ノルマン人の活動で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
第2次民族大移動
・ゲルマン民族の大移動が終わったあと、9世紀から11世紀にかけておこったのが第2次民族大移動である。この中心が
マジャール人と
ノルマン人であった。マジャール人はハンガリー人の祖で、ノルマン人は北方系ゲルマン人のことである。
・北方系ゲルマン人は、スカンディナヴィア半島やユトランド半島を原住地とし、
ノルマン人(北方の人の意)や
ヴァイキング(入江の人の意)など称されたが、各地域によって以下のように呼び名が変わった。
ノール人 | ノルウェーを原住地としたノルマン人。 |
デーン人 | デンマークを原住地としたノルマン人。 |
スウェード人 | スウェーデンを原住地とした。ルーシとも呼ばれる。 |
ノヴゴロド国
・スラヴ人地域に侵入したノルマン人を「船の漕ぎ手」という意味の
ルーシと呼び、彼らは首長リューリクに率いられ、
862年に
ノヴゴロド国を建国した。ノヴゴロド国はロシア建国のはじまりであるとされ、ルーシはロシアの名前の由来となった。9世紀になるとノヴゴロドは南下し、
キエフ公国を建国した。キエフ公国は次第にスラヴ化し、ビザンツ文化を受容した。11世紀後半にモンゴル帝国軍を率いた
バトゥに滅ぼされた。
ノルマンディー公国
・8世紀後半からフランス北部を略奪したノルマン人は、フランス王を長きにわたって苦しめた。苦慮の末、フランス王はノルマン人の首領
ロロを
911年に
ノルマンディー公に封じ領地を与え、セーヌ川河口に
ノルマンディー公国が建国された。
・ノルマンディー公国では、次第にフランス貴族と通婚し、ノルマン(ヴァイキング)的要素が失われていった。また、相続に関わる長子以外の
次男三男の騎士が増え、新しい領地が必要となった。こうしたノルマンの騎士は、イスラーム・ビザンツ・神聖ローマ帝国が次々と介入し政情不安定だった
南イタリアに傭兵として出かけた。こうした背景から南イタリアではノルマン人が一大勢力となり、ロベール=ギスカールが11世紀後半にイタリア半島南部を、その弟ルッジェーロがイスラームの支配下にあったシチリア島を制圧した。ルッジェーロの死後、
ルッジェーロ1世が2つの領土を継承し、1130年南イタリアとシチリア島を合わせた
両シチリア王国が成立した。
ノルマン朝
・
七王国が覇権を争っていたイギリスでは、デーン人の侵入に刺激され、ウェセックス王
エグバートにより一時的に統一された。しかし、その統一も長く続かず、デーン人は次第に定着を目的とした侵入を行うようになっていく。9世紀後半のウェセックス王
アルフレッド大王は、デーン人と協定を結び、独立を守ることに成功した。
・10世紀後半になると、デンマーク王国を主体としたデーン人の組織的な侵入が再開された。1016年デンマーク王子
クヌートがイングランドを征服し、
デーン朝をひらいた。クヌートは王としてデンマーク・ノルウェー・イングランド・スウェーデン・スコットランドの一部を支配し、北海の大部分を支配した。
・クヌートの死後、デーン朝は崩壊し、イングランドにはアングロ=サクソンの
ウェセックス朝が復活した。ノルマンディー公国で育ったウェセックス朝の
エドワード懺悔王は、ノルマンディー出身の貴族を重用し、ウェセックス朝貴族と度々対立した。エドワード懺悔王の死後、その義弟
ハロルド伯が王を称し、イングランドに侵入したノルウェー王の軍隊を撃退した。
・イングランド国内が混乱する中、エドワード懺悔王の縁戚で、王から後継者を託された北フランスの
ノルマンディー公ウィリアムは、イングランド南岸に上陸し、ハロルドの軍を
ヘースティングズの戦いで破り、
ウィリアム1世として即位、
ノルマン朝をひらいた。この一連の征服活動を
ノルマン=コンクェストという。これ以降、ノルマン朝の国王は、イングランドの国王であり、フランス王の家臣のノルマンディー公も兼ねたため、その後のイギリス・フランスの関係が複雑な問題になっていった。
デンマーク・ノルウェー・スウェーデン
・デンマーク王国とノルウェー王国は、それぞれ11世紀前半に
クヌート王によって統一された。またスウェーデン王国は10世紀頃スカンディナヴィア半島東部に建国された。
・ノルマン人は9世紀に
アイスランドを発見し、13世紀後半にノルウェーに併合した。また
フィンランドはスウェーデンの支配下におかれ、
グリーンランドにも植民した。