アムステルダムとは
16世紀後半から17世紀にかけてのヨーロッパ史において、アムステルダムという都市が遂げた変貌は、まさに劇的という言葉がふさわしいでしょう。オランダ独立戦争、すなわち八十年戦争(1568年=1648年)が始まる前、アムステルダムはホラント州の一介の商業都市に過ぎませんでした。ニシン漁とバルト海交易で一定の富を築いてはいたものの、その地位は、当時ネーデルラント全体の経済的中心であった南部の巨大都市アントワープの輝かしい繁栄の影に隠れていました。しかし、この長く困難な独立戦争の過程で、ヨーロッパの勢力図は根底から覆り、その中でアムステルダムは驚異的な飛躍を遂げることになります。
この戦争は、単なる政治的・軍事的な独立闘争ではありませんでした。それは、宗教改革の波、経済覇権の移行、そして新たな国家と社会のあり方をめぐる、複雑で多層的な動乱でした。この動乱の中心で、アムステルダムは時代の波を巧みに捉え、それを自らの成長の糧としました。アントワープの没落という悲劇は、アムステルダムにとっては千載一遇の好機となりました。南ネーデルラントから逃れてきた商人、金融家、職人、そして知識人といった膨大な数の難民は、彼らの資本、技術、そして国際的なネットワークをアムステルダムにもたらし、都市の発展に爆発的なエネルギーを注入したのです。
戦争前夜のアムステルダム
16世紀半ば、オランダ独立戦争の嵐が吹き荒れる直前のネーデルラントにおいて、アムステルダムは将来の世界経済の中心となるような輝きをまだ放ってはいませんでした。当時のネーデルラント経済の心臓部は、疑いなく南部のブラバント公国に位置するアントワープでした。アムステルダムは、ホラント州の数ある都市の一つであり、活気はあるものの、あくまで地方の重要な商業都市という位置づけでした。しかし、その後の飛躍の種子は、この時代のアムステルダムの経済構造と地理的条件の中に、すでに蒔かれていたのです。
ホラント州の商業都市
アムステルダムは、アムステル川がアイ湾に注ぐ河口に位置し、その名の通り、川に築かれたダム(堰)から発展した都市です。その立地は、内陸の水路網と北海へのアクセスを結びつける、水運の要衝でした。15世紀から16世紀にかけて、アムステルダムは二つの主要な経済活動を柱として成長しました。
一つはニシン漁です。北海で獲れるニシンの加工と取引は、アムステルダムに初期の富をもたらしました。特に、船上で内臓を取り除き塩漬けにするという革新的な技術は、ニシンの長期保存を可能にし、広範囲への輸出を促進しました。
そして、より重要だったのが、バルト海との交易です。16世紀、西ヨーロッパの人口増加に伴い、食料需要が急増しました。これに対し、アムステルダムを含むホラント州の商人たちは、ポーランドや東プロイセンといった「ヨーロッパの穀倉」から大量の穀物を輸入し、それを西ヨーロッパ各地へ転売する事業に乗り出しました。この穀物交易は、オランダ人によって「母なる交易」と呼ばれ、彼らの商業活動の基盤を形成しました。アムステルダムは、このバルト海交易における主要な港の一つとして、木材、タール、ピッチといった造船資材の輸入においても重要な役割を果たしていました。
この時代のホラント州の都市は、アントワープのような国際的な金融・商品市場とは異なり、嵩張る商品の大量輸送と取引に特化していました。彼らは、ハンザ同盟の商人たちと競合し、より効率的な船(後のフライト船の原型)と商業組織を駆使して、徐々にバルト海交易の主導権を握りつつありました。アムステルダムの商人たちは、実践的で、リスクを恐れず、利益を追求することに長けた人々でした。
アントワープの影
