ステュアート朝とは
ステュアート朝の時代は、ブリテン諸島の歴史において、最も激動的で変革に満ちた一世紀余りを刻んでいます。1603年にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位したことから始まり、1714年のアン女王の死によって幕を閉じるまで、この王朝はイングランド、スコットランド、アイルランドの運命を大きく左右しました。それは、二つの王国が一人の君主を戴く同君連合の成立から、王と議会の対立が頂点に達した内戦、国王の処刑と共和制の樹立という前代未聞の実験、そして王政復古とめまぐるしい政変を経て、最終的に立憲君主制と議会主権の基礎が確立されるまでの、壮大な物語です。
ステュアート家の君主たちは、その多くが強烈な個性と、王権神授説に基づく高い自負心を持っていました。初代のジェームズ1世は、二つの王国を「グレートブリテン」として統合する夢を抱きましたが、その理想はイングランドとスコットランドの根深い相互不信の前に挫折します。彼の息子、チャールズ1世は、父以上に王権神授説を信奉し、議会との対立を深め、その非妥協的な姿勢は、王国を血で血を洗う内戦へと導き、最終的には自らの首を断頭台で失うという悲劇的な結末を迎えました。
続く11年間の共和制時代は、オリバー=クロムウェルという非凡な指導者の下で、君主制なき統治が試みられた、ブリテン史上唯一の期間でした。しかし、このピューリタン的な厳格な体制は、国民の支持を長くは得られず、クロムウェルの死後、国民は王政の復活を熱望します。
1660年の王政復古により、チャールズ2世が華々しく王位に就きました。彼は、父の悲劇を教訓とし、巧みな政治感覚で議会との協調を保ちながら、科学と芸術が花開く華やかな文化の時代を築きました。しかし、彼の治世の背後では、カトリックへの傾倒と後継者問題が、常に政治的な不安定の火種としてくすぶり続けていました。
その火種は、弟のジェームズ2世の即位によって、ついに燃え上がります。公然とカトリックを信仰するジェームズ2世は、カトリック教徒を要職に就け、議会を無視する強権的な政策を推し進めました。プロテスタントが大多数を占めるイングランドの支配層は、カトリックによる専制と王朝の永続を恐れ、オランダからジェームズ2世の娘メアリーとその夫ウィリアム(オラニエ公ウィレム)を招聘します。この無血の政変こそが「名誉革命」です。
名誉革命は、ジェームズ2世を追放し、ウィリアム3世とメアリー2世を共同統治者として迎え入れました。しかし、彼らが王位に就く条件として承認した「権利の章典」は、王権に対する議会の優位を法的に確立し、ブリテンが絶対君主制から立憲君主制へと移行する上で、決定的な一歩となりました。
ステュアート朝の最後の君主は、アン女王でした。彼女の治世に、長年の懸案であったイングランドとスコットランドの合同が実現し、グレートブリテン王国が誕生します。しかし、彼女は多くの子供を失い、ステュアート家の直系は彼女の代で途絶えることになりました。
ジェームズ1世
ステュアート朝のイングランド支配は、1603年、スコットランド王ジェームズ6世が、子供のいなかったエリザベス1世の後継者としてイングランド王位を継承したことから始まります。これにより、彼はイングランド王ジェームズ1世となり、歴史上初めてイングランドとスコットランドという二つの独立した王国が一人の君主の下に統治される「同君連合」が成立しました。彼の治世は、新たな王朝の始まりであると同時に、ブリテン諸島の歴史における新しい時代の幕開けを告げるものでした。
平和的継承とグレートブリテン構想
ジェームズのイングランド王位継承は、驚くほどスムーズに進みました。エリザベス女王の晩年、彼女の側近であったロバート=セシルは、ジェームズと秘密裏に連絡を取り合い、平和的な権力移譲を周到に準備していました。そのため、女王の死後、王位継承を巡る混乱は起こらず、ジェームズはイングランドの支配層から正統な後継者として歓迎されました。
スコットランドからロンドンへの旅の途中、ジェームズはイングランドの豊かさと民衆の熱狂的な歓迎に感銘を受け、この新しい王国を「約束の地」と呼びました。彼は、自らが統治する二つの王国を単なる同君連合にとどめず、法、教会、制度において完全に一つに統合し、「グレートブリテン」という名の統一国家を創設するという壮大なビジョンを抱いていました。彼は自らを「グレートブリテン王」と称し、新しい国旗(ユニオン=フラッグの原型)をデザインさせるなど、統合に向けた象徴的な試みを次々と行いました。
しかし、この構想は、イングランドとスコットランド双方の根強い抵抗に遭います。イングランド議会は、貧しいスコットランド人が南に流入してくることを警戒し、また、イングランドのコモン=ローとは異なるスコットランドの法体系との融合を嫌いました。一方のスコットランドも、より大きく豊かなイングランドに吸収され、自らのアイデンティティが失われることを恐れました。結局、ジェームズの理想は時代を先取りしすぎており、彼の存命中に実現することはありませんでした。
