ピューリタン革命とは
17世紀半ばのイングランド、スコットランド、アイルランドを巻き込んだ「ピューリタン革命」は、単なる内戦にとどまらない、ブリテン諸島の歴史における画期的な出来事でした。この一連の紛争は、国王と議会の間の権力闘争、宗教改革の未完の遺産、そしてイングランド、スコットランド、アイルランドという三つの王国の複雑に絡み合った関係性が爆発した結果でした。それは国王の処刑、君主制の廃止、そしてブリテン史上唯一の共和政の樹立という、当時としては想像を絶する事態へと発展しました。
この革命はしばしば「イングランド内戦」と呼ばれますが、その呼称は事態の一側面に過ぎません。紛争はイングランドに限定されず、スコットランドの宗教的反乱に端を発し、アイルランドの壊滅的な戦争へと波及しました。また、その原因は単一の政治的対立ではなく、チャールズ1世の統治下で数十年にわたって蓄積された宗教的、経済的、社会的な緊張が複雑に絡み合っていました。ピューリタンと呼ばれる、イングランド国教会の改革を求める熱心なプロテスタントたちの宗教的情熱が、反乱のイデオロギー的な原動力の一つとなったため、「ピューリタン革命」という名もまた、この出来事の本質の一面を捉えています。
この激動の20年間は、ブリテン諸島の政治的・宗教的な風景を一変させました。王権神授説という古くからの理念は根底から揺らぎ、人民主権や個人の権利といった近代的な政治思想が初めて公の場で力強く主張されました。水平派のような急進的なグループは、財産によらない普通選挙権を要求し、今日の民主主義思想の源流となる議論を巻き起こしました。
しかし、革命がもたらしたのは輝かしい理想だけではありません。それは、数十万人の命を奪い、国土を荒廃させ、家族やコミュニティを引き裂いた、血なまぐさい紛争でした。オリバー=クロムウェルという類まれな指導者の下で、議会派は軍事的勝利を収めましたが、その後の共和政は安定せず、最終的には王政復古へと至ります。
スチュアート朝の遺産
ピューリタン革命の根は深く、チャールズ1世が即位するずっと以前、スチュアート朝の始まりにまで遡ります。エリザベス1世の死後、スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位したとき、彼は三つの異なる歴史、文化、そして宗教を持つ王国を統治するという、前例のない課題に直面しました。この「複合君主国」が内包する構造的な緊張こそが、息子のチャールズの代に爆発する紛争の根本的な原因でした。
三つの王国の問題
ジェームズ1世が統治した三つの王国は、決して均質ではありませんでした。イングランドは、人口も富も他の二国を圧倒する、連合の中心でした。その教会、イングランド国教会は、プロテスタントの教義とカトリック的な監督制(主教制)の統治構造を組み合わせた、独特の「中間(via media)」の道を歩んでいました。
スコットランドは、貧しい国でしたが、誇り高い独立の気風に満ちていました。16世紀後半の宗教改革を通じて、スコットランドはジョン・ノックスの指導の下、カルヴァン主義に基づく長老制(プレスビテリアン)教会を国教として確立しました。そこでは、国王ではなく、教会自身の会議(長老会や総会)が最高の権威を持つとされていました。ジェームズはスコットランド王として、この強力な長老制教会と常に対立し、監督(主教)の権威を再導入しようと試みていました。
アイルランドは、事実上のイングランドの植民地でした。人口の大多数を占めるゲール系アイルランド人と古くからのイングランド系移民(オールド・イングリッシュ)は、カトリック信仰を固守していました。一方、統治者階級は、イングランドから来たプロテスタントの「ニュー・イングリッシュ」でした。ジェームズの治世下、特にアルスター地方で大規模な植民(プランテーション)が行われ、イングランドとスコットランドからプロテスタントの植民者が大量に移住しました。これにより、土地所有をめぐる対立と宗教的な憎悪が、島の社会に深く刻み込まれることになりました。
ジェームズ1世は、これらの多様な王国を「グレートブリテン」という一つの旗の下に統合しようと夢見ましたが、それぞれの王国の議会やエリート層の抵抗に遭い、その試みはほとんど成功しませんでした。彼は、巧みな政治手腕と妥協によって、なんとか三つの王国の間の平和を保ちましたが、その下に潜む緊張は、息子のチャールズ1世の代に受け継がれることになります。
宗教をめぐる緊張
スチュアート朝初期のイングランドにおける最大の国内問題は、宗教でした。エリザベス1世の宗教和解は、多くの人々を満足させましたが、国教会は「中途半端にしか改革されていない」と感じる熱心なプロテスタント、すなわちピューリタンを生み出しました。彼らは、国教会からカトリック的な儀式や慣行(聖職者の祭服、祭壇、聖人暦など)を一掃し、より簡素で聖書に基づいた礼拝と、カルヴァン主義の予定説の教義を徹底することを求めました。
