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18_80 ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成 / イギリス革命

チャールズ1世とは わかりやすい世界史用語2686

著者名: ピアソラ
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チャールズ1世とは

チャールズ1世の生涯は、ブリテン史における最も劇的で悲劇的な物語の一つです。王として生まれ、神から授かった絶対的な権力を信じ、芸術を深く愛した洗練された君主。しかし、その非妥協的な性格と政治的判断の誤りは、自らが統治する三つの王国、イングランド、スコットランド、アイルランドを、血で血を洗う内戦の渦へと巻き込み、最終的にはヨーロッパの歴史上初めて、臣民の手によって公に裁かれ、処刑されるという前代未聞の結末を迎えました。彼の治世は、王権と議会の関係、宗教と政治のあり方を巡る根源的な問いをブリテン社会に突きつけ、その後の国家の形を決定づける分水嶺となりました。
彼は、父ジェームズ1世から、財政難や宗教的緊張といった多くの未解決の問題と共に、王権神授説という強固な信念を受け継ぎました。しかし、父が持っていた、老獪ともいえる政治的柔軟性や妥協の精神を、チャールズは持ち合わせていませんでした。彼は、自らの良心と原則に忠実であろうとするあまり、しばしば現実的な政治状況を見誤り、敵対者を不必要に追い詰めました。彼の宮廷は、大陸のバロック文化が花開く洗練された空間であり、ヴァン=ダイクやルーベンスといった巨匠たちのパトロンとして、ブリテンの芸術に計り知れない貢献をしました。しかし、その華やかさと、彼がカンタベリー大主教ウィリアム=ロードと共に推し進めた儀式的な宗教改革は、多くのプロテスタント臣民の目には、カトリックへの回帰と専制政治の象徴と映り、深い疑念と反感を呼び起こしました。
11年間にわたる議会不在の「個人統治」は、船税などの独断的な財政政策によって王への不満を蓄積させ、スコットランドへの祈祷書強制という試みは、故郷の王国での全面的な反乱を引き起こしました。この反乱の鎮圧費用を捻出するために、彼が不本意ながら召集した「長期議会」は、もはや王の意のままになる存在ではありませんでした。ジョン=ピムらに率いられた議会は、積年の不満を爆発させ、王の大権を次々と剥奪していきます。
アイルランドでの反乱が事態をさらに複雑化させる中、チャールズは議会指導者の逮捕を試みるという致命的な一線を越えてしまいます。この行為は、王と議会の間の信頼関係を完全に破壊し、両者を和解不可能な対立へと導きました。1642年、王がノッティンガムで王旗を掲げた時、王国は王党派と議会派に二分され、内戦の火蓋が切られました。
戦争の初期、チャールズは軍事的指導者として一定の能力を発揮しましたが、オリバー=クロムウェルのような傑出した敵の台頭と、議会派の優れた組織力と資源の前に、次第に劣勢に立たされます。敗北後も、彼は王としての尊厳を失わず、敵陣営の分裂を利用して再起を図ろうと画策し続けましたが、その二枚舌ともいえる交渉態度は、最終的に軍部の怒りを買い、彼を「血にまみれた男」として断罪させる結果を招きました。
1649年1月、ホワイトホール宮殿の前に設えられた断頭台に立ったチャールズは、最後まで王としての威厳を保ち続けました。彼の死は、多くの人々にとって殉教として記憶され、『エイコーン=バシilikē(国王の肖像)』という本は、彼を敬虔な犠牲者として描き、ベストセラーとなりました。しかし、彼の処刑はまた、君主制そのものの神聖さを打ち砕き、国家の主権がどこにあるのかという問いを、もはや誰も避けて通れない形で提示しました。



生い立ちと王太子時代

チャールズ=ステュアートの人生の初期は、彼が後に背負うことになる王冠の重圧とは無縁の、比較的目立たないものでした。彼の性格形成と世界観は、この時期の経験、特に兄の影の下での生活、そして王太子となってからのヨーロッパ大陸での体験によって、深く形作られていくことになります。
虚弱な幼少期

チャールズは、1600年11月19日、スコットランドのダンファームリン宮殿で、スコットランド王ジェームズ6世とその王妃アン=オブ=デンマークの次男として生まれました。彼の誕生は、兄ヘンリー=フレデリックの誕生時のような華々しい祝賀には包まれませんでした。彼は、生まれつき虚弱な子供で、くる病に罹患していたと考えられています。そのため、身体的な発達が遅れ、歩き始めたり、言葉を話し始めたりするのも、同年代の子供たちよりずっと後でした。
1603年、父ジェームズがイングランド王ジェームズ1世として即位し、一家がロンドンに移った際も、チャールズは幼すぎて長旅に耐えられないと判断され、しばらくスコットランドに留め置かれたほどです。彼がようやくイングランドの宮廷に合流したのは、4歳近くになってからでした。イングランドに来てからも、彼は内気で、吃音に悩まされ、身体的に活発で魅力的な兄ヘンリーの輝かしい影の中で、目立たない存在でした。
兄のヘンリーは、人々が次期国王に期待する資質をすべて兼ね備えているかのように見えました。彼は、スポーツ万能で、知的好奇心が旺盛、そして熱心なプロテスタントであり、多くの人々の希望の星でした。一方のチャールズは、兄とは対照的に、物静かで、芸術的な感受性が強く、内向的な性格でした。彼は、粘り強い努力によって身体的なハンディキャップを克服し、乗馬や狩猟をこなせるようにはなりましたが、兄のような天性の輝きを持つことはありませんでした。
予期せぬ王位継承者