王権神授説と議会との対立
ジェームズは、スコットランドでの苦難に満ちた統治経験から、「王権は神から直接授けられたものであり、王は神に対してのみ責任を負う」という王権神授説の強固な信奉者となっていました。彼は、自らの思想を『自由なる君主国の真理の法』などの著作で理論化する、学者肌の君主でもありました。
しかし、この思想は、イングランドの政治的伝統とは相容れないものでした。イングランド議会、特に下院には、王の権力もまた、古来からの法と慣習によって制限されるべきであり、自分たちは国民の自由と権利を代表する存在であるという強い自負がありました。
この根本的な思想の違いは、特に財政問題を巡って、王と議会の間の絶え間ない緊張を生み出しました。ジェームズは、エリザベス女王から多額の負債を引き継いだ上、彼自身の浪費癖や寵臣への気前の良い下賜によって、王室財政をさらに悪化させました。彼が財政赤字を埋めるために議会に新たな税の承認を求めると、議会は王の浪費を批判し、税の承認と引き換えに様々な政治的要求を突きつけました。ジェームズは、これを王の大権に対する不遜な侵害と見なし、しばしば議会と激しく衝突しました。1610年の「大契約」の失敗や、1614年の「混乱議会」などは、この対立を象徴する出来事です。
宗教問題と外交
ジェームズの治世は、宗教的な緊張にも満ちていました。彼は、イングランド国教会内の改革を求めるピューリタンと、カトリック教徒という二つの勢力への対応に苦慮します。1604年のハンプトン=コート会議では、ピューリタンの要求のほとんどを退け、「主教なくして王なし」という言葉で、王が教会を支配する監督制を維持する固い決意を示しました。この会議の唯一の大きな成果が、1611年に完成した『欽定訳聖書』の編纂事業でした。
一方、カトリック教徒に対しては、当初は寛容な姿勢を見せましたが、1605年に発覚した「火薬陰謀事件」がその方針を覆します。国王と議会を一挙に爆殺しようとしたこの過激な陰謀は、イングランド社会に反カトリック感情を決定的に植え付け、カトリック教徒への弾圧を強化させる結果となりました。
外交面では、ジェームズは自らを「平和の王」と位置づけ、ヨーロッパ大陸の宗教対立から距離を置こうと努めました。三十年戦争が勃発した際も、彼は武力介入に消極的で、外交交渉による解決を模索しました。その中心にあったのが、王太子チャールズとカトリック国スペインの王女を結婚させる「スペインとの結婚」計画でしたが、これはイングランド国内のプロテスタント勢力の猛反対に遭い、最終的にはチャールズ自身の無謀なマドリード訪問の失敗によって破綻しました。
ジェームズ1世は、その老練な政治手腕と妥協の精神によって、治世中の破局を回避することに成功しました。しかし、彼が解決できなかった王と議会の対立、財政問題、そして宗教的な緊張は、すべて次の時代への負の遺産として引き継がれていくことになります。
チャールズ1世
1625年に父の後を継いだチャールズ1世の治世は、ステュアート朝、ひいてはブリテン史における悲劇の時代として記憶されています。父ジェームズ1世が抱えていた王権と議会の対立は、チャールズの非妥協的で頑固な性格と、深刻な宗教問題が絡み合うことで、ついに修復不可能なレベルにまで悪化し、王国を三つの内戦(イングランド内戦、または三王国戦争)へと導きました。その帰結は、国王自身の公開処刑という、ヨーロッパの君主たちを震撼させる前代未聞の出来事でした。
個人統治と財政政策
治世の初期から、チャールズは議会と激しく衝突しました。彼は、父以上に王権神授説を固く信じ、自らの行動を議会に説明したり、その制約を受けたりすることを屈辱と感じていました。議会が、彼の寵臣であるバッキンガム公の責任を追及し、十分な戦費の承認を拒否すると、チャールズは1629年、ついに議会を解散し、その後11年間にわたって議会を一切召集しない「個人統治」の時代を開始します。
議会からの税収が途絶えたため、チャールズは財政を維持するために、様々な手段を講じました。その中でも特に悪名高かったのが、「船税」の徴収です。もともとは沿岸部の都市にのみ、海軍の維持費として課されていたこの税を、チャールズは国王大権の名の下に、平時において全国の内陸部にまで拡大して恒久的に徴収しようとしました。ジョン=ハムデンというジェントリがこの支払いを拒否して起こした裁判は、国王側が辛勝したものの、船税が議会の承認なき違法な課税であるという認識を国民の間に広め、王に対する広範な不満と抵抗を生み出しました。
宗教政策とスコットランドの反乱
チャールズの治世における対立の核心には、常に宗教問題がありました。彼は、カンタベリー大主教ウィリアム=ロードと共に、国教会に「アルミニウス主義」と呼ばれる神学に基づいた改革を推し進めました。この改革は、儀式の重要性を強調し、教会の装飾を華美にするなど、多くのピューリタンやプロテスタント信者たちの目には、カトリックへの回帰、すなわち「ポープリー」(教皇主義)と映りました。フランス出身のカトリック教徒であるアンリエット=マリー王妃が宮廷で大きな影響力を持っていたことも、この疑念をさらに強めました。