ジェームズ1世は、自身もカルヴァン主義者でしたが、ピューリタンが要求する長老制のような教会改革は、王権に対する脅威と見なしました。「主教なくして王なし」という彼の有名な言葉は、監督制が王権の重要な支柱であるという彼の信念を示しています。彼は、1604年のハンプトン・コート会議でピューリタンの要求を退けましたが、一方で欽定訳聖書の作成を命じるなど、穏健なピューリタンとの協調も図りました。
しかし、チャールズ1世の治世になると、状況は一変します。チャールズは、父とは異なり、儀式的で荘厳な礼拝を好み、ウィリアム・ロードのようなアルミニウス主義者の聖職者を重用しました。アルミニウス主義は、カルヴァン主義の厳格な予定説に反対し、人間の自由意志を強調する神学でした。しかし、多くのピューリタンにとって、アルミニウス主義は、その儀式重視の姿勢と相まって、カトリックへの回帰に他なりませんでした。
カンタベリー大主教となったロードは、「ロードの改革」として知られる一連の教会政策を強行しました。彼は、祭壇を教会の東端に設置して手すりで囲むこと、聖職者が祭服を着用すること、そして礼拝における儀式を厳格に守ることを全国の教会に命じました。これに従わないピューリタンの聖職者は、聖職祿を剥奪され、迫害されました。この「美と儀式の強制」は、ピューリタンだけでなく、多くの穏健な国教徒にも、国王がイングランドのプロテスタント信仰を破壊しようとしているという深い疑念を抱かせました。宗教的な対立は、もはや神学論争ではなく、国家の魂をめぐる闘争へと変貌していったのです。
国王と議会の対立
スチュアート朝の国王たちは、財政的な困難にも絶えず悩まされていました。インフレと、エリザベス朝末期の戦争の負債により、国王の通常の歳入は、政府の経費を賄うには不十分でした。新たな税を課すためには、議会の承認が必要でしたが、議会は、国王の政策、特に外交政策や宗教政策に不満がある場合、課税の承認を渋ることがありました。
ジェームズ1世は、議会との間で度々衝突しましたが、最終的には深刻な対立を避ける術を心得ていました。しかし、チャールズ1世は、父よりも頑固で、自らの王権を神から授かった神聖なものと信じていました。彼は、議会が自らの政策に口を挟むことを、王の大権に対する不当な侵害と見なしました。
治世の初期、チャールズは、スペインやフランスとの間で行われた、不首尾に終わった戦争の戦費を調達するため、議会に多額の課税を要求しました。しかし、議会は、国王の寵臣であるバッキンガム公の無能な戦争指導を批判し、課税を承認する前に、まず不満の是正を求めました。これに業を煮やしたチャールズは、議会を解散し、議会の承認なしに「強制借用金」を取り立てるという強硬手段に出ました。これに抵抗した者は投獄されました。
1628年、財政的に追い詰められたチャールズは、再び議会を召集せざるを得ませんでした。議会は、課税を承認する見返りに、「権利の請願」を国王に突きつけました。これは、議会の同意なき課税、理由を示さない逮捕・投獄、そして民間人への軍隊の舎営を違法とする、イングランド人の自由を再確認する重要な文書でした。チャールズは不承不承これに同意しましたが、彼の態度は変わりませんでした。翌1629年、議会がロードの教会政策と国王による関税の徴収を非難する決議を可決しようとした際、チャールズは議会を解散し、以後11年間にわたって議会を召集しない「個人統治」を開始しました。この「11年の専制」は、国王と議会の間の溝を決定的に深め、武力衝突への道を準備することになりました。
内戦への道(1637–1642)
チャールズ1世の「個人統治」は、イングランドでは表面的には平穏に見えました。しかし、その水面下では、不満が静かに、しかし着実に蓄積されていました。そして、その均衡を破ったのは、イングランドではなく、北の王国スコットランドでした。チャールズが自らの宗教政策をスコットランドに押し付けようとした試みは、ブリテン諸島全体を巻き込む大火災の最初の火花となりました。
主教戦争と短期議会
1637年、チャールズ1世とロード大主教は、スコットランド国教会に、イングランド国教会の様式に近い新しい祈祷書を導入しようとしました。これは、スコットランド人の宗教的感情と国家的誇りを著しく軽視した、致命的な失策でした。エディンバラのセント・ジャイルズ大聖堂で新しい祈祷書が初めて使われた日、ジェニー・ゲディスという一人の女性が「あんたのミサをあたしの耳元で言うな!」と叫んで、司祭に椅子を投げつけたと伝えられています。この事件は、全国的な反乱の引き金となりました。
スコットランドの貴族、ジェントリ、そして聖職者たちは団結し、1638年に「国民盟約」に署名しました。これは、神とスコットランド国民の間の契約であり、国王による教会への「革新」に抵抗し、長老制教会を守ることを誓うものでした。盟約派は、事実上の臨時政府を組織し、軍隊を編成しました。
これに対し、チャールズは武力で反乱を鎮圧することを決意し、軍を召集しました。しかし、彼の軍は資金不足で士気も低く、1639年の第一次主教戦争は、本格的な戦闘がないまま、国王がスコットランド議会と教会総会の開催を認めるという、屈辱的な休戦で終わりました。その後開催された総会は、監督制の廃止を宣言し、国王の権威を公然と否定しました。
