議会(地方)派とは
17世紀のイングランドを揺るがしたピューリタン革命、すなわちイングランド内戦は、国王と議会の間の壮絶な権力闘争でした。この歴史的な対立において、国王チャールズ1世に反旗を翻し、最終的に勝利を収めたのが「議会派」です。彼らはしばしば「円頂党員(ラウンドヘッド)」という、髪を短く刈り込んだ質素な外見を揶揄するあだ名で呼ばれました。しかし、この呼称の裏には、イングランドの政治と宗教のあり方を根本から変えようとする、多様で複雑な動機を持つ人々の姿がありました。議会派は、単一の思想で統一された集団ではありません。その中には、国王の権力を法によって制限しようとする穏健な立憲君主主義者から、君主制そのものを否定し、より急進的な共和制や宗教的自由を求める者まで、幅広いスペクトラムが存在しました。彼らを結びつけていたのは、スチュアート朝の国王、特にチャールズ1世が進める絶対主義的な統治と、国教会におけるカトリック的と見なされた改革への強い反発でした。議会派の物語は、イングランドにおける議会主権、法の支配、そして信教の自由といった近代的な原則が、いかにして血と鉄の中から生まれ出たかを探る旅です。
起源
議会派の形成は、一朝一夕に起こったものではありません。その根は、スチュアート朝の治世を通じて、イングランド社会の深層で進行していた政治的、宗教的、そして社会経済的な緊張関係にありました。チャールズ1世と議会が最終的に武力衝突に至るまでには、数十年にわたる不信と対立の積み重ねがあったのです。
政治的背景
議会派の抵抗の核心には、イングランド古来の「国制」、すなわち国王、貴族院、庶民院がそれぞれバランスを取りながら統治を行うという考え方がありました。この伝統的な国制観と、スチュアート朝の君主たちが掲げた「王権神授説」とが、真っ向から衝突したのです。ジェームズ1世とチャールズ1世は、自らの権威は神から直接与えられたものであり、地上の法や議会には拘束されないと主張しました。
この絶対主義的な思想は、議会の権利と特権、特に課税承認権に対する直接的な挑戦と受け取られました。中世以来、国王が新たな税を課す際には、国民の代表である議会の同意を得るのがイングランドの慣習でした。しかし、チャールズ1世は、1629年から11年間にわたる「個人統治」の期間中、議会を開かずに船税の全国徴収など、様々な手段で資金を調達しました。これは、多くのジェントリや商人にとって、自らの財産権が国王の意のままに侵害される危険性を示すものでした。ジョン・ハムデンのような人物が船税の支払いを拒否して法廷で争ったことは、国王の恣意的な統治に対する抵抗の象徴となりました。
さらに、国王が星室庁裁判所のような、コモン・ロー(普通法)のシステムから独立した大権裁判所を用いて政敵を弾圧したことも、法の支配が脅かされているという危機感を増幅させました。エドワード・コークのような高名な法律家は、コモン・ローの優位を説き、国王といえども法の下にあるべきだと主張しました。議会派の多くは、このコークの思想を受け継ぎ、自分たちを、暴政に立ち向かい、イングランド国民の古来からの自由と権利を守る「愛国者」であると位置づけていたのです。
宗教的背景
政治的な対立以上に、人々の心を動かし、議会派の結束を強固にしたのが宗教問題でした。議会派の精神的な支柱となったのが、ピューリタニズムです。ピューリタンは、イングランド国教会に未だ残存していると彼らが考えるカトリック的な要素、例えば華美な儀式、祭壇、聖職者の祭服などを徹底的に排除し、聖書に基づいた純粋なプロテスタント教会を樹立することを目指しました。
チャールズ1世と、彼が重用したカンタベリー大主教ウィリアム・ロードは、ピューリタンとは正反対の方向に教会改革を進めました。ロードは、アルミニウス主義の神学に基づき、儀式の重要性や聖職者の権威を強調し、教会内に「美と秩序」を回復しようとしました。祭壇を教会の東端に移動させて手すりで囲むといった彼の政策は、ピューリタンにとって、カトリックのミサを連想させるものであり、到底受け入れがたい「偶像崇拝」でした。彼らは、ロードの改革を、イングランドをローマ・カトリックの支配下に戻そうとする「ポープリー(教皇主義)の陰謀」の一環であると信じて疑いませんでした。
ピューリタンの多くは、個人の信仰と思索を重んじ、聖書を自ら読み解くことを奨励しました。彼らは、安息日を厳格に守り、道徳的な生活を送ることを重視する、禁欲的な倫理観を持っていました。この価値観は、チャールズ1世の宮廷文化の華やかさや、王党派(キャヴァリア)の陽気で世俗的なライフスタイルとは全く相容れないものでした。
議会、特に庶民院は、こうしたピューリタンの思想を持つジェントリや商人の牙城となっていました。ジョン・ピム、オリバー・クロムウェルといった議会派の指導者たちは、皆、敬虔なピューリタンであり、彼らの政治行動は、神の意思をこの地上で実現するという強い宗教的確信に裏打ちされていました。彼らにとって、国王との戦いは、単なる政治闘争ではなく、真の宗教を守り、アンチキリストの勢力と戦う「聖戦」としての意味合いを帯びていたのです。
