バルト海貿易とは
近世ヨーロッパ(おおよそ1500年から1800年)の経済的繁栄と社会の変容を語る上で、地中海や大西洋で行われた華やかな交易の陰に隠れがちながら、決して見過ごすことのできない経済活動の舞台がありました。それが、北ヨーロッパに広がる内海、バルト海を中心とした交易ネットワークです。この「バルト海交易」は、当時のヨーロッパにとって、生命線ともいえる不可欠な役割を担っていました。それは、西ヨーロッパの急成長する都市と人口を支えるための穀物や、海運国家の隆盛に不可欠な造船資材といった、嵩張る基礎物資の主要な供給源だったからです。
この交易は、単なる物資の交換ではありませんでした。それは、東ヨーロッパの広大な後背地で生産される原材料と、西ヨーロッパの先進的な工業製品や資本とを結びつける、巨大な経済システムでした。ポーランド=リトアニア共和国の平原で収穫されたライ麦や小麦は、グダニスク(ダンツィヒ)の港から船積みされ、アムステルダムの穀物市場を経て、飢饉に苦しむスペインやイタリアの港まで運ばれました。スカンディナヴィアの森林から切り出された木材や、ロシアの奥地から集められたタールや麻は、オランダやイギリスの造船所で無数の商船や軍艦へと姿を変え、世界中の海へと乗り出していきました。
交易の構造
近世ヨーロッパのバルト海交易は、地理的に広大で、多種多様な商品が取引される複雑なネットワークでした。その構造を理解するためには、どのような商品が、どの地域からどの地域へと運ばれ、そしてどのような人々がその担い手であったのかを把握することが不可欠です。この交易は、本質的に、東ヨーロッパの資源豊かな後背地と、西ヨーロッパの資本と市場とを結びつけるものであり、その流れはヨーロッパ経済の動脈として機能していました。
交易品
バルト海交易で取引された商品は多岐にわたりましたが、その中心にあったのは、西ヨーロッパの経済と社会の維持に不可欠な、嵩張る基礎物資でした。
穀物: 中でも最も重要な商品は穀物、特にライ麦と小麦でした。16世紀以降、西ヨーロッパでは人口が増加し、都市化が急速に進んだ結果、食料の自給が困難になりました。この「飢える西」に対して、ポーランド=リトアニア共和国や東プロイセンといったバルト海南岸の広大な平原地帯は、「ヨーロッパの穀倉」として、大量の穀物を供給しました。ヴィスワ川などの河川を通じて内陸の荘園からグダニスク(ダンツィヒ)やエルブロンク(エルビング)といった港に集められた穀物は、オランダの船団によってアムステルダムへと運ばれ、そこからヨーロッパ各地へと再輸出されました。この穀物交易は、西ヨーロッパの食料安全保障を支える生命線でした。
海軍資材: 穀物に次いで重要だったのが、海運国家の隆盛に不可欠な海軍資材、すなわち造船用の木材、マスト、ピッチ(松脂)、タール、そして帆布やロープの原料となる麻や亜麻です。これらの資材は、スカンディナヴィア半島、特にノルウェーやスウェーデンの広大な森林、そしてロシアの奥地から供給されました。特に、大型船のマストに適した真っ直ぐで長い松材は、バルト海沿岸の特定地域でしか産出されない貴重品でした。オランダやイギリスの商船隊と海軍の建設と維持は、このバルト海からの資材供給なくしては不可能であり、これらの物資の確保は国家の戦略的課題でした。
その他の輸出品: これら二大商品に加えて、バルト海地域からは様々な原材料が輸出されました。スウェーデンはヨーロッパ有数の鉄と銅の産地であり、その製品は兵器生産や貨幣鋳造に用いられました。また、ロシアからは毛皮や皮革、蜜蝋などが、バルト海沿岸地域からは琥珀や魚(特にニシン)などが西へと運ばれました。