この宗教政策が最初に破綻をきたしたのが、チャールズの故郷であるスコットランドでした。1637年、チャールズとロードは、イングランド国教会の様式に近い、新しい祈祷書をスコットランドの長老派教会(カーク)に強制的に導入しようと試みます。これに対し、スコットランド国民は猛反発しました。彼らは、これをイングランドによる宗教的・文化的な押し付けと見なし、自らの信仰と国家の独立を守るために立ち上がりました。
1638年、スコットランドの貴族や聖職者、市民たちは「国民盟約」に署名し、国王の宗教改革に抵抗することを誓いました。チャールズがこれを鎮圧するために軍を送ると、二度にわたる「主教戦争」が勃発します。しかし、資金も兵士の士気も不足していた国王軍は、結束の固いスコットランド盟約軍の前に無残な敗北を喫しました。
長期議会と内戦の勃発
スコットランドへの賠償金を支払うため、そして新たな軍資金を調達するため、チャールズは1640年、11年ぶりにイングランド議会を召集せざるを得なくなりました。しかし、短期間で解散された「短期議会」に続き、同年末に召集された議会は、その後20年近く断続的に続くことになる「長期議会」となります。
ジョン=ピムやジョン=ハムデンといった指導者に率いられた長期議会は、この機会を捉え、国王の専制政治に対する積年の不満を爆発させました。彼らは、国王の側近であったストラフォード伯とロード大主教を弾劾し、処刑に追い込みました。そして、船税などの議会の承認なき課税を違法とし、国王が議会を意のままに解散できないようにする法律(三年議会法など)を次々と可決し、国王の大権を大幅に制限していきました。
1641年、アイルランドでカトリック教徒によるプロテスタント植民者への大規模な反乱が勃発すると、事態はさらに悪化します。反乱鎮圧のための軍隊の指揮権を巡って、王と議会の対立は決定的なものとなりました。議会は、王に軍隊を委ねれば、その軍がイングランドの自由を弾圧するために使われるのではないかと恐れたのです。議会は、国王の失政を厳しく非難する「大抗議文」を僅差で可決しました。
追いつめられたチャールズは、1642年1月、武力に訴えるという致命的な過ちを犯します。彼は、兵を率いて自ら下院に乗り込み、ピムら5人の指導者の逮捕を試みました。しかし、彼らは事前に情報を得て逃亡しており、議場はもぬけの殻でした。国王による議会の特権の神聖不可侵な領域への武力介入は、もはや王との和解が不可能であることを多くの議員に確信させました。
ロンドン市民の敵意に身の危険を感じたチャールズは、首都を脱出し、北部のヨークへ向かいます。そして1642年8月22日、彼はノッティンガムで王旗を掲げ、議会への宣戦を布告しました。イングランドは、国王を支持する「王党派」(キャヴァリア)と、議会を支持する「議会派」(ラウンドヘッド)に二分され、血で血を洗う内戦へと突入したのです。
第一次イングランド内戦は、当初は一進一退の攻防が続きましたが、議会派がスコットランド盟約軍と同盟を結び、オリバー=クロムウェルが率いる規律の取れた「鉄騎隊」が活躍し始めると、戦局は次第に議会派に有利に傾いていきました。1645年のネイズビーの戦いでの決定的勝利の後、チャールズは敗北を認め、1646年にスコットランド軍に投降しました。
しかし、チャールズは敗北してもなお、王としての権威を諦めませんでした。彼は、議会派、スコットランド、そして軍部の間の対立を利用し、交渉を引き延ばしながら、自らに有利な条件での復権を画策します。そして1647年末、彼は秘密裏にスコットランドと協定を結び、イングランドに長老派教会を導入する見返りに、スコットランドが彼を支持してイングランドに侵攻することを約束させました。これが第二次イングランド内戦の引き金となります。
この国王の裏切りに、クロムウェルを中心とする軍の指導者たちは激怒しました。彼らは、チャールズを「血にまみれた男」と断じ、彼とのいかなる交渉も無意味であり、神の裁きにかけるべきだと結論付けました。第二次内戦に勝利した軍は、1648年12月、議会から国王との和解を望む穏健派議員を武力で追放します(プライドのパージ)。残された急進派議員のみで構成される「残部議会」(ランプ議会)は、国王を裁くための特別高等法院を設置しました。
1649年1月、チャールズ1世は、反逆罪、殺人罪、そして国民に対する暴君としての罪で告発されました。チャールズは、臣民が国王を裁く法廷の正統性を一貫して認めず、威厳ある態度を崩しませんでした。しかし、判決はすでに決まっていました。彼は有罪とされ、死刑を宣告されます。そして1649年1月30日、ロンドンのホワイトホール宮殿の前に設けられた断頭台で、チャールズ1世は公開処刑されました。彼の最期の言葉は、国民は自由と権利を持つが、それは統治に参加することではなく、法によって守られた生活を送ることである、というものでした。この国王の処刑は、王権神授説の完全な否定であり、ブリテンの歴史を、そしてヨーロッパの歴史を永遠に変える出来事でした。