社会的・経済的背景
議会派の支持基盤は、イングランド社会の比較的新しい、勃興しつつある階層にありました。その中心は、ジェントリ(郷紳)階級です。特に、貴族階級に属さない中小のジェントリの多くが議会派を支持しました。彼らは、自らの土地を効率的に経営し、農業の商業化などを通じて経済力を高めていました。彼らは、地方行政の担い手として治安判事などを務め、高い識字率と政治意識を持っていました。彼らにとって、国王の恣意的な課税や独占権の乱発は、自らの経済活動を阻害するものであり、議会こそが自分たちの利益を代弁してくれる存在だと考えていました。
また、ロンドンをはじめとする都市部の商人、職人、そして法律家といった専門職層も、議会派の強力な支持者でした。特にロンドンは、イングランドの商業と金融の中心地であり、その経済力は議会派にとって最大の武器となりました。ロンドンの商人たちは、国王の経済政策に不満を抱き、ピューリタニズムに深く共鳴していました。内戦が始まると、ロンドン市は議会に巨額の資金を提供し、その市民は民兵隊(トレインド・バンド)を組織して首都を防衛し、議会軍の重要な戦力となりました。
さらに、イングランド南東部や東部(イースタン・アソシエーション)といった、商業的に先進し、織物工業などが盛んで、大陸のプロテスタントとの交流が深かった地域は、議会派の強固な地盤となりました。これらの地域では、ピューリタニズムが深く浸透しており、人々は自発的に議会の理念を支持しました。このように、議会派の力は、伝統的な封建的社会構造が弱まり、新しい経済と文化が発展していた地域に根差していたのです。
構成
議会派は、王党派以上に多様な背景を持つ人々の連合体でした。彼らを結びつけていたのは国王チャールズ1世への反発という共通項でしたが、目指すべき国家の姿については、当初から様々な意見が存在し、その内部分裂は、やがて革命の行方を大きく左右することになります。
指導者たち
内戦初期の議会派を率いたのは、ジョン・ピム、ジョン・ハムデンといった、長年にわたり議会で国王と対決してきたベテランの政治家たちでした。特にジョン・ピムは、「ピム王」とあだ名されるほどの卓越した議会戦術家であり、長期議会の初期において、大諫議書の提出や国王側近の弾劾を主導し、議会派の結束を固めました。彼は、国王の陰謀を巧みに利用して世論を動かし、議会の権威を高めることに貢献しましたが、内戦の半ばで病死しました。
彼ら第一世代の指導者に代わって台頭したのが、オリバー・クロムウェルです。彼は、イースト・アングリア出身の中流ジェントリで、庶民院では当初目立たない存在でしたが、敬虔な信仰心と、何よりも卓越した軍事の才能によって、急速に頭角を現しました。彼は、自ら組織した「鉄騎隊」を率いてマーストン・ムーアの戦いで勝利を決定づけ、ニューモデル軍の創設を主導しました。彼の現実的な政治手腕と、神の摂理を信じる宗教的確信の組み合わせは、彼を革命の最も強力な推進力へと押し上げていきました。
他にも、ニューモデル軍の総司令官であり、クロムウェルの上官であったサー・トマス・フェアファクス、軍の理論家であり急進派の指導者であったヘンリー・アイアトン(クロムウェルの娘婿)、そして共和政の理念を追求したヘンリー・ヴェイン(若卿)など、多彩な人物が議会派の指導部に名を連ねていました。
宗教的党派
議会派の内部は、目指すべき教会の姿をめぐって、主に三つのグループに分かれていました。
第一は「長老派(プレスビテリアン)」です。彼らは議会派内の多数派であり、特に内戦初期において主導的な役割を果たしました。彼らは、国王が首長である主教制を廃止し、それに代わって、スコットランドの教会をモデルとした、全国的に統一された長老制教会を設立することを目指しました。長老制とは、各教区の信徒が選んだ長老(プレスビター)が教会を運営し、地域の教会会議(プレスビテリー)、さらに全国教会会議(ジェネラル・アセンブリー)へと続く、階層的な教会統治システムです。彼らは、国教会の統一性を維持し、急進的な宗派が乱立することによる社会の混乱を恐れていました。そのため、他の宗派に対する寛容さには欠けており、国家による教会の統制を重視しました。
第二は「独立派(インディペンデンツ)」です。オリバー・クロムウェルやヘンリー・アイアトンがこのグループに属していました。彼らは、全国的に統一された教会制度には反対し、各個の教会(会衆)が、外部の権威から独立して、自らの聖職者を選び、教会の規律を定める権利を持つべきだと考えました(会衆制)。彼らは、長老派よりも信教の自由に対して寛容であり、平和的に活動する限り、様々なプロテスタント宗派が共存することを認めようとしました。この独立派の思想は、ニューモデル軍の兵士たちの間で広く支持されていました。軍隊には、様々な宗派に属する人々が集まっており、彼らにとって、自らの信仰の自由を守ることは、戦うための重要な動機だったのです。