輸入品: 一方、西ヨーロッパからバルト海地域へは、より高価で加工された製品が輸入されました。その代表格は、フランドルやイギリスで生産された毛織物やその他の織物でした。また、フランスやラインラントからはワインやブランデーが、ポルトガルやその植民地からは塩や香辛料、砂糖といった商品が、オランダの商人たちを介してバルト海市場にもたらされました。これらの奢侈品は、主に東ヨーロッパの貴族階級によって消費されました。
担い手と航路
この巨大な交易ネットワークの主役は、商人たちと彼らが所有する船団でした。中世後期にはハンザ同盟の商人たちがこの海域を支配していましたが、近世に入ると、その地位はネーデルラント、特にオランダの商人たちに取って代わられました。
オランダの商人たちは、「母なる交易」と呼んでバルト海交易を重視しました。彼らは、効率的な設計で知られる「フライト船」という、少人数で運航でき、積載量の大きい商船を開発・運用しました。この船は、嵩張って単価の安い穀物や木材を低コストで大量に輸送するのに最適でした。
交易の主要な航路は、バルト海の出入り口であるデンマーク海峡(エーレスンド海峡)を通過するものでした。船団は、アムステルダムなどのオランダの港を出航し、海峡を抜けてバルト海に入り、グダニスク、リガ、タリン(レヴァル)、ナルヴァといった主要な港を目指しました。そこで穀物や海軍資材を積み込むと、再び海峡を抜けて西へと戻りました。この航路は、ヨーロッパ経済の主要な動脈であり、その交通量は膨大なものでした。例えば、エーレスンド海峡を通過する船舶の通行記録によれば、17世紀には年間数千隻の船がこの海峡を行き来しており、その大半がオランダ船でした。
この交易システムは、単に東と西を往復するだけではありませんでした。アムステルダムは、バルト海からの商品と、地中海や大西洋、アジアからの商品を一手に集める巨大な国際商品取引所(ステープル市場)として機能しました。バルト海の穀物は、ここで南欧の塩やワインと交換され、再輸出されていきました。この中継貿易こそが、オランダの黄金時代の繁栄を支える基盤だったのです。
覇権の移行
近世初期のバルト海交易の歴史は、一つの支配的な勢力が没落し、新たな勢力がそれに取って代わるという、劇的な権力移行の物語です。中世後期にわたりバルト海の商業を牛耳ってきたドイツの都市同盟であるハンザ同盟が、16世紀を通じて徐々にその力を失い、その空白を埋めるようにして、新興の海洋国家ネーデルラント、特にその中でもホラント州の商人たちが新たな覇者として台頭しました。この変化は、商業技術、国家の支援、そして時代の変化への適応能力の違いによって決定づけられました。
ハンザ同盟の衰退
14世紀から15世紀にかけて、ハンザ同盟は北ヨーロッパの商業において比類なき力を持っていました。リューベックを盟主とし、グダニスク、ハンブルク、ケルンなど数十から百以上の都市が加盟したこの同盟は、ロンドンのスティールヤードやブリュージュ、ベルゲン、ノヴゴロドに在外商館(コントール)を置き、バルト海と北海の交易を独占していました。彼らの主力船である「コグ船」は、東の穀物や木材を西の毛織物や塩と交換し、莫大な富を築きました。
しかし、15世紀末から16世紀にかけて、ハンザ同盟の力には陰りが見え始めます。その衰退の原因は複合的でした。
内部の不統一: ハンザは中央政府を持たない、比較的緩やかな都市の連合体でした。各都市の利害は必ずしも一致せず、共通の敵に対して迅速かつ統一された行動をとることが次第に困難になりました。盟主リューベックの権威は低下し、同盟の結束力は弱まっていきました。
周辺国家の台頭: ハンザが活動していた地域の周辺で、より中央集権的な領域国家が台頭し始めました。デンマーク、スウェーデン、ポーランド、そしてイングランドといった国々は、自国の商人を保護し、ハンザ商人の特権を制限しようとしました。彼らはもはや、ハンザ同盟が一方的にルールを押し付けられる相手ではなくなっていたのです。
