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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

ピューリタンとは わかりやすい世界史用語2693

著者名: ピアソラ
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ピューリタンとは

「ピューリタン」という言葉は、歴史の中で様々なイメージをまとってきました。黒い服に身を包み、あらゆる楽しみを否定する、厳格で眉間にしわを寄せた人物像を思い浮かべる人もいるかもしれません。しかし、このようなステレオタイプは、16世紀から17世紀にかけてイングランドの宗教的、政治的、そして社会的風景を根底から揺るがした、この複雑でダイナミックな運動のほんの一面に過ぎません。ピューリタンは、単一の組織や教義を持つ宗派ではありませんでした。むしろ、彼らはイングランド国教会を内部から「浄化」し、聖書に忠実な、より純粋なプロテスタント教会を確立しようと願った、多様な人々の集まりでした。彼らの探求は、単に教会の儀式に関する神学論争に留まりませんでした。それは、個人の魂の救済、社会の道徳的改革、そして最終的には国家のあり方そのものをめぐる、情熱的で、時には血を伴う闘争へと発展していきました。



起源

ピューリタニズムのルーツは、16世紀のヨーロッパを席巻した宗教改革の激動の中にあります。イングランドの宗教改革は、大陸のそれとは異なり、神学的な動機よりも、国王ヘンリー8世の離婚問題という政治的な理由から始まりました。この特異な出発点が、その後のイングランド国教会の性格を決定づけ、ピューリタン運動が生まれる土壌となりました。
イングランド宗教改革

1530年代、ヘンリー8世は、王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚とアン・ブーリンとの再婚をローマ教皇に認めさせようとしましたが、失敗に終わりました。これに憤慨したヘンリーは、一連の議会法を通じて、イングランドの教会をローマ・カトリック教会の支配から切り離し、国王自身をその最高首長とする「イングランド国教会(アングリカン・チャーチ)」を設立しました(国王至上法、1534年)。
しかし、ヘンリー8世自身は、神学的にはカトリックに近い保守的な信仰を持っており、彼が行った改革は、教皇の権威を否定し、修道院を解散してその財産を没収した点を除けば、教義や礼拝の形式に大きな変更を加えるものではありませんでした。ミサは依然としてラテン語で行われ、聖職者の独身制も維持されました。
真のプロテスタント改革が進んだのは、ヘンリー8世の息子である若きエドワード6世の治世(1547年=1553年)においてでした。この時期、カンタベリー大主教トマス・クランマーらの指導の下、プロテスタント神学が積極的に導入されました。ラテン語のミサは廃止され、英語による礼拝と、プロテスタント的な教義を盛り込んだ「共通祈祷書」が制定されました。聖職者の結婚も認められ、教会の装飾や聖像は「偶像」として破壊されました。この急進的な改革は、イングランドを本格的なプロテスタント国家へと変貌させました。
メアリーの治世とマリアン亡命者

エドワード6世の夭逝後、王位に就いたのは、ヘンリー8世と最初の王妃キャサリンの娘であるメアリー1世でした(1553年=1558年)。敬虔なカトリック教徒であった彼女は、父と弟が行った宗教改革を全て覆し、イングランドをローマ・カトリック教会に復帰させようとしました。彼女の治世下で、約300人ものプロテスタントが異端者として火刑に処せられ、彼女は「血まみれのメアリー(ブラッディ・メアリー)」と恐れられるようになります。
この過酷な迫害を逃れるため、約800人の熱心なプロテスタントが、大陸のプロテスタント都市へと亡命しました。彼らは「マリアン亡命者」として知られています。彼らが亡命先として選んだのは、ジュネーヴ、チューリッヒ、フランクフルトといった、宗教改革がより徹底して行われていた都市でした。特に、ジャン・カルヴァンが神政政治を敷いていたジュネーヴは、彼らにとって大きな影響を与える場所となりました。
彼らはそこで、カルヴァンの厳格な神学、長老制に基づく教会統治、そして簡素で説教中心の礼拝形式を直接体験しました。彼らは、イングランド国教会の改革が、いかに中途半端で不完全なものであったかを痛感しました。彼らは、聖書に記述されていない儀式や制度は、全て人間の発明であり、教会から排除されるべきだと確信するに至ります。このジュネーヴでの経験が、後のピューリタン運動の思想的な骨格を形成することになるのです。
エリザベス朝の宗教的解決

