コルベールとは
17世紀フランスの絶対王政を財政面から支え、太陽王ルイ14世の治世に比類なき影響力を行使したジャン=バティスト=コルベールですが、その出自は貴族階級とは無縁のものでした。彼は1619年8月29日、シャンパーニュ地方の中心都市であるランスで、比較的裕福な商人一家に生を受けました。コルベール家は、代々、毛織物やワインの取引を手広く営んでおり、一族の中には市の要職に就く者もいるなど、地方のブルジョワジー(市民階級)として確固たる地位を築いていました。
彼の父ニコラ=コルベールと母マリー=ビカンは、勤勉と実務を重んじる商人の家の気風を体現した人物でした。このような家庭環境は、若きコルベールの人格形成に決定的な影響を与えたと考えられます。幼い頃から、彼は家業を通じて、帳簿の付け方、商品の流れ、そして利益を生み出すための緻密な計算といった、商業の実際的な知識を肌で学んだことでしょう。貴族の子弟がラテン語や修辞学を学ぶ一方で、コルベールは数字と経済の現実的な世界に親しんでいたのです。この実務的な素養と、生まれ持った驚異的な勤勉さが、後の彼のキャリアを支える強固な土台となりました。
コルベールは、地元のイエズス会が運営する学校で初等教育を受けたとされています。そこでは、基本的な読み書きや計算能力に加え、イエズス会特有の厳格な規律と論理的思考の訓練が施されました。この教育は、彼の几帳面で体系的な思考様式を育む上で重要な役割を果たしたと考えられます。
10代半ばになると、コルベールは実社会での経験を積むために、パリへと送られます。彼は、リヨンの銀行家やパリの公証人の下で見習いとして働き、金融や法律に関する実務的な知識を吸収していきました。この時期の経験は、彼に国家の財政や法制度の仕組みに対する深い理解をもたらしました。彼は、単なる一介の商人ではなく、より大きな経済の構造を動かすメカニズムに関心を持つようになっていきます。
彼のキャリアにおける最初の大きな転機は、親族のコネを通じて、陸軍卿ミシェル=ル=テリエの知遇を得たことでした。ル=テリエは、コルベールの並外れた事務処理能力と、仕事に対する真摯な姿勢を高く評価しました。1640年代、コルベールはル=テリエの部下として、軍の監察官などの役職を歴任します。この職務を通じて、彼は軍隊の物資調達や経費管理といった、国家行政の具体的な現場に深く関わることになりました。彼は、非効率な手続きや無駄な支出、そして役人による汚職が国家の財産をいかに蝕んでいるかを目の当たりにし、国家財政の体系的な改革の必要性を痛感したと言われています。
このル=テリエの下での地道な働きぶりが、彼の運命を決定づける次の出会いへと繋がります。ル=テリエは、当時のフランスで絶対的な権力を握っていた宰相、ジュール=マザラン枢機卿に、有能な若者としてコルベールを推薦したのです。1651年、コルベールはマザランの個人秘書、そして私有財産の管理人として仕えることになりました。これは、彼にとってまさに飛躍の時でした。マザランは、国家の宰相であると同時に、ヨーロッパでも有数の個人資産家であり、その財産管理は極めて複雑で高度な能力を要求される仕事でした。コルベールは、その期待に見事に応えます。彼は、マザランの広大な所領、投資、そして徴税権から得られる収入を綿密に管理し、その財産をさらに増大させることに成功しました。この仕事を通じて、コルベールは国家の財政システムの内情を隅々まで知り尽くし、権力の中枢で政治がどのように動くかを学びました。そして何よりも、彼はマザランから絶大な信頼を勝ち得たのです。
権力への道
ジュール=マザラン枢機卿の腹心として、その莫大な個人資産を管理するという重責は、ジャン=バティスト=コルベールにとって、フランスの権力中枢への扉を開く鍵となりました。彼は、マザランの財産を効率的に運用し、着実に増やしていくことで、その卓越した財務能力と揺るぎない忠誠心を証明しました。この功績により、コルベールは単なる有能な事務官から、マザランが最も信頼を置く側近の一人へとその地位を高めていったのです。