商業環境の変化: 大航海時代の到来は、ヨーロッパの商業の中心を地中海やバルト海から大西洋へとシフトさせました。また、南ドイツのフッガー家のような新しいタイプの金融資本家が登場し、ハンザの伝統的な商業手法は時代遅れになりつつありました。
オランダの台頭
ハンザ同盟が直面した最大の挑戦は、西からやってきました。ネーデルラント、特にアムステルダムを中心とするホラント州の商人たちは、15世紀末から積極的にバルト海への進出を開始しました。彼らの成功の要因は、ハンザの弱点と対照的でした。
技術革新: オランダの船乗りたちは、海運技術において革新を遂げました。彼らが開発した「フライト船」は、ハンザのコグ船に比べて、建造費が安く、積載量が大きく、そしてより少ない船員で運航できる、極めて効率的な貨物船でした。これにより、穀物や木材のような嵩張る商品を低コストで輸送することが可能になり、価格競争においてハンザに対して圧倒的な優位に立ちました。
商業組織と金融: アムステルダムの商人たちは、共同で船を所有する「共同出資会社(レデライ)」のような、リスクを分散し資本を効率的に集めるための新しい商業組織を発展させました。また、アムステルダムには為替銀行や証券取引所が設立され、ヨーロッパ随一の金融センターとして、バルト海交易に必要な巨大な資本を供給しました。
国家との関係: ネーデルラントは、スペインからの独立を目指す八十年戦争を通じて、強力な海軍力と、商業的利益を重視する共和制の政治体制を築き上げました。政府は、護送船団を組織して商船を保護し、外交交渉を通じてオランダ商人の商業的利益を確保するなど、国家としてバルト海交易を強力に後押ししました。これは、都市間の利害対立に苦しんだハンザ同盟にはない強みでした。
16世紀を通じて、オランダ商人は着実にハンザのシェアを奪っていきました。彼らは、ハンザの独占を切り崩し、グダニскなどの主要な港で直接ポーランドの貴族や商人と取引を行うようになりました。デンマークがエーレスンド海峡を通過する全船舶に通行税を課し始めると、その記録からオランダ船が圧倒的多数を占めていたことが明らかになります。
1530年代の「伯爵戦争」と呼ばれるデンマークの王位継承争いでは、リューベックが一方の派閥を支援して最後の巻き返しを図りましたが、オランダが支援する反対派が勝利し、ハンザの敗北は決定的となりました。17世紀に入る頃には、ハンザ同盟はもはやバルト海における主要な勢力ではなくなり、その商業的覇権は完全にオランダの手に渡っていたのです。この権力の移行は、中世的な都市同盟の時代が終わり、国家が経済を主導する重商主義の時代が始まったことを象徴する出来事でした。
沿岸諸国の動向
バルト海交易は、単に西ヨーロッパに富をもたらしただけでなく、バルト海の沿岸に位置する国々の政治経済、そして国家形成そのものに、深く、そして多岐にわたる影響を及ぼしました。デンマーク、スウェーデン、ポーランド=リトアニア共和国、そしてロシアといった国々は、この交易と密接に関わることで、それぞれの国家の盛衰の道を歩むことになります。バルト海の支配、すなわち「ドミニウム=マリス=バルティキ」をめぐる争いは、近世北ヨーロッパ史の主要なテーマとなりました。
デンマーク
デンマーク王国は、その地理的な位置から、バルト海交易において特異な役割を果たしました。デンマークは、バルト海と北海を結ぶ唯一の航路であるエーレスンド海峡、大ベルト海峡、小ベルト海峡を支配していました。1429年、デンマーク王エーリク7世は、エーレスンド海峡を通過するすべての外国船に対して「海峡通行税」を課すことを開始しました。