1558年、メアリー1世が死去し、妹のエリザベス1世が即位すると、マリアン亡命者たちは大きな希望を抱いてイングランドに帰国しました。彼らは、新女王が、ジュネーヴで見たような、徹底的に改革された真のプロテスタント教会をイングランドに設立してくれるものと期待していました。
しかし、エリザベス1世の関心は、神学的な純粋さよりも、国家の統一と安定にありました。彼女は、カトリックとプロテスタントに分裂した国民を一つにまとめるため、「中道(ヴィア・メディア)」を行う宗教政策を選択しました。これが「エリザベス朝の宗教的解決(エリザベサン・セトルメント)」です。
1559年に制定された新たな国王至上法と礼拝統一法により、イングランド国教会は再びローマから独立し、国王が「最高統治者」として教会を統治することになりました。礼拝は、エドワード6世時代の共通祈祷書を一部修正したものが再び義務付けられました。この祈祷書は、プロテスタント的な教義を基本としながらも、カトリック教徒にも受け入れられるよう、いくつかの曖昧な表現を残していました。また、最も重要な点として、主教(ビショップ)や大主教(アーチビショップ)による階層的な教会統治制度(主教制)が維持されました。
帰国したマリアン亡命者たちにとって、この「解決」は、到底受け入れがたい妥協でした。彼らの目には、主教制や、共通祈祷書に残る儀式、聖職者が着用する祭服(サープリス)などは、カトリックの「遺物」であり、「ポープリー(教皇主義)の残りかす」と映りました。彼らは、この不完全な改革に満足せず、国教会を内部からさらに「浄化」し、聖書のモデルに完全に合致した教会を打ち立てることを目指しました。この時、彼らを嘲笑する言葉として「ピューリタン」という呼称が初めて使われるようになったのです。彼らは、エリザベス朝の国教会に留まりながらも、その改革をさらに推し進めようとする、教会内の反対派として、長い闘争を開始しました。
神学

ピューリタンの思想の根幹には、彼らが人生のあらゆる側面を律するための指針とした、深く、厳格で、そして包括的な神学体系がありました。彼らは、単に教会の儀式に不満を持つ人々ではなく、神、人間、そして救済についての明確なビジョンを持つ、高度に知的な思想家たちでした。その神学は、大陸の宗教改革、特にジャン・カルヴァンの思想に深く根差しています。
神の絶対主権

ピューリタン神学の出発点であり、中心でもあるのが、「神の絶対主権」という概念です。彼らは、神が宇宙の創造主であり、その摂理(プロヴィデンス)によって、歴史や個人の運命における全ての出来事を、細部に至るまで支配し、導いていると信じていました。この世界で起こることに偶然はなく、全ては神の栄光を現すという、神の究極的な計画の一部であると考えられたのです。
この思想は、彼らの世界観に大きな影響を与えました。彼らは、日々の生活の中で起こる出来事、例えば収穫の豊凶、病気、あるいは内戦の勝敗といったことの中に、神の御心やメッセージを読み取ろうとしました。オリバー・クロムウェルが戦いの勝利を常に「神の摂理の御業」として語ったのは、その典型的な現れです。この神への絶対的な信頼は、彼らに、逆境に屈しない強靭な精神力と、自らの行動が神の計画の一部であるという揺るぎない確信を与えました。
聖書の権威