彼の権力への道における決定的な瞬間は、1661年に訪れます。長年にわたりフランスを実質的に支配してきたマザランが、死の床にありました。彼は、自らの後継者として若き国王ルイ14世を指名すると同時に、王に対して一つの重要な遺言を残しました。それは、「コルベールという有能な男を用いるように」という言葉でした。マザランは、コルベールの類稀な才能が、王の治世にとって不可欠なものになると見抜いていたのです。さらにマザランは、コルベールに、当時の財務長官(シュランタンダン=デ=フィナンス)であったニコラ=フーケの野心と不正について警告するよう託したとも言われています。
マザランの死後、親政を開始したルイ14世は、早速コルベールを自らの側近として重用し始めます。一方、財務長官フーケは、マザラン亡き後の宰相の地位を狙い、その権勢は頂点に達していました。フーケは、自身の所有するヴォー=ル=ヴィコント城で、王を招いて豪奢な祝宴を催します。しかし、その壮麗さは、国王の宮殿をも凌ぐほどであり、かえってルイ14世の猜疑心と怒りを買う結果となりました。王は、一人の臣下がこれほどの富を築き上げることができたのは、国家の財産を横領したからに違いないと確信しました。
このフーケの失脚劇の背後で、緻密に動いていたのがコルベールでした。彼は、マザランに仕えていた頃から、フーケの会計における不正の証拠を密かに収集していました。彼は、フーケが徴税請負人たちと結託し、国庫に入るべき税金を着服している複雑な手口を解明し、その詳細な報告書をルイ14世に提出したのです。この報告書は、フーケを断罪するための決定的な証拠となりました。1661年9月5日、祝宴からわずか3週間後、フーケは国王の命令によって逮捕され、その財産は没収されました。
フーケの失脚は、コルベールにとって権力の座を確固たるものにするための最後の障害が取り除かれたことを意味しました。ルイ14世は、フーケのような強力な財務長官が二度と現れないように、財務長官の職そのものを廃止します。その代わりに、王は自らが主宰する王立財政会議を設立し、その実質的な運営をコルベールに委ねました。コルベールは、まず財務監督官(コントローラー=ジェネラル=デ=フィナンス)に任命され、フランスの財政再建という困難な任務に着手します。
コルベールの権力は、財政分野にとどまりませんでした。彼は、その驚異的な仕事量と効率性でルイ14世の絶対的な信頼を勝ち取り、次々と重要なポストをその手に収めていきます。1664年には建築物・芸術・製造業総監に、1665年には商務監督官に、そして1669年には海軍卿および王室府卿に任命されました。これにより、彼は財政、商工業、植民地、海軍、そして文化政策に至るまで、内政のほぼすべての重要分野を統括する、事実上の宰相ともいえる絶大な権力を持つに至ったのです。
彼の権力掌握の仕方は、軍事力や貴族の血統によるものではなく、あくまで情報、知識、そして実務能力に基づいたものでした。彼は、国家のあらゆる部門に関する詳細なデータを収集・分析し、それを基に合理的な政策を立案し、国王に上申しました。彼の執務室には、フランス全土から集められた報告書や統計資料が山のように積まれていたと言われています。この情報に基づいた統治手法こそが、コルベールの権力の源泉であり、彼を17世紀フランスにおける最も近代的な政治家の一人たらしめている所以です。彼は、ルイ14世という絶対的な権力者の「目」であり「耳」であり、そして「頭脳」として機能することで、フランスの運命をその手の中で動かしていったのです。
重商主義
ジャン=バティスト=コルベールがフランスの財政と経済を再建するために採用した一連の政策は、後に「コルベルティスム」とも呼ばれる、重商主義の典型として知られています。彼の経済思想の根底には、極めて明快かつ実践的な考え方がありました。それは、「一国の富と国力は、その国が保有する貴金属(金銀)の量によって決まる」というものです。そして、世界の金銀の総量はほぼ一定であるため、一国が富を増やすためには、他国から金銀を奪い、自国への流出を最大限に防ぐしかない、と考えました。これは、国々の経済関係を、限られたパイを奪い合うゼロサムゲームと捉える見方でした。
