西インド会社《オランダ》とは
17世紀初頭、ネーデルラント連邦共和国、通称オランダは、まさに「黄金時代」の夜明けを迎えていました。スペインからの八十年戦争という長い独立闘争のさなかにありながら、その商業的な活力は衰えるどころか、むしろ世界へと爆発的に拡大しようとしていました。この時代のオランダの野心とエネルギーを象徴する存在が、二つの巨大な勅許会社です。一つは、アジアの香辛料貿易を独占し、莫大な富を築いた、あまりにも有名なオランダ東インド会社(VOC)。そしてもう一つが、その影に隠れがちでありながら、大西洋世界、すなわちアメリカ大陸とアフリカ西岸の歴史に、深く、そしてしばしば血塗られた足跡を残した、オランダ西インド会社(Geoctroyeerde Westindische Compagnie、略称GWC)です。
1621年に設立された西インド会社は、東インド会社という成功した姉妹会社をモデルとしながらも、全く異なる運命を辿りました。その活動領域は、ブラジルの砂糖プランテーションから、カリブ海の塩田、北米の毛皮交易、そしてアフリカの奴隷砦まで、広大な大西洋全域に及びました。東インド会社が、既存のアジアの交易網に参入し、それを支配することに主眼を置いたのに対し、西インド会社は、設立当初から、より明確な軍事的性格を帯びていました。その第一の使命は、敵国スペインとポルトガルのアメリカ大陸における植民地帝国を攻撃し、その富を奪い、海上交通路を破壊することでした。つまり、西インド会社は、単なる貿易会社ではなく、国家の戦争を遂行するための、半官半民の巨大な軍事組織でもあったのです。
その歴史は、栄光と挫折がめまぐるしく交錯する、波乱に満ちたものでした。ピート=ハインによるスペイン銀船隊の拿捕という、歴史的な成功は、会社に莫大な富をもたらし、その名をヨーロッパ中に轟かせました。ブラジル北東部を占領し、「新オランダ」という広大な植民地を築き上げた時期は、その野望が頂点に達した瞬間でした。北米では、ニューアムステルダム(後のニューヨーク)を建設し、ハドソン川流域にオランダの拠点を築きました。しかし、その栄光は長続きしませんでした。ブラジル植民地の喪失、イングランドとの絶え間ない競争、そして何よりも、その活動の根幹をなした私掠行為と戦争の莫大なコストは、会社の経営を常に圧迫し続けました。
そして、西インド会社の歴史を語る上で、決して避けて通れないのが、大西洋を横断する奴隷貿易への深い関与です。アフリカ西岸に築いた砦を拠点に、何十万人ものアフリカ人を捕らえ、彼らを「商品」としてアメリカ大陸のプランテーションへと送り込みました。その活動は、南北アメリカ大陸の社会と経済の形成に不可逆的な影響を与え、近代世界史における最も暗い影の一つを落としています。
設立への道
オランダ西インド会社の設立は、17世紀初頭のオランダが置かれていた、複雑な政治的、経済的、そして宗教的な状況から生まれた、必然的な帰結でした。それは、単なる商業的な投機心から生まれたものではなく、スペインとの独立戦争(八十年戦争)という、国家の存亡をかけた闘争と、深く結びついていました。
背景=十二年休戦と主戦派の台頭
1609年、オランダとスペインは「十二年休戦協定」を締結しました。40年以上にわたる長い戦争に疲弊した両国にとって、この休戦は、一時の安息をもたらしました。しかし、オランダ国内では、この休戦をめぐって、国論が二分される激しい対立が巻き起こります。
一方には、ホラント州の指導者ヨーハン=ファン=オルデンバルネフェルトに代表される、和平派、あるいは「レモンストラント派(穏健カルヴァン派)」がいました。彼らは、主に商業都市の有力な商人層であり、休戦によって平和が確保されれば、スペインやポルトガルの妨害を受けることなく、安全に貿易活動に専念できると考えました。彼らにとって、戦争は、商業の障害であり、国家財政を圧迫する重荷でした。
もう一方には、総督(統領)マウリッツ=ファン=ナッサウに率いられた、主戦派、あるいは「反レモンストラント派(厳格カルヴァン派)」がいました。彼らは、軍人、厳格なカルヴァン主義の聖職者、そして南ネーデルラント(現在のベルギー)から移住してきた商人たちから構成されていました。彼らは、この休戦を、カトリックの敵国スペインに対する、屈辱的な妥協であると見なしていました。彼らの主張は、戦争を再開し、スペインの力を徹底的に削ぎ、そしてカトリック勢力からプロテスタント信仰を守り抜くべきだというものでした。