怒ったチャールズは、再び戦争を決意します。しかし、戦争を遂行するためには莫大な資金が必要であり、彼はついに、11年間無視し続けてきたイングランド議会を召集せざるを得ませんでした。1640年4月に召集されたこの議会は、「短期議会」として知られています。しかし、ジョン・ピムらに率いられた議員たちは、スコットランドとの戦争のための課税を承認する前に、まず「個人統治」の間の数々の不満(船税の徴収、ロードの教会政策など)を議論することを要求しました。わずか3週間後、チャールズは、自らの意に従わない議会に苛立ち、再び解散してしまいました。
議会の協力なしに、チャールズは第二次主教戦争に突入しましたが、結果は惨憺たるものでした。装備も士気も優れたスコットランド盟約軍は、ニューバーンの戦いで国王軍を簡単に打ち破り、イングランド北部のノーサンバーランドとダラムを占領しました。そして、占領を解く条件として、チャールズに莫大な賠償金の支払いを要求しました。財政的に破綻し、軍事的にも敗北したチャールズには、もはや選択肢がありませんでした。彼は、スコットランドへの賠償金を支払うための資金を調達するため、再びイングランド議会を召集するしかなかったのです。
長期議会の召集と国王への攻勢
1640年11月に召集された議会は、その後20年近く断続的に続くことになるため、「長期議会」と呼ばれます。この議会は、短期議会とは全く異なる決意を持っていました。彼らは、スコットランド軍がイングランド北部に駐留しているという状況を巧みに利用し、国王に対して攻勢に出ました。
ジョン・ピムの指導の下、議会はまず、国王の「悪しき顧問」たちを弾劾しました。ロード大主教と、アイルランド総督であったストラフォード伯トマス・ウェントワースが逮捕され、ロンドン塔に投獄されました。特にストラフォードは、アイルランドで強力な軍隊を組織し、それを使ってイングランドの反抗を鎮圧することを国王に進言したとされ、議会から最大の脅威と見なされていました。議会は彼を反逆罪で裁判にかけましたが、法的な証拠が不十分であったため、有罪に持ち込むことができませんでした。そこでピムは、裁判ではなく、「私権剥奪法」という、議会の立法によって特定の個人を処罰する強硬手段に訴えました。この法案が議会を通過し、ロンドンの群衆の圧力に屈したチャールズが、自らの最も忠実な家臣の死刑執行令に署名したことで、ストラフォードは1641年5月に処刑されました。
議会はさらに、国王の大権を制限する一連の立法を矢継ぎ早に可決しました。議会の同意なしに解散されることを防ぐ「三年議会法」、船税などの国王による恣意的な課税の禁止、そして星室庁や高等宗務官裁判所といった、国王の大権裁判所の廃止などです。これらの改革によって、「個人統治」を支えた制度的な柱は、次々と解体されていきました。この時点では、議員のほとんどは、君主制を廃止する意図はなく、国王の権力を法の下に置き、議会との協調に基づく「古来の国制」を回復することを目指していました。
アイルランド反乱と議会分裂
しかし、1641年秋、アイルランドから届いた衝撃的なニュースが、この比較的結束していた状況を一変させました。ストラフォードという強力な統治者がいなくなったアイルランドで、カトリック教徒がプロテスタントの植民者に対して大規模な反乱を起こしたのです。反乱は、土地の奪還と宗教の自由を求めるものでしたが、すぐに残虐な虐殺へと発展しました。プロテスタントの植民者が何千人も殺害されたという、誇張された噂がイングランドに伝わると、パニックと反カトリック感情が国中を覆いました。
反乱を鎮圧するために軍隊を派遣する必要があるという点では、誰もが同意していました。しかし、問題は、誰がその軍隊を指揮するのか、ということでした。ピムとその支持者たちは、もし国王に軍の指揮権を与えれば、彼はその軍をアイルランドではなく、ロンドンの議会に向けるのではないかと深く疑いました。彼らは、議会自身が軍の指揮官を任命すべきだと主張しました。これは、国王の伝統的な大権に対する前例のない挑戦でした。
この軍の指揮権をめぐる問題は、議会を二つに分裂させました。エドワード・ハイドやフォークランド子爵といった、それまでピムと共に国王の改革を進めてきた穏健派は、これ以上国王の権限を削ることは、国家の秩序そのものを破壊する危険な行為だと考えました。彼らは、国王を信頼し、伝統的な国制の枠組みの中で問題を解決すべきだと主張し始め、後の王党派の中核を形成していきます。
この分裂を決定的にしたのが、1641年11月に、わずか11票差で可決された「大抗議文」でした。これは、チャールズの治世における全ての失政を200以上の項目にわたって列挙し、国王の「悪しき顧問」と「カトリックの陰謀」を非難する文書でした。それは国王への請願というよりは、国民に向けたプロパガンダであり、国王への不信を公然と表明するものでした。
開戦へ
追いつめられたチャールズは、1642年1月、クーデターという最後の手段に訴えます。彼は、兵を率いて自ら庶民院に乗り込み、ジョン・ピム、ジョン・ハムデンを含む5人の主要な反対派議員を反逆罪で逮捕しようとしました。しかし、事前に情報を得ていた5人はすでに議会を脱出し、シティ・オブ・ロンドンに匿われていました。議長の席に座り、空の議場を見渡した国王は、「鳥は逃げてしまったようだ」と呟いて、手ぶらで引き下がるしかありませんでした。
