は、即位後、他の諸侯勢力を抑えるためにドイツの聖職者に王領地を寄進し伯職と同等の権利を与え、教会の権威を国家に組み込む
帝国教会政策を進めた。また、
955年
レヒフェルトの戦いで
マジャール人を破り、スラヴ・ベーメン・イタリアを制圧した。こうした働きにより、962年にローマ教皇
ハネス12世ヨがオットー1世に帝冠を授け、
神聖ローマ帝国(962~1806)が成立した。
フランス(西フランク)
・西フランクでも、諸侯の勢力が拡大し、北方より
ノルマン人の侵入が相次いだ。
987年に
カロリング家が断絶すると、パリ周辺を治めていたパリ伯の
ユーグ=カペー(在位987~996)が即位し、
カペー朝(987~1328)をひらいた。当初は大諸侯の力が強く、カペー朝の王権は弱かった。
イタリア
・イタリアでは9世紀末にカロリング家が断絶し、南部のイスラーム勢力やマジャール人の侵入が相次いだ。こうした背景から、イタリアの住民は自分たちで団結し、外敵に対抗したため、
自治意識が高まっていった。その後10世紀後半以降は、ドイツ王と神聖ローマ帝国の
イタリア政策により遠征を受け、また
ヴァイキングの侵入も増え、国内の混乱が続いた。