無名といふ琵琶
無名といふ琵琶の御琴を、上の持てわたらせ給へるに、みなどしてかきならしなどす、といへば、弾くにはあらで、緒などを手まさぐりにして、
「これが名よ、いかにとか」
と聞こえさするに、
「ただいとはかなく、名もなし」
とのたまはせたるは、なほいとめでたしとこそおぼえしか。
淑景舎(しげいさ)などわたり給ひて、御物語のついでに、
「まろがもとに、いとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿のえさせ給へりし」
とのたまふを、僧都の君、
「それは隆円に給へ。おのがもとにめでたき琴侍り。それにかへさせ給へ」
と申し給ふを、聞きも入れ給はで、こと事をのたまふに、いらへさせ奉らむと、あまたたび聞こえ給ふに、なほものもたまはねば、宮の御前の、
「いなかへじと思したるものを」
とのたまはせたる、御けしきのいみじうをかしきことぞかぎりなき。この御笛の名、僧都の君もえ知り給はざりければ、ただうらめしう思いためる。これは、職(しき)の御曹司におはしまいしほどの事なめり。上の御前に、いなかへじといふ御笛の候ふ名なり。
御前に候ふものは、御琴も御笛も、みなめづらしき名つきてぞある。玄上、牧馬、井手、渭橋(ゐけう)、無名など。また、和琴なども、朽目(くちめ)、塩竃、二貫(ふたぬき)などぞきこゆる。水龍(すいろう)、小水龍(こすいろう)、宇陀の法師、釘打、葉二(はふたつ)、なにくれなど、おほく聞きしかどわすれにけり。
「宜陽殿の一の棚に」
といふことぐさは、頭の中将こそし給ひしか。