チャールズの運命を劇的に変えたのは、1612年、彼が12歳になる直前のことでした。国民的な人気を誇っていた兄ヘンリーが、腸チフスのために18歳の若さで急死したのです。この突然の悲劇により、チャールズは予期せずして王位の第一継承者、ウェールズ公となりました。
それまで比較的自由な環境で育ってきたチャールズは、一夜にして国家の期待と注目を一身に集める立場に置かれました。彼は、偉大な兄の代わりを務めなければならないという、計り知れないプレッシャーに直面します。この経験は、彼の生真面目で義務感の強い性格を、さらに強固なものにしたと考えられます。彼は、自らに課せられた役割を真摯に受け止め、君主として必要な教養と訓練に励みました。
この時期、チャールズの人生に大きな影響を与えたのが、父ジェームズ1世の寵臣であったジョージ=ヴィリアーズ、後のバッキンガム公です。ハンサムで野心的なバッキンガムは、まずジェームズ王の寵愛を独占し、次いで若いチャールズの心をも捉えました。チャールズは、自分に欠けている自信と社交性を備えたバッキンガムに深い魅力を感じ、彼を兄のように慕い、絶対的な信頼を寄せるようになります。この二人の親密な関係は、チャールズの治世初期の政治を大きく左右することになります。
マドリードへの冒険と結婚

王太子としてのチャールズの経験の中で、最も重要かつ形成的な出来事が、1623年のスペインへの秘密旅行です。当時、父ジェームズ1世は、ヨーロッパの平和を維持するため、チャールズをカトリック国スペインの王女(インファンタ)、マリア=アナと結婚させる「スペインとの結婚」計画を長年進めていました。しかし、交渉は遅々として進展しませんでした。
この状況に業を煮やしたチャールズとバッキンガムは、恋愛小説の主人公のように、自らマドリードに乗り込んで王女に直接求婚し、事態を打開するという、大胆で無謀な計画を立てます。彼らは身分を隠し、「トム」と「ジョン」という偽名を使って、わずかな供だけを連れてスペインへと旅立ちました。
しかし、このロマンティックな冒険は、屈辱的な失敗に終わります。スペイン宮廷は、彼らの突然の訪問に困惑し、プロテスタントの王子がカトリックの王女と結婚するためには、チャールズ自身がカトリックに改宗すること、そしてイングランド国内のカトリック教徒に完全な信仰の自由を認める法律を制定することなど、到底受け入れがたい厳しい条件を突きつけました。チャールズは、厳格な宮廷儀礼の中で王女に会うことさえほとんど許されず、事実上の軟禁状態に置かれました。
数ヶ月の滞在の後、チャールズとバッキンガムは、何の成果も得られないまま、怒りと屈辱を胸にイングランドへ帰国します。このマドリードでの経験は、チャールズに深い影響を与えました。彼は、スペインとカトリックに対する強い不信感を抱くようになり、それまでの父の親スペイン的な平和外交から、180度転換して、対スペイン強硬派、主戦論者へと変貌します。
帰国したチャールズとバッキンガムは、国民から英雄として迎えられ、議会と協力して父ジェームズに対スペイン戦争の開始を迫りました。そして、結婚相手はスペイン王女から、フランスのブルボン家の王女、アンリエット=マリーへと変更されることになりました。
1625年3月、ジェームズ1世が亡くなり、チャールズは24歳でイングランド、スコットランド、アイルランドの王として即位します。そしてその直後の5月、彼は代理人を立てる形で、フランス王ルイ13世の妹である15歳のアンリエット=マリーと結婚しました。この結婚は、対スペイン政策の一環としてフランスとの同盟を意図したものでしたが、王妃が熱心なカトリック教徒であり、彼女がイングランドでカトリックの信仰を維持し、そのための礼拝堂や聖職者を伴うことが秘密協定で約束されていたことは、将来の宗教対立の大きな火種となりました。
内気で吃音に悩まされた少年は、今や三つの王国の君主となり、寵臣バッキンガム公と共に、自らの信念に基づいた政治を推し進めようとしていました。しかし、彼の前途には、父の代から引き継がれた数多くの困難な問題が待ち受けていたのです。
治世初期の対立

1625年にチャールズ1世が王位に就いた時、王国には祝祭的な雰囲気が漂っていました。マドリードでの屈辱を経て、反スペインの英雄として帰国した若い王への期待は高まっていました。しかし、その期待はすぐに裏切られることになります。治世の最初の4年間は、国王と議会の間の対立が急速に悪化し、最終的に議会政治そのものが停止する「個人統治」へと至る、破滅的な序曲となりました。この対立の根源には、外交政策の失敗、寵臣バッキンガム公への反感、そして宗教を巡る根深い不信感がありました。
外交の失敗とバッキンガム公

チャールズの治世は、父の代から引き継いだ対スペイン戦争の遂行という課題と共に始まりました。しかし、この戦争は当初から災厄続きでした。1625年、バッキンガム公が指揮したカディスへの遠征は、準備不足と兵士の質の低さから、何の成果も挙げられずに惨めな失敗に終わりました。
さらに悪いことに、チャールズとバッキンガムは、スペインとの戦争に加えて、フランスとの関係までも悪化させてしまいます。フランスは、イングランドが期待したような対ハプスブルク同盟の頼れるパートナーとはならず、むしろ国内のプロテスタント(ユグノー)の弾圧を強化していました。これに対し、チャールズはユグノーの拠点であるラ=ロシェルを支援するため、1627年、再びバッキンガム公に遠征軍を率いさせます。しかし、この遠征もまた、兵站の失敗とフランス軍の頑強な抵抗の前に、多大な犠牲者を出して敗退しました。
これらの相次ぐ軍事的な失態は、国費を浪費し、イングランドの威信を地に落としました。議会と国民の怒りの矛先は、すべての作戦を指揮したバッキンガム公に集中しました。彼は、無能で傲慢な寵臣であり、国を破滅に導いている張本人と見なされるようになりました。しかし、チャールズは、少年時代からの友人であり、最も信頼する側近であるバッキンガムを、頑なに擁護し続けました。彼は、バッキンガムへの批判を、自分自身への、そして王権そのものへの攻撃と見なしたのです。この姿勢が、王と議会の間の溝を決定的に深めていきました。
議会との財政闘争と権利の請願

