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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 重商主義と啓蒙専制主義

イギリス=オランダ同君連合とは わかりやすい世界史用語2676

著者名: ピアソラ
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イギリス=オランダ同君連合とは

イギリス=オランダ同君連合は、名誉革命の結果として、オランダ総督ウィレム3世がイングランド王ウィリアム3世として即位したことにより、1689年から1702年までの期間、イングランド(後にスコットランドも含む)とネーデルラント連邦共和国(オランダ)が一人の君主を共有した状態を指します。
歴史の舞台では、時として、長年の敵対関係にあった二つの国家が、一人の人物の登場によって、劇的にその関係を転換させることがあります。17世紀後半のヨーロッパにおいて、まさにそのような運命的な転換を遂げたのが、イングランドとオランダでした。この二つのプロテスタント海洋国家は、世紀を通じて三度にわたる激しい戦争(イギリス=オランダ戦争)を繰り広げ、世界の海と貿易の覇権をめぐって血で血を洗うライバル関係にありました。しかし、1688年、イングランドで起こった「名誉革命」は、この長年の敵対関係に終止符を打ち、両国を「同君連合」という、かつては想像もできなかった緊密な関係へと導きました。
この同君連合の中心にいたのが、オランダ総督(統領)であったオラニエ公ウィレム3世、そして彼の妻でありイングランド王女であったメアリーでした。ウィレムは、オランダの独立とプロテスタント信仰を守るため、フランスの太陽王ルイ14世の膨張主義と生涯をかけて戦った不屈の政治家であり軍人でした。一方、イングランドでは、カトリック国王ジェームズ2世の専制的な統治とカトリック復興への動きが、議会と国民の間に深刻な危機感を生んでいました。この危機を打開するため、イングランドの有力者たちが白羽の矢を立てたのが、ジェームズ2世の娘メアリーの夫であり、プロテスタントの擁護者として国際的な名声を得ていたウィレムだったのです。
ウィレムがオランダ軍を率いてイングランドに上陸し、ジェームズ2世がフランスへ亡命するという、ほとんど血を流すことなく体制変革が成し遂げられたこの名誉革命の結果、ウィレムとメアリーはイングランドの共同統治者「ウィリアム3世とメアリー2世」として即位しました。これにより、ウィレムは、オランダ共和国の事実上の元首である総督と、イングランド王国の国王という、二つの異なる国家の指導者の地位を兼ねることになったのです。これが「イギリス=オランダ同君連合」の始まりでした。
この連合は、正式な国家統合ではなく、あくまで一人の君主を共有する「人的な結合」に過ぎませんでした。イングランドとオランダは、それぞれ独自の法、議会、政府、そして国益を持つ、独立した国家であり続けました。しかし、共通の君主、そして共通の敵であるルイ14世のフランスという存在は、両国の外交、軍事、さらには経済政策に、かつてないほどの一体性をもたらしました。かつて北海で砲火を交えた両国の海軍は、今や連合艦隊としてフランスに立ち向かい、アムステルダムとロンドンの金融市場は、対フランス戦争の莫大な戦費を賄うために、密接に連携し始めました。



名誉革命と同君連合の成立

イギリス=オランダ同君連合という、17世紀ヨーロッパの国際政治における画期的な出来事は、一朝一夕に生まれたものではありません。それは、イングランド国内の深刻な政治的・宗教的危機と、ヨーロッパ大陸におけるフランスの覇権拡大という、二つの大きな歴史の潮流が交差する点で発生した、必然的な帰結でした。その劇的な転換点となったのが、1688年の「名誉革命」です。
ジェームズ2世の治世