この国王による議会特権の乱暴な侵害は、致命的な失敗でした。それは、国王が武力に訴える意思があることを誰の目にも明らかにし、彼に対する不信を決定的にしました。ロンドンは完全に議会派の支配下に入り、身の危険を感じたチャールズは、首都を脱出して北へと向かいました。
その後数ヶ月間、国王と議会は、それぞれが軍隊を編成し、武器庫を確保しようと競い合いました。和解の試みはすべて失敗に終わりました。1642年8月22日、チャールズ1世はノッティンガム城に王旗を掲げ、議会への服従を拒否する全ての臣民に、自らの下へ集まるよう呼びかけました。ピューリタン革命、すなわちイングランド内戦の火蓋は、ついに切られたのです。
第一次イングランド内戦(1642–1646)
1642年の夏、イングランドは二つに分かれました。国王を支持する「王党派(キャヴァリア)」と、議会を支持する「議会派(ラウンドヘッド)」。当初、多くの人々は、数週間か数ヶ月で終わる短期決戦を予想していましたが、戦争は4年近くにわたって国を荒廃させる、長く血なまぐさい紛争となりました。この過程で、議会派は、戦争に勝つために、軍事組織と政治戦略の根本的な改革を迫られることになります。
王党派と議会派
内戦における分裂の線引きは、単純なものではありませんでした。地理的には、国王はイングランドの北部と西部、そしてウェールズの大部分という、より農村的で保守的な地域で強い支持を得ました。一方、議会は、ロンドン、南東部、そして東部という、経済的に先進的で、ピューリタニズムの影響が強い地域を支配しました。しかし、すべての地域、すべての町、時にはすべての家族の中に、分裂は存在しました。
社会階層による分裂も、一概には言えません。一般的に、貴族の多くと、彼らに依存するジェントリは国王を支持しました。一方、ヨーマン(独立自営農民)や職人、そしてロンドンの商人層の多くは議会を支持しました。しかし、例外は数多くあり、議会派の貴族や王党派の商人も存在しました。究極的には、どちらの側につくかという決断は、個人の宗教的信条、地域社会での人間関係、そして国王と議会のどちらがより大きな脅威であるかという、個々人の判断に委ねられていました。
戦争の初期、王党派は軍事的に優位に立っていました。彼らの多くは、乗馬や武器の扱いに慣れたジェントリであり、国王の甥であるカンバーランド公ルパートのような、大陸の三十年戦争で経験を積んだ有能な騎兵指揮官もいました。一方、議会軍は、ロンドンの民兵(トレインド・バンド)を除けば、訓練も経験も不足していました。
初期の戦いと膠着状態
1642年10月、両軍の主力が初めて激突したのが、エッジヒルの戦いです。この戦いは、両軍ともに決定的な勝利を得られず、血なまぐさい引き分けに終わりました。その後、国王はロンドンに進軍しましたが、ターナム・グリーンで数に勝るロンドン民兵に行く手を阻まれ、オックスフォードに引き返して、そこを戦時首都としました。
翌1643年、戦況は王党派に有利に進みました。西部ではラルフ・ホプトン卿が、北部ではニューカッスル伯が、それぞれ議会軍を破り、支配地域を拡大しました。議会派の指導者ジョン・ピムは、この苦境を打開するため、北の隣国スコットランドに助けを求めます。その結果、1643年9月に「厳粛な同盟と規約」が結ばれました。議会は、スコットランドから2万の援軍を得る見返りに、イングランド国教会をスコットランドのような長老制に改革することを約束しました。
この同盟は、戦争の転換点となりました。1644年1月、スコットランド盟約軍がイングランド北部に侵攻し、ヨークに籠るニューカッスル伯の王党派軍を包囲しました。ルパート王子が救援に駆けつけ、両軍はヨーク西方のマーストン・ムーアで対峙しました。1644年7月2日のマーストン・ムーアの戦いは、内戦中最大の戦闘となりました。この戦いで、オリバー=クロムウェルが率いる東部連合の騎兵隊、通称「鉄騎隊」が、ルパート王子の無敗を誇った騎兵隊を打ち破るという、驚くべき活躍を見せました。戦いは議会・スコットランド連合軍の圧倒的な勝利に終わり、王党派はイングランド北部を完全に失いました。
ニューモデル軍の創設
しかし、マーストン・ムーアでの大勝利にもかかわらず、議会派は戦争を終わらせることができませんでした。南西部では、議会軍の総司令官であったエセックス伯が、ロストウィシエルで国王軍に包囲され、屈辱的な降伏を喫しました。第二次ニューベリーの戦いでも、議会軍は優勢な兵力にもかかわらず、王党派に決定的な打撃を与えることができませんでした。
これらの失敗の原因は、議会軍の指導部の分裂と戦争遂行への意欲の欠如にあると見なされました。エセックス伯やマンチェスター伯といった貴族の司令官たちは、国王との全面的な対決を望まず、妥協による和平を模索していました。クロムウェルは議会で、マンチェスター伯を「戦争を長引かせることで利益を得ている」と激しく非難しました。