第三は、独立派からさらに分かれた、より急進的な「分離派(セパラティスツ)」や様々な宗派です。バプテスト、クエーカー、第五王国派といったグループがこれに含まれます。彼らは、国家と教会は完全に分離されるべきだと考え、幼児洗礼を否定したり、内なる光による神の啓示を重視したりと、既存の教会制度から完全に離脱することを目指しました。彼らは、完全な信教の自由と、時には社会的な平等を求め、革命が進行するにつれて、その影響力を増していきました。
政治的党派
宗教的な対立は、政治的な立場の違いとも密接に結びついていました。内戦の過程で、議会派は政治的にも分裂していきます。
内戦初期の多数派は、あくまで国王との和解を目指す「和平派」でした。彼らの多くは宗教的には長老派であり、国王の権力を法によって制限し、長老制教会を設立すれば、チャールズ1世を王位に戻すことも可能だと考えていました。彼らは、戦争の長期化と、それに伴う社会の混乱や軍隊の急進化を恐れていました。
これに対し、クロムウェルらを中心とする「戦争派」は、国王との妥協は不可能であり、軍事的な完全勝利によってのみ、革命の成果を守ることができると考えていました。彼らの多くは宗教的には独立派であり、国王の不誠実さを目の当たりにして、彼を信頼することはできないと判断していました。
さらに、ニューモデル軍の兵士や下士官、そしてロンドンの市民の間からは、より急進的な政治思想を持つ「レヴェラーズ(水平派)」が登場しました。ジョン・リルバーンらを指導者とするこの運動は、イングランドで最初の民主主義的な政治運動と見なされています。彼らは、「人民協定」と呼ばれる憲法草案の中で、男子普通選挙権、議会の定期的開催、法の下の平等、そして完全な信教の自由といった、当時としては画期的な要求を掲げました。彼らは、主権は国王や議会ではなく、人民にあると主張し、軍の高級将校(グランドディー)たちと、兵士の代表(アジテーター)が対等に議論したパトニー討論(1647年)で、その思想を鮮明にしました。クロムウェルやアイアトンといった軍の指導者たちは、財産を持たない者にまで選挙権を与えるという彼らの要求は、社会秩序を破壊するものとして拒絶しました。
このように、議会派は、国王という共通の敵に対しては結束しましたが、その内部には、目指すべき社会の姿をめぐる深刻な亀裂を抱えており、この亀裂は、国王を打ち破った後、さらに顕在化していくことになります。
思想と文化
議会派、特にその中核をなしたピューリタンの文化は、しばしば王党派(キャヴァリア)の華やかで陽気な文化と対比され、厳格で禁欲的、そして芸術に無関心なものとして描かれがちです。しかし、このステレオタイプは、彼らの豊かで複雑な内面世界の一面しか捉えていません。彼らの文化は、深い宗教的確信と、知的な探求心、そして自らの信念を世界に変革する力として用いようとする、強烈な意志に貫かれていました。
ラウンドヘッドのイメージ
「ラウンドヘッド(円頂党員)」というあだ名は、王党派が、議会派の支持者、特にロンドンの徒弟たちが髪を短く刈り込んでいたことを嘲笑して付けたものです。王党派の貴族たちが長くカールした髪を誇っていたのとは対照的に、この短髪は、質素で実用的なピューリタンの価値観を象徴していました。彼らは、服装においても、王党派が好んだサテンやレースの華美な装飾を避け、黒や茶色といった地味な色合いの、丈夫で実用的な衣服を好みました。
この質素な外見は、彼らの内面的な価値観の現れでした。ピューリタンは、虚飾や贅沢を、神から与えられた時間と資源の無駄遣いであり、魂を堕落させるものと考えました。彼らは、勤勉、倹約、そして自己規律を美徳とし、日々の労働を神から与えられた召命(コーリング)として捉えました。この労働倫理は、彼らが商人や自営農民として経済的な成功を収める上での精神的な支柱ともなりました。
彼らは、王党派が楽しんだ演劇、メイポール・ダンス、そして過度な祝祭などを、異教的で不道徳なものとして非難しました。1642年、議会は国内の全ての劇場を閉鎖する布告を出しました。これは、彼らが芸術そのものを憎んでいたというよりは、当時の劇場がしばしば不道徳な内容を含み、人々を怠惰と放蕩に誘う場所であると考えていたためです。
宗教生活と知性
議会派の文化の中心にあったのは、強烈な宗教的情熱でした。彼らの生活は、聖書を中心に回っていました。彼らは、毎日聖書を読み、その教えについて瞑想し、家族で祈りを捧げることを日課としていました。彼らにとって、聖書は神の言葉そのものであり、信仰と生活のあらゆる側面における唯一絶対の指針でした。このため、識字率は彼らにとって極めて重要であり、ピューリタンの家庭では、子供たちに読み書きを教えることが熱心に行われました。