1685年、兄であるチャールズ2世の跡を継いでイングランド王に即位したジェームズ2世は、公然とカトリック教徒であることを宣言していました。プロテスタントが国教と定められ、国民の大多数もプロテスタントであったイングランドにおいて、カトリック国王の誕生は、それ自体が大きな不安要因でした。しかし、当初、多くの人々は、ジェームズ2世が高齢であり、彼の後継者が、プロテスタントである二人の娘、メアリーとアンであることから、彼の治世は一時的なものに過ぎないだろうと、静観の構えを見せていました。
しかし、ジェームズ2世の行動は、そうした楽観的な見方を打ち砕くものでした。彼は、国王大権を濫用し、議会の意向を無視して、カトリック教徒を政府や軍の要職に任命し始めます。カトリック教徒を公職から排除する「審査法」を、国王の特免権によって事実上無効化したのです。さらに、彼は、国内にカトリック教会や修道院を再建し、イエズス会士を宮廷に招き入れるなど、カトリック復興への強い意志を隠しませんでした。
1687年、ジェームズ2世は「信仰自由宣言」を発布します。これは、表向きにはカトリック教徒だけでなく、プロテスタントの非国教徒(長老派やクエーカー教徒など)にも信仰の自由を認めるという、寛容な政策に見えました。しかし、その真の狙いは、カトリック教徒の完全な解放と、国王の絶対的な権力を確立することにあると、多くの人々は見抜いていました。特に、この宣言を教会の説教壇で読み上げるよう命じられたイングランド国教会の主教たちがこれを拒否し、国王に反逆したとして裁判にかけられた「七主教事件」は、国王と国教会の対立を決定的なものにしました。主教たちが無罪判決を勝ち取った時、ロンドンの街は歓喜に沸き、国王の権威は大きく失墜しました。
そして1688年6月、事態を決定的に動かす出来事が起こります。ジェームズ2世の二番目の妃であり、カトリック教徒であったメアリー=オブ=モデナが、男子を出産したのです。ジェームズ=フランシス=エドワードと名付けられたこの王子の誕生は、イングランドにカトリック王朝が永続する可能性を、現実のものとしました。プロテスタントであるメアリーやアンに王位が継承されるという、最後の望みが絶たれたのです。この報道は、イングランドのプロテスタント支配層に、もはや猶予はないという、強烈な危機感をもたらしました。
ウィレム3世の決断と「プロテスタントの風」

このイングランドの危機的状況を、海峡の向こうから鋭い目で見つめていたのが、オランダ総督オラニエ公ウィレムでした。彼は、ジェームズ2世の長女メアリーの夫であり、彼自身もイングランド王チャールズ1世の孫にあたるという、イングランド王位継承権を持つ人物でした。しかし、彼の最大の関心事は、イングランドの王位そのものよりも、ヨーロッパの勢力均衡、すなわち、フランスのルイ14世の膨張主義をいかにして食い止めるかという点にありました。
ウィレムにとって、ジェームズ2世の親フランス・親カトリック政策は、悪夢そのものでした。イングランドがフランスの同盟国となれば、オランダは陸と海から挟み撃ちにされ、独立を維持することは極めて困難になります。彼は、イングランドをフランスから引き離し、自らが主導する反フランス大同盟に引き入れることが、オランダの安全保障にとって不可欠であると確信していました。
ジェームズ2世の王子誕生の直後、ウィレムのもとに、イングランドからの密使が訪れます。密書を携えてきたのは、イングランド議会の有力者たち、ホイッグ党とトーリー党の垣根を越えた7人の貴族(「不滅の七人」)でした。彼らは、ウィレムに対して、イングランドの宗教と自由を守るために、軍を率いてイングランドへ渡り、介入してくれるよう、正式に要請したのです。これは、ウィレムが待ち望んでいた「招待状」でした。
ウィレムは、この要請を受け、イングランドへの遠征を決断します。しかし、それは大きな賭けでした。オランダ国内の政治家たちを説得し、遠征のための莫大な資金と兵力を確保しなければなりません。また、オランダの主力軍が留守になる隙を、ルイ14世に突かれる危険性もありました。幸運にも、ルイ14世は、この時期、ドイツ方面でのプファルツ継承戦争に関心を集中させており、オランダへの直接攻撃をためらいました。
周到な準備の末、1688年11月、ウィレムは、約1万5千の兵士を乗せた、500隻以上からなる大艦隊を率いて、オランダを出航しました。艦隊の旗艦には、「私は維持する」というオラニエ家の標語と共に、「プロテスタントの宗教と議会の自由のために」というスローガンが掲げられていました。艦隊は、カトリック教徒が恐れる「教皇の風」(西風)ではなく、東からの追い風、後に「プロテスタントの風」と呼ばれる幸運な風に乗り、イギリス海峡を無事に渡りきり、イングランド南西部のトーベイに上陸しました。
無血の革命と共同統治の成立

