水平派とは
イングランド内戦は国王と議会の権力闘争として始まりましたが、その過程でより根源的な問いを社会に突きつけた急進的な政治運動がありました。それが「水平派」です。彼らが歴史の表舞台で活動した期間は短かったものの、その思想は西洋政治思想史において画期的なものでした。彼らは国王の専制に反対しただけでなく議会そのものの権威にも疑問を呈しました。そして人民主権、普通選挙権、法の下の平等といった時代を遥かに先取りした理念を掲げたのです。
「水平派」という呼称は彼らが人々の財産を平等にしようとしているという敵対者が貼り付けたレッテルでした。しかし彼らが求めたのは経済的な平等ではなく政治的な権利の平等です。彼らの思想はロンドンの職人や小商人、そしてニューモデル軍の一般兵士といったこれまで政治の舞台から排除されてきた人々の間に急速に広まりました。ジョン・リルバーン、リチャード・オーバートン、ウィリアム・ウォルウィンといった指導者たちは巧みなパンフレット戦術を駆使して大衆の政治意識を覚醒させました。
彼らの活動の頂点は1647年のパトニー討論でした。ここで水平派の代表者たちはオリバー=クロムウェルら軍の高級将校たちとイングランドの未来の国制について激しい議論を交わしました。彼らが提出した憲法草案「人民協定」は人民こそがすべての政治権力の源泉であるという原則を明確に打ち出し近代的な立憲主義の先駆けとなりました。
しかし彼らの急進的な思想はクロムウェルをはじめとする軍の指導部や財産を持つジェントリ階級の強い警戒心を招きました。彼らは水平派の要求が社会秩序の根幹を揺るがしかねない危険なものだと考えたのです。最終的に水平派は軍の指導部によって弾圧されその運動は鎮圧されました。
水平派の起源と思想
水平派運動は特定の日に始まったわけではありません。1640年代半ばのイングランド、特にロンドンの政治的・宗教的な混乱の中から自然発生的に生まれました。内戦が人々の生活を根底から揺るがし既存の権威が揺らぐ中で新しい思想が芽生える土壌が育まれていたのです。彼らの思想はそれまでの政治談義を支配していたエリート層の枠を打ち破り一般の人々の言葉で語られました。
運動の背景=ロンドンとニューモデル軍
水平派運動の中心地は首都ロンドンでした。当時のロンドンは人口が急増し印刷業が盛んな活気に満ちた商業都市でした。多くの職人、徒弟、小商人たちがひしめき合い彼らはギルドや教会の伝統的な支配から比較的自由でした。内戦中ロンドンは議会派の拠点となり政治的なパンフレットや新聞が大量に印刷されました。人々は居酒屋や市場で最新のニュースや噂について熱心に議論を交わしていました。この知的で政治的に敏感な環境が水平派の思想が急速に広まるための完璧な培養器となったのです。
もう一つの重要な背景はニューモデル軍の存在です。兵士の多くは水平派の支持層と同じく職人やヨーマン(独立自営農民)といった階層の出身でした。彼らは国王と戦う中で自分たちが何のために戦っているのかを真剣に考えるようになり高い政治意識を持つようになりました。軍の中では兵士たちが自ら説教を行ったり政治討論を行ったりすることが奨励され急進的な思想が自由に流通していました。1647年に議会が軍を解体しようとしたとき兵士たちは自らの権利を守るために団結しました。そして各連隊から代表(アジテーター)を選出して独自の政治的要求を掲げるようになります。この軍の政治化が水平派に彼らの思想を実現するための強力な手段を提供する可能性を生み出しました。
主要な指導者たち
水平派は厳密な意味での政党ではなく共通の理念を持つ個人やグループの緩やかな連合体でした。しかしその中で特に傑出した三人の指導者が運動の顔となりました。
ジョン・リルバーンは水平派の中で最も有名で最も情熱的な人物でした。「自由人ジョン」として知られる彼は内戦前からロード大主教の教会政策に反対して投獄や鞭打ちの刑を経験した不屈の闘士でした。彼はイングランド人には「生得の権利」があると信じ、マグナ・カルタやエドワード・コークの著作を引用していかなる権力による圧制にも抵抗しました。彼の裁判闘争は常に民衆の注目を集め、彼のパンフレットは平易な言葉で人々の心をつかみました。彼は理論家というよりは行動家であり水平派の象徴的存在でした。
リチャード・オーバートンはより哲学的で辛辣な筆致を持つパンフレット作家でした。彼はジョン・ロックに先駆けて自然権と自己所有権の思想を明確に展開しました。彼はすべての人間は生まれながらにして理性を持ち自分自身の身体と労働の所有者であると主張しました。この自己所有権から個人の自由、特に良心の自由と自己防衛の権利が導き出されると考えたのです。彼の著作は水平派の思想に強固な理論的基盤を与えました。