この基本理念に基づき、コルベールはフランスを豊かにし、ルイ14世の野心的な対外政策と壮麗な宮廷を支えるための、包括的な経済戦略を展開しました。その戦略の第一の柱は、貿易収支の黒字化でした。彼は、輸入を抑制し、輸出を促進することによって、フランスから海外への金銀の流出を食い止め、逆に海外からフランスへと金銀を流入させようと試みました。
輸入を抑制するための最も直接的な手段は、高率の保護関税を課すことでした。1664年と1667年に実施された関税率の改定では、特にフランスの製造業と競合する外国製品、例えばイギリスの毛織物やヴェネツィアのガラス製品などに対して、極めて高い関税が設定されました。これにより、外国製品の国内価格は高騰し、消費者はより安価な国産品を購入するよう誘導されました。この政策は、当時、貿易で優位に立っていたオランダやイギリスの強い反発を招き、後の仏蘭戦争(1672–1678)の遠因の一つともなりました。
一方、輸出を促進するためには、フランス製品の国際競争力を高める必要がありました。コルベールは、そのためには製品の品質を向上させ、統一された基準を設けることが不可欠だと考えました。彼は、国内の主要な産業、特に織物、タペストリー、レース、ガラス製品などについて、製造工程、使用する原材料、製品の寸法や品質に関する詳細な規則を数百にもわたって公布しました。そして、これらの規則が遵守されているかを監督するために、全国に検査官を派遣しました。規則に違反した製品は容赦なく没収・破棄され、違反した製造業者には罰金が科されました。この徹底した品質管理は、フランス製品のブランドイメージを高め、「メイド=イン=フランス」が高級品や高品質の代名詞となる基礎を築きました。
さらにコルベールは、国内産業そのものを育成するために、積極的な国家介入を行いました。彼は、王立の特権マニュファクチュール(大規模な工場制手工業)を次々と設立しました。例えば、パリのゴブラン工場は、王室御用達のタペストリーや家具を生産し、その製品はヨーロッパ中の宮廷で珍重されました。また、サン=ゴバン社を設立して、当時ヴェネツィアが独占していた高度な鏡の製造技術をフランスに導入し、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」を飾る巨大な鏡の生産を可能にしました。彼は、外国から熟練した職人を高給で招き、その技術をフランス人の弟子に伝えさせることにも熱心でした。これらの王立工場は、新技術の導入や品質基準のモデルケースとして、フランス全体の産業水準を引き上げる役割を果たしました。
コルベールの重商主義政策は、国内のインフラ整備にも及びました。彼は、物資の輸送コストを引き下げ、国内市場を統一するために、道路網の整備や運河の建設を強力に推進しました。その最も象徴的なプロジェクトが、地中海と大西洋を内陸で結ぶ「ミディ運河」の建設です。この運河は、当時としては驚異的な土木技術の結晶であり、フランス南部の経済発展に大きく貢献しました。
これらの政策を通じて、コルベールはフランスの産業基盤を強化し、国庫収入を大幅に増加させることに成功しました。彼の政策は、国家が経済に深く介入し、国益のために産業を保護・育成するという、近代的な経済国家の原型を形作ったものとして評価されています。しかしその一方で、過度な規制や中央集権的な管理は、企業の自由な創意工夫を妨げる側面もあり、また、農業を軽視したとの批判も受けることになります。それでもなお、コルベールの重商主義は、ルイ14世時代のフランスの栄光を経済的に支えた、強力なエンジンであったことは間違いありません。
財政改革
ジャン=バティスト=コルベールがルイ14世から託された最も緊急かつ重要な任務は、破綻寸前であった国家財政の再建でした。彼が権力の座に就いた1661年当時、フランスの国庫は、長年の戦争と、マザラン枢機卿やニコラ=フーケに代表されるような政府高官による公金横領によって、ほぼ空っぽの状態でした。歳入の大部分は、国債の利払いや、徴税の前借りの返済に消え、実際に王が自由に使える資金はごくわずかでした。
