武家諸法度(ぶけしょはっと)とは、江戸幕府が大名を統制するために定めた基本法です。
1615年に最初のものが出され、その後は将軍の代替わりごとに出し直されました。この記事では、条文の中身、1635年に参勤交代を制度化した改定、そして違反した大名を待っていた処分を、「1分でわかる要約」と「深掘り解説」の2段構成でまとめました。
この記事は2段構成です。最初の「1分でわかる武家諸法度」だけで、要点がつかめます。
さらに深掘りでは、次の3つのポイントを考察していきます。
・幕府はなぜ、城の修理まで禁じたのか
・将軍が代わるたびに出し直されたのはなぜか
・違反した大名に何が起きたのか
1分でわかる武家諸法度
武家諸法度とは、一言でいえば、江戸幕府が大名に守らせた「してはいけないこと」の一覧です。
1615年、秀忠の名で十三か条
最初の武家諸法度が出されたのは1615年。大坂の陣で豊臣家が滅びた直後のことです。幕府は伏見城に大名を集め、二代将軍・徳川秀忠の名で十三か条を発布しました。条文を起草したのは崇伝で、実際に動かしていたのは大御所の徳川家康です。
城も結婚も、幕府の許可なしには動かせない
条文が押さえたのは、大名の力が育つ入り口でした。城の無断の修理と新築を禁じ、幕府の許可のない大名どうしの結婚も禁止。違反すれば改易、つまり領地を没収されて家そのものを取りつぶされることもありました。
1635年、家光が参勤交代を制度化
三代将軍・徳川家光は1635年、これを十九か条に作り直しました。この寛永令で参勤交代が制度化され、五百石以上の大船を造ることも禁じられます。以後も法度は将軍の代替わりごとに出し直され、キリスト教の禁止や殉死の禁止が加わっていきました。
大名を武力でねじ伏せるのではなく、条文で縛る。武家諸法度は、江戸幕府の長い支配を支えた土台のひとつです。
おまけトリビア
武家諸法度は一度だけ、やわらかな和文に書き改められたことがあります。1710年の宝永令、起草は新井白石。ただしこの和文版は長続きせず、8代将軍・徳川吉宗のときにもとの文体へ戻されました。
ここから深掘り
ここまでが1分の要約です。ここからは、武家諸法度をもう一歩深く知りたい方向けに解説します。
■武家諸法度の背景
1615年、大坂の陣で豊臣家が滅びました。徳川家に正面から刃向かえる勢力は、これで消えます。しかし全国には、関ヶ原以前から領地を持つ大名が数多く残っていました。彼らは幕府の家臣であると同時に、自分の領国では城を築き、家臣団を養い、他家と縁を結ぶことのできる存在です。
幕府が最初に手を打ったのは、城でした。同じ1615年に出された
一国一城令で、大名の領国に残せる城は原則ひとつとされ、そのほかは壊されます。そして武家諸法度が、残った城の修理にまで許可を求めた。城の石垣ひとつ、大名の一存では積み直せなくなったわけです。
婚姻の規制も同じ発想でした。大名家どうしが自由に縁組みを重ねれば、幕府の外側に大きな連合ができてしまう。城と縁組み、大名が力を蓄えるふたつの経路を、条文が先に塞いだのです。
幕府が法度でしばったのは、大名だけではありません。武家諸法度と同じ年、元和元年(1615年)7月には、天皇と公家を対象とする禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)全17か条が、京都の
二条城で定められました。起草したのは武家諸法度と同じ崇伝で、大御所家康・将軍秀忠・前関白二条昭実の3人が連署しています。
■内容と改定の流れ
武家諸法度は一度きりの法令ではありません。将軍の代替わりごとに発布され、そのたびに条文が入れ替わりました。
| 年 | 将軍 | 通称 | 主な内容 |
| 1615年 | 徳川秀忠 | 元和令(13か条) | 文武の奨励・居城の修補は届け出制・新築禁止・私婚の禁止 |
| 1635年 | 徳川家光 | 寛永令(19か条) | 参勤交代の制度化・五百石以上の大船建造の禁止 |
| 1663年 | 徳川家綱 | 寛文令 | キリスト教の禁止を明文化 |
| 1683年 | 徳川綱吉 | 天和令(15か条) | 殉死の禁止を明文化・末期養子の禁を緩和 |
| 1710年 | 徳川家宣 | 宝永令(17か条) | 新井白石の起草で和文に改める |
| 1717年 | 徳川吉宗 | 享保令 | 宝永令をやめ、天和令に戻す |
第一条はいずれも「文武」を求めるものでした。元和令では「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事。」と書き出されています。武芸だけでなく学問も、という要求です。
書きぶりも一定ではありません。元和令は漢文体、寛永令は漢字と仮名をまじえた書き下し体、のちの宝永令は和文へと、文体そのものが代ごとに変わっています。
なかでも江戸時代の姿を決めたのが寛永令でしょう。参勤交代がここで制度として定められ、大名は江戸と領地を行き来する暮らしに入りました。大船建造の禁止も同時に加わり、大名が海上の力を持つ道は閉じられます。
■史実と学説
元和令には、少し込み入った事情があります。名義上の発布者は二代将軍・徳川秀忠ですが、実際に主導したのは将軍職を退いていた家康でした。将軍の名で出しつつ、動かしていたのは大御所です。江戸初期の権力の二重構造が、そのまま法令に表れています。
諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止セシムル事。
元和令の一条です。城を直すときも必ず届け出よ、まして新築はかたく禁じる、という意味になります。この条文が有名なのは、実際に大名の運命を左右したからです。安芸の福島正則は、無断で城を修理したことをとがめられ、領地の大半を取り上げられました。
福島正則が受けた処分については、資料によって記述が分かれます。改易とするものもあれば、安芸・備後を没収したうえで信濃・越後への転封・減封とするものもあります。この記事で「領地の大半を失った」と書いているのはそのためです。なお、初期の武家諸法度違反が大名の改易理由とされたこと自体は、複数の資料が一致して記しています。
もうひとつの論点が、宝永令から享保令への揺り戻しです。新井白石は法度を流麗な和文に書き改め、儒教の仁政の考え方を色濃く盛り込みました。ところが徳川吉宗はこれをやめ、綱吉の天和令へ全面的に差し戻します。以後の将軍は天和令を踏襲しました。読みやすさより、先例を守ることが選ばれたわけです。
■トリビアの真相
「代替わりごとに出し直す」という運用は、現代の感覚だと不思議に見えます。法律が変わらないなら、そのまま使い続ければよさそうなものです。
しかし出し直しには、条文を更新できるという実利がありました。寛永令の参勤交代、寛文令のキリスト教禁止、天和令の殉死の禁止と、時代ごとの課題が、そのつど条文に書き込まれています。武家諸法度の条文を並べると、幕府が何を恐れ、何を求めたかの移り変わりが読み取れる。大名統制の法令が、そのまま江戸幕府の関心の記録になっているのです。
そして享保令以降、内容はほぼ固定されました。改定が止まったこと自体が、幕府の支配が安定した証しとも読めます。
試験に出るポイント
「1615年・元和令・徳川秀忠の名で発布・起草は崇伝」と「1635年・寛永令・徳川家光・参勤交代の制度化と大船建造の禁止」の2セットが頻出です。一国一城令(1615年)とセットで大名統制策として問われます。