この軍事的な行き詰まりを打開するため、議会は1645年初頭に、軍の抜本的な改革を断行します。まず、「辞退条例」が可決され、国会議員が軍の指揮官を兼任することが禁止されました。これにより、エセックス伯やマンチェスター伯は指揮権を返上しました。唯一の例外は、その軍事的才能が不可欠と見なされたクロムウェルでした。
次に、これまで各地に分散していた議会軍を統合し、議会が直接資金を供給し、中央で指揮する、全国規模の常備軍が創設されました。これが「ニューモデル軍」です。総司令官にはサー・トマス・フェアファクスが、騎兵隊の副司令官にはクロムウェルが任命されました。ニューモデル軍の特徴は、出自や社会的地位ではなく、能力によって将校が登用されたこと、兵士に定期的に給与が支払われたこと、そして厳格な訓練と、ピューリタニズムに基づく高い士気と規律を誇ったことでした。兵士たちは、自分たちが神の大義のために戦っていると信じていました。
ネイズビーの戦いと国王の敗北
新しく編成されたニューモデル軍は、すぐにその真価を発揮しました。1645年6月14日、ノーサンプトンシャーのネイズビーで、両軍の主力が激突しました。ネイズビーの戦いは、内戦の帰趨を決する戦いとなりました。
戦闘の序盤、ルパート王子の騎兵隊は、いつものように議会軍の左翼を突破し、追撃に入りました。しかし、その間に、クロムウェル率いる右翼の騎兵隊が、王党派の左翼を粉砕し、さらに方向転換して、中央で奮闘していた王党派の歩兵隊の側面に襲いかかりました。フェアファクスの歩兵隊も正面から猛攻をかけ、王党派の歩兵隊は完全に崩壊しました。国王は辛うじて戦場から脱出しましたが、彼の歩兵の主力は壊滅し、さらに重要なことに、彼の個人的な文書箱が鹵獲されました。
この文書箱からは、国王がアイルランドのカトリック教徒や大陸の諸国に軍事援助を求めていたことを示す手紙が発見されました。これは、国王がイングランドのプロテスタントの大義を裏切ろうとしていた証拠と見なされ、彼の信用を失墜させました。
ネイズビーの後、ニューモデル軍は、イングランドの西部と南西部で残存する王党派の拠点を次々と掃討していきました。1646年5月、チャールズ1世は、オックスフォードから脱出し、イングランド議会ではなく、ニューアークに駐留していたスコットランド盟約軍に投降しました。第一次イングランド内戦は、議会派の完全な勝利で幕を閉じたのです。
革命の急進化(1646–1649)
第一次内戦の勝利は、議会派に新たな、そしてより困難な問題をもたらしました。それは、戦後、どのような国家を建設するのか、そして敗北した国王をどう処遇するのか、という問題でした。この問題をめぐって、勝利者である議会派の内部で深刻な対立が生じ、革命はより急進的な方向へと突き進んでいくことになります。議会の長老派、軍の独立派、そして兵士たちの代弁者である水平派が、イングランドの未来をめぐって三つ巴の権力闘争を繰り広げました。
長老派、独立派、水平派
戦争が終わると、議会内の多数派を占めていたのは「長老派」でした。彼らは、国王との早期の和解を望み、君主制を維持しつつ、国王の権力を制限し、国教会を長老制に改革することを目指していました。彼らは、ニューモデル軍を、その宗教的な急進性と政治的な影響力の増大を理由に、脅威と見なしていました。
これに対し、軍の将校団、特にクロムウェルやその婿であるヘンリー・アイアトンに代表されるのが「独立派」でした。彼らは、各個教会の独立性を重んじ、長老制のような画一的な国教会制度の強制に反対し、ある程度の宗教的寛容(良心の自由)を求めました。彼らは、国王との和解には慎重で、将来の国王の権力乱用を防ぐための、より厳格な保証を求めました。
そして、軍の一般兵士やロンドンの職人たちの間に急速に支持を広げたのが「水平派」でした。ジョン・リルバーンらに率いられた彼らは、人民主権の原則を掲げ、財産資格によらない男子普通選挙権、隔年の議会選挙、そして宗教の完全な自由を盛り込んだ、成文憲法「人民協定」の制定を要求しました。彼らの思想は、当時のヨーロッパにおいて最も民主的で急進的なものでした。
議会と軍の対立
1647年、議会の長老派は、脅威であるニューモデル軍を解体しようと動きました。彼らは、兵士たちに支払われるべき給与の大部分を未払いのまま、軍を解散し、一部をアイルランドへ派遣するよう命じました。
これに対し、軍は激しく反発しました。兵士たちは、各連隊から代表(アジテーター)を選出し、将校たちと共に軍事会議を組織して、議会に対抗しました。彼らは、未払い給与の支払いと、将来の「良心の自由」の保障を要求しました。1647年6月、軍は、議会が国王と勝手に和解することを防ぐため、国王の身柄を確保するという実力行使に出ます。そして、ロンドンに進軍し、長老派の指導者11名を議会から追放するよう要求しました。軍は、もはや議会の道具ではなく、独立した政治勢力として行動し始めたのです。
この年の秋、軍の総評議会がロンドン郊外のパトニーで開催され、イングランドの将来の国制について、歴史的な討論が行われました(パトニー討論)。水平派の代表は「人民協定」を提示し、普通選挙権を要求しました。これに対し、アイアトンら軍の高級将校(グランディ)は、選挙権は財産を持つ者に限定されるべきだと反論し、社会秩序の崩壊を警告しました。この討論は、革命が生み出した思想の深さと、勝利者内部の亀裂の深刻さを示しています。