この通行税は、デンマーク国家にとって、極めて重要な財源となりました。税は、ヘルシンゲル(エルシノア)のクロンボー城の監視下で徴収され、その額は船の積荷の価値に応じて決定されました。オランダを中心とするバルト海交易が活発になればなるほど、デンマークの国庫は潤いました。この税収は、国王の権力を強化し、貴族への依存を減らす上で大きな役割を果たしました。国王は、この安定した収入を元に、強力な海軍を建設・維持し、バルト海における影響力を行使しました。
しかし、この通行税は、オランダやスウェーデンといった海運国家にとっては常に悩みの種でした。デンマークは、しばしばこの税率を一方的に引き上げたり、特定の国の船を妨害したりすることで、外交的な圧力をかけました。そのため、海峡の自由な通行権をめぐって、デンマークと他のバルト海沿岸諸国、特にスウェーデンとの間で、度々戦争が勃発しました。17世紀半ば、スウェーデンとの戦争に敗れたデンマークは、スウェーデン船に対する通行税の免除を認めさせられ、その影響力に大きな打撃を受けました。
スウェーデン
17世紀のスウェーデンは、バルト海交易を巧みに利用して、小国からヨーロッパ有数の軍事大国へと飛躍を遂げました。スウェーデンの強さの源泉は、その豊かな天然資源、特に鉄と銅にありました。
スウェーデンは、ヨーロッパで最高品質の鉄鉱石と、広大な森林(製鉄に必要な木炭の燃料源)に恵まれていました。グスタフ=アドルフ王の治世下、オランダの企業家であるルイ=デ=ヘールらの協力により、スウェーデンの製鉄業と兵器産業は飛躍的に発展しました。スウェーデンは、高品質な大砲やマスケット銃を大量に生産し、自国の軍隊を武装させただけでなく、それをヨーロッパ中に輸出しました。ファールンの銅山から産出される銅も、大砲の鋳造や貨幣の鋳造に不可欠な戦略物資であり、重要な輸出品でした。
三十年戦争への参戦は、スウェーデンにバルト海の支配権を確立する絶好の機会を与えました。戦争の結果、1648年のウェストファリア条約で、スウェーデンは西ポンメルンやブレーメン=フェルデンといった、北ドイツの重要な港湾地域を獲得しました。これにより、スウェーデンはバルト海南岸の主要な河川(オーデル川、エルベ川、ヴェーザー川)の河口を支配下に置き、これらの地域を通過する貿易に関税を課すことで、さらなる富を得ました。17世紀半ば、スウェーデンはバルト海のほぼ全域を支配する「バルト帝国」を築き上げ、その絶頂期を迎えました。
ポーランド=リトアニア
ポーランド=リトアニア共和国は、バルト海交易における最大の穀物供給国として、西ヨーロッパの食料需要を満たす上で中心的な役割を果たしました。広大な領国内の肥沃な土地では、貴族(シュラフタ)が経営する「フォルヴァルク」と呼ばれる大規模な農場において、賦役労働に依存した穀物生産が行われました。
生産された大量のライ麦や小麦は、ヴィスワ川などの水運を利用して、バルト海に面した港湾都市グダニスク(ダンツィヒ)へと運ばれました。グダニスクは、ポーランドの穀物輸出のほぼすべてを取り扱う、ヨーロッパでも有数の巨大な港湾都市として繁栄しました。貴族たちは、穀物をオランダ商人に売却して得た収入で、西ヨーロッパから輸入される奢侈品(織物、ワイン、香辛料など)を購入し、華やかな生活を送りました。
しかし、この穀物輸出に過度に依存した経済構造は、長期的にはポーランドに負の影響を及ぼしました。第一に、富が都市のブルジョワジーや農民ではなく、少数の大貴族に集中し、国内の産業や都市の発展を阻害しました。第二に、農民の地位は、西ヨーロッパで農奴制が解消されていくのとは対照的に、賦役労働の強化によってますます悪化し、「再版農奴制」と呼ばれる状況に陥りました。第三に、国家の経済が、アムステルダム市場における穀物価格の変動という、自らがコントロールできない外部要因に大きく左右される、脆弱なものとなりました。この経済構造の歪みは、18世紀におけるポーランドの政治的衰退と国家分割の一因となったと考えられています。