神の意志を知るための唯一かつ絶対の源泉は、聖書であるとピューリタンは信じていました。彼らは、聖書を、誤りなき神の言葉そのものであると考え、信仰と生活のあらゆる問題に関する最終的な権威と見なしました。教会の伝統や、教皇や主教の教え、あるいは人間の理性でさえも、聖書の権威の下に置かれるべきだと彼らは主張しました。
この「聖書のみ」の原則は、彼らの教会改革運動の原動力となりました。彼らが、主教制や祭服、共通祈祷書の特定の儀式に反対したのは、それらが聖書に直接的な根拠を持たない「人間の発明」であると考えたからです。彼らの理想は、初代教会の姿、すなわち新約聖書に描かれている教会のモデルに、可能な限り忠実に戻すことでした。
この聖書中心主義は、ピューリタンの日常生活にも深く浸透していました。彼らは、毎日聖書を読み、その内容について瞑想することを欠かしませんでした。識字能力は、神の言葉を直接理解するために不可欠なスキルと考えられ、ピューリタンの家庭では子供たちへの教育が非常に重視されました。彼らの文化は、まさに「聖書の文化」であったと言えます。
予定説と救いの確信

ピューリタン神学の中で、最も特徴的で、しばしば誤解されてきたのが、カルヴァン主義の「予定説(プレディスティネーション)」です。これは、神が、永遠の昔に、救済に至る「選ばれた者(エレクト)」と、永遠の滅びに至る「見捨てられた者(レプロベート)」を、あらかじめ定めているという教えです。この神の選択は、個人の行いや功績、信仰にさえも基づくものではなく、全く神の自由で不可解な主権的意志によるものとされました(無条件的選び)。
この教えは、一見すると、人々の道徳的な努力を無意味にし、宿命論的な無気力に陥らせるかのように思えます。しかし、ピューリタンにとっては、全く逆の効果をもたらしました。彼らは、「自分は果たして選ばれているのだろうか?」という深刻な問いに直面しました。彼らは、神の永遠の定めを直接知ることはできないため、自らの生活の中に、自分が「選ばれた者」であることの「しるし」を見出そうとしました。
その「しるし」とは、まず第一に、神への回心(コンバージョン)の経験です。これは、自らの罪深さを深く認識し、キリストの贖罪にすがる、劇的な内的体験でした。そして第二に、その回心の後に続く、聖化された生活、すなわち、神の戒めに従い、罪を避け、道徳的に正しい生活を送ろうとする継続的な努力です。
つまり、彼らにとって、勤勉に働き、禁欲的な生活を送り、社会の改革に努めることは、救いを得るための「手段」ではありませんでした。むしろ、それは、自分がすでに神によって救われていることの「結果」であり、「証拠」だったのです。この救いの確信への絶え間ない探求が、彼らを自己省察へと駆り立て、彼らの行動に強烈なエネルギーと目的意識を与えました。
契約神学

ピューリタンは、神と人間との関係を「契約(コヴナント)」という概念を通して理解しようとしました。これは「契約神学」として知られています。彼らは、聖書の中に、いくつかの重要な契約を見出しました。
第一は、アダムと結ばれた「行いの契約」です。神はアダムに、完全な服従を条件として永遠の命を約束しましたが、アダムは堕落によってこの契約を破り、全人類に罪と死をもたらしました。
第二は、堕落した人類を救済するために、キリストを通して信者と結ばれる「恵みの契約」です。この契約において、神は、信仰を条件として、キリストの義を信者に転嫁し、罪の赦しと永遠の命を無償の賜物として与えることを約束します。ピューリタンにとって、救いとは、この神からの恵みの契約を受け入れることでした。
さらに、彼らはこの契約の概念を、教会や国家の組織原理にまで拡張しました。彼らは、教会の設立を、神と、そして信者同士が結ぶ「教会契約」に基づくと考えました。信者たちは、神の戒めに従って共に歩むことを誓い合い、自発的に教会を形成するのです。同様に、国家や社会も、神との間に結ばれた「国民的契約」によって成立していると考えられました。国民が神の法に従うならば、神は国家に祝福と繁栄を与え、もし背くならば、戦争や飢饉といった裁きを下す、という考え方です。この思想は、ピューリタンが、単なる個人の敬虔さだけでなく、社会全体の道徳的・宗教的改革を自らの責務と見なす、強い動機となったのです。
教会改革の闘争