彼らは、長い説教を熱心に聴くことを好みました。優れた説教師は、コミュニティの中で大きな影響力を持ち、彼らの説教は、人々の宗教的な情熱を掻き立て、政治的な意識を形成する上で重要な役割を果たしました。彼らは、自らの人生を、神の摂理(プロヴィデンス)が展開する壮大なドラマの一部として捉えていました。内戦における勝利や敗北、個人的な幸運や不運など、あらゆる出来事を、神が与えた試練や祝福として解釈しようとしました。オリバー・クロムウェルの書簡や演説には、この神の摂理への深い信頼が随所に見られます。
彼らの知性は、決して盲信的なものではありませんでした。ピューリタニズムは、ケンブリッジ大学などを中心とした、高度な学問的伝統の中から生まれてきました。多くのピューリタン指導者は、古典や神学に関する深い教養を身につけていました。彼らは、論理的な思考と、緻密な議論を重んじ、自らの主張を聖書や歴史から裏付けようとしました。ジョン・ミルトンのような人物は、その代表例です。彼は、深い古典の素養と、ピューリタンとしての敬虔な信仰心を兼ね備え、革命の大義を擁護するためにその雄弁な筆を振るいました。
ジョン=ミルトンと革命の擁護
詩人ジョン・ミルトンは、議会派の理念と文化を最も高尚な形で体現した人物です。彼は、内戦が始まると、詩作を中断し、自らを「左手で」散文を書く者として、革命の大義に身を投じました。彼は、ラテン語長官としてコモンウェルスのために働き、パンフレットを通じて、検閲からの自由、離婚の権利、そして何よりも国王の処刑の正当性を訴えました。
彼の最も有名な散文作品である『アレオパジティカ』(1644年)は、出版の自由を擁護した力強い論説です。彼は、真理は、自由で開かれた言論の場で、誤りと対決することによってのみ、その力を証明することができると主張しました。「真理と偽りをがっぷり四つに組ませてみよ。自由で開かれた対決の場で、真理が打ち負かされることなどありえようか」。この言葉は、検閲を正当化しようとする長老派への批判であり、後世の言論の自由の思想に計り知れない影響を与えました。
国王の処刑後、彼は『国王と為政者の保有権』や『エイコノクラステス(偶像破壊者)』といった著作で、暴君を打倒し、処刑することは、自由な人民に与えられた正当な権利であると論じました。彼は、チャールズ1世を殉教者として描いた王党派のプロパガンダ本『エイコーン・バシilikē』に反論し、国王の偶像を打ち砕こうとしました。
ミルトンの思想は、ピューリタンの知性が到達した一つの頂点を示しています。それは、神への信仰が、人間理性の探求や、市民的自由の擁護と決して矛盾するものではなく、むしろそれらを力強く支える基盤となりうることを証明したのです。彼の壮大な叙事詩『失楽園』は、王政復古後の失意の中で書かれましたが、その中には、自由意志、権威への抵抗、そして神の正義といった、革命の時代に彼が格闘したテーマが壮麗なスケールで織り込まれています。
軍事
イングランド内戦における議会派の最終的な勝利は、その優れた軍事組織と指導力、そしてそれを支えた経済力と宗教的情熱の賜物でした。当初は寄せ集めの素人集団に過ぎなかった議会軍は、戦争の過程で学習と改革を重ね、やがてヨーロッパで最も恐れられる戦闘機械へと変貌を遂げていきます。
初期の苦戦
1642年に内戦が勃発した当初、議会派はいくつかの重要な利点を持っていました。彼らは、首都ロンドンと、それに伴う行政機構、そしてイングランド最大の港を掌握していました。海軍のほとんどが議会派についたため、海上を支配し、王党派が大陸から援助を受けるのを妨害することができました。また、経済的に最も豊かな南東部を地盤としていたため、戦争遂行のための資金調達能力においても、王党派より優位に立っていました。
しかし、陸軍の戦闘能力においては、当初、王党派に劣っていました。議会軍の兵士の多くは、ロンドンの民兵隊(トレインド・バンド)や、各州が提供した経験の浅い兵士たちでした。指揮官も、エセックス伯やマンチェスター伯といった貴族が中心でしたが、彼らは国王との全面対決をためらい、戦争指導はしばしば消極的で一貫性を欠きました。
一方、王党派には、大陸の三十年戦争で実戦経験を積んだプリンス・ルパートのような優れた騎兵指揮官がいました。1642年のエッジヒルの戦いでは、ルパートの騎兵隊の猛攻の前に議会軍の翼は崩壊し、議会派は辛うじて全面的な敗北を免れました。1643年には、王党派が西部と北部で勝利を重ね、議会派は防戦一方の苦しい状況に追い込まれました。
東部連合とクロムウェルの台頭
この苦境の中で、議会派の反撃の核となったのが、イースト・アングリアの諸州が形成した「東部連合(イースタン・アソシエーション)」でした。この地域は、ピューリタニズムが深く根付いており、議会への支持が極めて強固でした。彼らは、自主的に軍隊を組織し、資金を調達して、議会派の最も信頼できる戦力となりました。