戦争を遂行するためには、莫大な費用が必要であり、そのためには議会の承認する税収が不可欠でした。しかし、チャールズが召集した議会は、彼の外交政策の失敗とバッキンガムへの不満から、十分な課税を承認することを拒否しました。1625年の最初の議会は、国王の生涯にわたって関税(トン税とポンド税)を認めるという慣例を破り、わずか1年間の徴収権しか認めませんでした。
議会からの協力が得られないことに苛立ったチャールズは、議会の承認なしにトン税とポンド税を徴収し始め、さらに「強制借用金」と呼ばれる、事実上の強制的な税を国民に課しました。この支払いを拒否した者は、裁判なしに投獄されました。これらの措置は、国王が法を無視して国民の財産権を侵害しているという、広範な非難を巻き起こしました。
1628年、チャールズは再び資金調達のために議会を召集せざるを得なくなりました。エドワード=コーク卿らに率いられたこの議会は、新たな課税を承認する前に、まず国民の権利が保障されるべきだと主張しました。彼らは、国王の最近の行動によって侵害された、イングランド臣民が古来から持つ権利を再確認する文書として、「権利の請願」を起草し、国王に承認を迫りました。
「権利の請願」は、主に四つのことを要求していました。
議会の同意なき課税の禁止。
理由を示されない不法な投獄の禁止。
民間家屋への兵士の強制宿泊の禁止。
民間人に対する軍法会議の適用の禁止。
チャールズは、この請願が自らの大権を制約するものであることを理解しており、承認をためらいました。しかし、資金がなければ戦争を続けられないという現実の前に、彼は不本意ながらも請願に同意を与えました。議会は歓喜に沸きましたが、チャールズには、この約束を守るつもりはほとんどありませんでした。
バッキンガム暗殺と議会の解散

「権利の請願」が承認された直後の1628年8月、国中を揺るがす事件が起こります。ポーツマスで次の遠征の準備をしていたバッキンガム公が、不満を抱いた元士官ジョン=フェルトンによって刺殺されたのです。国民の多くは、国を不幸に陥れた元凶が死んだとして、公然と喜び、フェルトンを英雄として称えました。
しかし、チャールズにとって、バッキンガムの死は計り知れない衝撃でした。彼は唯一無二の親友を失い、深い悲しみに沈みました。そして、国民がバッキンガムの死を喜んでいるのを見て、彼は臣民への不信感と疎隔感を一層深めました。彼は、自室に閉じこもり、誰とも会おうとしませんでした。この事件は、チャールズをさらに頑固で孤立した君主へと変えていきました。
バッキンガムという共通の敵がいなくなった後も、王と議会の対立は続きました。議会は、国王が「権利の請願」の精神に反して、依然としてトン税とポンド税を徴収していることを非難しました。さらに、宗教問題が新たな火種として浮上します。チャールズが、儀式を重視する「アルミニウス主義」の聖職者たちを重用していることに対し、議会内のピューリタン勢力は、これがカトリックへの回帰であると激しく攻撃しました。
1629年3月2日、対立は頂点に達します。チャールズが議会の休会を命じると、議長が席を立とうとするのを議員たちが力ずくで椅子に押さえつけ、その間に、議会の承認なきトン税とポンド税の徴収に協力する者、そして国教会に「ポープリー(教皇主義)やアルミニウス主義」を導入しようとする者を、国家の敵とみなすという三つの決議を叫びながら可決しました。
この議会による公然たる反抗に、チャールズは激怒しました。彼は、議会を直ちに解散し、指導者のジョン=エリオット卿らをロンドン塔に投獄しました。そして、彼は二度とこのような屈辱を味わうまいと決意し、議会なしで統治を行うことを決断します。こうして、1629年から1640年まで続く、11年間の「個人統治」の時代が幕を開けたのです。
個人統治の時代

1629年に議会を解散した後、チャールズ1世は、その後11年間にわたって議会を召集することなく、自らの顧問官たちと共に王国を統治しました。この「個人統治」(Personal Rule)、または王の支持者からは「創造的平和の時代」、批判者からは「11年の専制」と呼ばれる期間は、チャールズが自らの理想とする統治を実現しようとした試みでした。それは、表面的には平和で、宮廷文化が花開いた時代でしたが、その水面下では、王の政策に対する不満が静かに、しかし着実に蓄積されていました。
平和と財政

議会からの税収なしで統治を行うためには、まず支出を削減する必要がありました。チャールズは、治世初期の破滅的な戦争政策を放棄し、フランス(1629年)およびスペイン(1630年)と和平を結びました。これにより、彼の統治期間の大部分は、ヨーロッパ大陸が三十年戦争の戦禍に苦しむ中で、ブリテンが享受した稀有な平和の時代となりました。
しかし、王室の通常の歳入だけでは、政府の運営費を賄うことはできませんでした。そこで、チャールズと彼の顧問たちは、議会の承認を必要としない、様々な財源を「発見」あるいは「復活」させることに腐心しました。
彼らは、中世の忘れ去られた法律を次々と持ち出してきました。例えば、「騎士強制令」は、一定額以上の土地を持つすべての者に、国王の戴冠式で騎士になることを強制し、それを拒否した者から罰金を徴収するものでした。また、「王領林法」は、かつての王領林の境界を拡大解釈し、その中に土地を持つ地主たちに高額な罰金を課しました。独占権の販売も、重要な収入源となりました。石鹸などの日用品に至るまで、様々な商品の独占製造・販売権が、特定の個人や会社に高値で売却されました。これらの政策は、多くの人々の利害を損ない、王室が法を恣意的に利用して国民から金を巻き上げているという印象を広めました。
船税