ウィリアム・ウォルウィンは裕福な絹商人で三人の指導者の中では最も穏健で思慮深い人物でした。彼は宗教的寛容の最も徹底した擁護者であり、あらゆる宗派、さらには無神論者に対しても完全な良心の自由を認めるべきだと主張しました。彼は対話と理性的説得を重んじ、水平派の思想をより広い層に受け入れられるように努めました。
これら三人の指導者はその個性も背景も異なっていましたが「人民の主権」と「個人の権利」という共通の信念の下に結束し水平派運動を力強く牽引していきました。
核心的な思想=人民主権と生得の権利
水平派の思想の核心はすべての正当な政治権力は人民に由来するという「人民主権」の原則でした。これは国王の権力は神から与えられたとする王権神授説や議会が絶対的な主権を持つという考え方とも一線を画す革命的な思想です。彼らにとって議会は人民から権力を信託された代表者にすぎませんでした。もし議会が人民の信頼を裏切るならば人民はそれに抵抗し政府を改変する権利を持つと考えたのです。
この人民主権の思想と密接に結びついていたのが「生得の権利」という概念です。リルバーンらが主張したようにイングランド人は征服や国王の恩寵によってではなく生まれながらにして侵すことのできない権利と自由を持っているとされました。これには恣意的な逮捕からの自由、法の適正な手続きを受ける権利、そして何よりも良心の自由が含まれていました。
これらの思想から水平派は具体的な政治改革案を導き出しました。彼らは財産資格の有無にかかわらずすべての成人男性(ただし当初は従僕や物乞いを除くことが多かった)が選挙権を持つべきだと主張しました。これは当時の選挙権が土地などの財産を持つごく一部の人々に限定されていたことを考えると驚くほど民主的な要求でした。彼らはまた議会が毎年または隔年で改選されること、選挙区が人口に応じて公平に再配分されること、そして議会の権限を明確に規定し人民の基本的な権利を侵害できないようにするための成文憲法の制定を求めました。これらの要求はすべて彼らの憲法草案である「人民協定」の中に盛り込まれることになります。
重要なことは水平派が財産の私有を否定したわけではないという点です。彼らは「水平派」という名前が示唆するような財産の共有や再分配を求めたわけではありません。彼らが求めたのはあくまで法の下での政治的権利の平等でした。彼らはすべての人間がその富や地位にかかわらず政府のあり方を決定するプロセスに参加する平等な権利を持つべきだと信じたのです。
活動の展開と「人民協定」
水平派の思想は単なる理論に留まりませんでした。彼らはパンフレット、請願、そして大規模なデモンストレーションといった当時としては新しい大衆的な政治手法を駆使して自らの理念を実現しようとしました。その活動の集大成として結実したのがイングランド初の成文憲法草案ともいえる「人民協定」でした。
パンフレットと請願運動
水平派の最も強力な武器は印刷されたパンフレットでした。1640年代のロンドンでは検閲制度が崩壊し政治的なパンフレットが爆発的に増加していました。水平派の指導者たちはこの新しいメディアを巧みに利用しました。彼らのパンフレットは難解な神学論争や法理論ではなく平易で力強い言葉で書かれ一般の職人や兵士にも容易に理解できるものでした。リルバーンの劇的な裁判闘争、オーバートンの辛辣な風刺、ウォルウィンの理性的な呼びかけは多くの読者の心をつかみ、彼らを水平派の支持者へと変えていきました。
彼らはまた大規模な請願運動を組織しました。数千時には数万の署名を集めた請願書が議会に次々と提出されました。これらの請願は未払い給与の問題から独占の廃止そして宗教的寛容の要求まで多岐にわたりました。特筆すべきは女性たちが独自の請願運動を展開したことです。キャサリン・チドリーのような女性指導者に率いられた水平派の女性たちは夫や息子たちが投獄されたことに抗議しました。そして「私たちもこのコモンウェルスに利害関係を持っている」と主張して議会でデモンストレーションを行いました。これは女性が公的な政治活動に参加したイングランド史における初期の重要な事例でした。
これらの活動を通じて水平派は議会の外に民衆に根差した強力な政治勢力を形成していきました。彼らは政治が議事堂の中だけで行われるものではなく街頭や印刷物を通じて一般の人々が参加すべきものであることを示したのです。
パトニー討論
水平派の活動が頂点に達したのは1647年秋に行われたパトニー討論でした。第一次内戦に勝利した後ニューモデル軍は議会の長老派と対立しイングランドの将来の国制について独自の議論を始めていました。軍の政治化を背景に軍の一般兵士や下級将校の間で水平派の思想が大きな影響力を持つようになっていました。
