イギリス=オランダ(英蘭)戦争とは
17世紀という時代は、ヨーロッパが近代的な国家の形を整え、その野心を世界へと拡大していく、激動の世紀でした。その中心で、世界の海の覇権、そしてそれに伴う莫大な富をめぐって、二つの国家が、まるで宿命のライバルのように、繰り返し激突しました。一つは、清教徒革命と王政復古の嵐を乗り越え、海洋国家としてのアイデンティティを確立しようとするイングランド共和国、後の大英帝国。もう一つは、スペインからの独立戦争を勝ち抜き、「黄金時代」の絶頂を謳歌する、小国ながらも世界最大の商業大国であったネーデルラント連邦共和国、通称オランダ。
この二つのプロテスタント国家が、17世紀後半から18世紀末にかけて、四度にわたって繰り広げた一連の戦争、それが「イギリス=オランダ戦争」です。これらの戦争は、国王や貴族の名誉のための戦いではなく、国家の経済的利益、すなわち海上交易の支配権をめぐる、極めて近代的で、そして実利的な戦争でした。戦場は、両国を隔てる北海やイギリス海峡だけでなく、カリブ海の植民地から、東インドの香料諸島に至るまで、全世界に及びました。それは、史上初の世界規模での商業戦争であったといえるかもしれません。
両国は、宗教(プロテスタント)や政治体制(共和政的要素を持つ)において多くの共通点を持ち、スペインやフランスといったカトリックの大国に対しては、しばしば同盟を結ぶ関係にありました。しかし、その水面下では、世界の富を運ぶ商船隊の支配という、決して相容れない国益の対立が、常に渦巻いていたのです。イングランドが、自国の経済を守るために重商主義政策を推し進め、オランダが独占してきた中継貿易のパイを奪おうとすれば、オランダは、自らの繁栄の基盤である「海洋の自由」を掲げ、その既得権益を死守しようとしました。
この一連の戦争は、海戦の歴史においても、画期的な転換点となりました。両国の巨大な艦隊が、整然とした戦列(ライン=オブ=バトル)を組んで、組織的に砲撃を交わすという、新しい海戦術が確立されたのです。ミヒール=デ=ロイテルやマールテン=トロンプといったオランダの提督、ロバート=ブレイクやジョージ=マンクといったイングランドの提督たちの名は、海戦史に不滅の伝説として刻まれています。
第一次イギリス=オランダ戦争(1652年-1654年)
17世紀半ば、ヨーロッパの政治地図は大きく揺れ動いていました。ドイツを荒廃させた三十年戦争が終わりを告げ、オランダはスペインからの八十年戦争を勝利で終え、ついに独立を勝ち取ります。一方、海を隔てたイングランドでは、国王チャールズ1世が処刑され、オリバー=クロムウェル率いる共和政(コモンウェルス)が樹立されるという、前代未聞の革命が進行していました。この二つの、いわば「兄弟」ともいえるプロテスタント共和国が、独立と革命の祝杯を交わす間もなく、血で血を洗う戦争に突入したのが、第一次イギリス=オランダ戦争でした。その根底には、宗教的な親近感では覆い隠すことのできない、深刻な経済的対立がありました。
背景=商業的ライバル関係
17世紀半ば、オランダはまさに「黄金時代」の絶頂にありました。アムステルダムは世界の金融センターとなり、オランダの商船隊(フリュート船に代表される、効率的で安価な輸送船)は、ヨーロッパ中の海運を支配していました。彼らは、バルト海の穀物から、地中海のワイン、そして東インドの香辛料に至るまで、あらゆる商品を運び、中継貿易によって莫大な利益を上げていました。このオランダの圧倒的な商業的優位は、他の国々、特に海洋国家としての発展を目指すイングランドにとって、嫉妬と脅威の的でした。
イングランドの商人たちは、自国の貿易がオランダの船によって侵食されていることに、強い不満を抱いていました。彼らは、政府に対して、オランダの競争力を削ぎ、イングランドの海運業を保護するための、強力な政策を求めます。