ロシア
近世初期のロシア(モスクワ大公国)は、バルト海に直接アクセスできる港を持っておらず、その交易は、北極海に面したアルハンゲリスクを通じて行われるか、あるいはスウェーデンやポーランドが支配する港を経由する必要がありました。この状況は、ロシアの経済発展にとって大きな足かせとなっていました。
18世紀初頭、ピョートル大帝は、ロシアの近代化と西欧化を推し進める上で、バルト海への「窓」を開くことが不可欠であると考えました。彼は、スウェーデンとの間で行われた大北方戦争(1700年=1721年)において、多大な犠牲を払いながらも最終的に勝利を収めました。その結果、1721年のニスタット条約により、ロシアはエストニア、リヴォニア、イングリアといったバルト海東岸の広大な地域を獲得しました。
ピョートル大帝は、この戦争の最中に、ネヴァ川の河口に新たな首都サンクトペテルブルクを建設しました。この都市は、ロシアの新しいバルト海の玄関口として、急速に発展しました。18世紀を通じて、ロシアの対西欧貿易の中心は、アルハンゲリスクからサンクトペテルブルクへと移りました。ロシアは、麻、亜麻、木材、鉄といった商品をこの新しい港から大量に輸出し、バルト海交易の主要なプレイヤーとして、スウェーデンに取って代わる存在となったのです。このバルト海への進出は、ロシアがヨーロッパの大国として台頭する上で、決定的な一歩となりました。
18世紀の変容
18世紀に入ると、2世紀近くにわたってバルト海交易を特徴づけてきた構造に、大きな変化が生じ始めました。この変容は、主に二つの大きな地政学的な動きによって引き起こされました。一つは、海洋国家としてのイギリスの決定的台頭であり、もう一つは、大北方戦争に勝利したロシアのバルト海への本格的な進出です。これにより、オランダの相対的な地位は低下し、交易品の内容や航路にも新たな展開が見られました。
イギリスの台頭
17世紀を通じて、イギリスはオランダと商業的・軍事的な覇権を争ってきましたが、18世紀に入る頃には、その競争において優位に立つようになります。特に、イギリス海軍(ロイヤルネイビー)の急速な拡大は、バルト海交易におけるイギリスのプレゼンスを劇的に増大させました。
イギリスにとって、バルト海は、海軍の生命線である「海軍資材」の最も重要な供給源でした。軍艦の建造と維持には、マスト用の巨大な松材、船体用のオーク材、帆布の原料となる麻、そして船体の防水やロープの保護に用いるタールやピッチが不可欠でした。これらの資材の安定確保は、国家の安全保障に直結する死活問題でした。
イギリス政府は、この戦略物資の確保のために、積極的にバルト海交易に関与しました。1705年に制定された奨励法のように、北米植民地からの海軍資材生産を奨励する試みもなされましたが、品質と量の両面で、バルト海からの供給に取って代わることはできませんでした。そのため、イギリスは、外交交渉や、時には海軍の派遣を通じて、バルト海からの供給ルートを確保することに全力を注ぎました。
18世紀を通じて、エーレスンド海峡を通過するイギリス船の数は着実に増加し、オランダ船の数を脅かすようになりました。イギリスの商人たちは、ロシアのサンクトペテルブルクやリガ、プロイセンのメーメル(現在のクライペダ)といった港に商館を置き、現地の供給業者と直接取引を行いました。特に、ロシア産の麻とタールは、イギリス海軍にとって不可欠なものとなりました。この海軍資材をめぐるイギリスの強い関与は、バルト海地域を、ヨーロッパ全体の勢力均衡を左右する重要な戦略的舞台へと押し上げたのです。