ウィレムの上陸に対し、ジェームズ2世は軍を率いて迎え撃とうとしましたが、彼の軍隊からは、ジョン=チャーチル(後のマールバラ公)をはじめとする有力な指揮官や貴族たちが、次々とウィレムの側へと寝返っていきました。ジェームズ2世自身の次女アンまでもが、夫と共にウィレムの陣営に加わるに及び、ジェームズ2世は完全に孤立し、戦意を喪失しました。彼は、家族を連れてロンドンを脱出し、フランスのルイ14世のもとへ亡命しました。国王が戦わずして国外へ逃亡したことにより、イングランドは、大規模な内戦を回避することができたのです。これが、この革命が「名誉革命」または「無血革命」と呼ばれる所以です。
ジェームズ2世の亡命によって、イングランドの王位は空位となりました。議会(仮議会)は、今後の統治体制について協議を重ねました。当初、ウィレムを摂政とする案や、メアリーのみを女王とする案も出されましたが、ウィレムは、妻の臣下となることを拒否し、自らも国王としての権力を持つことを強く要求しました。最終的に、議会は、ウィレムとメアリーを、同格の共同統治者として王位に迎えることを決定しました。ただし、実質的な統治権は、主にウィレムが担うこととされました。
そして1689年2月、議会は、国王の権力を制限し、議会の権利と国民の自由を保障する「権利の宣言」を起草し、ウィレムとメアリーは、これを受諾した上で、正式にイングランド国王ウィリアム3世、女王メアリー2世として即位しました。この「権利の宣言」は、後に「権利の章典」として法制化され、イギリス立憲君主制の基礎を築く、極めて重要な文書となります。
こうして、オランダ総督ウィレムは、イングランド国王の地位を兼ねることになり、ここにイギリス=オランダ同君連合が成立しました。それは、イングランドにとっては、立憲君主制と議会主権への道を確固たるものにし、オランダにとっては、最大の脅威であったフランスに対抗するための、最も強力な同盟国を手に入れたことを意味しました。かつての商業的ライバルは、共通の君主と共通の敵のもと、新たなパートナーシップの時代へと足を踏み入れたのです。
同君連合下の統治と戦争

ウィリアム3世とメアリー2世の共同統治、そしてそれに伴うイギリス=オランダ同君連合の時代は、平和な時代の幕開けではありませんでした。むしろ、それはヨーロッパ全土を巻き込む、大規模な戦争の時代の始まりでした。ウィリアムの治世のほぼ全期間は、彼の生涯をかけた宿敵、フランスのルイ14世との戦いに捧げられました。この戦争は、同君連合下の両国の関係を規定し、その軍事、外交、そして財政に、深甚な影響を与えることになります。
大同盟戦争(九年戦争)