この対立の中で、大西洋地域、すなわちアメリカ大陸とアフリカへの進出を目的とした会社の設立案が、主戦派の重要な政策として浮上します。その中心的な推進者が、南ネーデルラントのアントウェルペン出身の地理学者、商人であり、厳格なカルヴァン派であった、ウィレム=ウセリンクスでした。彼は、早くも1600年頃から、西インド会社の設立を提唱し続けていました。彼の構想は、単なる貿易会社の設立に留まらず、スペインの圧政から逃れてきたプロテスタント教徒を、アメリカ大陸の新たな植民地に移住させ、そこで自由で繁栄した共同体を築くという、壮大なものでした。彼にとって、西インド会社は、カトリックのスペイン帝国に対抗する、プロテスタントの新たな世界を創造するための、神聖な事業だったのです。
しかし、休戦期間中、和平派が政権を主導していたため、ウセリンクスの計画は、スペインを不必要に刺激するとして、何度も退けられました。
政治的対立の激化とオルデンバルネフェルトの失脚
休戦期間が進むにつれて、和平派と主戦派の対立は、神学論争(予定説をめぐる対立)とも絡み合い、内乱寸前の様相を呈していきます。1618年、ついに軍事力を掌握していた総督マウリッツがクーデターを決行しました。和平派の指導者オルデンバルネフェルトを逮捕し、翌1619年、彼を国家反逆罪で処刑するという、衝撃的な結末を迎えました。
この政変によって、オランダの政治の実権は、完全に主戦派の手に渡りました。そして、12年間の休戦期間が終わりを迎える1621年が近づくと、スペインとの戦争再開は、もはや既定路線となりました。この新たな戦争を、ヨーロッパの戦場だけでなく、敵国の力の源泉である海外植民地で、より積極的に展開するための強力な手段として、西インド会社の設立案が、再び脚光を浴びることになったのです。
勅許状の授与と会社の構造
1621年6月3日、オランダの連邦議会(スターテン=ヘネラール)は、オランダ西インド会社(GWC)に、24年間の独占的な活動を認める「勅許状」を授与しました。この勅許状は、西インド会社に、極めて広範な権限を与えるものでした。
その独占的な活動領域は、驚くほど広大でした。それは、西はアメリカ大陸全域(南米の最南端から、北米の最北端まで)、東はアフリカ西岸(喜望峰から北へ)に及ぶ、大西洋全域をカバーしていました。この領域内において、西インド会社は、貿易、探検、そして植民地の建設に関する、すべての権利を独占しました。
しかし、その権限は、商業活動に留まりませんでした。勅許状は、会社に対して、以下のような、国家に匹敵する権限を与えていたのです。
・要塞を建設し、軍隊を維持する権利
・現地の支配者と条約を結び、同盟を締結する権利
・独自の総督や司法官を任命し、植民地を統治する権利
・敵国の船舶を拿捕し、その積荷を戦利品とする権利(私掠免許)
・独自の貨幣を鋳造する権利
これらの権限は、西インド会社が、単なる民間企業ではなく、オランダという国家の代理人として、海外で戦争と外交を行うための、強力な組織であったことを明確に示しています。
会社の組織構造は、成功を収めていた東インド会社(VOC)を、ほぼそのまま模倣したものでした。会社は、オランダ国内の主要な港湾都市に設置された、5つの「支部(カーメル)」、すなわちアムステルダム、ゼーラント(ミデルブルフ)、マース(ロッテルダム)、北ホラント(ホールン)、そしてフリースラント=フローニンゲンから構成されていました。
それぞれの支部は、その地域の投資家から資金を集め、独自の船団を組織し、事業を運営しました。そして、会社全体の最高意思決定機関として、これら5つの支部の代表者からなる、「19人会(ヘーレン=ナインティーン)」が設置されました。19人会は、アムステルダム支部から8人、ゼーラント支部から4人、その他の支部から2人ずつ、そして連邦議会の代表者1人を加えた、合計19人の理事で構成されていました。この構成比は、各支部が出資した資本金の額を反映したものであり、アムステルダム支部が、会社内で圧倒的な影響力を持っていたことを示しています。
こうして、長年の議論と政治的闘争の末に誕生したオランダ西インド会社は、スペインとの戦争再開という時代の要請に応え、商業的利益と軍事的侵略という二つの目的を掲げて、大西洋の荒波へと、その船出を開始したのです。