ピューリタン運動は、エリザベス朝の国教会に対する不満から始まり、スチュアート朝のジェームズ1世とチャールズ1世の治世を通じて、次第に先鋭化していきました。彼らの闘争は、当初は教会内の改革運動でしたが、やがて国家の体制そのものを問う政治闘争へと発展していきます。
エリザベス朝下のピューリタン

エリザベス1世の治世下で、ピューリタンの改革要求は、主に二つの点で国教会の権威と衝突しました。
第一は「祭服論争」です。ピューリタンは、聖職者が礼拝の際に着用する白い麻の祭服(サープリス)を、聖書に根拠のないカトリックの遺物として、その着用を拒否しました。彼らにとって、これは単なる衣服の問題ではなく、聖書の権威を教会の伝統よりも優先させるかどうかの原則問題でした。しかし、エリザベス女王とカンタベリー大主教マシュー・パーカーは、祭服の着用を、教会の秩序と統一性を保つための「些末な事柄」として強制しました。この論争の結果、多くのピューリタン聖職者がその職を追われました。
第二は、教会統治制度(ポリティ)をめぐる闘争です。より急進的なピューリタンは、主教制そのものが非聖書的であると主張し始めました。ケンブリッジ大学の教授であったトマス・カートライトは、新約聖書が示す真の教会統治は、主教による支配ではなく、各教会が信徒の中から選んだ長老(プレスビター)たちによって運営される「長老制(プレスビテリアニズム)」であると主張しました。この思想は、女王が首長である主教制の根幹を揺るがすものとして、政府から危険視されました。ピューリタンは、議会に請願を提出したり、「マーティン・マープレレイト文書」として知られる匿名のパンフレットで主教たちを痛烈に風刺したりしましたが、エリザベス女王の断固とした姿勢の前に、彼らの試みは弾圧され、失敗に終わりました。
スチュアート朝下の対立激化

1603年、エリザベス女王が死去し、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位すると、ピューリタンは再び希望を抱きました。ジェームズは、長老制が国教であるスコットランドで育ったため、彼らの改革要求に理解を示すのではないかと期待されたのです。彼らは、即位直後のジェームズに「千人請願」を提出し、国教会の改革を求めました。
しかし、1604年に開かれたハンプトン・コート会議で、彼らの期待は打ち砕かれました。ジェームズ1世は、ピューリタンの要求のほとんどを退け、特に長老制の導入については、「主教なくして国王なし」という有名な言葉で、主教制が王権を支える重要な柱であることを強調し、断固として拒否しました。彼にとって、ピューリタンの要求は、教会の権威だけでなく、王権そのものへの挑戦と映ったのです。この会議の唯一の成果は、新しい聖書の英訳版を作成することが決定されたことであり、これが後に「欽定訳聖書(キング・ジェームズ・バイブル)」として結実します。
ジェームズ1世の後を継いだチャールズ1世の治世(1625年ー1649年)になると、対立はさらに深刻化しました。チャールズは、カンタベリー大主教ウィリアム・ロードを重用し、国教会にアルミニウス主義に基づいた改革を強行しました。アルミニウス主義は、カルヴァン主義の予定説に反対し、人間の自由意志や、儀式・秘跡の重要性を強調する神学でした。ロードは、祭壇を教会の東端に移動させて手すりで囲み、聖職者に祭服の着用を徹底させるなど、教会に「美と秩序」を回復させようとしました。
ピューリタンにとって、この「ロード改革」は、カトリックへの回帰に他ならず、彼らの宗教的良心に対する耐え難い攻撃でした。彼らは、ロードの政策を、イングランドをローマ教皇の支配下に戻そうとする巨大な陰謀の一環であると信じました。星室庁裁判所などの大権裁判所が、ロードの政策に反対するピューリタンの著述家や説教師を残酷に罰したことは、彼らの反感をさらに煽りました。この宗教的な対立は、議会における政治的な対立と完全に結びつき、やがてイングランド内戦という形で爆発することになります。ピューリタンの多くは、議会派の中核となり、自らの信仰を守るため、そして神の国を地上に築くため、国王に対して武器を取ることを決意したのです。
生活と文化