ウィリアムがイングランド王となった直接の目的は、イングランドを反フランス連合に引き入れ、ルイ14世の覇権主義を打ち砕くことでした。彼は即位後、ただちにその外交手腕を発揮し、1689年、イングランドとオランダを主軸として、神聖ローマ帝国(オーストリア)、スペイン、スウェーデン、サヴォイア公国など、ヨーロッパの主要国が参加する「アウクスブルク同盟」、後の「大同盟(グランド=アライアンス)」を結成します。これにより、ヨーロッパは、フランス対その他の国々という、大規模な対立の構図に突入しました。この戦争は、一般に「大同盟戦争」または「九年戦争」(1688年-1697年)として知られています。
戦争は、ヨーロッパ大陸のネーデルラント(現在のベルギー)、ライン川流域、イタリア、スペインといった広範な地域と、北アメリカ(ウィリアム王戦争として知られる)、そして海上を舞台に繰り広げられました。
ウィリアム3世は、自ら軍の総司令官として、毎年のように大陸へ渡り、フランドル地方でフランス軍と対峙しました。彼は、決して戦術の天才ではありませんでしたが、その不屈の精神力と粘り強さで、連合軍をまとめ上げ、フランスの猛攻を支え続けました。1692年のナミュール攻防戦や、1695年の第二次ナミュール攻城戦など、一進一退の激しい戦いが続きました。
一方、海上では、イングランドとオランダの連合艦隊が、フランス海軍と世界の海の支配をめぐって激突しました。1690年、ビーチー・ヘッドの海戦で連合艦隊はフランス海軍に敗北を喫し、一時的にイギリス海峡の制海権を失いますが、1692年のバルフルール岬とラ=オーグの海戦で決定的な勝利を収めます。この海戦で、フランスの主力艦隊は壊滅的な打撃を受け、ジェームズ2世をイングランドに帰還させるというフランスの計画は完全に頓挫しました。これにより、連合艦隊は、戦争の終結まで、制海権を確保することに成功しました。
この戦争は、アイルランドとスコットランドにも飛び火しました。カトリック教徒が多数を占めるアイルランドは、亡命したジェームズ2世を支持し、フランスの支援を受けて蜂起しました(ジャコバイト戦争)。1690年、ウィリアム3世は自らアイルランドに遠征し、ボイン川の戦いでジェームズ2世の軍を打ち破ります。この勝利は、ウィリアムの王位を安定させ、アイルランドにおけるプロテスタント支配を決定的なものにしました。スコットランドのハイランド地方でも、ジャコバイトの反乱が起こりましたが、これも鎮圧されました。
軍事国家の誕生

大同盟戦争は、それまでの戦争とは比較にならないほど、莫大な戦費を必要とする、消耗戦の様相を呈しました。この巨大な戦争マシンを維持するために、ウィリアム3世の政府は、国家の財政システムに、革命的な変革をもたらしました。これは「財政革命」と呼ばれ、近代的な「財政・軍事国家」としてのイギリスの基礎を築くことになります。
その中核をなしたのが、1694年に設立されたイングランド銀行でした。これは、政府に長期的な融資を行うことを目的とした、民間資本による中央銀行でした。政府は、イングランド銀行から低利で巨額の資金を借り入れ、その返済を、議会が承認する恒久的な税収によって保証しました。この「国債」というシステムの確立は、政府の資金調達能力を飛躍的に高め、フランスとの長期にわたる消耗戦を戦い抜くことを可能にしました。
この財政システムは、実は、オランダのアムステルダムで既に発展していた金融技術を、ロンドンに移植したものでした。ウィリアム3世と共にイングランドへ渡ってきたオランダの金融業者や、亡命ユグノー(フランスのプロテスタント)たちが、その知識と経験をロンドンにもたらしたのです。ロンドンは、アムステルダムと並ぶ、新たな国際金融センターとして、急速に台頭し始めました。
メアリー2世の死とウィリアム単独統治

ウィリアムが大陸で戦争に明け暮れている間、イングランド国内の統治は、主に女王メアリー2世が担っていました。彼女は、聡明で敬虔な人物であり、夫の不在中、巧みに国内の政治を運営し、国民からの人気も高かったといわれます。夫婦仲は良好で、政治的なパートナーとしても、互いに深く信頼し合っていました。
しかし、1694年の末、メアリー2世は天然痘に罹り、32歳の若さでこの世を去りました。最愛の妻であり、共同統治者であったメアリーの死は、ウィリアムに深い悲しみと衝撃を与えました。これ以降、ウィリアムは、単独でイングランドを統治することになります。
レイスウェイク条約とスペイン継承問題