これらの財政手段の中で、最も広範な抵抗を引き起こし、悪名を馳せたのが「船税」(Ship Money)です。船税は、もともと戦時に、海軍を整備するために沿岸部のカウンティに課される伝統的な税でした。しかし、チャールズは1634年、まず平時にこの税を沿岸部に課し、翌1635年には、それを全国の内陸部のカウンティにまで拡大しました。
政府は、これを税金ではなく、国民が国王に奉仕する義務の一環であると主張しました。しかし、多くの人々は、これを議会の承認なき実質的な直接税であり、「権利の請願」の精神に反する違法なものと見なしました。当初、徴収率は比較的高かったものの、不満はくすぶり続けました。
この問題が公然と争われたのが、1637年のジョン=ハムデン裁判です。バッキンガムシャーの裕福なジェントリであったハムデンは、原理的な理由から、わずか20シリングの船税の支払いを拒否しました。この裁判は国中の注目を集め、国王が議会の承認なしに国民に課税する権利があるかどうかが、正面から問われました。12人の裁判官による評決は、7対5という僅差で国王側が勝利しました。
法的には勝利したものの、この裁判はチャールズにとって政治的な大失敗でした。僅差の評決は、船税の合法性に対する疑念をかえって強め、ハムデンを国民的な英雄にしました。これ以降、船税に対する抵抗は公然としたものとなり、徴収率は劇的に低下していきました。船税は、チャールズの専制政治の最も憎むべき象徴となったのです。
宗教政策とロード大主教

個人統治の時代におけるもう一つの主要な対立軸は、宗教でした。チャールズは、彼の腹心であり、1633年にカンタベリー大主教に任命されたウィリアム=ロードと共に、イングランド国教会に秩序と統一、そして「美と儀式」を取り戻そうとする改革を推し進めました。
ロードの改革、いわゆる「ロード主義」または「アルミニウス主義」は、カルヴァン主義の予定説を批判し、人間の自由意志と、救済における秘跡(サクラメント)の重要性を強調しました。教会建築においては、ステンドグラスや祭壇、聖職者の祭服といった、儀式的な要素を復活させ、祭壇を教会の東端に移動させて手すりで囲むことを命じました。これは、聖なる空間と俗なる空間を区別し、教会の神聖さを高めることを意図したものでした。
しかし、これらの改革は、イングランドのプロテスタント、特にピューリタンたちの目には、カトリックへの回帰、すなわち「ポープリー」(教皇主義)そのものと映りました。彼らは、華美な装飾や儀式を偶像崇拝と見なし、ロードの神学を、ローマ・カトリックへの裏切りであると非難しました。チャールズの妻であるアンリエット=マリー王妃が、宮廷で公然とカトリックのミサを行い、改宗者を増やしていたことも、この疑念を煽りました。
ロードは、高等宗務官裁判所や星室庁裁判所といった特権裁判所を用いて、自らの政策に反対する者を厳しく弾圧しました。1637年、ピューリタンのパンフレット作者であったウィリアム=プリン、ジョン=バストウィック、ヘンリー=バートンの三人が、ロードを批判したかどで捕らえられ、高額な罰金と終身刑を宣告された上、両耳を切り落とされて頬に烙印を押されるという残虐な刑罰を受けました。この公開処刑は、多くのロンドン市民に衝撃を与え、彼らを殉教者として、そしてロードを血に飢えた暴君として、人々の目に焼き付けました。
宮廷文化

政治的・宗教的な緊張が高まる一方で、チャールズの宮廷は、洗練された芸術と文化の中心地として輝いていました。チャールズ自身、深い教養と審美眼を持つ、ブリテン史上最も偉大な美術収集家の一人でした。彼は、イタリア・ルネサンスの巨匠であるティツィアーノやラファエロの作品を収集し、当代随一の画家であったピーテル=パウル=ルーベンスや、アンソニー=ヴァン=ダイクをイングランドに招きました。
特にヴァン=ダイクは、チャールズの首席宮廷画家となり、国王とその家族の肖像画を数多く制作しました。彼の描く肖像画は、チャールズに、実際よりも威厳があり、憂いを帯びた、騎士的な君主のイメージを与え、王の理想像を視覚的に表現しました。また、宮廷では、ベン=ジョンソンやイニゴー=ジョーンズによる豪華な仮面劇(マスク)が頻繁に上演され、王と王妃が神話的な登場人物として登場し、王政の調和と秩序を賛美しました。
しかし、この宮廷の華やかさと洗練は、宮廷の外の世界との間に深い溝を作り出しました。多くのピューリタンや地方のジェントリにとって、宮廷は、カトリック的で、退廃的で、外国風の悪徳に満ちた空間と見なされていました。彼らは、宮廷の芸術や演劇を、不道徳で贅沢な浪費であると非難しました。こうして、宮廷文化そのものが、政治的・宗教的な対立の一部となっていったのです。
個人統治の10年間、チャールズは、平和を維持し、財政を安定させ、自らの理想とする秩序ある教会と洗練された宮廷を築き上げたと信じていたかもしれません。しかし、その政策は、彼の統治の正統性を静かに、しかし確実に蝕んでいました。そして、その脆い均衡は、彼が自らの宗教政策を故郷スコットランドにまで広げようとした時、突如として崩れ去ることになります。
三王国戦争

チャールズ1世の個人統治がもたらした表面的な平和は、彼が自らの宗教的野心をイングランドの境界を越えて広げようとした瞬間に、脆くも崩れ去りました。スコットランドでの反乱に端を発した紛争は、アイルランド、そしてイングランド自身をも巻き込み、ブリテン諸島全体を揺るがす大規模な内戦へと発展します。この「三王国戦争」は、チャールズの統治を最終的な破局へと導きました。
主教戦争と短期・長期議会