共和制の時代=クロムウェルと空位期間
チャールズ1世の処刑後、イングランドは君主制を廃止し、歴史上唯一の共和制の時代へと足を踏み入れました。この約11年間にわたる「空位期間」(インターレグナム)は、オリバー=クロムウェルという一人の傑出した軍人政治家の指導の下、国家のあり方を根本から問い直す、壮大な政治的・社会的実験の時でした。しかし、このピューリタン的な理想に燃えた革命は、最終的には国民の支持を失い、王政復古への道を準備することになります。
イングランド共和国の成立とクロムウェルの征服活動
1649年、残部議会は君主制と貴族院の廃止を宣言し、イングランドを「共和国および自由国家」とすることを布告しました。統治権は、一院制の議会と、その執行機関である国務会議に委ねられました。しかし、この新しい共和国は、発足当初から内外に多くの敵を抱えていました。
国内では、国王処刑に反発する王党派の残党や、より急進的な社会改革を求める平等派(レヴェラーズ)などの勢力が、新政府への脅威となっていました。しかし、最大の危機は、アイルランドとスコットランドからもたらされました。
アイルランドでは、チャールズ1世の処刑後、カトリック同盟、王党派、そしてスコットランド系プロテスタントが、共通の敵であるイングランド議会に対抗するため、緩やかな連合を結成していました。これに対し、クロムウェルは1649年8月、自らニューモデル軍を率いてアイルランドに上陸します。彼の征服活動は、徹底的に過酷なものでした。特に、ドロヘダとウェックスフォードの町で、降伏した守備隊や市民を含む数千人が虐殺された事件は、アイルランドの歴史に深い傷跡を残し、後々までイングランドへの憎悪の源泉となりました。クロムウェルは、この残虐行為を、神の裁きであり、さらなる流血を避けるための必要悪であると正当化しました。この征服の結果、アイルランドの土地の大部分はカトリック教徒から没収され、イングランド兵やプロテスタント入植者に分配されました。
一方、スコットランドは、チャールズ1世の息子をチャールズ2世として王に迎え入れ、イングランドへの侵攻を準備していました。1650年、クロムウェルはアイルランドから帰還し、今度はスコットランドへ軍を向けます。彼は、ダンバーの戦いと翌1651年のウスターの戦いで、数的に優位なスコットランド軍を壊滅させ、決定的な勝利を収めました。チャールズ2世は、命からがら大陸へ逃亡し、スコットランドもまた、イングランドの軍事占領下に置かれることになりました。これらの征服活動によって、クロムウェルは共和国の安全を確保し、その軍事的名声を不動のものとしました。
護国卿体制
軍事的勝利を収めたクロムウェルでしたが、国内の政治改革は遅々として進みませんでした。彼は、残部議会が自己の利益ばかりを追求し、真の改革を行う意志がないことに次第に不満を募らせていきました。1653年4月、ついに堪忍袋の緒が切れたクロムウェルは、兵を率いて議会を訪れ、「お前たちはここに長くいすぎた。神の名において、去れ!」という有名な言葉と共に、議員たちを力ずくで解散させてしまいます。
議会を追放した後、クロムウェルは、軍の将校たちと共に、新たな統治体制を模索します。当初、彼は「聖者たちの議会」とも呼ばれる、指名制の議会(ベアボーンズ議会)を設立し、敬虔なピューリタンたちに国の改革を委ねようとしました。しかし、この議会もまた、急進的すぎる改革案を巡って内部対立に陥り、自ら解散してしまいます。
この政治的混乱の中、軍の指導者たちは、成文憲法である「統治章典」を起草し、クロムウェルを終身の「護国卿」とする新しい統治体制を樹立しました。これが「護国卿体制」の始まりです。この体制は、護国卿を行政の長とし、国務会議と、財産資格に基づいて選出される一院制の議会が権力を分担するという、一種の権力分立を目指したものでした。
護国卿として、クロムウェルは事実上の国王のように振る舞いました。彼は、ホワイトホール宮殿に住み、国家元首として外交を行い、法律を制定しました。彼の統治の下で、国内の秩序は回復され、オランダとの第一次英蘭戦争に勝利するなど、外交的にもイングランドの威信は高まりました。
しかし、護国卿体制もまた、安定した政治基盤を築くことはできませんでした。クロムウェルは、自らが召集した議会と常に対立しました。議員たちは、軍の権力が強すぎることや、統治章典が議会の承認を得ていないことを批判しました。また、クロムウェルは、国内を11の軍政区に分け、それぞれに少将を配置して、道徳的な規律を強制しようと試みました(軍政監制度)。この軍による直接統治は、国民に極めて不評であり、専制政治への恐怖を掻き立てました。