この東部連合軍の中から頭角を現したのが、オリバー・クロムウェルでした。彼は、自らの選挙区であるケンブリッジシャーで騎兵隊を組織しました。彼は、兵士を選ぶ際に、その社会的地位ではなく、信仰心と能力を重視しました。「私は、何を戦っているかを知り、知っていることを愛する、そのような素朴で敬虔な男たちを兵士として集めたい」。彼は、自らが選んだ兵士たちを厳格な規律と徹底した訓練で鍛え上げ、彼らに聖書を配り、共に祈りを捧げることで、その士気を高めました。彼の部隊は、その無敵の強さから「鉄騎隊(アイアンサイズ)」と恐れられるようになりました。
鉄騎隊の真価が発揮されたのが、1644年のマーストン・ムーアの戦いです。この戦いで、クロムウェルの騎兵隊は、プリンス・ルパートの騎兵隊と互角に渡り合っただけでなく、敵を打ち破った後も、王党派の騎兵のように統制を失って略奪に走ることなく、再編成して戦場に戻り、王党派の歩兵を背後から攻撃して勝利を決定づけました。この「規律ある突撃」は、クロムウェルの軍事思想の核心であり、後のニューモデル軍の戦術の基礎となりました。
ニューモデル軍の創設
マーストン・ムーアの勝利にもかかわらず、議会派の戦争指導部は、依然としてエセックス伯ら和平派の貴族たちの影響下にあり、決定的な勝利を掴みきれずにいました。クロムウェルら戦争派は、この状況を打破するために、軍隊の抜本的な改革を断行します。
1645年初頭、議会は二つの重要な法案を可決しました。一つは「辞退条例」で、これにより国会議員は軍の指揮官を兼ねることが禁じられました。これは、表向きは軍務と議員の職務の分離を目的としていましたが、その真の狙いは、エセックス伯やマンチェスター伯といった、戦争に消極的な貴族司令官を軍から排除することにありました。クロムウェル自身は、その卓越した能力を惜しまれ、特例として指揮権を保持し続けました。
もう一つが、「ニューモデル軍条例」です。これにより、それまでの各州の民兵や連合軍を統合し、議会が直接資金を供給し、中央で一元的に指揮する、全国規模の常備軍「ニューモデル軍」が創設されました。これは、イングランド史上初の本格的な国軍でした。総司令官には、有能で人望の厚いサー・トマス・フェアファクスが、そして騎兵総監(中将)にはクロムウェルが任命されました。
ニューモデル軍は、約2万2千人の兵力からなり、歩兵、騎兵、竜騎兵、砲兵で構成されていました。兵士たちは、赤い軍服で統一され(レッドコートの起源)、定期的に給与が支払われました。何よりも、彼らは鉄騎隊をモデルとした厳格な規律と、ピューリタンとしての宗教的情熱によって結束していました。彼らは、自らを神の道具と信じ、地上に正義を打ち立てるために戦っているという強い使命感を持っていました。
ネイズビーの勝利と内戦の終結
ニューモデル軍の威力は、創設後すぐに証明されました。1645年6月14日、ネイズビーの戦いで、ニューモデル軍はチャールズ1世率いる王党派の主力軍と激突しました。戦いは、王党派の猛攻で始まり、プリンス・ルパートの騎兵が、対峙した議会軍の騎兵部隊(ヘンリー・アイアトンが指揮)を打ち破りました。しかし、ルパートの騎兵はまたしても勝利に酔って追撃に深入りし、戦場から離脱してしまいます。
一方、戦場の反対翼では、クロムウェル率いる騎兵隊が、王党派の騎兵を粉砕しました。そして、マーストン・ムーアの時と同様、クロムウェルは部隊を完全に掌握し、向きを変えて王党派の中央、すなわち歴戦の歩兵部隊の側面に襲いかかりました。フェアファクス率いる議会軍の歩兵も正面から猛攻をかけ、王党派の歩兵は完全に包囲され、降伏を余儀なくされました。
ネイズビーの戦いは、第一次内戦の帰趨を決する決定的な勝利でした。王党派の主力野戦軍は壊滅し、二度と立ち直ることはありませんでした。この後、ニューモデル軍は、イングランド西部に残っていた王党派の残存部隊を掃討し、ブリストルやオックスフォードといった王党派の拠点を次々と陥落させていきました。1646年、チャールズ1世がスコットランド軍に投降したことで、第一次内戦は議会派の完全勝利に終わりました。ニューモデル軍は、その卓越した戦闘能力と規律によって、イングランドの運命をその手に握ることになったのです。
分裂と急進化
第一次内戦の勝利は、議会派に共通の敵を失わせ、それまで水面下にあった内部の対立を一気に表面化させました。勝利者である議会と軍は、戦後の国家体制と宗教のあり方をめぐって激しく対立し、革命はさらに急進的な、誰も予想しなかった方向へと進んでいきます。
議会と軍の対立
戦争が終結すると、議会の多数派を占める長老派は、国家の秩序を早急に回復しようと動きました。彼らは、二つの大きな脅威を感じていました。一つは、国王チャールズ1世との交渉がまとまらないこと。もう一つは、宗教的・政治的に急進化したニューモデル軍の存在そのものでした。