悲劇の連鎖は、チャールズの生まれ故郷であるスコットランドで始まりました。1637年、チャールズとロード大主教は、スコットランドの国教会である長老派教会(カーク)に対し、イングランド国教会の様式に近い、新しい祈祷書の使用を強制しようとしました。これは、二つの王国における教会の慣行を統一しようという、チャールズの秩序への渇望から生まれたものでした。
しかし、スコットランド国民は、これをイングランドによる内政干渉であり、自らの宗教的アイデンティティへの攻撃と見なして激しく反発しました。エディンバラのセント=ジャイルズ大聖堂で初めて新しい祈祷書が使われた日、ジェニー=ゲディスという一人の女性が「あんたの耳に、ポープリーのミサを言うつもりかい!」と叫んで、司祭に椅子を投げつけたと伝えられています。この事件は、全国的な抵抗運動の引き金となりました。
1638年、スコットランドの貴族、ジェントリ、聖職者、そして民衆は、エディンバラのグレイフライアーズ教会に集い、「国民盟約」に署名しました。これは、国王の宗教改革に抵抗し、スコットランドの「真の宗教」を守ることを神に誓う、宗教的・政治的な契約でした。署名者である「盟約派」(カヴェナンター)は、事実上の反乱政府を組織し、軍隊を編成し始めました。
チャールズは、この反乱を武力で鎮圧することを決意し、1639年に軍を北へ送ります。しかし、個人統治の下で財政が逼迫し、国民の支持も得られない国王軍は、士気が低く、装備も不十分でした。一方、宗教的情熱とナショナリズムに燃えるスコットランド盟約軍は、よく組織され、三十年戦争で経験を積んだベテラン兵士も多く含まれていました。両軍が国境で対峙した時、チャールズは戦わずして屈辱的な一時停戦(ベリック条約)を結ばざるを得ませんでした。これが第一次「主教戦争」です。
翌1640年、チャールズは再びスコットランドを攻撃するため、軍資金を得る必要に迫られました。そのために、彼は11年ぶりにイングランド議会を召集します。しかし、4月に召集されたこの議会(短期議会)は、国王に資金を提供する前に、まず船税をはじめとする個人統治時代の積年の不満を議論することを要求しました。これに苛立ったチャールズは、わずか3週間で議会を解散してしまいます。
資金のないまま、チャールズは第二次主教戦争を開始しますが、結果はさらに悲惨なものでした。スコットランド軍はニューバーンの戦いで国王軍を打ち破り、国境を越えてイングランド北部のニューカッスルを占領しました。そして、チャールズが撤退のための費用と、占領経費として1日850ポンドという莫大な賠償金を支払うまで、そこに留まると宣言しました。
財政的に破産し、軍事的にも屈辱的な敗北を喫したチャールズには、もはや選択肢がありませんでした。彼は、スコットランドへの賠償金を支払うため、1640年11月、再び議会を召集せざるを得ませんでした。この議会こそが、その後20年近くにわたって断続的に存続し、国王と対決し、最終的に彼を破滅へと導くことになる「長期議会」です。
長期議会による革命

ジョン=ピム、ジョン=ハムデン、オリバー=シンジョンといった、経験豊かで決意の固い指導者たちに率いられた長期議会は、国王の弱みにつけ込み、個人統治の体制を根底から解体する「憲法革命」に着手しました。
彼らの最初の標的は、国王の「悪しき顧問官」たちでした。議会は、チャールズの腹心であったストラフォード伯トマス=ウェントワースと、ウィリアム=ロード大主教を反逆罪で弾劾し、ロンドン塔に投獄しました。特に、アイルランド総督として強権的な統治を行い、国王に「アイルランド軍を使ってこの王国を鎮圧できる」と進言したとされるストラフォードは、議会にとって最大の脅威と見なされていました。通常の裁判では有罪にできないと悟った議会は、「私権剥奪法」という、裁判なしで特定の人物を反逆者として処刑できる特別法を可決しました。チャールズは、かつて忠誠を誓った部下を見捨てることに苦悩しましたが、法案に署名しなければ王妃の身も危ういという、ロンドンの暴徒による圧力の前に、ついに屈してしまいます。1641年5月、ストラフォードはタワーヒルで処刑されました。この裏切りは、チャールズの良心に深い傷を残したと言われています。
続いて議会は、国王の専制政治を支えてきた制度を次々と破壊していきました。星室庁裁判所や高等宗務官裁判所といった特権裁判所は廃止されました。船税や騎士強制令など、議会の承認なき課税はすべて違法と宣言されました。さらに、国王が議会を意のままに解散できないようにするため、少なくとも3年に一度は議会を召集することを義務付ける「三年議会法」や、現在の議会は自らの同意なしには解散されないとする法律が制定されました。これらの改革によって、国王の大権は大幅に制限され、イングランドの政治バランスは、不可逆的に議会側へと傾きました。
アイルランド反乱と大抗議文

1641年の夏までに、チャールズは議会の要求のほとんどを受け入れ、事態は沈静化に向かうかのように見えました。しかし、同年10月、遠くアイルランドから届いたニュースが、すべてを覆します。
ストラフォード伯という強力な支配者がいなくなったアイルランドで、土着のカトリック教徒が、イングランドとスコットランドからのプロテスタント入植者に対して、大規模な反乱を起こしたのです。反乱は、土地の収奪と宗教的迫害に対する積年の恨みに根差したもので、当初は局地的でしたが、すぐにアイルランド全土に広がりました。プロテスタント入植者が虐殺されたという、誇張された残虐行為の噂がロンドンに届くと、イングランド全土がパニックと反カトリックのヒステリーに包まれました。
反乱を鎮圧するために、新たな軍隊を編成する必要があるという点では、国王も議会も意見が一致していました。しかし、その軍隊の指揮権を誰が握るのかという問題が、両者の間の埋めがたい不信感を再燃させました。ピムをはじめとする議会の指導者たちは、もし国王に軍隊を委ねれば、彼はその軍隊をアイルランドではなく、イングランドに向け、議会を弾圧して失われた権力を取り戻すために使うのではないかと、本気で恐れていました。
この不信感の頂点において、ピムらは1641年11月、チャールズの治世におけるすべての失政を200以上の項目にわたって列挙し、厳しく非難する「大抗議文」を議会に提出しました。これは、国王に軍隊の指揮権を委ねるべきではないという議論を正当化するためのものであり、国民に直接アピールすることを意図した、事実上のプロパガンダ文書でした。この文書は、議会内の穏健派からは、国王との和解を不可能にする過激なものと見なされ、徹夜の激しい議論の末、わずか11票という僅差で可決されました。議会は、国王に反対する急進派と、国王の基本的な権利を擁護しようとする穏健派(後の王党派)にはっきりと分裂し始めたのです。
内戦への突入