1657年、議会はクロムウェルに国王の称号を奉ることを提案します(謙虚な請願と勧告)。これは、伝統的な君主制の枠組みに戻ることで、政治を安定させようという試みでした。クロムウェルは、数週間にわたって悩みましたが、最終的には、軍の古参幹部たちの強い反対を受け、王になることを辞退しました。しかし、彼は護国卿の地位を世襲とし、後継者を指名する権利を受け入れました。
共和制の崩壊と王政復古
1658年9月3日、オリバー=クロムウェルは、マラリアと悲しみのうちに亡くなりました。彼の死は、護国卿体制の終焉の始まりでした。彼の息子であるリチャード=クロムウェルが後を継ぎましたが、彼には父のようなカリスマ性も軍を統率する力もありませんでした。軍の指導者たちと議会の間の権力闘争が再燃し、リチャードはわずか8ヶ月で辞任に追い込まれます。
政治的な権力の空白が生じ、イングランドは無政府状態に陥る寸前でした。この混乱を収拾したのが、スコットランド駐留軍の司令官であったジョージ=マンク将軍でした。彼は、状況を冷静に見極め、軍を率いてロンドンへ進軍します。彼は、追放されていた長期議会の議員たちを呼び戻し、新しい議会を選出するための自由な選挙を行うことを宣言しました。
1660年4月に召集された新しい議会(仮議会)は、王党派が多数を占めていました。一方、大陸に亡命していたチャールズ2世は、マンクの助言を受け、「ブレダ宣言」を発表します。この宣言の中で、チャールズは、内戦中の行為に対する恩赦、信仰の自由の容認、兵士への未払い給与の支払い、そして土地所有権の安定を約束しました。この寛大な提案は、秩序の回復と伝統的な統治への復帰を望んでいた国民に、熱狂的に受け入れられました。
仮議会は、直ちにチャールズ2世を正統な国王として承認することを決議し、彼に帰国を要請しました。1660年5月29日、彼の30歳の誕生日に、チャールズ2世はロンドンに凱旋しました。民衆は歓喜の声を上げ、共和制の実験は終わりを告げ、ステュアート朝の王政が復活したのです。この一連の出来事は、ほとんど血を流すことなく達成されたため、「王政復古」と呼ばれています。それは、革命の理想主義とピューリタン的な厳格さに疲れた国民が、安定と伝統、そして何よりも「普通の生活」を取り戻すことを選んだ結果でした。
王政復古
1660年の王政復古は、イングランドにステュアート朝の君主制を復活させましたが、それは内戦以前の状況への単純な回帰ではありませんでした。チャールズ2世と、その後を継いだ弟のジェームズ2世の治世は、革命の記憶と、王権と議会の関係、そして何よりも宗教問題を巡る根深い対立に、常に揺さぶられ続けました。この時代は、華やかな文化の開花と、深刻な政治的危機の両方を特徴とし、最終的にはもう一つの革命である「名誉革命」へとつながっていきます。
チャールズ2世=陽気な王の治世
長い亡命生活を終えて帰国したチャールズ2世は、「陽気な王」として知られています。彼は、父チャールズ1世の厳格さとは対照的に、機知に富み、魅力的で、快楽を愛する人物でした。彼の宮廷は、ピューリタン時代の厳格な道徳から解放され、フランス風の華やかさと洗練、そして奔放な雰囲気に満ちていました。演劇が復活し、科学(王立協会の設立)と芸術が花開き、ネル=グウィンに代表される多くの愛人たちが、王の寵愛を競い合いました。
政治家としてのチャールズ2世は、父の悲劇的な運命を教訓としていました。彼は、現実主義者であり、生き残るためには妥協が必要であることを理解していました。治世の初期、彼は「ブレダ宣言」の約束を守り、国王弑逆に関わった者たちを除いて、内戦中の行為に対する広範な恩赦を与えました。
しかし、宗教問題は、彼の治世を通じて最も困難な課題であり続けました。王政復古後の議会(騎士議会)は、熱烈な王党派と国教会信者が多数を占めており、ピューリタン(非国教徒)に対する報復的な政策を推し進めました。1661年から1665年にかけて制定された一連の法律(クラレンドン法典)は、非国教徒が公職に就くことや、独自の礼拝を行うことを厳しく制限し、イングランド国教会の優位を再び確立しました。
チャールズ自身は、個人的には宗教的寛容を望んでおり、カトリックに同情的でした。彼は、1672年に「信仰自由宣言」を発し、非国教徒とカトリック教徒に信仰の自由を与えようと試みます。しかし、これは議会の猛烈な反発を招きました。議会は、国王が議会の制定した法律を停止する権限を持つことを認めず、宣言の撤回を要求しました。さらに、その見返りとして、カトリック教徒が公職に就くことを禁じる「審査法」(Test Act)を可決しました。追いつめられたチャールズは、宣言を撤回せざるを得ませんでした。この出来事は、王権に対する議会の力が、内戦前よりも格段に強まっていることを示していました。
カトリック陰謀事件と王位継承問題