長老派は、軍を危険な存在と見なし、その解体を試みました。彼らは、軍の大部分を解散し、一部のみをアイルランドの反乱鎮圧に派遣することを決定しました。さらに、兵士たちに支払われるべき多額の未払い給与を清算しないまま、解散を強行しようとしました。
これに対し、ニューモデル軍の兵士たちは激しく反発しました。彼らは、自らの代表として「アジテーター(扇動者、代表委員)」を選出し、クロムウェルやアイアトンといった高級将校(グランドディー)たちに不満を訴えました。兵士たちは、未払い給与の支払いと、内戦中の行為に対する免責が保証されない限り、解散には応じないと主張しました。さらに、彼らは、自分たちが血を流して勝ち取った信教の自由が、長老派の画一的な教会制度によって脅かされることを恐れていました。
1647年6月、軍と議会の対立は決定的な局面を迎えます。ジョイスという一介の士官が、独断で兵を率い、議会が軟禁していたチャールズ1世の身柄を確保し、軍の管理下に移してしまいました。これは、軍がもはや議会の統制下にはなく、独立した政治勢力として行動することを明確に示すものでした。クロムウェルは、当初は兵士たちの動きに慎重でしたが、最終的には軍と運命を共にすることを選び、軍の指導者として議会と対峙しました。軍は「軍の声明」を発表し、議会の浄化と、兵士たちの要求が満たされるまでの解散拒否を宣言。そして、ロンドンへと進軍し、長老派の指導者たちを議会から追放しました。これにより、政治の主導権は、議会から完全に軍の手へと移ったのです。
パトニー討論とレヴェラーズ
軍が政治の主役となる中で、その内部でも深刻な思想的対立が起こりました。兵士たちの間では、ジョン・リルバーンらが主導する「レヴェラーズ(水平派)」の思想が急速に広まっていました。彼らは、単なる給与問題だけでなく、イングランドの政治体制そのものの根本的な改革を求めていました。
1647年秋、ロンドン郊外のパトニーで、軍の将来を討議するための軍事会議が開かれました。この「パトニー討論」では、クロムウェルやアイアトンといった高級将校たちと、兵士や下士官の代表、そしてレヴェラーズの民間人代表が、イングランド初の憲法草案である「人民協定」をめぐって、白熱した議論を交わしました。
レヴェラーズは、主権は人民にあり、全ての権力は人民の同意に基づくべきだと主張しました。彼らは、財産資格によらない21歳以上の全ての男子による普通選挙権、議会の権限の明確化、そして法の下の平等を要求しました。兵士の代表であるトマス・レインズボローは、「最も貧しい者も、最も偉大な者と同じように生きる人生を持っている。それゆえ、政府のもとに身を置く全ての人間は、まず自らの同意を表明すべきである」と述べ、普通選挙権を力強く擁護しました。
これに対し、アイアトンは、選挙権は土地や財産といった「この王国における恒久的な固定の利害」を持つ者に限定されるべきだと反論しました。彼は、財産を持たない者にまで選挙権を認めれば、彼らは多数の力で私有財産制度そのものを破壊しようとするだろうと警告しました。クロムウェルは、両者の調停に努めましたが、基本的にはアイアトンの立場を支持し、レヴェラーズの要求は無政府状態を招くものとして退けました。
パトニー討論は、最終的に合意に至らず、国王の逃亡によって中断されましたが、近代史上初めて、民主主義、主権、選挙権といった根本的な政治問題が、兵士と将軍によって公然と議論された場として、極めて重要な意味を持っています。それは、革命が、もはや国王と議会の間の権力闘争に留まらず、イングランド社会のあり方そのものを問う、より深い社会変革へと向かっていることを示していました。
国王の処刑
パトニー討論の直後、チャールズ1世はハンプトン・コートの軟禁先から脱出し、ワイト島へと逃れました。そこで彼は、スコットランドと密約を結び、第二次内戦を引き起こします。この国王の裏切り行為は、軍の兵士たちを激怒させ、彼との和解の望みを完全に断ち切らせました。軍の祈祷集会では、チャールズを「血にまみれた男」として裁きにかけることが決議されました。
第二次内戦に勝利した軍は、もはや躊躇しませんでした。1648年12月、トマス・プライド大佐率いる部隊が議会を封鎖し、国王との和解交渉を進めていた長老派の議員約140名を議場から追放しました(プライドのパージ)。残された50~60名の議員からなる議会は「ランプ議会(残りかす議会)」と呼ばれ、完全に軍の意のままに動くようになりました。
ランプ議会は、軍の要求に従い、国王チャールズ1世を「イングランドの人民に対して戦争を仕掛けた反逆者、殺人者、そして公敵」として裁くための高等裁判所を設置する法律を可決しました。
1649年1月、イングランド史上、そしてヨーロッパ史上前代未聞の、現職の君主に対する裁判が始まりました。チャールズ1世は、一貫して法廷の権威を認めず、「私は法の上に立つ一人の王として、神からこの民を託された。したがって、私は神の信頼に応え、民の自由と権利を守る義務がある」と主張し、自らを裁くことは法の支配そのものを破壊する行為だと訴えました。しかし、判決は初めから決まっていました。1月27日、裁判所はチャールズに死刑を宣告。そして1月30日、ホワイトホール宮殿の前に設えられた断頭台の上で、国王は斧の一振りによって首を落とされました。