大抗議文の可決と、それを印刷して公表するという議会の決定は、チャールズにとって最後の一線を超えるものでした。彼は、これを王権に対する直接的な攻撃であり、扇動であると見なしました。そして、彼はついに武力に訴えるという、取り返しのつかない決断を下します。
1642年1月4日、チャールズは、ピム、ハムデンを含む5人の下院議員と1人の貴族院議員を反逆罪で告発し、自ら約400人の兵士を率いて下院議会に乗り込み、彼らを逮捕しようとしました。しかし、チャールズの計画は事前に漏れており、議員たちはシティ・オブ・ロンドンに逃げ込んだ後でした。国王が議長の椅子に座り、議場を見渡して「鳥は逃げてしまったようだ」と呟いた時、それは彼の権威の失墜を象徴する光景となりました。国王が、武器を持った兵士と共に、神聖であるべき議会の議場に足を踏み入れたという事実は、議会の特権に対する前代未聞の侵害であり、もはや国王との信頼関係は完全に破壊されたことを意味しました。
ロンドン市民の敵意に身の危険を感じたチャールズは、数日後に首都を脱出し、北部のヨークへと向かいました。その後数ヶ月間、王と議会は、互いに軍隊の指揮権(民兵条例を巡る争い)と武器庫(特にハルの武器庫)の確保を巡って争い、宣伝合戦を繰り広げながら、それぞれが来るべき戦いに向けて支持者を集め始めました。和解への最後の試みも失敗に終わり、ついに運命の日が訪れます。
1642年8月22日、チャールズはノッティンガム城の丘の上で王旗を掲げ、議会とその支持者を反逆者と宣言しました。これは、正式な宣戦布告であり、イングランド内戦の始まりでした。王国は、国王を支持する「王党派」(キャヴァリア)と、議会を支持する「議会派」(ラウンドヘッド)に二分され、その後数年間にわたって、兄弟が兄弟と、隣人が隣人と戦うという、悲惨な内戦の時代へと突入したのです。チャールズが、自らの神聖な権利と信じるものを守るために下した決断は、彼自身と彼の王国を、破滅的な結末へと導く道のりの、後戻りできない一歩となりました。
内戦と敗北

イングランド内戦は、単一の紛争ではなく、1642年から1651年にかけて断続的に続いた三つの戦争の総称です。チャールズ1世の運命は、これらの戦争の最初の二つ、第一次(1642-46年)と第二次(1648年)イングランド内戦によって決定づけられました。彼は、軍司令官として、そして交渉の当事者として、最後まで自らの信念のために戦いましたが、その努力は最終的に、軍事的敗北と、彼を裁きの場へと引きずり出す敵の決意の前に、打ち砕かれました。
第一次イングランド内戦

内戦が始まった当初、どちらの側が有利かは明確ではありませんでした。王党派は、伝統的な支配階級である貴族やジェントリの多くから支持を得ており、特にイングランドの北部と西部に強力な地盤を持っていました。彼らは、経験豊富な騎兵将校、特にチャールズの甥であるカンバーランド公ルパート(プリンス・ルパート)の指揮の下、強力な騎兵隊を擁していました。チャールズ自身も、オックスフォードに首都を置き、軍の最高司令官として積極的に戦争指導を行いました。
一方、議会派は、ロンドンという国内最大の都市と港、そして経済的に最も豊かな南東部を掌握していました。これは、彼らが戦争遂行に必要な資金と資源を安定して確保できることを意味しました。また、海軍の大部分も議会側についたため、彼らは海岸線を支配し、王党派の海外からの補給を妨害することができました。
戦争の初期、1642年のエッジヒルの戦いでは、ルパート率いる王党派騎兵隊の突撃が議会軍を圧倒しましたが、統制を失って追撃が深入りしすぎたため、決定的勝利を逃しました。その後、戦争は一進一退の攻防となり、全国各地で小規模な戦闘や城の包囲戦が繰り広げられる、長期戦の様相を呈し始めました。
戦局の転換点となったのは、1643年末に議会派がスコットランド盟約派と「厳粛な同盟と契約」第一次「主教戦争」を結んだことでした。これは、議会派がイングランド国教会をスコットランドの長老派教会に近い形に改革することを約束する見返りに、スコットランドが2万人の軍隊をイングランドに派遣して議会派を支援するという軍事同盟でした。
スコットランド軍の参戦は、北部の戦況を大きく変えました。1644年7月、イングランド北部最大の都市ヨークの郊外で行われたマーストン・ムーアの戦いは、内戦における最大規模の戦闘となりました。この戦いで、議会派とスコットランドの連合軍は、王党派軍に壊滅的な打撃を与えました。この戦いで特に名を馳せたのが、オリバー=クロムウェルが率いる東部連合軍の騎兵隊、いわゆる「鉄騎隊」(Ironsides)でした。彼らは、宗教的情熱に燃え、厳しい規律で統制された部隊であり、ルパートの騎兵隊を打ち破るという快挙を成し遂げました。
マーストン・ムーアの敗北後も、チャールズは粘り強く戦いを続けましたが、議会派は戦争遂行体制の抜本的な改革に着手していました。彼らは、それまでの地域ごとの軍隊を統合し、能力に基づいて将校を登用する、国民的な常備軍を創設することを決定しました。これが、1645年に創設された「ニューモデル軍」です。この軍隊は、クロムウェルを副司令官、トーマス=フェアファクス卿を最高司令官とし、鉄騎隊をモデルとした高い士気と規律を誇る、強力な戦闘集団でした。
ニューモデル軍の真価は、1645年6月のネイズビーの戦いで証明されました。この決戦において、ニューモデル軍はチャールズが率いる王党派の主力を完全に粉砕しました。この戦いで、王党派は歩兵のほとんどを失っただけでなく、チャールズの私的な文書箱が鹵獲されるという致命的な打撃を受けました。その中から発見された、アイルランドのカトリック教徒やヨーロッパ大陸の君主たちに支援を求めていた手紙が議会によって公表されると、チャールズがプロテスタントの信仰とイングランドの利益を裏切ろうとしていたという非難が巻き起こり、彼の政治的信用は地に落ちました。
ネイズビーの戦いの後、王党派の組織的な抵抗は事実上終わり、チャールズは逃亡生活を余儀なくされます。1646年5月、彼はイングランド議会軍に投降するよりも、まだ交渉の余地があると考えたスコットランド軍の陣営に身を投じました。これにより、第一次イングランド内戦は終結しました。
囚われの王と第二次内戦