この経済的な対立に加えて、政治的な緊張も高まっていました。1649年に成立したイングランド共和国は、同じ共和政国家であるオランダに対して、両国が合邦して一つの強力なプロテスタント共和国となることを提案しました。しかし、オランダにとって、この提案は、事実上、イングランドによる併合を意味するものであり、到底受け入れられるものではありませんでした。オランダは、自国の主権と、中立的な外交政策を維持することを望んだのです。この外交的な失敗は、イングランドの指導者たち、特にクロムウェルを深く失望させ、両国関係を冷却化させる一因となりました。
航海法の制定
両国の対立を決定的にしたのが、1651年10月にイングランド議会で可決された「航海法(ナヴィゲーション=アクト)」でした。この法律は、イングランドの重商主義政策を象徴するものであり、その狙いは、オランダの中継貿易に直接的な打撃を与えることにありました。
航海法の主な内容は、以下の通りです。
=アジア、アフリカ、アメリカ大陸からの商品をイングランドに輸入する際は、イングランド船、あるいはその商品の原産国の船で運ばなければならない。
=ヨーロッパ諸国からの商品をイングランドに輸入する際は、イングランド船、あるいはその商品の原産国の船で運ばなければならない。
=イングランドの沿岸漁業で獲られた魚の輸入は、イングランド船に限定する。
これらの条項は、事実上、第三国の商品を運ぶことで利益を得ていたオランダの船を、イングランドの貿易から完全に締め出すものでした。オランダにとって、この法律は、自国の経済の生命線を脅かす、敵対的な行為そのものでした。オランダ政府は、イングランドに対して、航海法の撤回を求める使節団を派遣しましたが、交渉は決裂。両国の間には、もはや戦争以外に解決の道はないという空気が、急速に醸成されていきました。
戦争の経過
戦争の直接的な引き金は、1652年5月、イギリス海峡で起こった偶発的な衝突でした。イングランド艦隊の提督ロバート=ブレイクが、オランダの提督マールテン=トロンプに対して、イングランド国王(当時は存在しないが)の主権の象徴として、オランダの旗を降ろして敬意を示すよう要求したところ、トロンプがこれを拒否。言葉の応酬は、やがて砲撃戦へと発展しました。
戦争が始まると、両国の巨大な艦隊が、北海とイギリス海峡を舞台に、一進一退の激しい海戦を繰り広げました。
当初、オランダ海軍は、経験豊富なトロンプやミヒール=デ=ロイテルといった提督に率いられ、優勢に戦いを進めました。1652年12月のダンジェネスの海戦では、トロンプがブレイクを破り、一時的にイギリス海峡の制海権を確保します。この時、トロンプがマストに箒を掲げ、「イギリス海峡を掃き清めた」と豪語したという逸話は、オランダの優越を象徴する物語として語り継がれています。
しかし、イングランド海軍も、すぐに態勢を立て直します。クロムウェル政権は、海軍の組織改革を断行し、艦隊の規模を拡大しました。ロバート=ブレイクやジョージ=マンクといった、陸軍出身ながらも有能な指揮官のもと、イングランド海軍は、より大型で重武装の戦列艦を投入し、艦隊戦術を洗練させていきました。
1653年に入ると、戦局はイングランドに有利に傾き始めます。2月のポートランドの海戦、6月のガッバードの海戦と、イングランド艦隊は立て続けに勝利を収めました。特に、イングランド艦隊が採用した「戦列戦術(ライン=オブ=バトル)」、すなわち、艦船が一列に並び、その舷側に並べた大砲の火力を集中させる戦術は、個々の船の戦闘能力に頼りがちだったオランダ海軍に対して、効果を発揮しました。
そして、1653年8月、戦争の帰趨を決する、最後の大会戦が、オランダ沖のスケフェニンゲン(テル=ヘイデ)で行われました。この激しい戦いの中で、オランダの偉大な英雄、マールテン=トロンプが胸に銃弾を受けて戦死しました。指導者を失ったオランダ艦隊は敗北し、その士気は大きく打ち砕かれました。
ウェストミンスター条約
トロンプの死と、イングランドによる海上封鎖によって、オランダの経済は壊滅的な打撃を受けました。交易路を断たれ、漁業もままならなくなったオランダは、和平を模索せざるを得なくなります。