会社の活動領域
オランダ西インド会社の活動は、その名の通り、東インド会社が管轄したインド洋と太平洋を除く、広大な大西洋世界全域に及びました。その事業は、特定の地域や商品に集中していたわけではなく、南北アメリカ大陸とアフリカ西岸という、巨大な三角形の海域を舞台に、多岐にわたる活動を、同時並行で展開していました。それぞれの地域は、異なる資源、異なる敵、そして異なる機会を提供し、会社の戦略も、地域ごとにその様相を異にしていました。
ブラジル
西インド会社の歴史において、最も重要で、そして最も多くの資金と人命が投じられた事業が、ポルトガル領ブラジルの征服と経営でした。16世紀以来、ブラジル北東部は、ポルトガルが経営するサトウキビのプランテーション(エンジェニョ)の一大中心地であり、ヨーロッパの砂糖市場を独占する、莫大な富の源泉でした。1580年から1640年までの間、ポルトガルはスペインと同君連合を結んでいたため、オランダにとって、ポルトガル領ブラジルは、敵国スペインの力を削ぐための、格好の攻撃目標でした。
1624年、西インド会社は、大規模な艦隊を派遣し、ブラジルの首都であったサルヴァドール=ダ=バイアを奇襲し、占領することに成功します。しかし、この最初の成功は長続きせず、翌1625年には、スペイン=ポルトガルの連合軍の反撃によって、サルヴァドールを奪回されてしまいました。
この失敗にもかかわらず、会社はブラジル征服を諦めませんでした。1630年、会社は、より大規模な遠征軍を、ブラジル北東部のペルナンブーコ州に派遣します。激しい戦闘の末、州都オリンダと、その港町レシフェの占領に成功。ここを拠点として、西インド会社は、その後数年をかけて、北はマラニョンから、南はサンフランシスコ川に至る、広大な沿岸地域を、次々とその支配下に収めていきました。このオランダ領となったブラジルは、「新オランダ(ニュー=ホラント)」と名付けられました。
新オランダの統治は、1637年に総督として着任した、マウリッツ=ファン=ナッサウ=ジーゲン(総督マウリッツの従兄弟)の時代に、その最盛期を迎えます。彼は、レシフェに、近代的な都市「マウリッツタット」を建設し、科学者や芸術家を招き、ブラジルの自然や文化に関する、大規模な学術調査を行わせました。また、彼は、カトリック教徒やユダヤ教徒に対しても、比較的寛容な宗教政策をとることで、植民地の安定を図ろうとしました。しかし、その華やかな統治の裏側で、砂糖プランテーションは、アフリカから強制的に連れてこられた、奴隷たちの過酷な労働によって、支えられていたのです。
カリブ海
カリブ海は、西インド会社にとって、一攫千金の夢が眠る、海賊行為の舞台でした。この海域は、メキシコやペルーで産出された銀を、スペイン本国へと運ぶ、スペインの「銀船隊」が通過する、重要なルートでした。西インド会社の艦隊は、この銀船隊を執拗に狙い、私掠行為(国家の許可を得た海賊行為)を繰り返しました。その最大の成功は、1628年提督ピート=ハインがキューバ沖のマタンサス湾で、スペインの銀船隊を一隻の船も逃すことなく、まるごと拿捕した事件です。この時、会社が手に入れた銀の価値は、1100万ギルダー以上と見積もられており、これは、会社の当初の設立資本をはるかに上回る金額でした。この成功は、会社の株価を急騰させ、ブラジル征服という次なる巨大プロジェクトの資金源となりました。
私掠行為に加えて、カリブ海は、塩の重要な供給源でもありました。塩は、オランダの主要産業であった、ニシン漁業において、魚を保存するために不可欠な物資でした。西インド会社は、セント=マーチン島やキュラソー島といった島々を占領し、そこにある天然の塩田を支配下に置きました。特に、1634年に占領されたキュラソー島は、その良港と戦略的な位置からカリブ海におけるオランダの貿易と、奴隷貿易の、重要な拠点として発展していくことになります。
北アメリカ
北アメリカ大陸における西インド会社の活動は、ハドソン川流域を中心とする、毛皮交易にその始まりを見ます。ヘンリー=ハドソンによる1609年の探検以来、オランダの商人たちは、この地域で、先住民のイロコイ族などと、ビーバーの毛皮を交換する、儲かるビジネスを始めていました。