第二次内戦とプライドのパージ
この議会と軍の対立を見て、好機と捉えたのが、囚われの身のチャールズ1世でした。彼は、敵が分裂している状況を利用し、1647年末にワイト島でスコットランドの使節と秘密協定(エンゲージメント)を結びました。チャールズは、イングランドに長老制を試験的に導入する見返りに、スコットランドが彼を復位させるために軍を送ることを約束させたのです。
この協定を受けて、1648年の春から夏にかけて、イングランド各地で王党派の反乱が勃発し、スコットランド軍がイングランドに侵攻しました。これが第二次イングランド内戦です。ニューモデル軍は、再び戦場に戻り、これらの反乱を次々と鎮圧しました。クロムウェルは、プレストンの戦いでスコットランド軍を粉砕し、第二次内戦を終結させました。
この二度目の内戦は、軍の将兵たちを硬化させました。彼らは、チャールズ1世を、和平交渉を裏切り、再び国を血の海に沈めた「血にまみれた男」と見なすようになりました。彼らは、もはや国王とのいかなる交渉も不可能であり、彼を裁判にかけて正義の裁きを下すべきだと結論しました。
しかし、ロンドンの議会では、依然として長老派が多数を占めており、国王との和解交渉を継続しようとしていました。これに業を煮やした軍は、1648年12月6日、ついにクーデターを決行します。トーマス・プライド大佐が率いる部隊が議会を封鎖し、国王との和解に賛成した長老派の議員約140名を逮捕・追放しました。この「プライドのパージ」によって、議会に残ったのは、軍の意向に従う50~60名の独立派議員だけとなりました。この残部議会は「ランプ議会」と呼ばれます。
国王の裁判と処刑
軍の完全な支配下に置かれたランプ議会は、国王を裁くための高等裁判所を設置するという、前代未聞の決定を下しました。裁判は1649年1月20日にウェストミンスター・ホールで始まりました。チャールズ1世は、法廷の権威を認めず、「私は、神の恩寵により、イングランドの国王である。私を裁く権限を持つ法廷は、地上には存在しない」と主張し、弁護を拒否しました。
しかし、判決はすでに決まっていました。1月27日、裁判所は、チャールズ1世を「暴君、反逆者、殺人者、そして国家に対する公敵」として有罪とし、死刑を宣告しました。
1649年1月30日の凍てつくような寒い朝、チャールズ1世は、ホワイトホール宮殿の前に設けられた処刑台に、威厳を保ったまま登りました。彼は、群衆に向かって短い演説を行い、自らは「人民の自由のために殉教する」と述べました。そして、処刑人に合図を送り、斧の一振りで首をはねられました。処刑人が、その血に濡れた首を掲げ、「見よ、反逆者の首だ!」と叫んだとき、集まった群衆からは、歓声ではなく、うめき声が漏れたと伝えられています。
一人の国王が、自らの臣民の手によって公に処刑されるという出来事は、ヨーロッパ全土に衝撃を与えました。王権神授説という、何世紀にもわたってヨーロッパの政治秩序を支えてきた理念は、その神聖さを永遠に失いました。
コモンウェルスと護国卿時代(1649–1660)
国王の処刑は、革命を後戻りできない地点へと導きました。ランプ議会は、君主制と貴族院の廃止を宣言し、イングランドを「コモンウェルス(共和国)」とすることを布告しました。しかし、このブリテン史上初の共和政の実験は、内外の敵と内部の分裂に絶えず悩まされ、最終的には一人の人物、オリバー=クロムウェルの軍事独裁へと帰着します。この時代は、革命の理想が厳しい現実に直面した、矛盾に満ちた11年間でした。
コモンウェルスの挑戦=アイルランドとスコットランド
新しく誕生した共和国が直面した最初の脅威は、国境の外からやってきました。アイルランドでは、国王の処刑に衝撃を受けた王党派とカトリック同盟が手を結び、亡命中のチャールズ2世(処刑されたチャールズ1世の息子)への忠誠を宣言しました。スコットランドもまた、チャールズ2世を「グレートブリテン、フランス、アイルランドの王」として即位させ、彼が長老制を守ることを誓約するならば、王位回復を支援することを約束しました。コモンウェルスは、四方を敵に囲まれた、孤立した政権でした。
この脅威に対し、国務会議(ランプ議会によって設立された行政機関)は、オリバー=クロムウェルを司令官とする遠征軍をアイルランドに派遣することを決定します。1649年8月にアイルランドに上陸したクロムウェルは、冷酷なまでの効率性で反乱を鎮圧しました。彼は、王党派の拠点であったドロヘダとウェックスフォードで、降伏勧告を拒否した守備隊を皆殺しにし、多くの市民をも巻き添えにしました。これらの虐殺は、アイルランドの歴史に深い傷跡を残し、今日に至るまでクロムウェルの評判を汚すものとなっています。その後の数年間で、アイルランドは完全に征服され、カトリック教徒の土地の大部分が没収されて、議会軍の兵士や投機家たちに分配されました。