1654年4月、両国はウェストミンスター条約を締結し、戦争は終結しました。この条約で、オランダは、イングランド共和国政府を正式に承認し、航海法を受け入れることを余儀なくされました。さらに、秘密条項として、オランダの指導者であるホラント州総督ヨハン=デ=ウィットは、イングランド王家と血縁関係にあるオラニエ=ナッサウ家(特に、後のウィリアム3世)を、オランダの総督職(統領)から永久に排除することを約束させられました(排除条項)。これは、イングランドにおける王政復古の芽を摘むための、クロムウェルの政治的な要求でした。
第一次イギリス=オランダ戦争は、イングランドの勝利に終わりました。この戦争を通じて、イングランドは、自らがヨーロッパの主要な海軍国であることを証明し、その後の海洋帝国への道を切り開きました。しかし、オランダの商業的な力が完全に失われたわけではなく、両国のライバル関係は、より深く、そして根強いものとなりました。この戦争は、これから始まる、半世紀にわたる両国の闘争の、序章に過ぎなかったのです。
第二次イギリス=オランダ戦争(1665年-1667年)
第一次戦争から約10年。イングランドでは、オリバー=クロムウェル亡き後の混乱を経て、1660年に王政が復古し、チャールズ2世が国王の座に就きました。一方、オランダでは、大議会派の指導者ヨハン=デ=ウィットが、巧みな政治手腕で国を率い、経済的な繁栄を維持していました。政治体制は変わっても、両国の商業的な対立は、少しも和らぐことはありませんでした。むしろ、世界各地の植民地や交易路における小競り合いは、ますます激しさを増していました。そして、それはやがて、再び両国を全面戦争へと駆り立てることになります。第二次イギリス=オランダ戦争は、第一次戦争以上に、その戦域を世界中に拡大し、より劇的な展開を見せることになります。
背景=植民地と貿易をめぐる対立
王政復古後のイングランドは、チャールズ2世のもとで、さらなる重商主義政策と海外膨張を推し進めました。1660年と1663年には、第一次航海法をさらに強化・拡充した新たな航海法が制定され、オランダ貿易への締め付けは一層厳しくなりました。
両国の対立の火種は、ヨーロッパの海だけでなく、世界中に散らばっていました。
西アフリカでは、両国の会社が、奴隷と金の交易をめぐって激しく争っていました。イングランドの王立アフリカ会社は、オランダが築いた交易拠点(砦)を次々と攻撃し、占領しました。
北アメリカでは、イングランドが、オランダの植民地ニューネーデルラント(現在のニューヨーク州)の存在を、自国の植民地の間に打ち込まれた楔と見なし、その奪回を狙っていました。1664年、イングランド艦隊は、宣戦布告なしに、ニューネーデルラントの中心都市ニューアムステルダムを奇襲し、これを占領しました。都市の名を、国王の弟であるヨーク公ジェームズにちなんで、「ニューヨーク」と改名しました。
東インド(東南アジア)では、香辛料貿易をめぐる古くからの対立が続いていました。
これらの世界各地での衝突は、両国の国民感情を悪化させ、主戦論の声を高めていきました。特に、イングランド議会やロンドンの商人たちは、オランダの商業的覇権を打倒し、その富を奪うことを強く望んでいました。チャールズ2世自身も、フランスのルイ14世からの資金援助を期待し、戦争に積極的な姿勢を見せました。
戦争の経過
1665年3月、イングランドはオランダに宣戦布告し、第二次戦争の火蓋が切られました。
戦争初期、イングランドは優勢でした。1665年6月、ヨーク公ジェームズが直接指揮するイングランド艦隊が、ローストフトの海戦でオランダ艦隊を打ち破ります。この戦いで、オランダの提督ヤコブ=ファン=ヴァッセナール=オブダムが戦死し、オランダ海軍は大きな打撃を受けました。
しかし、オランダもすぐさま反撃に転じます。ヨハン=デ=ウィットは、海軍の再建を強力に推し進め、艦隊の指揮官として、当代随一の名提督と謳われるミヒール=デ=ロイテルを起用しました。デ=ロイテルの卓越した指導力のもと、オランダ海軍は士気を取り戻し、その戦闘能力を飛躍的に向上させます。