九年にわたる戦争は、参戦したすべての国を疲弊させました。1697年、各国はオランダのレイスウェイク(ライスワイク)で和平交渉を行い、レイスウェイク条約を締結しました。この条約で、ルイ14世は、ウィリアム3世を正統なイングランド王として承認し、ジェームズ2世への支援を打ち切ることを約束しました。また、戦争中に占領した領土の大部分を返還し、オランダの国境防衛を強化するための要塞線(バリアー)を認めるなど、フランスは多くの譲歩を余儀なくされました。大同盟戦争は、ウィリアム3世が主導した反フランス連合の、戦略的な勝利に終わったのです。
しかし、平和は長くは続きませんでした。ヨーロッパには、次の巨大な紛争の火種がくすぶっていました。それは、子供のいないスペイン国王カルロス2世の死後、その広大な帝国(スペイン本国、南ネーデルラント、イタリアの領土、そして広大なアメリカ大陸の植民地)を誰が継承するのか、という「スペイン継承問題」でした。
ウィリアム3世は、スペインの遺産がフランスのブルボン家か、オーストリアのハプスブルク家のどちらか一方に渡れば、ヨーロッパの勢力均衡が崩壊することを恐れ、外交努力によって戦争を回避しようと試みました。彼は、フランスとの間で、スペイン領を分割する秘密条約を結びますが、この試みは、最終的に失敗に終わります。1700年、カルロス2世は、その全領土をルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップに譲るという遺言を残して死去しました。ルイ14世がこの遺言を受諾し、フィリップがスペイン王フェリペ5世として即位すると、フランスとスペインという二つの大国が、事実上、ブルボン家の下に統合されるという事態が現実のものとなりました。
ウィリアム3世は、この新たな脅威に対抗するため、再びオランダ、オーストリアと共に、新たな反フランス大同盟を結成します。しかし、このスペイン継承戦争の準備の最中であった1702年3月、ウィリアムは、落馬事故が原因で体調を悪化させ、51歳でこの世を去りました。彼には子供がいなかったため、イングランドの王位は、メアリーの妹であるアンに引き継がれました。そして、ウィリアムの死と共に、一人の君主がイングランドとオランダを結びつけていた「イギリス=オランダ同君連合」も、その幕を閉じたのです。
同君連合の遺産

ウィリアム3世の死によって、イギリス=オランダ同君連合は、わずか13年で終わりを告げました。しかし、この短い期間が、イギリス、オランダ、そしてヨーロッパ全体の歴史に残した影響は、計り知れないほど大きなものでした。それは、単なる人的な結合に留まらず、両国の政治、経済、文化のあり方を恒久的に変え、その後の世界のパワーバランスを決定づける、重要な転換点となったのです。
立憲君主制と財政革命

イギリスにとって、同君連合の時代は、名誉革命の成果を定着させ、近代国家としての骨格を形成する、極めて重要な時期でした。
第一に、立憲君主制と議会主権の確立です。ウィリアムとメアリーが、議会が定めた「権利の章典」を受諾して王位に就いたこと、そしてウィリアムが戦争遂行のために議会の財政的支援を必要としたことは、国王の権力が法と議会によって制限されるという原則を、揺るぎないものにしました。国王が議会の同意なしに法を停止したり、課税したり、常備軍を維持したりすることは、もはや不可能になりました。この原則は、その後のイギリス政治の根幹となり、現代に至る議会制民主主義の基礎を築きました。
第二に、「財政革命」と経済的繁栄です。大同盟戦争という巨大な国家事業を遂行するために生み出された、イングランド銀行の設立と国債システムは、イギリスに、他国を圧倒する強大な資金調達能力をもたらしました。これにより、イギリスは、18世紀を通じてフランスとの長期にわたる世界規模の戦争(第二次百年戦争)を戦い抜き、最終的に勝利を収めることができました。ロンドンは、アムステルダムから金融のノウハウを吸収し、やがてそれを凌駕する世界第一の金融センターへと発展していきます。この安定した財政基盤と金融システムは、後の産業革命を支える重要な土台ともなりました。
第三に、ヨーロッパ大陸への積極的な関与です。ウィリアム3世の登場以前、イギリスの外交政策は、しばしば孤立主義的で、揺れ動くものでした。しかし、ウィリアムは、イギリスをヨーロッパの勢力均衡を維持するための主要な担い手として、大陸の政治に深く関与させました。この「大陸への関与」という政策は、ウィリアム亡き後も、イギリス外交の基本路線として受け継がれ、18世紀から19世紀にかけての「大英帝国」の覇権戦略の根幹を形成しました。
「黄金時代」の終焉

