黄河文明と殷・周の成立で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
黄河文明
・中国では、更新世
中期に
北京原人、更新世
後期には
山頂洞人などの
新人が出現し、次第に文明が成立していった。
・黄河文明は、黄河の中・下流域に原シナ人がひらいた農耕文明である。
アワや
キビを栽培し、新石器時代に
仰韶文化、後に
竜山文化、
殷王朝の青銅器文化へと変化していった。
・
仰韶文化とは、紀元前
5000年から紀元前
4000年にかけて、中国でおこった最古の
新石器文化である。この文化の名は、素焼きの文様を施した
彩文土器(彩陶)と言われる土器を、
1921年スウェーデン人学者
アンダーソンが河南省仰韶村で発見したことに由来する。
仰韶文化の代表的遺跡は、
半坡遺跡、
姜寨遺跡である。
・
竜山文化とは、仰韶文化ののち紀元前
2000年から紀元前
1500年前後に黄河下流域・遼東半島・長江流域でおこった新石器時代後期の文化である。この文化の名は、漆黒色で薄手の磨研土器である
黒陶が使われた遺跡が、山東省竜山鎮で発見されたことに由来する。
・中国の新石器時代には
鬲(れき)と
鼎(てい)という
三足土器が盛んに作られた。
・1973年に浙江省で
河姆渡(かぼと)遺跡が発掘され、
良渚文化などの
長江文明の存在が明らかとなった。また、
三星堆文化という四川省成都近辺の文明も明らかになった。
邑の成立と夏王朝
・
竜山文化の末期から、
邑(ゆう)という集落が各地にできはじめた。邑はやがて都市国家となり、
王邑(都城)、
大邑(国城)、
小邑など、さまざまな形態のものが存在した。
・有力な邑は次第に他の邑を支配するようになり、それらの連合を
邑制国家とよんだ。
・伝説では、中国には
尭(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)という三人の帝王がいたとされる。各王は善政を行い、
尭は
舜に、
舜は
禹に帝位を譲ったとされ、のちに儒家の孟子が理想化した。
・
禹は伝説上最古の
夏王朝を作り、この王朝は17代450年続いたとされる。王朝末期の
桀王が暴君だったため、
殷の
湯王に倒され
夏王朝は滅亡した。
殷王朝
・
夏王朝の
桀王を滅ぼした
湯王は、紀元前
16世紀頃に
殷王朝を建てた。
殷は、現在確認できる中国最古の王朝である。
商という別名があり、これは中心となった大邑のことである。
・1950年に
鄭州城、
1899年に
殷墟という遺跡が発掘された。特に、
殷墟からは
亀甲や
獣骨に刻まれた
甲骨文字が見つかり、合わせて
青銅器、象牙、白陶、子安貝、べっ甲なども発掘された。殷墟の出土品から、甲骨文字は占いの結果を示しており、殷が神権政治を行い、
銅と
錫の合金である
青銅器を用いた高度な文化だったことが明らかとなった。
周王朝
・
殷の末期、
紂王という暴君が出たため、臣下の
武王が
太公望らの助力を借りて
牧野の戦いで紂王を破り、
渭水流域に
周王朝を建てた。
・
周は紀元前
11世紀から紀元前
256年まで続いたが、前半の770年まで
鎬京(現在の西安)を首都にしていた時代を
西周、
犬戎の攻撃により
洛邑に遷都した770年以降を
東周という。
・中国の王朝交代理論に
易姓革命というものがある。天命を受けた徳のある人間が新たな天子になるという意味で、平和的に政権を譲る
禅譲と、武力で政権を奪う
放伐という2つの方法があるとされた。尭・舜・禹は
禅譲、夏・殷・周は
放伐であったとされる。
・周では、一族や臣下に
封土を与え世襲の諸侯とし、代わりに
貢納と
軍役を課した。また、周王や諸侯は、それぞれ
卿・大夫・士という家臣に
采邑をあたえ、同じように義務を課した。これを
封建制という。この
封建制は、
血縁を中心とした
氏族的関係で、中世ヨーロッパの
個人的契約に基づく
封建制(フューダリズム)とは異なる。周では血縁関係が重視され、
宗族という父系親族集団が支配階級の基盤となり、
大宗(本家)と
小宗(分家)に区別された。宗族内は
宗法という厳格な規範が定められ、同姓不婚、嫡男長子の相続制、本家の優越などが決められた。
・周の時代の土地制度は
井田制といわれ、『孟子』にその内容が書かれた。