1666年6月、イギリス海峡で、海戦史上屈指の激戦として知られる「四日海戦」が繰り広げられました。デ=ロイテル率いるオランダ艦隊と、ジョージ=マンク率いるイングランド艦隊が、四日間にわたって死闘を演じました。両軍ともに甚大な損害を出しましたが、戦術的にはオランダの勝利と見なされ、イングランド海軍の不敗神話は揺らぎました。
しかし、そのわずか2ヶ月後の8月、聖ジェームズ日の海戦では、イングランド艦隊が勝利を収め、再び制海権を奪い返します。イングランド艦隊は、オランダ沿岸を襲撃し、テルスヘリングの港に停泊していた150隻以上の商船を焼き払う(ホームズの焚火)など、オランダ経済に大きな打撃を与えました。
メドウェイ川襲撃とブレダの和約
戦局は一進一退を続けましたが、イングランドは深刻な国内問題に直面していました。1665年から1666年にかけて、ロンドンでペストが大流行し、数万人が死亡。さらに1666年9月には、ロンドン大火が発生し、市内の大部分が灰燼に帰しました。これらの災厄によって、イングランドの財政は破綻状態に陥り、チャールズ2世は、主力艦隊の解役を決定せざるを得なくなります。
このイングランドの油断と財政難を、オランダは見逃しませんでした。1667年6月、ミヒール=デ=ロイテルは、オランダ海軍史上、最も大胆不敵な作戦を実行します。彼は、小規模な艦隊を率いてテムズ川の河口に侵入し、さらにその支流であるメドウェイ川を遡上したのです。オランダ艦隊は、チャタムの海軍基地を襲撃し、そこに係留されていたイングランド海軍の主力艦を次々と焼き払い、旗艦である「ロイヤル=チャールズ」を鹵獲して、アムステルダムへと曳航していきました。
この「メドウェイ川襲撃」は、イングランド海軍にとって、史上最大の屈辱であり、首都ロンドンをパニックに陥れました。自国の領海深く、それも海軍の心臓部への侵入を許したこの事件は、イングランドに和平を決意させる、決定的な一撃となりました。
屈辱的な敗北を喫したイングランドは、和平交渉の席に着かざるを得ませんでした。1667年7月、ブレダの和約が締結され、戦争は終結します。
この条約では、航海法が一部緩和され、オランダ船がドイツやフランドル地方の商品をイングランドへ運ぶことが認められました。植民地に関しては、現状維持(ユティ=ポシデティス)の原則が採用され、イングランドは戦争中に占領したニューネーデルラント(ニューヨーク)を正式に領有する一方、オランダは南米のスリナム(ギアナ)や東インドのルン島(かつてイギリスが拠点とした香料諸島の一つ)を確保しました。
全体として、第二次戦争は、メドウェイ川襲撃という劇的な勝利を収めたオランダの優勢のうちに終わりました。オランダは、その海軍力と経済力の健在ぶりを示し、第一次戦争の雪辱を果たした形となりました。しかし、イングランドがニューヨークという戦略的な拠点を手に入れたことは、将来の北米大陸におけるイギリスの覇権の基礎を築くことになり、長期的に見れば、決して小さな成果ではありませんでした。両国の対立の根は、依然として深く、平和は長くは続きませんでした。
第三次イギリス=オランダ戦争(1672年-1674年)
第二次戦争の終結からわずか5年。ヨーロッパの国際情勢は、フランスの「太陽王」ルイ14世の野心によって、新たな局面を迎えていました。ルイ14世は、ヨーロッパにおけるフランスの覇権を確立するため、最大の障害と見なしていたオランダ共和国の打倒を決意します。そして、その計画の共犯者として、第二次戦争の屈辱に燃えるイングランド国王チャールズ2世を引き込みました。第三次イギリス=オランダ戦争は、これまでの二つの戦争とは異なり、フランスという大陸の大国が深く関与する、より大規模で複雑な戦争として展開されることになります。オランダにとっては、国家の存亡そのものが問われる、絶体絶命の危機でした。
背景=ドーヴァーの密約
チャールズ2世は、メドウェイ川で受けた屈辱を忘れていませんでした。彼は、オランダへの復讐と、議会に頼らない絶対的な権力を確立するための資金を、フランスのルイ14世に求めました。一方、ルイ14世は、オランダを陸と海から同時に攻撃するために、強力なイングランド海軍の協力が不可欠であると考えていました。