チャールズ2世の治世後半を揺るがした最大の危機は、王位継承問題と、それに関連して捏造された「カトリック陰謀事件」でした。チャールズ2世と正妻のキャサリン=オブ=ブラガンザの間には子供がおらず、最も近い王位継承者は、公然とカトリックに改宗していた彼の弟、ヨーク公ジェームズでした。
プロテスタントが大多数を占めるイングランドにおいて、将来カトリック教徒の王が誕生することへの不安と恐怖は、根強いものがありました。この国民的な不安に火をつけたのが、1678年にタイタス=オーツという人物が告発した、大規模なカトリック教徒による陰謀でした。オーツは、イエズス会士たちがチャールズ2世を暗殺し、ジェームズを王位に就け、イングランドを武力でカトリック化しようとしていると主張しました。
この告発は全くの捏造でしたが、反カトリック感情が高まっていた当時の社会では広く信じられ、パニックを引き起こしました。多くの無実のカトリック教徒が逮捕され、処刑されました。このヒステリーの中で、シャフツベリ伯アンソニー=アシュリー=クーパーを中心とする政治家の一派は、この機に乗じてヨーク公ジェームズを王位継承から排除しようと画策します。
1679年から1681年にかけて、彼らはジェームズの継承権を剥奪するための「王位継承排除法案」を、三度にわたって議会に提出しました。この法案を巡って、イングランドの政治エリートは二つの派閥に分裂します。ジェームズの継承権を排除し、議会の権利を擁護しようとする「ホイッグ党」(後の自由党の源流)と、正統な王位継承の原則と国王の特権を支持する「トーリー党」(後の保守党の源流)です。これが、イングランドにおける近代的な政党政治の始まりでした。
チャールズ2世は、弟の継承権を守るために断固として戦いました。彼は、巧みに議会を解散させ、ホイッグ党の指導者たちを弾圧し、最終的に王位継承排除の動きを封じ込めることに成功します。治世の最後の数年間、彼は議会を召集せず、トーリー党の支持を背景に、事実上の専制的な統治を行いました。そして1685年、チャールズ2世は亡くなります。彼は、死の床でカトリックに改宗したと言われています。
ジェームズ2世と名誉革命
チャールズ2世の死後、弟のジェームズ2世が、大きな反対もなく平和裏に即位しました。当初、彼は国教会を保護することを約束し、多くの国民は彼に忠誠を誓いました。しかし、ジェームズ2世は、兄チャールズのような柔軟性や政治的嗅覚に欠けていました。彼は、頑固で短気な性格であり、自らのカトリック信仰を広めるという使命感に燃えていました。
即位後間もなく、彼はその本性を現し始めます。彼は、審査法を無視して、カトリック教徒を軍や政府、大学の要職に次々と任命しました。彼は、国王が議会の制定した法律の適用を特定の個人や団体に対して免除する権限や、法律の執行を完全に停止する権限を持つと主張し、1687年には新たな「信仰自由宣言」を発して、カトリック教徒を含むすべての国民に信仰の自由を認めようとしました。
これらの政策は、イングランドの支配層である国教会信者のジェントリや貴族たちの間に、深刻な警戒心と反発を引き起こしました。彼らは、ジェームズがカトリックによる絶対君主制をイングランドに確立しようとしていると確信しました。カンタベリー大主教を含む7人の主教が、宣言を教会で読み上げることを拒否して請願書を提出すると、ジェームズは彼らを扇動罪で裁判にかけました。しかし、ロンドンの陪審は主教たちに無罪の評決を下し、民衆は熱狂的に彼らを祝福しました。これは、ジェームズの政策に対する国民的な不支持を明確に示す出来事でした。
それでもなお、多くの人々は、ジェームズが高齢であり、彼の後継者はプロテスタントである二人の娘、メアリーとアンであることから、彼の治世が終わるまで耐え忍ぼうと考えていました。しかし、1688年6月、事態を決定的に変える出来事が起こります。ジェームズの二番目の妻でカトリック教徒のメアリー=オブ=モデナが、男子(ジェームズ=フランシス=エドワード)を出産したのです。
カトリックの王子の誕生は、イングランドにカトリック王朝が永続する可能性を現実のものとしました。この悪夢のシナリオを前に、ホイッグ党とトーリー党の有力者たちは、党派を超えて団結します。彼らは、秘密裏に7人の連名で書状を送り、ジェームズ2世の長女メアリーの夫であり、オランダ共和国の総督(統領)で、プロテスタントの擁護者として知られていたオラニエ公ウィレム(英語名ウィリアム)に、軍を率いてイングランドに来航し、「プロテスタントの信仰と自由」を守るよう要請しました。
ウィリアムは、フランスのルイ14世の強大化に対抗するため、イングランドを自らの対フランス大同盟に引き入れることを狙っており、この要請を承諾します。1688年11月5日、ウィリアムは1万5千の軍隊と共にイングランド南西部のトーベイに上陸しました。彼は、戦争ではなく、自由な議会を招集するために来たと宣言しました。