一方、オランダにとって、同君連合がもたらした影響は、より複雑で、光と影の両面を持つものでした。
最大の功績は、国家の安全保障の確立です。ウィリアム3世がイギリスの王位に就き、その強大な海軍力と財政力を反フランス同盟に引き入れたことで、オランダは、ルイ14世による侵略の脅威から、その独立を守り抜くことができました。もし名誉革命がなければ、オランダは、フランスの圧力の前に、いずれ屈服していた可能性が高いです。
しかし、その代償もまた、大きなものでした。大同盟戦争とそれに続くスペイン継承戦争において、オランダは、連合軍の陸軍の主力を担い、その国力を著しく消耗しました。莫大な戦費は国家財政を圧迫し、かつて世界を席巻した経済的な活力は、徐々に失われていきました。
さらに、同君連合は、イギリスとオランダの力関係を、決定的に逆転させる契機となりました。17世紀には、経済力、海軍力、金融技術のいずれにおいても、オランダはイギリスの「先輩」であり、ライバルでした。しかし、同君連合の時代を通じて、イギリスは、オランダの持つ進んだシステムやノウハウを驚異的な速さで吸収し、それを自国のより大きなスケールと結びつけることで、オランダを凌駕していきました。金融の中心はアムステルダムからロンドンへ移り、世界の海の支配権も、オランダ海軍からイギリス海軍へと、その主役が交代していきました。同君連合は、オランダにとっては、イギリスという強力なパートナーを得る一方で、自らが「ジュニア=パートナー(下位の協力者)」へと転落していく過程の始まりでもあったのです。オランダの「黄金時代」は、実質的に、この時代をもって終わりを告げたといえます。
ヨーロッパ史における意義

ヨーロッパ全体の歴史という、より広い文脈で見れば、イギリス=オランダ同君連合の最大の意義は、フランスの覇権確立を阻止し、ヨーロッパにおける「勢力均衡(バランス=オブ=パワー)」の原則を確立した点にあります。
ルイ14世のフランスは、その強大な軍事力と経済力を背景に、ヨーロッパ大陸に普遍的な君主制(ユニバーサル=モナーキー)を打ち立てる一歩手前まで迫っていました。もしイギリスがフランスの側に立つか、あるいは中立を保っていたならば、この動きを止めることはできなかったでしょう。ウィリアム3世が、イギリスとオランダという二つの海洋大国を束ねて、反フランス連合の中核を形成したことによって、初めてルイ14世の野心に対抗する、持続可能で強力なブロックが形成されたのです。
この同君連合が主導した大同盟戦争とスペイン継承戦争の結果、フランスの膨張は食い止められ、ヨーロッパは、一つの超大国が支配するのではなく、複数の大国が互いに牽制し合うことで安定を保つという、近代的な国際関係のシステムへと移行していきました。この「勢力均衡」という考え方は、その後のヨーロッパ外交の基本原則となり、ナポレオン戦争後のウィーン体制など、後の国際秩序を形作っていく上で、重要な役割を果たし続けることになります。
結論として、イギリス=オランダ同君連合は、単なる二国間の関係に留まらず、イギリスの国内体制を近代化し、オランダの国際的地位を変化させ、そしてヨーロッパ全体の国際秩序を再編するという、多岐にわたる深遠な影響を及ぼした、歴史の重要な結節点でした。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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