1621年に西インド会社が設立されると、この地域の貿易独占権も、会社の管轄下に入りました。会社は、ハドソン川の上流にフォート=オレンジ(現在のオールバニ)を、そして1625年には、マンハッタン島の南端に、植民地の主都となる、ニューアムステルダム(現在のニューヨーク市)を建設しました。この二つの拠点を結ぶハドソン川流域一帯が、オランダの植民地「ニューネーデルラント」となりました。
ニューネーデルラントの経済は、ほぼ完全にビーバーの毛皮交易に依存していました。会社は、先住民から毛皮を安く買い取り、それをヨーロッパで高く売りさばくことで、利益を上げました。しかし、農業の発展は遅れ、植民地の人口も、なかなか増えませんでした。会社の独占的な支配や、歴代総督の強圧的な統治は、植民者たちの不満を招き、イングランド系の植民地からの圧力も、常に高まっていました。
アフリカ西岸=金と奴隷
アフリカ西岸は、西インド会社にとって、二つの重要な「商品」、すなわち金と奴隷の供給源でした。15世紀以来、この地域の貿易は、ポルトガルが独占しており、彼らは、「黄金海岸(ゴールド=コースト)」(現在のガーナ)沿いに、エルミナ城塞をはじめとする、堅固な交易拠点を築いていました。
西インド会社は、このポルトガルの独占を打ち破るため、アフリカの拠点に対しても、軍事攻撃を開始しました。1637年、マウリッツ総督がブラジルから派遣した艦隊が、黄金海岸のエルミナ城塞を攻略し、占領することに成功します。さらに、1641年には、コンゴ川の河口南部に位置する、ポルトガルの奴隷貿易の拠点、ルアンダ(現在のアンゴラの首都)も占領しました。
これらの拠点を手に入れたことで、西インド会社は、大西洋奴隷貿易の主導権を、ポルトガルから奪い取りました。会社は、アフリカの内陸部で、現地の王国や商人から、戦争捕虜や、誘拐されてきた人々を買い取り、彼らを、エルミナやルアンダの城塞に収容しました。そして、そこから、奴隷船に乗せて、大西洋を横断し、ブラジルやカリブ海のプランテーション、あるいはスペイン領アメリカの鉱山へと、「労働力」として売り渡したのです。この非人道的な「三角貿易」は、18世紀を通じて、会社の最も安定した、そして最も儲かる事業の一つとなっていきました。
このように、西インド会社の活動は、大西洋という広大な舞台で、地域ごとに異なる貌を見せながらも、戦争、貿易、植民、そして奴隷制という要素が、常に複雑に絡み合いながら、展開されていったのです。
栄光と挫折の時代
オランダ西インド会社の歴史は、短期間で頂点を極め、その後、急速に転落していくという、劇的なカーブを描きました。その運命を決定づけたのは、設立当初から会社のDNAに組み込まれていた、軍事行動への過度な依存と、それによってもたらされた、一時的な栄光、そして持続不可能な財政負担でした。
ピート=ハインと銀船隊の拿捕
設立から数年間、西インド会社の経営は、決して順調ではありませんでした。1624年のブラジル=サルヴァドール占領の失敗は、会社の財政に大きな打撃を与え、投資家たちを失望させていました。会社が、この初期の危機を乗り越え、その後の大規模な事業展開を可能にする、劇的な転機となったのが、1628年のピート=ハインによるスペイン銀船隊の拿捕でした。
ピート=ハインは、オランダ海軍のたたき上げの提督であり、若い頃にスペインのガレー船の奴隷として働いた経験を持つ、筋金入りのスペイン嫌いでした。彼は、西インド会社に雇われ、カリブ海で私掠活動を行う艦隊の指揮官に任命されます。
1628年9月、ハインの艦隊は、キューバ北岸のマタンサス湾で、メキシコのベラクルスからスペイン本国へ向かう、銀船隊を発見しました。スペイン側は、オランダ艦隊の接近に気づかず、湾内に無防備に停泊していました。ハインは、この好機を逃さず、湾の入り口を封鎖し、スペイン船隊を追い詰めました。ほとんど抵抗を受けることなく、ハインは、銀を満載したガレオン船4隻を含む、船団のほぼすべてを拿捕することに成功したのです。
この「奇跡の拿捕」によって、西インド会社が手に入れた戦利品の価値は、金、銀、そして高価な商品を合わせて、1100万ギルダーから1500万ギルダーにのぼると言われています。これは、会社の設立時の資本金(約700万ギルダー)を、はるかに上回る金額でした。このニュースがオランダに届くと、国中が熱狂に包まれました。会社の株主には、50パーセント以上という、驚異的な配当が支払われ、会社の株価は天文学的に高騰しました。ピート=ハインは、国民的英雄として迎えられましたが、彼は、この過剰な騒ぎを嫌い、翌年、海軍提督として、私掠船との戦いで戦死しました。
