アレクサンドロス帝国の遺産と東西の動向
紀元前4世紀、マケドニアの
アレクサンドロス大王による東方遠征は、オリエント世界の政治地図を劇的に塗り替えました。彼はアケメネス朝ペルシアを打倒し、インダス川流域にまで至る広大な領域を征服しました 。しかし、大王の死後、その広大な帝国は後継者たちによって分割され、アジア方面の支配権はギリシア人の
セレウコス朝シリアが継承することとなりました 。
セレウコス朝は、各地にギリシア人を移住させ、ギリシア風の都市建設を推進しましたが、時が経つにつれてその支配力は低下していきました 。紀元前3世紀半ばになると、中央アジアのアム川上流域に位置するバクトリア地方で、現地の知事ディオドトスが独立を宣言し、ギリシア系のバクトリア王国を建国しました 。時を同じくして、カスピ海の東南地域においても新たな動きが見られました。イラン系遊牧民を率いる族長アルサケスがセレウコス朝からの独立を果たし、
パルティア王国(アルサケス朝)を樹立したのです 。
パルティア王国の成立と拡大
パルティアを建国したアルサケスは、イラン系遊牧民の指導者でした 。この国家は、紀元前248年頃から紀元後224年まで存続することになります 。建国当初のパルティアは、西のセレウコス朝と激しく争いながら、徐々にその勢力を拡大していきました 。
パルティアが飛躍的な発展を遂げ、イラン全土を統一したのは、紀元前2世紀半ばのミトラダテス1世の時代です 。彼はバビロニア地方へと進出し、ティグリス川の河畔にあったセレウコス朝の都市セレウキアを陥落させました 。そして、その対岸に位置するクテシフォンに軍事拠点を設けました 。このクテシフォンは、後にパルティアの首都として機能することになります 。
最盛期のパルティアの版図は、東はバクトリアやクシャーナ朝と国境を接し、西はユーフラテス川にまで達する広大なものでした 。この広大な領域を統治するために、パルティアはアケメネス朝ペルシアの制度を模範とした中央集権的な支配体制を敷きました 。
シルクロードの覇者:経済と外交
パルティアの繁栄を支えた大きな要因の一つは、東西交易路、いわゆる「
シルクロード(絹の道)」の要衝を占めていたことにあります 。パルティアは、西のローマ帝国と東の漢帝国(中国)との間で行われる仲介貿易、とりわけ絹の貿易によって生じる利益を独占していました 。
中国の歴史書において、パルティアは建国者アルサケスの名にちなんで「安息(あんそく)」と呼ばれていました 。これは西アジアの国家の中で、中国と交渉を持った最初の国でもあります 。後漢の時代、1世紀末には、班超が部下の甘英をローマ帝国(中国名:大秦国)へと派遣し、直接の国交を開こうと試みました 。しかし、パルティアはこの使節がローマに到達することを阻止しました 。これは、ローマと中国が直接結びつくことによって、パルティアが独占していた絹貿易の莫大な利益が失われることを恐れたためであったと考えられています 。
ローマ帝国との抗争
西方に強大なローマ帝国が台頭してくると、パルティアはメソポタミアやアルメニアの領有権を巡って、ローマと度重なる抗争を繰り広げることになりました 。紀元前1世紀にはシリア地方へ進出し、紀元前53年にはローマの将軍クラッススが率いる遠征軍を撃破し、彼を戦死させるという戦果を挙げています 。
しかし、ローマの圧力は強く、紀元後2世紀初頭にはトラヤヌス帝の率いるローマ軍によって首都クテシフォンを奪われ、ペルシア湾岸にまで到達される事態も招きました 。このように、パルティアの歴史はローマとの攻防の歴史でもありました。
文化の変遷:ヘレニズムからイラン伝統への回帰
文化的な側面において、パルティアは当初、ヘレニズム文化の影響を強く受けていました 。公用語としてはギリシア語が採用されており、ミトラダテス1世が発行した貨幣には「フィレレン(ギリシアを愛する者)」という称号が刻まれているほどでした 。これは、宮廷内においてギリシア文化が深く浸透していたことを示しています 。
しかし、時代が下るにつれて変化が生じました。支配階級であるイラン系遊牧民が、被征服民である農耕民と融合していく過程で、1世紀頃から次第にイラン固有の伝統文化が見直されるようになりました 。これに伴い、古来の宗教であるゾロアスター教の信仰も回復していきました 。
パルティアの終焉とササン朝の興隆
長きにわたりオリエントの一角を支配したパルティアでしたが、その国力は次第に衰えていきました 。最終的に、イラン高原南西部のパールス地方(ファールス地方)を拠点とする
ササン朝によって滅ぼされることになります 。224年、ササン朝の建国者アルダシール1世がパルティアを打倒し、新たなイラン系王朝の時代が幕を開けました 。ササン朝はアケメネス朝の正統な後継者を自任し、ゾロアスター教を国教と定めて、イランの文化的伝統をより本格的に復興させていくことになります 。