ジェームズ2世は、軍を率いてウィリアムを迎え撃とうとしましたが、彼の軍隊からは、ジョン=チャーチル(後のマールバラ公)をはじめとする有力な将校たちが次々とウィリアム側に寝返っていきました。さらに、次女のアンまでもが彼を見捨ててウィリアムの陣営に加わったことに、ジェームズは完全に打ちのめされます。支持者を失い、孤立無援となったジェームズは、戦うことなく首都を放棄し、妻子と共にフランスへ亡命しました。
この一連の出来事は、ほとんど血が流されることなく達成されたため、「名誉革命」と呼ばれています。それは、国王による専制の試みに対する、イングランドの政治的・宗教的エリート層によるクーデターでした。
立憲君主制の確立=ウィリアム、メアリー、そしてアン
ジェームズ2世の亡命によって生じた権力の空白を埋めるため、1689年に新たな議会(仮議会)が召集されました。この議会は、イングランドの政治体制の将来を決定する、歴史的な役割を担うことになります。名誉革命とその後の和解は、ステュアート朝の絶対君主制への最後の試みを終わらせ、王権に対する議会の優位を確立し、ブリテンにおける立憲君主制の基礎を築きました。
共同統治と権利の章典
仮議会での議論の末、王位はジェームズ2世の長女メアリーだけに与えられるのではなく、彼女とその夫ウィリアムが、共同統治者ウィリアム3世とメアリー2世として即位することが決定されました。ただし、実質的な統治権はウィリアムが握ることになりました。
しかし、彼らが王位に就くための条件として、議会は「権利の宣言」として知られる文書を提示し、彼らにその受諾を求めました。この宣言は、後に「権利の章典」として法制化され、イングランド憲法史における最も重要な文書の一つとなります。
権利の章典は、ジェームズ2世が行ったような、国王による専制的な行為を違法とすることを目的としていました。その主な内容は以下の通りです。
議会の承認なく、国王が法律を停止したり、その執行を免除したりすることは違法である。
議会の承認なく、国王が金銭を徴収すること(課税)は違法である。
平時において、議会の承認なく、国王が常備軍を維持することは違法である。
議会議員の選挙は自由でなければならない。
議会内での言論の自由は、議会外のいかなる場所でも問責されたり、問題にされたりしてはならない。
議会は、頻繁に召集されなければならない。
ウィリアムとメアリーがこの宣言を受け入れて王位に就いたことは、王権がもはや神から与えられた絶対的なものではなく、法と議会によって制限される、国民との契約に基づくものであることを象徴していました。これにより、王権神授説は事実上終わりを告げ、議会主権の原則が確立されたのです。
また、同時に制定された「寛容法」は、カトリック教徒やユニテリアン派を除く非国教徒プロテスタントに、自らの礼拝所を持つなどの信仰の自由を認めました。これは完全な宗教的平等ではありませんでしたが、国教会による一元的な支配を終わらせ、宗教的多元主義への重要な一歩となりました。
ウィリアムの治世は、その大半がヨーロッパ大陸での対フランス戦争(大同盟戦争)に費やされました。この戦争の莫大な戦費を賄うため、政府は新たな財政システムを構築する必要に迫られます。1694年のイングランド銀行の設立や、国債制度の整備といった「財政革命」は、政府が安定して巨額の資金を調達することを可能にし、後の大英帝国の経済的基盤を築きました。
スコットランドでは、ジェームズを支持するジャコバイトの反乱(キリークランキーの戦いなど)が起こりましたが鎮圧され、アイルランドでは、亡命したジェームズ2世がフランス軍の支援を得て上陸し、カトリック教徒を率いて抵抗しました。しかし、1690年のボイン川の戦いでウィリアム軍が決定的な勝利を収め、ジェームズの王位奪還の夢は完全に潰えました。この勝利は、アイルランドにおけるプロテスタント支配を決定的なものとしました。
1694年にメアリー2世が天然痘で亡くなると、ウィリアムは単独で統治を続けました。彼の治世の末期、1701年には、後継者問題を解決するための「王位継承法」が制定されます。これは、ウィリアムと、彼の後継者であるアン(メアリーの妹)のいずれにも子供が生き残らなかった場合、王位はジェームズ1世の孫娘にあたるハノーファー選帝侯妃ゾフィーとそのプロテスタントの子孫に継承されることを定めたものでした。これにより、カトリック教徒がブリテンの王位に就く可能性は、永久に排除されることになりました。
アン女王とグレートブリテン王国の誕生
1702年にウィリアム3世が亡くなると、王位継承法に基づき、ジェームズ2世の次女であり、プロテスタントであるアンが即位しました。彼女は、ステュアート家最後の君主となります。
アン女王の治世は、二つの大きな出来事によって特徴づけられます。一つは、ウィリアムの時代から続いていたスペイン継承戦争です。ジョン=チャーチル(マールバラ公)の天才的な軍事的指導の下、イングランド(後のグレートブリテン)軍は、ブレンハイムの戦いをはじめとする一連の輝かしい勝利を収め、ヨーロッパにおける軍事大国としての地位を確立しました。