ピューリタンの生活と文化は、神の栄光を現し、救いの確信を得るという、彼らの中心的な目標に従って、厳格に組織されていました。彼らの生き方は、しばしば禁欲的で喜びのないものと見なされますが、それは彼らが、現世の快楽よりも、来世における永遠の喜びと、神との交わりの中に、人生の究極的な意味を見出していたからです。
労働倫理と資本主義

ピューリタンは、勤勉、倹約、そして規律を重んじました。彼らは、労働を、単なる生計を立てるための手段ではなく、神から与えられた神聖な務め、「召命(コーリング)」であると考えました。どのような職業であれ、それが神の栄光のため、そして公共の善のために、誠実に行われるならば、等しく価値があると彼らは信じました。
この「プロテスタントの労働倫理」は、社会学者マックス・ヴェーバーが、その有名な著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で指摘したように、近代資本主義の発展に大きな影響を与えたとされています。ピューリタンは、召命としての労働に励み、贅沢や浪費を罪として避けたため、その手元には富が蓄積される傾向がありました。彼らは、この蓄積された資本を、さらなる事業に再投資し、経済活動を拡大させていきました。彼らの多くが、商人、職人、そして自営農民として経済的な成功を収めたのは、この労働倫理と深く関わっています。彼らは、経済的な成功を、神からの祝福のしるしであり、自らが「選ばれた者」であることの間接的な証拠と見なしたのです。
家族と教育

ピューリタンにとって、家族は、社会の最も基本的な単位であり、「小さな教会」「小さなコモンウェルス(国家)」でした。家父長である父親は、家族の霊的な指導者としての責任を負い、毎日家族を集めて聖書を読み、祈りを捧げること(家庭礼拝)が期待されました。夫婦関係は、キリストと教会の関係になぞらえられ、相互の愛と尊敬に基づきながらも、妻は夫に従うべきであると教えられました。
子供の教育は、極めて重要な責務と考えられました。子供たちは、生まれながらにして原罪を負っているため、厳格なしつけと宗教教育によって、その意志を砕き、神への服従を教え込む必要があると信じられていました。しかし、そのしつけは、愛情のこもったものであるべきだとされ、親は子供たちを神からの預かりものとして大切に育てました。
最大の目標は、子供たちが聖書を自分で読めるようにすることでした。このため、ピューリタンのコミュニティでは識字率が非常に高く、イングランドで最初の公教育法が制定されたのは、ピューリタンが権力を握っていた共和政時代のことでした。ハーバード大学やイェール大学といった、アメリカの初期の大学の多くが、ピューリタンによって、聖職者を養成する目的で設立されたことも、彼らの教育への情熱を物語っています。
安息日の遵守と娯楽

ピューリタンの敬虔さが最も顕著に現れたのが、安息日(日曜日)の厳格な遵守でした。彼らは、日曜日を、労働や世俗的な娯楽から完全に解放され、礼拝と瞑想、そして宗教的な読書にのみ捧げられるべき「主の日」であると考えました。彼らは、日曜日にスポーツをしたり、酒場で飲んだりすることを厳しく禁じました。ジェームズ1世とチャールズ1世が、日曜日の礼拝後にスポーツを奨励する「スポーツ宣言」を発布したことは、ピューリタンの宗教的感情を著しく害し、両者の対立を深める一因となりました。
彼らは、多くの娯楽を、時間を浪費し、魂を堕落させるものとして非難しました。特に、劇場は、不道徳と虚偽の巣窟と見なされ、ピューリタンが権力を握った1642年には、イングランドの全ての劇場が閉鎖されました。また、クリスマスのような伝統的な祝祭も、聖書に根拠のない異教的な習慣であるとして、その祝いを止めさせようとしました。
しかし、ピューリタンが全ての喜びや美を否定したわけではありません。彼らは、音楽、特に詩篇歌を礼拝で用いることを奨励しました。また、彼らの書く文章は、聖書の力強い文体に影響を受け、しばしば非常に雄弁で美しいものでした。ジョン・ミルトンの壮大な叙事詩や、ジョン・バニヤンの『天路歴程』は、ピューリタンの精神が生み出した、西洋文学の不朽の傑作です。彼らが拒否したのは、喜びそのものではなく、神から心を逸らさせるような、無秩序で不道徳な喜びだったのです。
アメリカへの移住