1647年10月ロンドン郊外のパトニー教会でニューモデル軍の総評議会が開催されました。この会議にはオリバー=クロムウェルやヘンリー・アイアトンといった軍の高級将校(グランディ)たちと各連隊から選ばれた兵士代表(アジテーター)やその支持者である水平派の民間人が参加しました。討論の主な議題は水平派が起草した憲法草案「人民協定」でした。
討論はイングランドの政治史上前例のないものでした。高級将校と一般兵士が対等な立場で国家の根本的なあり方について真剣な議論を交わしたのです。
討論の最大の争点は選挙権の問題でした。水平派の代表であるトマス・レインズバラ大佐は歴史に残る演説の中で普通選挙権を力強く主張しました。「最も貧しい者も最も偉大な者と同じように生きる人生を持っている。それゆえイングランドの政府の下に自らを置くすべての人間はまず自分自身の同意を与えるべきだと私は考える」と彼は述べました。これに対しアイアトンは選挙権は土地などの「この王国における恒久的な固定した利益」を持つ者に限定されるべきだと反論しました。彼はもし財産を持たない者にも選挙権を与えれば彼らは多数の力で私有財産制度そのものを破壊しようとするだろうと警告しました。
この二人の主張は二つの異なる政治思想の衝突を象徴していました。レインズバラの主張は政治的権利が人間の生得の権利であるという近代的な民主主義の思想に基づいています。一方アイアトンの主張は政治参加の資格が財産所有に結びついているという伝統的な共和主義の思想に基づいています。
パトニー討論は国王チャールズ1世がハンプトン・コートから脱走したという報せによって中断され明確な結論は出ませんでした。しかしこの討論は水平派の思想がイングランド社会に与えた衝撃の大きさとそれが提起した問題の根源性を見事に示しています。
「人民協定」の各版
「人民協定」は水平派の政治綱領を結集した文書であり彼らの活動を通じていくつかの異なる版が作成されました。
最初の版は1647年10月のパトニー討論で提示されたものです。これは人民主権を宣言し議会の権限を制限しました。そして隔年の議会選挙、選挙区の再配分、宗教的寛容といった基本的な原則を簡潔にまとめたものでした。
第二次内戦の後1649年1月にリルバーン、ウォルウィン、オーバートン、そしてプリンスの四人の指導者によってより詳細な第二版の「人民協定」が発表されました。これは国王の処刑と共和政の樹立という新しい政治状況に対応するものでした。この版では約400名の議員からなる単一制の議会を国家の最高権力機関と位置づけました。その議員が財産資格のないすべての21歳以上の男性(従僕、受救貧民、王党派を除く)によって選出されることを規定しました。さらに重要なのは議会が決して侵害することのできない「留保事項」を設けたことです。これには完全な良心の自由、徴兵からの自由、そして戦時中の行為に対する免責などが含まれていました。これは議会の権力に対して人民の基本的な権利という憲法上の制約を課そうとする明確な立憲主義の表明でした。
さらに1649年5月に投獄中のリルバーンらによって第三版の「人民協定」が発表されました。これは共和政(ランプ議会)が自分たちの期待を裏切ったことへの失望からより急進的な内容となっていました。この版では陪審員が地元住民によって選ばれること、十分の一税が廃止されること、そして債務者監獄が改革されることなどより具体的な社会・経済改革の要求が盛り込まれていました。
これらの「人民協定」はいずれも法として制定されることはありませんでした。しかし人民の同意に基づく成文憲法によって政府の権力を制限するというその理念は後のアメリカ独立革命やフランス革命における憲法制定の動きを先取りするものでした。そして近代立憲民主主義の思想史において極めて重要な位置を占めています。
弾圧と運動の終焉
水平派が掲げた急進的な民主主義の理念はイングランドの権力者たち、特にニューモデル軍の高級将校(グランディ)たちに強い警戒心を抱かせました。彼らは水平派の要求が社会の安定を脅かし、自分たちが内戦で勝ち取った成果を危うくするものだと考えました。国王の処刑後共和政(コモンウェルス)が樹立されるとグランディたちと水平派の対立は決定的となり水平派運動は容赦ない弾圧によって終焉を迎えることになります。
グランディとの対立
オリバー=クロムウェルやヘンリー・アイアトンといったグランディたちは水平派と同じく国王の専制に反対しある程度の宗教的寛容を認める点では共通していました。しかし彼らの社会観と政治観は水平派とは根本的に異なっていました。