銀船隊の拿捕は、西インド会社の財政を、一夜にして健全化させただけでなく、その後の会社の方向性を決定づける、重要な意味を持ちました。この成功体験は、会社経営陣に、地道な貿易や植民地経営よりも、戦争や私掠行為の方が、はるかに手っ取り早く、莫大な利益を生むという、危険な幻想を植え付けました。そして、この潤沢な資金を元手に、会社は、その歴史における最大の賭け、すなわち、ブラジル北東部の全面的な征服事業へと、乗り出していくことになります。
新オランダの興亡
銀船隊の資金を背景に、西インド会社は、1630年から、ブラジル北東部のペルナンブーコへの侵攻を開始し、数年がかりで、広大な沿岸地域を支配下に置きました。この「新オランダ」植民地は、会社の野望の頂点を象徴するものでした。
1637年に、総督としてヨハン=マウリッツ=ファン=ナッサウ=ジーゲンが着任すると、新オランダは、その黄金時代を迎えます。マウリッツは、単なる軍人や行政官ではなく、ルネサンス的な教養を持つ人物でした。彼は、首都レシフェを、運河や橋、庭園を備えた、壮麗な近代都市「マウリッツタット」へと変貌させました。また、彼は、多くの科学者や芸術家(フランス=ポストやアルベルト=エックハウトなど)をヨーロッパから招き、ブラジルの動植物、地理、そして人々の生活に関する、詳細な記録を作成させました。これらの記録は、ヨーロッパにおけるブラジルへの関心を高め、科学史や美術史において、今日でも高く評価されています。
しかし、この華やかな文化政策の裏で、植民地の経済は、砂糖生産という、極めて脆弱な基盤の上に成り立っていました。そして、その砂糖生産は、アフリカから連れてこられた、何万人もの奴隷たちの、非人道的な労働によって支えられていました。マウリッツ自身も、このシステムを維持、拡大するために、1637年にアフリカのエルミナ城塞を、1641年にルアンダを、ポルトガルから奪取する遠征を指揮しています。
マウリッツの統治は、一見、成功しているように見えましたが、その内情は、常に危機をはらんでいました。彼の壮大な建設計画や文化事業は、莫大な費用を必要とし、会社の財政を圧迫しました。また、彼は、プランテーション経営者たちに、多額の融資を行いましたが、その多くは不良債権と化しました。会社の取締役会である19人会は、利益を生まないマウリッツの統治に、次第に不満を募らせていきます。
1640年、ポルトガルがスペインからの独立を回復(ポルトガル王政復古戦争)すると、状況は一変します。オランダとポルトガルは、対スペインという共通の敵を持つ、同盟国となりました。しかし、ブラジルにおいては、ポルトガル系のプランテーション所有者たちは、異教徒であるオランダ人の支配を快く思っておらず、虎視眈々と、故国ポルトガルによる奪還を待ち望んでいました。
19人会との対立が深まったマウリッツは、1644年に総督を辞任し、ヨーロッパへ帰国します。彼のいなくなった後、会社の統治は、より強圧的で、近視眼的なものとなり、ポルトガル系植民者たちの不満は、ついに爆発しました。1645年、ペルナンブーコで、大規模な反乱が勃発します。ポルトガル本国からの非公式な支援を受けた反乱軍は、ゲリラ戦を展開し、オランダの支配地を、次々と奪回していきました。
西インド会社は、本国に援軍を要請しましたが、オランダ本国は、第一次イギリス=オランダ戦争(1652年-1654年)の勃発など、ヨーロッパでの問題に追われ、ブラジルに十分な支援を送ることができませんでした。約10年間にわたる泥沼の戦いの末、1654年1月、オランダ軍は、最後の拠点レシフェで降伏しました。西インド会社は、24年間にわたって、莫大な投資を行ってきた、ブラジル植民地のすべてを、永久に失うことになったのです。
新オランダの喪失は、西インド会社にとって、致命的な打撃でした。会社は、多額の負債を抱え、その威信は地に落ちました。この失敗は、会社の歴史における、決定的な転換点となり、これ以降、会社が、かつてのような大規模な軍事=植民地事業を行うことは、二度とありませんでした。会社の活動の中心は、よりリスクの少ない、しかし、道徳的にはるかに大きな問題をはらむ、奴隷貿易へと、移行していくことになります。