国王の処刑は、議会派の勝利の頂点であると同時に、その分裂を決定的にする出来事でもありました。多くのイングランド国民にとって、たとえ国王が暴君であったとしても、神によって聖別された君主を処刑することは、神の秩序に対する恐るべき冒涜でした。この行為は、革命を後戻りできない地点へと進め、議会派の中から穏健派を遠ざけ、軍と急進派の影響力を絶対的なものにしたのです。
共和政の実験
国王の処刑によって、イングランドの伝統的な国制=国王、貴族院、庶民院=は崩壊しました。権力を掌握したランプ議会とニューモデル軍の指導者たちは、前人未到の領域に足を踏み入れ、君主制なき国家、すなわち共和政の建設という壮大な実験に乗り出しました。
コモンウェルスの成立
1649年5月、ランプ議会はイングランドが「コモンウェルス(共和国)」であることを宣言し、君主制と貴族院の廃止を正式に決定しました。立法権は、一院制となった庶民院(ランプ議会)が保持し、行政権は、議員の中から選ばれた41名からなる国務会議が担うことになりました。しかし、実質的な権力は、オリバー・クロムウェルを中心とするニューモデル軍の高級将校たちが握っていました。
コモンウェルス政府は、発足当初から内外の敵に囲まれていました。国内では、国王の処刑に衝撃を受けた王党派が反乱の機会をうかがい、レヴェラーズは、新政府が自分たちの民主的な要求を裏切ったとして、軍内部での反乱を扇動しました。クロムウェルは、このレヴェラーズの反乱を容赦なく鎮圧し、軍の規律を回復させました。
最大の脅威は、アイルランドとスコットランドから来ました。アイルランドでは、1641年以来カトリック教徒の反乱が続いており、彼らは王党派と同盟を結んでいました。スコットランドは、チャールズ1世の処刑を非難し、彼の息子を国王チャールズ2世として迎え入れ、王政復古のための軍を組織しました。
クロムウェルの征服活動
この危機に立ち向かうため、国務会議はクロムウェルをアイルランド遠征軍の総司令官に任命しました。1649年から1650年にかけて、クロムウェルはアイルランドで徹底的な軍事作戦を展開しました。特に、ドロヘダとウェックスフォードの町で行われた住民の虐殺は、彼の軍歴における最大の汚点として、アイルランド人の記憶に深く刻み込まれることになります。クロムウェル自身は、これを、神の裁きであり、さらなる流血を避けるための厳しい必要悪であると正当化しましたが、その残虐性は議論の的であり続けています。この征服の結果、アイルランドの土地の大部分はカトリック教徒から没収され、イングランドからの兵士や入植者に与えられました。
アイルランドを平定したクロムウェルは、次にスコットランドに向かいました。1650年のダンバーの戦いでは、数的に優勢なスコットランド軍に対し、奇襲攻撃をかけて劇的な勝利を収めました。翌1651年、チャールズ2世は最後の賭けとして、スコットランド軍を率いてイングランドに侵攻しますが、ウスターの戦いでクロムウェルの軍に完膚なきまでに打ち破られました。チャールズ2世は辛くも戦場を脱出し、再び大陸への亡命を余儀なくされました。
これらの軍事的勝利によって、クロムウェルはコモンウェルスの内外の敵を全て打ち破り、その権威は絶対的なものとなりました。イングランド、スコットランド、アイルランドは、初めて単一の共和政国家の下に、武力によって統合されたのです。
ランプ議会の解散
軍事的危機が去ると、軍とランプ議会の間の対立が再び燃え上がりました。クロムウェルと軍の将校たちは、腐敗し、自己の利益ばかりを追求するランプ議会に愛想を尽かしていました。彼らは、議会が自らを解散し、新しい選挙を行って、真に敬虔な人物による「聖者の統治」を実現することを求めました。しかし、ランプ議会の議員たちは、権力の座に固執し、選挙法の改革を遅らせ続けました。
1653年4月20日、ついにクロムウェルの忍耐は限界に達しました。彼は兵士を率いて議場に乗り込み、議員たちを罵倒しました。「お前たちはここに長居しすぎた。もういい加減にしろ。出て行け。そして、もっとましな人間に席を譲れ。主よ、私をこの者たちからお救いください!」。彼は、議長の持つ権威の象徴であるメイス(職杖)を指さし、「あの安ぴか物を片付けろ」と命じ、武力によってランプ議会を強制的に解散させました。ジョン・ピムが国王の専制に立ち向かってから13年、議会の主権を掲げて戦った革命は、その議会自身が軍の力によって葬り去られるという皮肉な結末を迎えたのです。
護国卿政と王政復古