両者の思惑は一致し、1670年、イングランドとフランスは、秘密裏に「ドーヴァーの密約」を締結します。この密約の核心は、両国が共同でオランダを攻撃し、その領土を分割するというものでした。さらに、チャールズ2世は、ルイ14世から巨額の資金援助を受ける見返りに、将来的には自身がカトリックに改宗し、イングランドをカトリック国に戻すことを約束するという、衝撃的な内容も含まれていました。
この密約に基づき、イングランドとフランスは、オランダ侵攻の準備を着々と進めていきました。オランダの指導者ヨハン=デ=ウィットは、この危険な動きを察知していましたが、二つの大国から同時に攻撃されるという、最悪の事態を避けることはできませんでした。
災厄の年(ランプヤール)
1672年、イングランドとフランスは、相次いでオランダに宣戦布告しました。第三次戦争の始まりです。
フランス軍は、12万という圧倒的な大軍を率いて、オランダの南東部から国境を突破し、瞬く間にオランダの中心部へと迫りました。ユトレヒトをはじめとする主要都市が、次々とフランス軍の手に落ち、アムステルダムも陥落寸前の危機に陥ります。
海では、イングランドとフランスの連合艦隊が、オランダ艦隊に襲いかかりました。オランダは、陸と海からの挟み撃ちに遭い、国家存亡の危機に瀕しました。この1672年は、オランダ史において「災厄の年(ランプヤール)」として記憶されています。
絶望的な状況の中、オランダは、最後の手段に訴えました。それは、国土の大部分を水没させて、敵の進軍を食い止めるという、壮絶な焦土作戦でした。彼らは、各地の堤防や水門を破壊し、広大な平地を意図的に洪水させたのです(オランダ洪水線)。この「水による防衛線」は、フランス軍の進撃をアムステルダムの手前で食い止め、オランダに、態勢を立て直すための、貴重な時間をもたらしました。
デ=ロイテルの奮戦
陸での防衛が限界に達する中、オランダの唯一の希望は、ミヒール=デ=ロイテル提督率いる海軍でした。デ=ロイテルに課せられた任務は、数で勝るイングランド・フランス連合艦隊の攻撃を凌ぎ、オランダの生命線である海上交易路を守り、そして何よりも、敵軍が海上からオランダに上陸するのを阻止することでした。
デ=ロイテルは、この絶望的な状況下で、彼の天才的な戦術能力を遺憾なく発揮します。
1672年6月、サウスウォルド湾の海戦。デ=ロイテルは、イングランドの沿岸で補給中の連合艦隊を奇襲し、大きな損害を与えて、その年の侵攻計画を頓挫させました。
1673年、連合艦隊が再びオランダ沿岸への上陸を目指すと、デ=ロイテルは、オランダ沿岸の浅く、砂州が多い複雑な地形を最大限に利用した、巧みな防衛戦を展開します。6月のスホーネフェルトの海戦(二度にわたる)と、8月のテセル島の海戦において、デ=ロイテルは、数的に劣勢な艦隊を率いながらも、連合艦隊の攻撃をことごとく撃退し、ついに敵の上陸を断念させました。これらの海戦でのデ=ロイテルの指揮は、海戦史上における防御戦術の最高傑作と称賛されています。彼の奮戦がなければ、オランダは、海上からの侵攻を許し、国家として滅亡していた可能性が極めて高いです。
デ=ウィット兄弟の惨殺とウィレム3世の台頭
「災厄の年」は、オランダの国内政治にも、激震をもたらしました。フランス軍の侵攻によって引き起こされたパニックと混乱の中で、民衆の怒りは、国を率いてきたヨハン=デ=ウィットに向けられました。彼は、フランスの脅威を軽視し、陸軍の軍備を怠ったと非難されたのです。
民衆やオラニエ派は、オラニエ=ナッサウ家の若きプリンス、ウィレム(後のイングランド王ウィリアム3世)を、国の指導者として立てることを要求しました。追い詰められたデ=ウィットは辞任。そして1672年8月、ハーグで、彼は兄のコルネリスと共に、暴徒化した民衆によって捕らえられ、極めて残虐な方法で惨殺されてしまいました。
デ=ウィット兄弟の死後、ウィレム3世が、オランダの総督(統領)および軍の最高司令官に就任します。彼は、ルイ14世の野心に対抗するため、生涯をかけて反フランス闘争を戦い抜くことを決意し、巧みな外交手腕で、スペインや神聖ローマ帝国(オーストリア)などを味方に引き入れ、対フランス大同盟を形成していきました。