奴隷貿易への傾斜
オランダ西インド会社(GWC)の歴史を語る上で、その最も暗く、そして最も論争の的となる側面が、大西洋奴隷貿易への体系的な関与です。設立当初、会社の主目的は、対スペイン・ポルトガル戦争と私掠行為にありましたが、ブラジル植民地の経営と、その後の喪失という経験を経て、会社は、アフリカ人奴隷の取引を、その最も重要な、そして最も安定した収益源へと変えていきました。
奴隷貿易への参入
17世紀初頭、大西洋奴隷貿易は、主にポルトガル商人によって支配されていました。彼らは、アフリカ西岸の拠点(特にアンゴラ)から、ブラジルやスペイン領アメリカのプランテーションや鉱山へ、労働力としてアフリカ人を供給していました。
西インド会社が、この貿易に本格的に参入する直接的なきっかけとなったのは、ブラジル北東部の砂糖プランテーション地帯の占領でした。サトウキビの栽培と砂糖の精製は、極めて過酷な労働を必要とし、その労働力は、ほぼ完全に、アフリカから強制的に連れてこられた奴隷に依存していました。新オランダの砂糖経済を維持・拡大するためには、安定した奴隷の供給ルートを確保することが、不可欠でした。
当初、会社は、ポルトガルの奴隷船を拿捕することで、奴隷を「獲得」していました。しかし、これだけでは、プランテーションの需要を満たすことはできませんでした。そこで、会社は、ポルトガルが築いた奴隷貿易のネットワークそのものを、武力で奪取する戦略に転じます。1637年、ブラジル総督ヨハン=マウリッツが派遣した艦隊が、黄金海岸(現在のガーナ)にあったポルトガルの最重要拠点、サン=ジョルジェ=ダ=ミナ城塞(通称エルミナ城)を占領しました。さらに1641年には、中央アフリカにおけるポルトガルの奴隷貿易の中心地であった、ルアンダとサントメ島も攻略します。
これらのアフリカ西岸の拠点を手に入れたことで、西インド会社は、大西洋奴隷貿易の供給側を、直接コントロールする能力を獲得しました。会社は、アフリカの現地の支配者や商人との間に、取引関係を築きました。彼らは、ヨーロッパ製の布地、金属製品、銃、火薬、アルコールなどと引き換えに、アフリカ人の捕虜(多くは、現地の部族間戦争で捕らえられた人々や、誘拐された人々)を、会社に売り渡しました。
三角貿易のシステム
西インド会社が主導した奴隷貿易は、ヨーロッパ、アフリカ、そしてアメリカ大陸を結ぶ、「三角貿易」のシステムの上で機能していました。
第一の航程は、ヨーロッパからアフリカへ。オランダの港(主にアムステルダムやミデルブルフ)から出航した船は、奴隷と交換するための商品(銃、火薬、織物、ブランデーなど)を積んで、アフリカ西岸の会社の交易拠点(エルミナなど)へ向かいました。
第二の航程、すなわち「中間航路(ミドル=パッセージ)」は、アフリカからアメリカ大陸へ。アフリカの拠点で、船倉に数百人もの男女や子供を、まるで貨物のように詰め込まれた奴隷船は、大西洋を横断しました。この航海は、数週間から数ヶ月に及び、その環境は、想像を絶するほど劣悪でした。過密な船内は、不衛生で、病気が蔓延し、多くの人々が、栄養失調、脱水症状、そして赤痢や天然痘といった伝染病で命を落としました。反乱を恐れた船員たちは、奴隷たちを鎖でつなぎ、暴力で支配しました。死者は、ためらうことなく海に投棄されました。この中間航路における死亡率は、平均して15パーセント前後、時にはそれ以上に達したと推定されています。
第三の航程は、アメリカ大陸からヨーロッパへ。アメリカ大陸に到着した奴隷船は、生き残ったアフリカ人たちを、「商品」として競売にかけました。彼らの主な買い手は、カリブ海(特にキュラソー島やシント=ユースタティウス島が、奴隷の中継貿易港として栄えた)や、南米のスリナム(1667年にイギリスから獲得)で、サトウキビやコーヒーのプランテーションを経営する、植民者たちでした。奴隷を売りさばいた船は、その代金として得た、砂糖、糖蜜、ラム酒、コーヒー、タバコといった、植民地産の農産物を積み込み、ヨーロッパへと帰港しました。
この三角貿易のサイクルを通じて、西インド会社と、その投資家たちは、莫大な利益を上げました。
第二西インド会社と奴隷貿易の独占