イングランド国教会を改革するという彼らの努力が、スチュアート朝の国王とロード大主教の弾圧によって挫折するにつれて、一部のピューリタンは、イングランドに見切りをつけ、新大陸アメリカに、自らの理想とする社会をゼロから建設するという、新たな希望を見出すようになりました。この移住は、アメリカという国家の性格形成に、計り知れないほど大きな影響を与えることになります。
ピルグリム=ファーザーズとプリマス植民地

アメリカへ移住した最初のピューリタンの一団は、「分離派(セパラティスツ)」として知られる、より急進的なグループでした。彼らは、イングランド国教会はもはや改革不可能であると判断し、そこから完全に「分離」して、独自の教会を設立した人々でした。イングランドでの迫害を逃れた彼らは、まずオランダのライデンに避難しましたが、そこでも経済的な困難や、子供たちがオランダの世俗的な文化に染まってしまうことを懸念しました。
彼らは、自分たちを、約束の地を目指す古代イスラエルの民になぞらえ、大西洋を渡ることを決意しました。1620年、彼らはメイフラワー号に乗って新大陸へと出発し、マサチューセッツ州のプリマスに上陸しました。彼らは後に「ピルグリム=ファーザーズ(巡礼父祖)」として知られるようになります。上陸に先立ち、彼らは船上で「メイフラワー誓約」を結びました。これは、彼らが、神の栄光とキリスト教信仰の普及のために、自らを「市民的政治体」へと組織し、公正で平等な法律を制定し、それに服従することを誓約した、社会契約文書です。これは、アメリカにおける自己統治の精神の原点と見なされています。最初の冬は非常に過酷で、多くの者が命を落としましたが、先住民の助けもあって、彼らは生き延び、プリマス植民地の基礎を築きました。
マサチューセッツ湾植民地と「丘の上の町」

1630年代になると、イングランドにおけるチャールズ1世とロード大主教によるピューリタン弾圧が激化し、「大移住(グレート・マイグレーション)」として知られる、大規模な移住の波が起こりました。ピルグリムとは異なり、彼らの多くは、イングランド国教会からの分離を唱えない「非分離派」のピューリタンでした。彼らは、イングランド国教会を改革するという望みを捨ててはいませんでしたが、一時的に新大陸に退避し、そこで理想的なキリスト教共同体を建設し、それがやがて旧世界(イングランド)の模範となることを願っていました。
1630年、ジョン・ウィンスロップを指導者とする約千人のピューリタンが、マサチューセッツ湾植民地を設立しました。ウィンスロップは、新大陸へ向かう船上で行った有名な説教「キリスト教的慈善の模範」の中で、彼らの使命を次のように語りました。「我々は、丘の上の町とならなければならない。全ての人々の目が、我々に注がれているのだ」。彼らは、自分たちの共同体が、世界中から注目される、聖書に基づいた模範的な社会となるべきであるという、強い使命感を持っていました。
マサチューセッツ湾植民地は、急速に発展し、政治的には、教会員(聖人)である男性のみが選挙権を持つ、神政政治的な体制が敷かれました。彼らは、ハーバード大学(1636年設立)を創設して聖職者の養成に努め、法制度を聖書の教えに基づいて整備しました。彼らは、自らの共同体を、神と結んだ「契約」に基づく社会であると考え、宗教的な統一性を維持するために、異端に対しては厳しい態度で臨みました。
不寛容と分裂