ロシアの進出
18世紀のバルト海におけるもう一つの大きな変化は、ピョートル大帝の下でのロシアの劇的な西進でした。大北方戦争(1700年=1721年)におけるスウェーデンに対する勝利は、バルト海の勢力図を根底から覆しました。
ニスタット条約(1721年)により、ロシアはリガ、タリン(レヴァル)、ナルヴァといった、長年スウェーデンが支配してきた主要な港湾都市を獲得しました。そして何よりも、新首都サンクトペテルブルクの建設は、ロシアにバルト海への恒久的な玄関口を与えました。
これにより、ロシアの対外貿易の中心は、従来の北極海のアルハンゲリスクから、バルト海の港へと完全に移行しました。サンクトペテルブルクは、わずか数十年のうちに、ロシア最大の貿易港として急速に発展しました。18世紀後半には、ロシアの輸出入の大部分がこの新しい首都を経由するようになりました。
ロシアの台頭は、バルト海で取引される商品の構成にも変化をもたらしました。ポーランドの穀物輸出の重要性が相対的に低下する一方で、ロシアから輸出される商品の重要性が増大しました。イギリス向けの麻やタールに加えて、ロシアはシベリア産の鉄を大量に輸出し、一時はスウェーデンを凌ぐヨーロッパ最大の鉄供給国となりました。また、内陸からの木材や穀物の輸出も増加しました。
このロシアの進出とイギリスの需要の増大は、バルト海交易の重心を、従来のグダニスク=アムステルダム軸から、サンクトペテルブルク/リガ=ロンドン/アムステルダム軸へと、東方および北方へシフトさせる効果を持ちました。オランダは依然として重要な役割を果たし続けましたが、17世紀のような圧倒的な支配者の地位は失い、イギリスや他の国の商人たちと競争する、多くのプレイヤーの一人となっていきました。
18世紀末、ナポレオン戦争の勃発と、それに伴う大陸封鎖令は、この伝統的なバルト海交易に大きな混乱をもたらしました。しかし、この海域がヨーロッパ経済にとって持つ戦略的な重要性は変わることはなく、その後の産業革命の時代においても、バルト海は、イギリスをはじめとする工業国へ、食料と原材料を供給し続ける重要な役割を担っていくのです。
結論
近世ヨーロッパのバルト海交易は、大西洋を舞台にした香辛料や銀の交易のような華やかさはないものの、当時のヨーロッパ経済の根幹を支える、地味ながらも決定的に重要な役割を果たしていました。それは、西ヨーロッパの成長する人口を養う「胃袋」であり、その海洋覇権を支える船団を建造するための「骨格」を供給する、巨大な経済システムでした。
この交易の歴史は、権力と富の源泉が時代と共に移り変わっていく様を鮮やかに映し出しています。中世的な都市同盟であるハンザは、技術革新と国家の支援を背景に持つオランダの効率的な商業モデルの前に、その支配権を明け渡しました。16世紀から17世紀にかけて、オランダは「母なる交易」と呼ばれる貿易を独占し、アムステルダムを世界経済の中心へと押し上げ、その「黄金時代」の繁栄を築き上げました。
バルト海交易はまた、沿岸諸国の国家形成と国際関係を深く規定しました。デンマークは海峡通行税によって国庫を潤し、スウェーデンは鉄と銅の輸出をテコに軍事大国へと飛躍し、一時的に「バルト帝国」を築きました。一方で、ポーランド=リトアニア共和国は、穀物輸出に依存する貴族主導の経済構造が、結果として国家の近代化を阻害し、衰退へと向かう一因となりました。
18世紀に入ると、この交易の構図は再び大きく変動します。イギリスが海軍大国として台頭し、戦略物資である海軍資材の最大の買い手として登場しました。そして、ピョートル大帝のロシアが大北方戦争に勝利し、サンクトペテルブルクという新たな窓を通じてバルト海に進出したことで、交易の重心は東方へとシフトしました。