次にクロムウェルは、スコットランドに向かいました。1650年、チャールズ2世がスコットランドに上陸し、盟約派と手を組んだためです。クロムウェルは、ダンバーの戦いで、数的に優勢だったスコットランド軍を奇襲によって打ち破るという、見事な戦術的勝利を収めました。翌1651年、チャールズ2世は最後の賭けとして、スコットランド軍を率いてイングランドに侵攻しましたが、ウスターの戦いでクロムウェルに完璧に打ち破られました。チャールズ2世は辛うじて戦場を脱出し、大陸へと亡命しました。ウスターの戦いは、ピューリタン革命における最後の主要な戦闘となりました。
これらの軍事的勝利によって、クロムウェルはブリテン諸島全域を武力で統一しました。イングランド、スコットランド、アイルランドは、歴史上初めて、単一の共和政国家の下に統合されたのです。
ランプ議会の解散とベアボーンズ議会
外敵を制圧したクロムウェルと軍の指導者たちは、国内の改革に目を向けました。しかし、彼らの目には、ランプ議会は自己保身に走り、真の改革(特に法の改革や宗教の自由の推進)に遅々として取り組まない、腐敗した寡頭支配集団に映りました。軍は、議会が自らを解散し、新しい選挙を実施するよう繰り返し要求しました。
1653年4月20日、ランプ議会が、現職議員が自動的に次の議会の議席を確保できるような法案を可決しようとしていることを知ったクロムウェルは、ついに忍耐の限界に達します。彼は兵を率いて議会に乗り込み、議員たちを「詐欺師」などと罵り、「お前たちはここに長くいすぎた。もういい、出て行け。主がお前たちと縁を切ったのだ」と叫んで、武力で議会を解散させました。
権力の空白に直面したクロムウェルと軍の将校評議会は、選挙ではなく、軍が「敬虔な」人物と見なした人々を指名して、新しい議会を構成するという実験を試みました。こうして1653年7月に召集されたのが、140名の議員からなる「聖徒議会」、あるいはその議員の一人の名前にちなんで「ベアボーンズ議会」と呼ばれる議会です。この議会には、イングランドだけでなく、スコットランド、アイルランド、ウェールズからの代表も含まれていました。
ベアボーンズ議会は、その短い会期中に、結婚を宗教的儀式から民事契約へと改めるなど、いくつかの急進的な改革案を議論しました。しかし、議員たちは、より急進的な改革(十分の一税の即時廃止など)を求める第五王国派のようなグループと、より穏健なジェントリ議員との間で分裂しました。内部対立で行き詰まった議会は、わずか5ヶ月後の12月、自らその権力をクロムウェルに返還して解散しました。
護国卿政治
共和政の実験が二度も失敗に終わった後、軍の指導者たちは、より安定した統治形態を模索しました。その結果生まれたのが、イングランド初の(そして唯一の)成文憲法である「統治章典」でした。この憲法に基づき、1653年12月、オリバー=クロムウェルは、終身の「イングランド、スコットランド、アイルランドの護国卿」に就任しました。
護国卿政治は、事実上、国王のいない君主制でした。護国卿は、国務会議の助言を得て行政権を行使し、議会と権力を分かち合いました。議会は3年ごとに召集され、護国卿は議会が可決した法案に対して一時的な拒否権しか持ちませんでした。この体制は、革命の初期に多くの人々が望んだ、権力が制限された君主制、すなわち「混合政体」に非常に近いものでした。
護国卿として、クロムウェルは「癒しと和解」をスローガンに、国内の安定を図りました。彼は、プロテスタントであれば、その宗派を問わず、幅広い宗教的寛容を認めました。国教会は事実上廃止され、様々な宗派が共存しました。彼はまた、ユダヤ人が350年以上ぶりにイングランドに再定住することを許可しました。外交面では、強力な海軍を背景に、第一次英蘭戦争を終結させ、スペインとの戦争を開始し、ジャマイカを占領するなど、イングランドの国際的な地位を高めました。
しかし、護国卿政治は、その基盤の脆弱性に絶えず悩まされました。熱心な共和主義者たちは、護国卿を、王冠を戴かない王と見なし、彼を裏切り者と非難しました。王党派は、依然としてスチュアート家の復位を画策し、1655年には大規模な反乱(ペンラドックの蜂起)を試みました。
この反乱を受けて、クロムウェルは、イングランドとウェールズを11の軍管区に分け、それぞれに少将(メジャー・ジェネラル)を任命して統治させるという、直接的な軍政に移行しました。少将たちは、治安維持だけでなく、賭博や飲酒といった「不道徳な」行為を取り締まり、ピューリタン的な道徳を国民に強制しようとしました。この「少将の支配」は、国民に極めて不評であり、軍事独裁に対する人々の反感を強めました。
1657年、第二期護国卿議会は、安定を求めて、クロムウェルに国王の称号を提供する「謙虚な請願と勧告」を可決しました。これは、伝統的な君主制に戻ることで、軍の支配を終わらせ、法に基づいた統治を確立しようとする試みでした。クロムウェルは、数週間にわたって悩みましたが、最終的には、軍の古参幹部たちの強い反対に遭い、王位への就任を辞退しました。しかし、彼は、「謙虚な請願と勧告」の他の部分を受け入れ、これにより、護国卿は後継者を指名する権利を得、貴族院に代わる「第二院」が創設されるなど、体制はさらに君主制に近いものとなりました。
王政復古とその遺産