コルベールの財政改革は、まず、過去の不正を徹底的に追及することから始まりました。彼は、フーケの失脚後に特別法廷「正義の間」を設置し、不正な手段で富を築いた徴税請負人や金融家たちを摘発しました。この法廷は、過去25年間の会計記録を遡って調査し、不当な利益を上げていた者たちに巨額の罰金を科し、その財産を没収しました。この厳しい措置は、国庫に一時的な収入をもたらしただけでなく、国家の財政から利益を搾取してきた金融エリートたちに対する見せしめとなり、財政規律を回復させる上で大きな効果がありました。
次にコルベールは、国家の歳出と歳入を正確に把握し、管理するための、体系的な予算制度の導入を試みました。これは、近代的な国家財政の基礎となる画期的な試みでした。彼は、毎年、各部門からの支出要求を精査し、歳入の見込みと比較検討した上で、国家全体の予算案を作成しました。そして、予算が決定された後も、支出が計画通りに行われているかを厳しく監視しました。彼は、自ら「フランス王国の歳入と歳出の状態」と題した帳簿をつけ、ルイ14世に定期的に報告していました。このプロセスを通じて、王は自国の財政状況を明確に理解することができ、より合理的な意思決定を下すことが可能になりました。
歳出面では、コルベールは徹底した無駄の削減に努めました。彼は、宮廷経費や官僚の俸給、年金など、あらゆる支出項目を見直し、不要不急の経費を切り詰めました。また、彼は国家が抱える膨大な債務の整理にも着手しました。彼は、多くの国債を強制的に低利のものに借り換えさせたり、一部の債務については支払いを一方的に停止したりするなど、かなり強引な手法も用いました。これらの措置は、債権者である富裕層の強い反発を招きましたが、国家の利払い負担を大幅に軽減することに成功しました。
歳入面では、コルベールは税制そのものを抜本的に改革しようとしました。当時のフランスの税制は、地域や身分によって税率が異なる、極めて不公平で非効率なものでした。特に、主要な直接税であった「タイユ」は、貴族や聖職者が免税特権を持っていたため、その負担はもっぱら農民などの平民に重くのしかかっていました。コルベールは、この不公平を是正し、より公平で効率的な税制を確立することを目指しました。彼は、タイユの税額を決定する際の査定をより厳格にし、不正な免税を減らすことで、税収の安定化を図りました。
しかし、彼の最大の努力は、間接税の徴収システムを合理化することに向けられました。塩税(ガベル)や酒税(エード)などの間接税は、徴税請負人と呼ばれる民間の金融業者が、国家に一定額を前払いする代わりに、一定期間、特定の地域で税を徴収する権利を請け負うという形で運営されていました。このシステムは、徴税請負人が実際に徴収した税額と国家に納付した額との差額を自らの利益とすることができたため、汚職の温床となっていました。コルベールは、徴税請負の契約条件を請負人にとってより厳しいものに改め、国家の取り分を増やしました。さらに、彼はこれらの様々な間接税の徴収を「総合徴税請負」と呼ばれる一つの組織に統合し、管理を一本化することで、効率化と監視の強化を図りました。
これらの精力的な改革の結果、コルベールの就任から約10年間で、フランスの国家財政は劇的に改善しました。国庫収入はほぼ倍増し、歳入が歳出を上回る黒字を達成することさえありました。この財政再建の成功が、ルイ14世がオランダ侵略戦争のような大規模な対外戦争を開始し、またヴェルサイユ宮殿の壮大な建設を進めることを可能にしたのです。コルベールの財政改革は、単に帳簿上の数字を合わせただけではありません。それは、国家の財産を私物化する旧来のあり方を否定し、より近代的で合理的な官僚制による財政管理へと移行させる、大きな一歩だったのです。
海軍と植民地