1674年、ブラジル喪失による巨額の負債と、度重なる戦争によって、最初の西インド会社(旧GWC)は、ついに破産し、解散しました。しかし、その翌年の1675年、よりスリム化され、再建された「第二西インド会社(新GWC)」が設立されます。
この第二西インド会社は、かつてのような領土拡大の野心は放棄し、その事業を、既存の植民地の管理と、貿易活動に集中させました。そして、その貿易活動の中核をなしたのが、奴隷貿易でした。第二西インド会社は、1675年から1730年までの間、オランダによる奴隷貿易の独占権を、ほぼ完全に掌握しました。この期間、会社は、年間数千人規模で、アフリカ人をアメリカ大陸へと輸送し続けました。
会社の独占は、1730年代に、徐々に廃止されていきます。独占に反対する、民間の商人たちの圧力が高まったためです。独占が廃止されると、多くの民間の貿易業者(特にゼーラント州ミデルブルフの商人)が、奴隷貿易に参入し、競争が激化しました。しかし、会社は、その後も、アフリカ西岸の交易拠点の管理と、そこでの税の徴収を通じて、奴le貿易から利益を得続けました。
オランダが、その歴史を通じて、大西洋奴隷貿易で輸送したアフリカ人の総数は、約55万人から60万人と推定されています。これは、奴隷貿易全体の約5パーセントに相当し、ポルトガル、イギリス、フランスに次ぐ、第四位の規模でした。このうち、西インド会社が、その独占期間中に直接輸送した人数は、約20万人から30万人を占めると考えられています。
西インド会社の奴隷貿易への関与は、オランダの「黄金時代」の繁栄が、多くの人々の犠牲の上に成り立っていたという、不都合な真実を、浮き彫りにします。それは、会社の歴史における、消すことのできない汚点であると同時に、大西洋世界の近代史を形成した、重要な経済活動の一つでもあったのです。
衰退と解散
17世紀後半から18世紀にかけて、オランダ西インド会社は、かつての栄光を失い、長い、そして緩やかな衰退の道を辿っていきました。その衰退は、一連の致命的な打撃の結果というよりも、変化する国際環境と、会社の構造的な弱さが、複合的に作用した結果でした。
ニューネーデルラントの喪失
ブラジル喪失という致命的な打撃に続き、西インド会社は、北アメリカ大陸における、もう一つの重要な植民地を失うことになります。それが、ニューネーデルラントでした。
ニューネーデルラント植民地は、毛皮交易に依存していましたが、農業の発展が遅れ、人口の増加も緩やかでした。会社の独占的な支配と、ピーター=ストイフェサントに代表される、歴代総督の権威主義的な統治は、植民者たちの間に、根強い不満を生んでいました。
一方、ニューネーデルラントを挟むようにして、北と南に拡大するイギリスの植民地は、オランダの存在を、自国の発展を妨げる、邪魔な楔と見なしていました。特に、ニューネーデルラントの中心都市ニューアムステルダムが、北米大陸で最も優れた天然の港の一つを支配していることは、海洋国家イギリスにとって、看過できない脅威でした。
1664年、ヨーロッパでは平和な時期であったにもかかわらず、イングランド国王チャールズ2世の弟、ヨーク公ジェームズは、宣戦布告なしに、4隻のフリゲート艦隊をニューアムステルダムに派遣しました。圧倒的な軍事力を背景に、イギリス側は、総督ストイフェサントに、降伏を要求します。ストイフェサントは、徹底抗戦を主張しましたが、戦っても勝ち目がないことを悟った植民地の市民たちは、彼に降伏するよう説得しました。戦火を交えることなく、ニューアムステルダムは、イギリスの手に渡り、その名は、ヨーク公にちなんで「ニューヨーク」と改名されました。
このニューネーデルラントの喪失は、第二次イギリス=オランダ戦争(1665年-1667年)の直接的な引き金の一つとなります。戦争終結時のブレダの和約(1667年)で、オランダは、南米のイギリス領スリナムを獲得する見返りに、ニューヨークのイギリスによる領有を、正式に認めました。西インド会社は、北米大陸における、最後の足がかりを失ったのです。
第二西インド会社の限界
1674年に破産した旧会社に代わって、1675年に設立された第二西インド会社(新GWC)は、当初から、多くの構造的な問題を抱えていました。