囚われの身となっても、チャールズは自らが依然として不可欠な存在であると信じていました。彼は、勝利した側の内部対立、すなわち、長老派が多数を占める議会、より急進的な独立派が力を持つニューモデル軍、そしてスコットランドという三者の間の不信感と利害の対立を利用して、自らに最も有利な条件で王位に復帰できると踏んでいました。
彼は、各勢力から提示された和平案(ニューカッスル命題など)に対して、意図的に曖昧な返答を繰り返し、交渉を引き延ばしました。彼の戦略は、敵が互いに争い、最終的に自分を必要とするようになるまで待つ、というものでした。
1647年初頭、スコットランド軍は、チャールズの身柄をイングランド議会に引き渡す代償として、未払いの給与を受け取り、本国へ撤退しました。チャールズは、ノーサンプトンシャーのホールデンビー・ハウスに軟禁されました。しかし、同年6月、議会との間で給与の未払いや解散命令を巡って対立を深めていたニューモデル軍が、ジョイスという士官を派遣して、チャールズを議会の手から「奪取」するという実力行使に出ます。軍は、国王を交渉の切り札として確保したのです。
クロムウェルやヘンリー=アイアトンといった軍の指導者たちは、チャールズに対して、議会の提案よりも寛大な和平案である「建議要目」を提示しました。これは、宗教的寛容を認め、王権にも一定の配慮を示したものでした。しかし、チャールズはこれも決定的に受け入れず、さらなる交渉の材料としか考えませんでした。
そして1647年11月、チャールズはハンプトン・コート宮殿の軟禁下から脱出し、ワイト島へと逃れます。そこで彼は、島の総督であるロバート=ハモンド大佐の保護下に入りましたが、事実上、再び囚人となりました。しかし、この場所から、彼は自らの破滅を決定づける、最後の賭けに出ます。1647年12月、彼は秘密裏にスコットランドの使者と「エンゲージメント」と呼ばれる協定を結びました。これは、チャールズがイングランドに長老派教会を3年間試験的に導入することを約束する見返りに、スコットランドが彼を支持してイングランドに侵攻し、彼を王位に復帰させるというものでした。
この国王の二枚舌と裏切りは、ニューモデル軍の指導者たちを激怒させました。彼らは、チャールズとのこれ以上の交渉は無意味であり、彼は神の裁きにかけられるべき「血にまみれた男」であると結論付けました。
1648年、エンゲージメントに基づいてスコットランド軍がイングランドに侵攻し、各地で王党派の反乱が勃発しました。これが第二次イングランド内戦です。しかし、ニューモデル軍は、クロムウェルの指揮の下、迅速かつ効率的にこれらの反乱を鎮圧しました。特に、プレストンの戦いで、クロムウェルは数的に優位なスコットランド軍を奇襲によって打ち破り、決定的な勝利を収めました。
第二次内戦の勝利は、ニューモデル軍の政治的立場を絶対的なものにしました。彼らは、いまだに国王との交渉を続けようとしていた議会の穏健派を、もはや容認しませんでした。軍は、チャールズをワイト島から本土のハースト城へと移送し、ロンドンへと進軍しました。そして、彼らの決意は、イングランドの歴史を永遠に変える、最後の行動へと向かっていったのです。
裁判と処刑

第二次内戦の終結は、チャールズ1世の運命を決定づけました。ニューモデル軍とその指導者たちは、国王の度重なる裏切りによって、彼がもはや信頼に値しない暴君であると確信していました。彼らは、平和を回復するためには、その元凶であるチャールズ自身を排除する以外に道はないと結論付け、前代未聞の国王裁判へと突き進んでいきました。
プライドのパージと残部議会