ジャン=バティスト=コルベールは、フランスの国力を増強するためには、強力な海軍と広大な海外植民地が不可欠であると固く信じていました。彼の重商主義的な世界観において、海洋は、富を生み出す国際貿易の主要な舞台であり、植民地は、本国が必要とする原材料を供給し、同時に本国の製品の市場となる、経済的繁栄の源泉でした。彼が1669年に海軍卿の地位に就いた時、フランス海軍は、長年の放置によって見る影もないほど衰退していました。イギリスやオランダといった海洋国家に伍していくためには、海軍の抜本的な再建が急務でした。
コルベールの海軍再建計画は、彼の他の政策と同様、極めて体系的かつ精力的に進められました。まず彼は、艦船の数を劇的に増やすことから始めました。彼が就任した当時、フランス海軍が保有する軍艦はわずか20隻程度でしたが、彼の死の頃には、その数は250隻以上にまで増加していました。彼は、ブレスト、ロシュフォール、トゥーロンといった主要な港に巨大な海軍工廠を建設・拡張し、軍艦の建造能力を飛躍的に向上させました。これらの工廠では、船体の建造から、帆、ロープ、大砲の製造に至るまで、軍艦に必要なすべての部品が体系的に生産されました。
軍艦を建造するためには、大量の木材が必要です。コルベールは、将来にわたって安定的に木材を確保するために、フランス全土の森林の調査を行い、海軍用の木材を供給するための森林管理計画を策定しました。彼は、特定の森林を王有林として指定し、計画的な植林と伐採を行うことで、資源の枯渇を防ごうとしました。これは、長期的な視点に立った、近代的な資源管理政策の先駆けともいえるものでした。
船を動かすためには、熟練した船員が必要です。しかし、当時のフランスには、海軍に勤務する魅力が乏しく、十分な数の船員を確保することが困難でした。そこでコルベールは、「クラス登録制度」という画期的な徴兵システムを導入します。これは、フランスの沿岸部に住むすべての船乗りや漁師を登録させ、平時は民間の商船などで働くことを許す代わりに、戦時には海軍に勤務する義務を課すというものでした。この制度により、フランス海軍は、有事の際に迅速に大規模な船員を動員することが可能になりました。彼はまた、海軍士官を養成するための学校を設立し、航海術、砲術、造船学といった専門的な知識を持つ、プロフェッショナルな士官団の育成にも力を注ぎました。
コルベールの海軍増強は、フランスの商業的利益を守るという明確な目的を持っていました。彼は、フランスの商船を護衛し、地中海で活動するバルバリア海賊や、競争相手である他国の私掠船から保護するために、海軍を積極的に活用しました。強力な海軍の存在は、フランスの貿易の安全を確保し、その拡大を後押ししたのです。
海軍力の増強と並行して、コルベールは植民地帝国の拡大にも情熱を注ぎました。彼は、海外貿易を独占的に管理・運営するための特許会社を次々と設立しました。1664年に設立されたフランス東インド会社は、喜望峰以東のアジア地域との貿易を、また同年に設立されたフランス西インド会社は、アメリカ大陸やアフリカ西海岸との貿易を独占する権利を与えられました。これらの会社は、国家の強力な支援を受け、植民地の経営、貿易拠点の設置、そして商品の輸送を担いました。
北米では、コルベールは「ヌーベルフランス」(現在のカナダのケベック州周辺)の植民地の発展に力を入れました。彼は、植民地への移民を奨励し、特に「王の娘たち」として知られる若い女性たちを送り込み、植民者の結婚を促進して人口の増加を図りました。また、探検家たちを支援し、ミシシッピ川流域の広大な土地をフランス領として宣言させ、ルイ14世にちなんで「ルイジアナ」と名付けさせました。カリブ海では、サン=ドマング(後のハイチ)やマルティニークといった島々でのサトウキビプランテーションの経営を推進し、これらの植民地は、砂糖貿易によって莫大な富をフランスにもたらすことになります。
アジアでは、東インド会社がインドのシャンデルナゴルやポンディシェリに商館を設置し、インドの綿織物や香辛料の貿易に乗り出しました。これらの植民地経営と貿易活動は、コルベールの重商主義政策のグローバルな展開であり、フランスを世界的な海洋・貿易大国へと押し上げるための壮大な試みでした。彼の努力によって、フランスは、イギリスやオランダと並ぶ、第一級の植民地帝国としての基礎を築くことになったのです。