第一に、その事業規模は、大幅に縮小されていました。ブラジルやニューネーデルラントといった、広大な植民地を失った後、会社が直接統治する領土は、カリブ海のいくつかの島々(キュラソー、シント=ユースタティウスなど)、南米のスリナム、そしてアフリカ西岸のいくつかの交易拠点(エルミナなど)に限られていました。これにより、会社の潜在的な収益源は、大きく限定されることになりました。
第二に、会社の独占権が、徐々に侵食されていったことです。第二西インド会社の主な収益源は、奴隷貿易の独占でした。しかし、この独占は、会社の外にいる、多くの民間の商人たちから、強い反発を受けました。彼らは、自由貿易を主張し、会社の独占権を撤廃するよう、政府に働きかけました。1730年代に入ると、この圧力が実を結び、奴隷貿易の独占は、段階的に廃止されていきます。これにより、会社は、その最も利益の上がる事業において、民間業者との厳しい競争にさらされることになり、収益は大幅に減少しました。
第三に、会社の経営が、非効率で、腐敗が蔓延していたことです。遠く離れた植民地や交易拠点の役人たちは、本社の目が行き届かないことを利用して、しばしば不正な私的取引に手を染め、会社の利益を損ないました。経営陣もまた、かつてのような革新的な精神を失い、変化する状況に、柔軟に対応することができませんでした。
第四次イギリス=オランダ戦争と最後の打撃
18世紀を通じて、西インド会社は、奴隷貿易と、スリナムのプランテーション経営から得られる利益によって、かろうじて存続していましたが、その経営状態は、常に低迷していました。そして、その命運に、とどめを刺すことになったのが、第四次イギリス=オランダ戦争(1780年-1784年)でした。
この戦争で、制海権を完全に握っていたイギリス海軍は、世界中のオランダの植民地と交易路を、徹底的に攻撃しました。西インド会社が管轄していた、カリブ海のシント=ユースタティウス島や、南米のデメララ、エセキボといった植民地は、イギリス軍によって、いとも簡単に占領され、略奪されました。アフリカ西岸の交易拠点も、その多くが破壊されるか、占領されました。
この戦争によって、会社の貿易ネットワークは、完全に麻痺し、その財政は、回復不可能なほどの打撃を受けました。戦争が終わった後も、会社が、かつての活動レベルを回復することは、もはや不可能でした。
解散
第四次イギリス=オランダ戦争による壊滅的な打撃と、積もり積もった負債により、西インド会社の経営は、事実上、破綻状態に陥りました。オランダの連邦議会は、もはや会社の存続は不可能であると判断します。
1791年、勅許状の期限が切れると、連邦議会は、その更新を認めませんでした。これにより、オランダ西インド会社は、正式に解散しました。会社の抱えていた負債は、国家が引き継ぎ、その領有していた植民地(スリナムやキュラソーなど)は、連邦議会の直接統治下に置かれることになりました。
設立から170年。スペイン・ポルトガル帝国に戦いを挑み、大西洋を股にかけて、栄光と挫折、富と暴力を体現した巨大な勅許会社は、その波乱に満ちた歴史の幕を、静かに閉じたのです。
オランダ西インド会社は、その姉妹会社である東インド会社(VOC)ほどの商業的成功を収めることはなく、その歴史は、輝かしい成功よりも、むしろ、壮大な失敗の物語として、記憶されることが多いかもしれません。ブラジル征服という巨大な賭けに敗れ、北米の拠点を失い、最終的には、負債の山を抱えて、破産という結末を迎えました。
しかし、その歴史的な影響を、過小評価することはできません。西インド会社は、オランダの「黄金時代」における、軍事的・商業的野心の、最も先鋭的な表現でした。その私掠活動は、敵国スペインの財政を揺るがし、八十年戦争の遂行に、間接的に貢献しました。その植民活動は、ニューヨークという、世界で最も重要な都市の基礎を築き、ブラジルやカリブ海の社会に、オランダ文化の痕跡を残しました。
そして、何よりも、西インド会社は、大西洋奴隷貿易という、近代世界史における、最も巨大で、最も悲劇的な経済システムの、中心的な担い手の一人でした。会社が、アフリカからアメリカ大陸へと輸送した、何十万人もの人々の強制的な移住は、アメリカ大陸の人口構成、社会構造、そして経済のあり方を、永久に変えてしまいました。その非人道的な活動は、オランダの繁栄の暗部をなすものであり、その歴史的責任は、今日においても、重い問いを投げかけ続けています。