この「丘の上の町」の理想は、しかし、内部からの挑戦に直面します。宗教的な統一性を維持しようとするあまり、ピューリタンの指導者たちは、しばしば不寛容になりました。
ロジャー・ウィリアムズは、マサチューセッツの牧師でしたが、彼は、土地の所有権は国王からではなく先住民から正当に購入されるべきであると主張し、さらに、国家が個人の良心に介入し、特定の信仰を強制する権利はないと説きました(政教分離)。これらの急進的な思想のために、彼は1635年にマサチューセッツから追放されました。彼は、南に逃れ、完全な信教の自由を保障するロードアイランド植民地を設立しました。
アン・ハッチンソンは、聡明で雄弁な女性で、自宅で聖書の勉強会を開いていましたが、彼女は、ほとんどの牧師が、救いの条件として行いを強調する「行いの契約」を説いていると批判し、神の恵みのみを強調する「恵みの契約」を主張しました。彼女の教えは、教会の権威を揺るがすものとして危険視され、彼女もまた、異端として裁判にかけられ、1638年に追放されました。
これらの出来事は、ピューリタンの理想主義が内包していた緊張関係を示しています。彼らは、自らの信教の自由を求めて新大陸にやってきましたが、一度権力を握ると、自分たちと異なる意見を持つ者に対しては、不寛容になるという矛盾を抱えていたのです。
遺産

1660年の王政復古によって、イングランドにおけるピューリタンの政治的な力は終焉を迎えました。新しい法律(クラレンドン法典)によって、多くのピューリタン聖職者が国教会から追放され、「非国教徒(ノンコンフォーミスト)」として、様々な制約の下で活動することを余儀なくされました。しかし、彼らの運動が、イングランドとアメリカ、そしてより広く西洋世界に残した影響は、計り知れないものがあります。
政治的遺産

ピューリタン革命は、最終的に王政復古に終わりましたが、その経験は、イングランドの政治体制を永久に変えました。国王が議会の同意なしに統治し、国民を処刑できるという考えは、もはや成り立たなくなりました。国王チャールズ1世の処刑は、君主の権力も絶対ではなく、法の下にあるという強烈なメッセージとなりました。この革命を通じて、議会は、国家の主権における不可欠な構成要素としての地位を確立しました。これらの原則は、1688年の名誉革命によって再確認され、イングランドが立憲君主制と議会制民主主義へと発展していくための基礎を築きました。
アメリカにおいては、その影響はさらに直接的です。メイフラワー誓約に見られる社会契約の思想、タウンミーティングに代表される自己統治の伝統、そして「丘の上の町」という使命感は、アメリカ独立革命の精神的な源流の一つとなりました。代表なくして課税なし、という独立派のスローガンは、イングランド内戦で議会派が掲げた主張そのものでした。また、ロジャー・ウィリアムズが唱えた政教分離と信教の自由の原則は、アメリカ合衆国憲法修正第1条に結実し、アメリカのアイデンティティの核心部分を形成しています。
文化的・社会的遺産

ピューリタンが強調した、勤勉、倹約、自己規律といった価値観は、英米の文化に深く根付き、特に「プロテスタントの労働倫理」として、資本主義社会の発展を精神的な側面から支えたと言われています。教育を重視する彼らの姿勢は、多くの学校や大学の設立に繋がり、知的な探求を尊重する文化を育みました。
また、彼らの道徳的な厳格さは、社会改革への強い衝動を生み出しました。ピューリタンの末裔たちは、後の奴隷制度廃止運動や禁酒運動、女性参政権運動など、様々な社会正義の実現を目指す運動において、中心的な役割を果たしました。神の国を地上に建設するという彼らのビジョンは、世俗化されながらも、社会をより公正で道徳的なものに改革しようとする、改革主義の伝統として生き続けています。
複雑な評価

一方で、ピューリタンの遺産は、負の側面も持っています。彼らの不寛容さは、ロードアイランドやペンシルベニアといった、より寛容な植民地の設立を促した一方で、セイラム魔女裁判(1692年)のような悲劇的な事件も引き起こしました。集団的な不安と迷信が、無実の人々を魔女として告発し、処刑するという集団ヒステリーを生み出したこの事件は、ピューリタン社会の暗部を象徴しています。
また、彼らの厳格な道徳観は、ヴィクトリア朝時代などを通じて、抑圧的で偽善的な社会規範として批判されることもありました。ピューリタンという言葉自体が、今日でもしばしば、楽しみを嫌う狭量な道徳主義者という意味合いで使われるのはそのためです。
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・ピューリタンとは わかりやすい世界史用語2693

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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