ウェストミンスター条約(第二次)
イングランド国内では、この戦争に対する支持は、急速に失われていました。フランスとの同盟、そして国王チャールズ2世のカトリックへの傾倒は、プロテスタント意識の強い議会や国民の間に、深い疑念と反発を呼び起こしていました。戦争の費用はかさみ、海戦でも決定的な勝利を得られない状況に、議会は、戦費の承認を拒否するようになります。
追い詰められたチャールズ2世は、ルイ14世との同盟を破棄し、オランダとの単独講和を決意せざるを得ませんでした。1674年2月、第二次ウェストミンスター条約が締結され、イングランドは戦争から離脱しました。この条約で、両国は、第二次戦争後に領有したニューヨークとスリナムの領有権を、改めて相互に確認しました。
イングランドが離脱した後も、オランダとフランスの戦争は続きましたが、ウィレム3世が築いた対フランス同盟の力によって、フランスは徐々に劣勢となり、1678年のナイメーヘンの和約によって、ようやく終結しました。オランダは、国土の大部分を占領されながらも、その独立を守り抜くことに成功したのです。
第三次戦争は、オランダにとっては、国家存亡の危機を乗り越えた、壮絶な防衛戦争でした。そして、この戦争を通じて、オランダの政治の舞台には、ウィレム3世という、その後のヨーロッパ史を大きく動かすことになる、新たな主役が登場したのです。イングランドとオランダの関係も、このウィレム3世の存在によって、敵対から同盟へと、劇的な転換を遂げることになります。
第四次イギリス=オランダ戦争(1780年-1784年)
第三次戦争の終結から、一世紀以上が経過していました。その間に、世界の勢力図は大きく塗り替わっていました。かつて世界の海を支配したオランダの「黄金時代」は遠い過去のものとなり、その経済力と海軍力は、著しく衰退していました。代わって、七年戦争に勝利し、広大な海外植民地帝国を築き上げた大英帝国が、世界の覇者として君臨していました。しかし、その大英帝国もまた、北米の13植民地が独立を求めて立ち上がるという、深刻な危機に直面していました。第四次イギリス=オランダ戦争は、このアメリカ独立戦争という、全く新しい世界史的文脈の中で勃発しました。それは、かつてのライバル同士の、最後の、そしてどこか物悲しい戦いでした。
背景=アメリカ独立戦争とオランダの「中立」
1775年、アメリカ独立戦争が始まると、ヨーロッパの国際関係は複雑化しました。イギリスの長年のライバルであったフランスは、アメリカの独立派を支援し、1778年には正式に参戦します。スペインも、翌1779年にアメリカ側で参戦しました。
このような状況の中で、オランダ共和国は、公式には「中立」の立場を宣言しました。しかし、その実態は、決して中立的なものではありませんでした。オランダの商人たち、特にアムステルダムの金融業者や貿易商は、この戦争を、絶好の商機と捉えていました。
彼らは、アメリカの独立派に対して、武器、弾薬、そして船舶用品といった、戦争に必要な物資を、密かに供給し続けました。その密貿易の拠点となったのが、カリブ海に浮かぶオランダ領の小島、シント=ユースタティウス島でした。この島は、アメリカ大陸への「裏口」として機能し、自由港として、アメリカ、フランス、そしてオランダの商人たちが活発に取引を行う、一大中継地点となっていました。イギリスにとって、この島は、反乱軍を利する「海賊の巣」であり、許しがたい存在でした。
さらに、オランダは、イギリスが提唱した、中立国船舶に対する臨検(積荷の検査)の権利をめぐって、イギリスと対立していました。オランダは、自国の繁栄の基礎である「自由貿易」の原則を盾に、中立国船舶の航行の自由を主張しました。1780年には、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱で結成された、中立国の通商権を守るための同盟「武装中立同盟」に、加盟する動きを見せます。これは、海上封鎖によってアメリカを孤立させようとするイギリスの戦略を、根本から脅かすものでした。
