ギリシア独立戦争
ラテン=アメリカ諸国の独立成功の知らせは、海を越えてヨーロッパに伝わり、ウィーン体制に動揺を与えました。
ナショナリズムの精神は、当時オスマン帝国による支配を受けていたギリシアで高揚し、ヨーロッパでも、独立の機運が高まります。
この頃ヨーロッパでは、古代ギリシアの文化が再評価されるようになり、フィル=ヘレニズムというギリシア愛護主義が盛んになります。それに伴い、ヨーロッパの人々の間で、オスマン帝国という異民族の支配からギリシアを救い出そうという世論が起こりました。
19世紀初めに、ロシアのオデッサで
ヘタイリア=フィリケ(フィリキ=エテリア)という秘密結社が組織され、軍人
イプシランティを指導者として、武装闘争を開始し、
ギリシア独立戦争(1821~1829)がはじまりました。
オスマン帝国はエジプトと共に徹底的な弾圧を行いました。代表例が
シオ(キオス)島の虐殺で、この様子はフランスのロマン派画家
ドラクロワの作品となり、ヨーロッパ諸国のギリシア支援の世論を更に高めました。
(シオの虐殺:ドラクロワ作)
またギリシア独立戦争には、イギリスの詩人
バイロンに代表される多くの
義勇兵も参戦します。
(詩人バイロン)
こうした状況の中、イギリス・ロシア・フランスはギリシア独立支援にまわり、イギリスのカニング外相の仲介で同盟を結成し、1827年大艦隊を率いて
ナヴァリノの海戦でオスマン帝国軍を撃破します。
(ナヴァリノの海戦)
1829年ロシアとトルコの間で
アドリアノープル条約が締結され、オスマン帝国はロシアに黒海北岸を割譲し、ギリシアの独立を認めました。
アドリアノープル条約はロシアとトルコの間で締結された条約です。ギリシアとトルコの条約でないことに注意しましょう。
その後、1830年
ロンドン会議で、イギリスやフランスなども含め、国際的にギリシアの完全独立が承認されました。
ギリシアの独立は、結果的に
ウィーン会議後初の領土変更となり、ウィーン体制が目に見える形でほころびはじめたのです。
ラテン=アメリカ諸国とギリシアの独立が達成されたことにより、各地で弾圧されていた自由主義やナショナリズムはふたたび息を吹き返し、この後各地で運動がおこり、ウィーン体制を崩壊へと導くことになります。