もう一つの、そしてより永続的な成果が、1707年のイングランドとスコットランドの合同です。1603年以来、両国は同じ君主を戴く同君連合の関係にありましたが、それぞれが独自の議会と法体系を持つ独立した国家でした。しかし、スコットランドがイングランドの貿易体制から締め出されていることへの経済的な不満や、イングランド側が王位継承の安定を確保したいという思惑から、完全な政治的統合への機運が高まりました。
交渉の末、1707年に「合同法」が両国の議会で可決されます。これにより、イングランド王国とスコットランド王国は廃止され、新たに「グレートブリテン王国」が誕生しました。スコットランドはウェストミンスターの新しいグレートブリテン議会に議員を送ることになり、イングランドとの自由貿易が認められました。ただし、スコットランドは独自の法体系と教会(長老派教会)を維持することが保証されました。これは、ジェームズ1世が夢見た統一国家が、一世紀の時を経てついに実現した瞬間でした。
アン女王の私生活は、悲劇に彩られていました。彼女は何度も妊娠しましたが、多くの子供が死産または夭逝し、唯一成人まで成長したグロスター公ウィリアムも11歳で亡くなってしまいました。彼女自身の健康も良くなく、痛風に苦しめられました。
政治的には、彼女の治世はホイッグ党とトーリー党の激しい党派対立によって特徴づけられます。アンは、個人的にはトーリー党に好意的でしたが、戦争を遂行するため、長らくホイッグ党中心の内閣に頼らざるを得ませんでした。しかし、戦争が長期化するにつれて、和平を求めるトーリー党が勢いを増し、治世の後半にはトーリー党が政権を握りました。
1714年8月1日、アン女王は後継者を残すことなく亡くなりました。これにより、ステュアート家の直系による王位継承は終わりを告げます。王位継承法に基づき、王冠は遠縁にあたるドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク=ルートヴィヒに渡され、彼はジョージ1世として即位し、ハノーヴァー朝が始まりました。ステュアート朝の時代は、こうして静かに幕を閉じたのです。
ステュアート朝の111年間は、ブリテン諸島が中世的な王権神授説に基づく君主制から、近代的な立憲君主制へと移行する、苦難に満ちた、しかし決定的に重要な過渡期でした。この王朝の物語は、宗教的対立、政治的イデオロギーの衝突、そして個々の君主の性格が、いかに国家の運命を劇的に左右したかを示す、鮮烈な実例です。
ジェームズ1世がイングランド王位に就いた時、彼は二つの王国を一つの偉大な国家に統合するという壮大な夢を抱いていました。しかし、彼の王権神授説と、イングランド議会の権利意識との間の溝は、彼の治世を通じて埋まることはありませんでした。
その溝は、息子のチャールズ1世の治世に、修復不可能な亀裂へと変わります。彼の非妥協的な宗教政策と専制的な統治は、王国を内戦の奈落へと突き落とし、最終的には国王自身の処刑という、ヨーロッパ史における画期的な出来事を引き起こしました。それは、国民が王を裁き、処刑しうるという、革命的な前例を打ち立てた瞬間でした。
続く共和制の実験は、オリバー=クロムウェルという非凡な個人の力によって支えられましたが、そのピューリタン的な厳格さと軍事独裁的な側面は、国民の心をつなぎとめることができず、王政復古への道を開きました。
チャールズ2世とジェームズ2世の王政復古の時代は、一見すると内戦以前への回帰のように見えましたが、その水面下では、革命の経験が社会の構造を恒久的に変えていました。議会は、もはや王の意のままになる存在ではなく、王権と対峙し、時にはそれを制限する力を持つ、国家の不可欠な構成要素となっていました。ジェームズ2世が、この新しい現実を理解せず、カトリックによる絶対君主制を復活させようとした時、イングランドの支配層は、党派を超えて彼を排除することを選びました。
名誉革命は、この一世紀にわたる闘争の集大成でした。それは、流血を伴わずに達成された政変であり、その後の「権利の章典」と「王位継承法」によって、王は法の下にあり、その権力は議会によって制限されるという「立憲君主制」の原則を、法的に不可逆なものとしました。
ステュアート朝最後の君主であるアン女王の治世に、イングランドとスコットランドが合同してグレートブリテン王国が誕生したことは、この王朝が始まった時のジェームズ1世の夢が、形を変えて実現したことを意味します。しかし、アンの死と共にステュアート家の血筋が途絶え、王冠がドイツのハノーヴァー家に渡ったことは、この王朝の終焉を象徴していました。
ステュアート朝の遺産は、複雑で多岐にわたります。それは、内戦の深い傷跡と、アイルランドにおける征服の記憶を残しました。しかし同時に、王と議会の闘争の中から、議会主権、法の支配、そして個人の自由といった、近代的な立憲主義の基礎となる原則を生み出しました。欽定訳聖書から王立協会、そして政党政治の誕生に至るまで、この時代の文化と知性の遺産もまた、計り知れないものがあります。