開戦の経緯
イギリスの怒りは、沸点に達していました。イギリス政府は、オランダがアメリカの独立派と密かに交渉を進めている証拠を探していました。そして1780年、イギリス海軍が、アメリカの外交官ヘンリー=ローレンスが乗った船を拿捕した際、その決定的な証拠が発見されます。それは、アムステルダムの銀行家とアメリカの代表との間で交わされた、通商友好条約の草案でした。
この発見を口実に、イギリスは、オランダが武装中立同盟に正式に加盟する直前の1780年12月、オランダに対して宣戦を布告しました。イギリスの狙いは、オランダを中立国の立場から引きずり出し、敵国として、その交易と植民地を合法的に攻撃することにありました。
戦争の経過=オランダの惨敗
戦争が始まると、両国の国力の差は、あまりにも明白でした。かつてイギリス海軍と互角以上に渡り合ったオランダ海軍の栄光は、もはや過去のものでした。長年の平和と財政難の中で、艦隊は老朽化し、その規模もイギリス海軍の足元にも及ばない状態でした。
イギリス海軍は、開戦と同時に、世界中のオランダの権益に対して、圧倒的な攻撃を開始しました。
1781年2月、イギリス艦隊は、カリブ海の密貿易拠点であったシント=ユースタティウス島を、いとも簡単に占領しました。イギリス軍は、この島で、150隻以上の商船と、莫大な価値の商品を鹵獲し、島の商業機能を完全に破壊しました。これは、オランダ経済にとって、壊滅的な打撃となりました。
南米では、デメララ、エセキボ、ベルビセといったオランダ領ギアナの植民地が、次々とイギリスの手に落ちました。インドでは、ナーガパッティナムなどのオランダの商館が占領され、アフリカでは、黄金海岸の交易拠点が奪われました。
ヨーロッパの海においても、オランダ海軍は、イギリス海軍の海上封鎖によって、港に封じ込められることがほとんどでした。唯一の例外が、1781年8月に北海で起こったドッガー=バンクの海戦です。この海戦で、オランダ艦隊は、数的に優勢なイギリス艦隊を相手に、勇敢に戦い、引き分けに持ち込みました。この戦いは、オランダ国内では、かつての海軍の栄光を思い出させる、英雄的な戦いとして称賛されましたが、戦争全体の大勢に影響を与えるものではありませんでした。
結局、オランダは、戦争の全期間を通じて、イギリスの圧倒的な海軍力の前に、なすすべもなく敗北を重ねました。アメリカ独立戦争そのものは、1783年のパリ条約によって、アメリカの独立が承認される形で終結しましたが、イギリスとオランダの講和交渉は、その後も続きました。
パリ条約(1784年)とオランダの衰退
1784年、イギリスとオランダは、パリで講和条約を締結し、第四次戦争は正式に終結しました。この条約で、オランダは、インドにおける重要な交易拠点であったナーガパッティナムをイギリスに割譲させられました。さらに、イギリスに対して、東インド(インドネシア)の海域における自由な航行権を認めることを余儀なくされました。これは、VOC(オランダ東インド会社)が長年にわたって維持してきた香辛料貿易の独占が、事実上、終わりを告げたことを意味しました。
第四次イギリス=オランダ戦争は、オランダにとって、屈辱的な惨敗でした。この戦争は、オランダ共和国が、もはやヨーロッパの主要な大国ではないという事実を、内外に明確に示す結果となりました。戦争によって引き起こされた経済的な打撃と、政治的な混乱は、国内の「愛国派(パトリオッテン)」と、総督ウィレム5世を支持するオラニエ派との対立を激化させ、共和国を内乱状態へと導きました。そして、その混乱の末に、オランダは、フランス革命戦争の波に飲み込まれ、1795年、フランスの衛星国であるバタヴィア共和国として、その歴史に一旦幕を閉じることになります。
第四次戦争は、イギリスとオランダの、海洋帝国としての地位が、完全に入れ替わったことを象徴する、最後の戦いでした。かつての師であり、ライバルであったオランダを打ちのめした大英帝国は、その覇権を盤石なものとし、19世紀の「パックス=ブリタニカ」へと、その歩みを進めていくことになります。