江戸時代になると、幕府は
鎖国体制をひいて日本人の海外交通を禁止し、外国との外交・貿易を制限しました。その舞台裏についてみてみましょう。
キリスト教の禁止
徳川家康の時代、はじめはキリスト教は特に禁止されるような宗教ではありませんでした。しかし国内のキリスト教徒が増えはじめ、周りの国々がキリスト教の国(スペインやポルトガル)によって支配されていると耳にした幕府は、キリスト教諸国からの侵略をおそれてキリスト教を禁止にします。
ちなみにキリスト教の布教に積極的だったのはカトリック教で、代表格がスペイン・ポルトガルで、後で述べますが、鎖国をした後も交易のあったオランダは、布教活動がなくても貿易ができるという立場のプロテスタントの国です。ここで閉め出されたのは、布教活動を通じて植民地を増やしていたカトリック教の国々でした。
取引する国の制限
キリスト教を禁止するだけではなく、キリスト教にちょっとでも関係のあるヨーロッパの国との取引やそれに関する本の輸入を禁止し、ヨーロッパ籍の船がたちよれる港を制限しました。また、認められた日本の船以外が海外に行くのを禁止し、海外に住んでいた日本人が帰国するのまで禁止したのです。
絵踏
海外からキリスト教に関するものが入らないようにした次は、
絵踏といわれる政策をとりました。キリストの描いてある絵(踏絵)を幕府の役人の前で踏ませることで、キリスト教徒を見つけ出そうとする取り組みです。踏めなかったらキリスト教徒だということで、
宗門改といって信じる宗教を変更させられたり、ときには処刑されてしまうこともあったようです。
島原の乱
キリスト教の取り締まりがあまりにひどかったのが、長崎(島原藩)や熊本(唐津藩の領地)あたりでした。藩がキリスト教徒の迫害や処刑など、あまりにもひどい取り締まりをしたためにキリスト教徒は立ち上がり宗教戦争をしかけます。これが
島原の乱です。
島原・天草の乱ともいわれるこの戦いは、16歳の青年
天草四郎時貞が総大将であったことでも有名です。
最終的に海外との貿易は、キリスト教の布教にはそこまで積極的ではなかった
オランダ(プロテスタント)と
中国のみ、長崎の
出島において行うとして鎖国とキリスト教の取り締まりが完了しました。
幕府が窓口となったのはオランダと中国でしたが、
藩が窓口となって貿易をしていた国もあります。