文化政策
ジャン=バティスト=コルベールの活動は、財政や経済といった実務的な分野にとどまらず、芸術や文化の領域にも深く及んでいました。彼は、芸術や学問が、単なる装飾や個人の楽しみではなく、国王の栄光を讃え、国家の威信を高めるための強力な道具となり得ると考えていました。彼の文化政策は、その重商主義政策と同様に、すべての文化的活動を国家の管理下に置き、フランスの栄光という一つの目的に向かって組織化しようとする、極めて中央集権的なものでした。
1664年に建築物・芸術・製造業総監に就任したコルベールは、フランスの文化行政の最高責任者となりました。彼の指導の下、芸術と学問を振興し、体系化するための機関として、王立のアカデミーが次々と設立・再編されました。1663年には、碑文・文芸アカデミーが設立され、国王の功績を讃える記念メダルの図案や、公的な碑文の文言を考案する役割を担いました。1666年には科学アカデミーが設立され、天文学、数学、物理学といった分野の第一線の科学者たちが集められ、国家の支援の下で研究活動を行いました。これは、科学研究を国家的な事業として組織化する、近代的な試みの先駆けでした。
芸術の分野では、1648年に設立されていた絵画・彫刻アカデミーをコルベールが庇護下に置き、その組織を強化しました。このアカデミーは、芸術家を養成するための教育機関であると同時に、芸術作品の基準を定める権威機関としての役割を果たしました。アカデミーが定めた様式、すなわちフランス古典主義は、ルイ14世の治世を代表する公式の芸術スタイルとなりました。アカデミーは、歴史や神話を題材とした、荘重で理性的な構図の「歴史画」を最も価値の高いジャンルと位置づけ、芸術家たちに王の偉業を寓意的に描くことを奨励しました。
同様に、1671年には建築アカデミーが設立され、建築における正しい原則と様式を確立し、建築家を教育する役割を担いました。これにより、ヴェルサイユ宮殿に代表されるような、壮大で均整の取れたフランス古典主義建築が、国家の公式なスタイルとして普及していきました。音楽の分野でも、1669年に王立音楽アカデミー(後のパリ=オペラ座)が設立され、ジャン=バティスト=リュリの指導の下、フランス独自のオペラ形式が確立されました。
コルベールは、これらのアカデミーを通じて、芸術家や学者たちを国家の庇護下に置きました。彼は、才能ある者たちに年金や住居を与え、創作活動に専念できる環境を整えました。その見返りとして、彼らは自らの才能を、国王ルイ14世とフランス国家の栄光を讃えるために用いることが期待されました。モリエール、ラシーヌ、ボワローといった当代を代表する文学者たちも、コルベールの庇護を受け、その作品を通じてルイ14世の治世を賛美しました。
コルベールの文化政策の集大成ともいえるのが、ヴェルサイユ宮殿の建設プロジェクトです。彼は、建築総監として、この壮大な宮殿の建設全体を監督しました。彼は、建築家のルイ=ル=ヴォーやジュール=アルドゥアン=マンサール、画家のシャルル=ル=ブランといった芸術家たちを統率し、彼らの才能を一つの壮大なビジョンの下に統合しました。ヴェルサイユ宮殿は、建築、彫刻、絵画、庭園設計といった、あらゆる芸術分野の粋を集めた総合芸術作品であり、太陽王の絶対的な権力を世界に示すための、壮大なプロパガンダ装置でした。
また、彼は王立図書館(現在のフランス国立図書館)の蔵書を大幅に増やし、世界中から貴重な写本や書籍を収集させました。パリのゴブラン工場では、最高級のタペストリーや家具が生産され、その製品はヨーロッパ中の宮廷への贈り物として、フランスの洗練された文化と技術力を誇示する役割を果たしました。
コルベールの文化政策は、芸術の自由な創造性を国家の管理下に置くものだという批判も受けます。しかし、彼の強力なリーダーシップと組織力によって、17世紀後半のフランスが、ヨーロッパにおける文化の覇権を握る「大世紀」と呼ばれる時代を現出したこともまた事実です。彼の政策によって育まれた芸術と学問の遺産は、その後のフランス文化の発展の礎となったのです。