グランディたちの多くはジェントリ階級の出身であり土地などの私有財産制度を社会の安定の基礎と考えていました。彼らにとって政治に参加する権利は国家に「恒久的な利害関係」を持つすなわち財産を持つ人々に限定されるべきでした。パトニー討論でアイアトンが主張したようにもし財産を持たない多数派に選挙権を与えれば彼らは自分たちの利益のために財産権を侵害し社会は無政府状態に陥ると恐れたのです。彼らが目指したのは財産を持つ人々の利益を代表する寡頭的な共和政でした。
一方水平派は政治的権利を財産ではなく人間であることそのものに根差す生得の権利と考えました。彼らは政府がすべての人民の同意に基づかなければならないと信じより広範な民主主義を求めました。
この根本的な思想の違いは国王の処刑後にさらに深刻化しました。水平派は国王を打倒した今こそ「人民協定」に基づく真の人民の政府を樹立すべきだと期待しました。しかし権力を握ったグランディたちとランプ議会は選挙を行うことなく権力の座に居座り続けました。水平派から見れば彼らはかつての国王や議会長老派と同じように専制的で腐敗した寡頭支配を行っているように見えました。水平派はランプ議会を「新しい鎖の作り手」と呼び激しく非難しました。
バーフォードの反乱と鎮圧
水平派の批判がニューモデル軍の兵士たちの間に再び不穏な動きを生み出すことを恐れたクロムウェルと国務会議は断固たる措置を取ることを決定します。1649年3月リルバーン、ウォルウィン、オーバートン、プリンスの四人の指導者が逮捕されロンドン塔に投獄されました。
この指導者の逮捕は軍内部の水平派支持者たちを激怒させました。4月ロンドンの一部の兵士が命令を拒否して反乱を起こしましたがこれはすぐに鎮圧されました。しかし5月になるとソールズベリーに駐屯していたいくつかの連隊がアイルランドへの派遣命令を拒否し公然と反乱を起こしました。彼らは水平派の理念を掲げ他の連隊の合流を求めて北へと行進を始めました。
この動きに対しクロムウェルとフェアファクスは迅速に行動しました。彼らは自らに忠実な部隊を率いて夜通しの強行軍で反乱軍を追跡しました。そして1649年5月14日の深夜オックスフォードシャーのバーフォードで休息していた反乱軍を奇襲しました。不意を突かれた反乱兵たちはほとんど抵抗できずに降伏しました。
クロムウェルは見せしめとして反乱の指導者と見なされた3人の兵士を他の兵士たちの目の前で銃殺刑に処しました。処刑された一人コーネット(旗手)のトンプソンは最後まで自らの信念を曲げなかったと言われています。このバーフォードでの迅速で冷徹な鎮圧は軍内部における水平派の組織的な抵抗に終止符を打ちました。
運動の衰退
バーフォードの反乱の鎮圧は水平派運動にとって致命的な打撃となりました。彼らの力の源泉であった軍内部の支持基盤が完全に破壊されてしまったからです。指導者たちは依然として投獄されており大衆的な支持も共和政が安定し始めるとともに徐々に失われていきました。
1649年10月ジョン・リルバーンは共和政に対する反逆罪で裁判にかけられました。彼は弁護士を立てずに自ら雄弁に弁護を行い陪審員に直接訴えかけました。彼の弁護は聴衆の心を打ち驚くべきことに陪審は無罪の評決を下しました。この勝利は水平派の最後の輝きであり民衆の喝采を浴びましたがもはや運動全体の衰退を押しとどめることはできませんでした。
その後リルバーンは再び追放され最終的にはジャージー島に投獄されました。ウォルウィンとオーバートンは政治活動から引退し水平派運動は組織的な力としては事実上消滅しました。彼らが活動した期間はわずか数年にすぎませんでした。
水平派が敗北した理由はいくつか考えられます。第一に彼らの思想は当時の社会にとってあまりにも急進的すぎました。財産を持つ階級は彼らの思想が社会秩序と財産権を脅かすものと見なしました。第二に彼らは軍のグランディたちという強力で冷徹な現実主義者たちを敵に回してしまいました。クロムウェルは国家の安定のためには水平派の理想主義を犠牲にすることも厭いませんでした。第三に水平派運動自体が内部に様々な潮流を抱えた組織的に脆弱な連合体であったことも一因でしょう。
しかし彼らの運動は決して無駄ではありませんでした。彼らが掲げた人民主権、自然権、成文憲法、そして政治的平等の理念はイングランドの記憶の奥深くに刻み込まれました。そして一世紀以上後アメリカやフランスで新しい共和国が誕生する際に再び力強く蘇ることになるのです。水平派は自らの時代においては敗北しましたが、その思想は未来の民主主義の礎の一つとなったのです。