軍が第二次内戦に勝利してロンドンに戻ってきた時、長期議会では、依然として長老派の議員たちが国王との交渉(ニューポート条約)を続け、和解の道を探っていました。軍の指導者たちにとって、これは到底受け入れがたい裏切り行為でした。彼らは、チャールズを「血にまみれた男」として裁きにかけることを決意しており、議会がその障害となるのであれば、議会そのものを排除することも辞さない構えでした。
1648年12月6日、トーマス=プライド大佐が率いる兵士たちがウェストミンスターの議会入口を封鎖し、国王との交渉に賛成票を投じた議員たちの登院を実力で阻止しました。この軍事クーデターは「プライドのパージ」(Pride's Purge)として知られています。約140人の議員が追放または逮捕され、議会に残されたのは、軍の意向に従う、わずか60人ほどの急進的な独立派の議員だけでした。この、軍によって「浄化」された後の議会は、「残部議会」と呼ばれます。
この残部議会が、国王を裁くための法的な手続きを進める主体となりました。1649年1月1日、下院は、チャールズ=ステュアートが「この国を奴隷化し、破壊する目的で、議会と国民に対して反逆的な戦争を遂行した」として、彼を反逆罪で裁くことを布告しました。そして、国王を裁くための、135人の委員からなる特別高等法院を設置する法案を可決しました。貴族院がこの法案を否決すると、下院は「イングランドにおいて、神の下、人民がすべての正当な権力の源泉である」とし、「下院に集った人民の代表は、イングランドの人民の名において法律を制定する最高の権力を持つ」と宣言し、貴族院の同意なしに法案を成立させました。これは、人民主権を宣言する、革命的な布告でした。
国王裁判

チャールズ1世の裁判は、1649年1月20日、ウェストミンスター・ホールで始まりました。この歴史的な法廷は、厳戒態勢が敷かれる中で開かれ、裁判長にはジョン=ブラッドショー、主席検察官にはジョン=クックが任命されました。しかし、指名された135人の裁判委員のうち、実際に裁判に出席したのは半分以下であり、多くが国王を裁くという行為の重大さと違法性を恐れて参加を拒否しました。
被告人として法廷に引き出されたチャールズは、終始、落ち着き払い、王としての威厳を崩しませんでした。検察官が起訴状を読み上げ、彼を「暴君、反逆者、殺人者、そしてイングランド国民の良き人々の公敵」として告発した時、チャールズは冷笑を浮かべたと伝えられています。
裁判を通じて、チャールズは一貫して、法廷そのものの正統性を認めませんでした。彼は、弁明を行うことを拒否し、代わりに、臣民が正統な国王を裁く権限をどこから得たのかと、裁判官たちに問い続けました。
「私は、あなた方が私をここに連れてきた、その見せかけの権威を知りたい。思い出してほしい、私はあなた方の王であり、正統な王である… 王が、見せかけの権威によって告発されるなどという前例は、この王国にはない。… 王国は法によって統治されるのであり、王もその一人である。… だから、私に、あなた方がどのような法的な権威によってここに座っているのかを示してほしい。そうすれば、私は答えるだろう。それまでは、私は答えない。」
チャールズの主張の核心は、王は法の下にあるのではなく、法の上に立つ存在であり、神に対してのみ責任を負うという、王権神授説そのものでした。彼は、自らを弁護するのではなく、法と秩序、そして王国の伝統的な統治体制そのものを擁護しているのだと主張しました。彼のこの態度は、裁判を法的な議論ではなく、権力の源泉を巡る根本的なイデオロギーの対決へと変えました。
裁判は数日間続きましたが、チャールズが法廷の権威を認めない以上、実質的な審理は行われませんでした。判決は、初めから決まっていました。1月27日、ブラッドショー裁判長は、チャールズの主張を退け、彼に有罪判決と死刑を宣告しました。判決文には、59人の裁判委員が署名しました。
処刑

死刑判決を受けた後、チャールズはロンドンのセント・ジェームズ宮殿に移され、最期の数日間を過ごしました。彼は、幼い二人の子供、エリザベスとヘンリー(グロスター公)との感動的な別れを許されました。彼は、息子ヘンリーに「いいかい、私が殺されても、お前が王になってはならない。… 連中は、お前の父の首を切り、おそらくはお前を王にするだろう。だが、お前は兄上(チャールズ2世)が生きている限り、王冠を受け取ってはならない」と言い聞かせたと伝えられています。
1649年1月30日の朝、チャールズは処刑の時を迎えました。その日は非常に寒い日だったため、彼は震えが恐怖によるものと見られないように、厚着のシャツを2枚着ることを求めました。彼は、アンドリュー=マーヴェル主教に付き添われ、セント・ジェームズ宮殿から、処刑場が設けられたホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウスまで、雪の中を歩いていきました。
バンケティング・ハウスの前に特設された断頭台の上で、チャールズは短い最後の演説を行いました。群衆が遠くにいたため、彼の言葉は、周りにいたわずかな人々にしか聞こえませんでした。彼は、自らの無実を主張し、議会が先に武力に訴えたのだと述べました。そして、彼は自らの運命を、かつてストラフォード伯の処刑を許可してしまったことへの、神による罰であると受け入れました。彼の有名な最後の言葉は、統治に関する彼の信念を要約しています。
「国民の自由と権利は、統治に参加することにあるのではない。それは、彼らにとって何の関係もないことだ。国民の自由とは、法によって、彼らの生命と財産が守られた生活を送ることにあるのだ。」
演説を終えた後、彼は首を断頭台に置き、合図をすると、一人の斧を持った執行人(その正体は今も不明)が、一振りで彼の首を打ち落としました。別の執行人が、その首を拾い上げ、群衆に高く掲げて「見よ、反逆者の首だ!」と叫んだと言われています。その瞬間、集まった群衆からは、歓声ではなく、うめき声のような、これまで聞いたことのない音が響き渡ったと記録されています。
チャールズ1世の処刑は、ステュアート朝の絶対君主制の試みを終わらせ、ブリテンの歴史を永遠に変えました。彼の死は、多くの人々にとって、秩序と神聖な権威の破壊であり、彼は殉教者と見なされました。彼の死後すぐに出版された『国王の肖像』は、彼を敬虔なキリスト教徒の犠牲者として描き、王政復古の感情を育む上で大きな役割を果たしました。しかし、彼の裁判と処刑はまた、国家の主権は君主ではなく人民にあり、統治者はその行動に対して責任を問われるという、近代的な政治思想の扉を開く、画期的な出来事でもあったのです。
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・チャールズ1世とは わかりやすい世界史用語2686

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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