晩年
ジャン=バティスト=コルベールは、約20年間にわたり、精力的にフランスの国政を動かし続けましたが、その晩年は、彼の理想と厳しい現実との間の乖離に苦しむ、困難なものでした。彼のキャリアの頂点は、1670年代初頭であったと言えるでしょう。彼の財政改革と重商主義政策によって国庫は潤い、フランス経済は活況を呈していました。しかし、この成功が、皮肉にも彼の苦境の始まりとなります。
潤沢な財源を得たルイ14世は、ヨーロッパにおける覇権を確立するための、より野心的な対外政策へと傾斜していきます。1672年、ルイ14世は、商業上のライバルであったオランダ共和国を屈服させるため、大規模な侵略戦争(仏蘭戦争)を開始しました。コルベールは、この戦争に財政的な観点から反対でした。彼は、戦争が、これまで積み上げてきた財政再建の努力を水泡に帰させ、国家経済に破滅的な負担を強いることを見抜いていたのです。彼は、富の源泉は戦争ではなく、平和な通商にあると考えていました。しかし、栄光を求める国王の意志を覆すことはできませんでした。
仏蘭戦争は、コルベールの懸念通り、長期化し、泥沼化しました。膨大な戦費を賄うため、コルベールは、かつて自らが批判したような手段に頼らざるを得なくなります。彼は、増税を繰り返し、官職を新設して売却し、多額の借款に手を染めました。彼が苦心して築き上げた財政の健全性は、戦争の重圧の下で、もろくも崩れ去っていきました。歳入は再び歳出を下回り、国家の債務は雪だるま式に増えていきました。
さらに、宮廷内での彼の立場も、次第に盤石ではなくなっていきました。彼の厳格で倹約を重んじる姿勢は、豪華な祝祭や建築を好むルイ14世や、宮廷の貴族たちから、しばしば煙たがられるようになりました。特に、陸軍卿であったルーヴォワ侯(ミシェル=ル=テリエの息子)は、コルベールの強力なライバルとして台頭します。好戦的なルーヴォワは、国王の軍事的な野心を煽り、コルベールの和平路線と対立しました。戦争が続く中で、国王の信頼は、次第に財政を管理するコルベールから、軍事を司るルーヴォワへと移っていきました。
コルベールは、自らの政策が意図した通りに進まないことに、深い失意と疲労を感じていたと言われています。彼は、国王に宛てた手紙の中で、財政の危機的状況を訴え、これ以上の戦争継続の無謀さを繰り返し説きましたが、その声が聞き入れられることは少なくなっていました。彼の健康は、過度の心労と、休むことのない激務によって、着実に蝕まれていきました。
1683年、コルベールは重い病に倒れます。彼の病状が悪化する中で、ルイ14世が見舞いの手紙を送りましたが、コルベールはもはやそれに見向きもせず、「今こそ、私を一人にしておいてほしい。せめて神にだけでも、私の行いを判断していただきたい。王が私にしてくださったことを、私が王のためにしてきたことに比べれば、王は私を許してくださるだろう」と呟いたと伝えられています。これは、長年にわたって忠誠を尽くしてきたにもかかわらず、最終的には自らの政策が戦争によって破綻し、その努力が報われなかったことへの、深い絶望と無念の言葉であったのかもしれません。
1683年9月6日、ジャン=バティスト=コルベールは、64年の生涯を閉じました。彼の死は、多くの人々から惜しまれるものではありませんでした。重税に苦しんでいた民衆は、彼を憎んでおり、その葬儀の際には、暴徒が彼の亡骸に危害を加えるのを防ぐため、夜陰に紛れて密かに行わなければならなかったほどでした。
しかし、彼の歴史的な功績は、死後、次第に正当に評価されるようになります。彼が築いた産業基盤、整備したインフラ、そして再建した海軍は、その後のフランスの国力を支える重要な遺産となりました。彼が導入した合理的で体系的な行政システムは、近代的な官僚国家の礎を築きました。ジャン=バティスト=コルベールは、一人の王に仕え、その絶対的な権力を支えるために全生涯を捧げましたが、その仕事は、結果として、フランスという国家そのものを、より強く、より近代的なものへと変革する、巨大な力となったのです。