ランプ議会の解散後、イングランドは新たな政治的実験の時代に入りました。クロムウェルと軍の指導者たちは、理想の国家を模索しましたが、その試みは安定した政治体制を築くことができず、最終的には伝統的な君主制への回帰へと繋がっていきます。
ベアボーンズ議会
ランプ議会に代わり、クロムウェルは、軍の将校たちが全国の独立派教会から推薦された「敬虔な人物」140名を選び出し、新しい議会を組織しました。この議会は、その議員の一人であった皮なめし職人で説教師の「称賛されよ・ベアボーン」の名にちなんで、「ベアボーンズ議会」あるいは「聖者議会」と呼ばれました。
この議会は、まさにピューリタンの理想を実現しようとする試みでした。議員たちは、法制度の改革、十分の一税の廃止、そして貧民救済など、急進的な改革案を次々と議論しました。しかし、彼らの急進主義は、穏健派の議員や、クロムウェルを含む軍の指導部との間に対立を生みました。特に、十分の一税の廃止は、聖職者の生活と財産制度の根幹を揺るがすものとして、強い反発を招きました。わずか5ヶ月後、議会内の穏健派は、自ら統治権をクロムウェルに返還することを決議し、この「聖者の統治」の実験は失敗に終わりました。
護国卿政
ベアボーンズ議会の失敗を受け、軍の指導者たちは、イングランド史上初となる成文憲法「統治章典」を制定しました。この憲法に基づき、1653年12月、オリバー・クロムウェルは終身の「護国卿(ロード・プロテクター)」に就任しました。これは、事実上の君主制であり、クロムウェルは王の称号こそ持たないものの、国王に匹敵する権力を持つことになりました。立法権は護国卿と議会が共有し、行政権は護国卿と国務会議が担うと定められました。
護国卿として、クロムウェルは国内の安定と秩序の回復に努めました。彼は、プロテスタントであれば、国教会派、長老派、バプテストなど、様々な宗派の共存を認める、比較的寛容な宗教政策を取りました。また、ユダヤ人を追放以来350年ぶりにイングランドに呼び戻したことでも知られています。外交面では、強力な海軍を背景に、オランダとの第一次英蘭戦争に勝利し、スペインからジャマイカを奪うなど、イングランドの国威を大いに高めました。
しかし、彼の統治は常に不安定でした。彼は、自らが召集した議会と常に対立し、二度にわたって解散させています。王党派の陰謀も後を絶たず、1655年には、全国を11の軍管区に分け、それぞれに少将を配置して直接的な軍政を敷くという、極めて不評な政策を導入しました(軍政監制度)。この軍政は、人々の自由を抑圧し、ピューリタン的な道徳を押し付けるものとして、強い反感を買いました。
1657年、議会はクロムウェルに国王の称号を奉ることを提案しました(謙虚な請願と勧告)。これは、伝統的な君主制に戻ることで、国家を安定させようとする試みでした。クロムウェルは、数週間にわたり熟考しましたが、最終的には、軍の反対と、自らの宗教的信念から、この提案を拒否しました。しかし、彼は、後継者を指名する権利を含む、国王に近い権限を受け入れ、護国卿政はさらに君主制に近い形へと変化していきました。
終焉と王政復古
1658年9月、オリバー・クロムウェルは病のために死去しました。彼の強大なカリスマと指導力によってかろうじて維持されていた護国卿政は、その支柱を失い、急速に崩壊へと向かいます。後継者には息子のリチャード・クロムウェルが指名されましたが、彼には父のような政治力も軍からの人望もなく、軍の指導者たちと議会の間の権力闘争を収拾することができませんでした。わずか8ヶ月後、リチャードは護国卿を辞任し、イングランドは再び政治的混乱と無政府状態の危機に陥りました。
この混乱の中、国民の間では、長引く軍事政権と政治的不安定に疲れ果て、平和と秩序、そして正統な統治を回復するためには、伝統的な君主制に戻るしかない、という感情が急速に高まっていきました。この機運を捉えたのが、スコットランド駐留軍の司令官であったジョージ・マンク将軍です。彼は、軍を率いてロンドンに進駐し、政治の主導権を握ると、亡命中のチャールズ2世との交渉を開始しました。
1660年、チャールズ2世は「ブレダ宣言」で寛大な条件を提示し、新しく召集された議会は、国王の帰還を満場一致で決議しました。同年5月、チャールズ2世はロンドンに凱旋し、熱狂的な歓迎の中で王位に就きました。ここに、ピューリタン革命とそれに続く共和政の時代は終わりを告げ、王政復古が実現したのです。
議会派が目指した多くの宗教的・政治的理想は、この王政復古によって一旦は否定されました。しかし、彼らが起こした革命の経験は、イングランドの歴史に消えることのない刻印を残しました。国王が処刑され、共和政が樹立されたという事実は、王権が絶対ではないことを誰の目にも明らかにし、議会が国家の主権において不可欠な役割を担うという原則を確立しました。議会派の戦いは、直接的には失敗に終わったかもしれませんが、その遺産は、後の名誉革命を経て、イングランドが立憲君主制と議会制民主主義への道を歩む上での、重要な礎となったのです。