オリバー=クロムウェルの強力な個性と指導力によって、かろうじて維持されていた共和政は、彼の死と共に、急速に崩壊へと向かいました。革命の理想に疲れ、軍政にうんざりした国民は、安定と伝統的な秩序の回復を求め、最終的にスチュアート家の王を再び王座に迎えることを選択しました。しかし、革命がもたらした変化は、完全に消え去ったわけではありませんでした。
クロムウェルの死と共和政の崩壊
1658年9月3日、マーストン・ムーアとダンバーの戦勝記念日に、オリバー=クロムウェルは病のために亡くなりました。彼は、後継者に、野心も才能も乏しい息子のリチャードを指名しました。リチャード・クロムウェルは護国卿に就任しましたが、彼には父のような権威も、軍を統制する力もありませんでした。
軍の高級将校たちは、文民の支配に不満を抱き、リチャードに圧力をかけて、1659年5月に彼を辞任に追い込みました。権力の空白の中で、軍は、かつて自らが解散したランプ議会を再召集しました。しかし、議会と軍の間の対立はすぐに再燃し、互いに相手を解散させようとする、混乱した権力闘争が続きました。イングランドは、無政府状態に陥る寸前でした。
この混乱を収拾したのが、スコットランド駐留軍の司令官であったジョージ・マンク将軍でした。彼は、状況を冷静に見極め、1660年の初めに、軍を率いてロンドンへと進軍しました。彼は、ランプ議会を解散させ、プライドのパージで追放された長老派の議員を復帰させて、長期議会を正式に復活させました。そして、この議会に、新しい自由な選挙の準備をさせ、自らを解散させました。
王政復古
1660年4月に召集された新しい議会、「仮議会」は、圧倒的多数が王党派で占められていました。一方、亡命中のチャールズ2世は、マンクの助言を受け、オランダのブレダから宣言を発表しました(ブレダ宣言)。この中で、彼は、国王殺しに関与した者以外への恩赦、宗教的寛容、軍の未払い給与の支払い、そして革命中の土地所有権の変動を議会の決定に委ねることを約束しました。
この寛大な宣言は、イングランドで熱狂的に歓迎されました。仮議会は、イングランドの政府が国王、貴族院、庶民院によって構成されることを決議し、チャールズ2世を国王として招聘しました。1660年5月29日、30歳の誕生日に、チャールズ2世はロンドンに帰還し、熱狂する群衆に迎えられました。20年にわたる革命と共和政の実験は終わりを告げ、君主制が復活したのです。
王政復古後の和解は、比較的穏健なものでした。国王の裁判と死刑執行令に署名した「国王殺し」の者たちだけが、反逆罪で処刑されました。オリバー=クロムウェルの遺体は墓から掘り起こされ、「処刑」された後、その首はウェストミンスター・ホールに晒されました。しかし、大規模な報復や粛清は行われませんでした。
宗教的には、王政復古はピューリタンにとって後退を意味しました。1662年の「統一令」を含む一連の法(クラレンドン法典)によって、イングランド国教会における監督制と祈祷書が復活し、それに従わない聖職者は追放されました。これにより、約2000人のピューリタン聖職者が国教会を去り、「非国教徒」という恒久的なグループが形成されることになりました。
革命の遺産
王政復古は、一見すると、革命が完全に失敗し、すべてが元に戻ったかのように見えます。しかし、水面下では、不可逆的な変化が起きていました。
第一に、国王の権力は、革命前と同じものにはなり得ませんでした。チャールズ2世は、父のように神授権を主張することはできず、財政的に議会に依存していました。星室庁のような大権裁判所が復活することはなく、国王が議会なしで統治することは、もはや不可能でした。革命は、イングランドが絶対王政ではなく、議会が国家統治において恒久的な役割を果たす立憲君主制へと向かう道を決定的にしました。この力関係は、1688年の名誉革命で最終的に確立されることになります。
第二に、革命は、思想の領域に永続的な遺産を残しました。ジョン・ミルトンのような詩人は、共和主義の理想をその著作で擁護しました。ジェームズ・ハリントンは、政治的安定が財産の均衡に基づくと論じました。そして、水平派が提起した人民主権、自然権、そして宗教的寛容といった急進的な思想は、一度解き放たれた以上、完全に消え去ることはありませんでした。これらの思想は、後のジョン・ロックの政治哲学や、アメリカ独立革命、フランス革命に、深い影響を与えることになります。
第三に、宗教的な多様性が、意図せざる結果として、イングランド社会に根付きました。王政復古後の迫害にもかかわらず、非国教徒(長老派、独立派、バプテスト、クエーカーなど)は存続し、イングランドの宗教生活の恒久的な一部となりました。国家が国民の信仰を完全に統一するという、かつての理想は、もはや現実的ではなくなりました。
ピューリタン革命は、その直接の目的であったピューリタン的な共和国の樹立には失敗しました。しかし、それは、国王を処刑し、君主制を打倒できることを示し、権力と統治に関する全く新しい思想を解き放ちました。それは、ブリテン諸島の歴史を永遠に変え、近代的な立憲主義と民主主義への長く困難な道の、決定的に重要な一歩となったのです。