しかし、16世紀半ばのネーデルラント経済の頂点に君臨していたのは、スヘルデ川の河口に位置するアントワープでした。アントワープは、ヨーロッパ大陸におけるポルトガルの香辛料貿易の独占的な拠点であり、また、イギリスの毛織物の主要な取引市場でもありました。南ドイツのフッガー家やヴェルザー家といった大金融資本家たちが拠点を構え、ヨーロッパ中の商品、資本、そして情報がこの都市に集まりました。アントワープの取引所(ブールス)は、近代的な証券取引所の原型となり、そこでは商品だけでなく、為替や信用取引が活発に行われていました。
アントワープが扱う商品は、香辛料、絹織物、銀といった高価な奢侈品が中心でした。それに対し、アムステルダムが主に取り扱っていたのは、穀物や木材といった、単価は安いが生活に不可欠な嵩張る商品でした。両都市の役割は、いわば分業関係にありました。アムステルダムがバルト海から運んでくる穀物は、アントワープを経由して南ヨーロッパへと送られることもありました。アムステルダムの商人たちは、アントワープの巨大な市場と金融システムに依存しており、その経済圏の一部を構成する存在でした。
人口規模においても、その差は歴然でした。1560年代、アントワープの人口が10万人を超え、ヨーロッパ有数の大都市であったのに対し、アムステルダムの人口はようやく3万人程度に達したところでした。都市の景観も、壮麗なギルドハウスや大聖堂が立ち並ぶアントワープに比べ、アムステルダムはより質実剛健な、商人の町という趣でした。
このように、戦争前夜のアムステルダムは、将来の成功を約束された都市ではありませんでした。しかし、バルト海交易で培われた海運のノウハウ、嵩張る商品の効率的な輸送システム、そして実践的な商人精神は、来るべき動乱の時代において、アントワープの洗練された金融資本とは異なる、より強靭な競争力となる可能性を秘めていたのです。戦争の勃発は、この二つの都市の運命を、誰も予想しなかった形で劇的に逆転させることになります。
戦争の勃発とアルタラティエ
1568年、ネーデルラントにおけるスペイン=ハプスブルク家の支配に対する不満が爆発し、八十年にも及ぶ独立戦争の火蓋が切られました。この戦争は、重税や中央集権化への政治的な反発に加え、プロテスタント(特にカルヴァン派)の信仰の自由を求める宗教的な動機が複雑に絡み合ったものでした。しかし、この反乱の渦中にあって、アムステルダムは当初、他の多くのホラント州の都市とは異なる道を歩みました。
反乱への遅れた参加
1572年、反乱軍である「海の乞食団(ワーテルヘーゼン)」がホラント州の港ブリールを占領したことをきっかけに、ホラント州とゼーラント州の多くの都市が次々と反乱側(オラニエ公ウィレム1世側)に寝返りました。しかし、アムステルダムは、スペイン王フェリペ2世への忠誠を堅持し、反乱の輪に加わることを拒否しました。
アムステルダムの都市エリート層がこのような選択をした背景には、いくつかの理由がありました。第一に、経済的な利害関係です。アムステルダムの商業、特にバルト海交易は、既存の秩序の中で安定した利益を生み出していました。反乱に参加することは、この安定を脅かし、スペインやその同盟国との交易ルートを危険に晒す可能性がありました。都市の支配層である裕福な商人たちは、不確実な未来よりも、現状維持を選ぶ傾向があったのです。
第二に、宗教的な要因です。アムステルダムの市政は、カトリックを信奉する保守的な有力者たちによって固く掌握されていました。彼らは、急速に広まりつつあったカルヴァン派の教えに強い警戒心を抱いており、反乱がカルヴァン派の勢力拡大につながることを恐れていました。
この結果、アムステルダムは、反乱に加わった周辺のホラント諸都市から孤立し、「スペイン派の巣窟」と見なされるようになります。反乱軍はアムステルダムの港を海上封鎖し、都市の生命線である交易活動は深刻な打撃を受けました。食料や物資の供給は滞り、経済は停滞し、市民の不満は日増しに高まっていきました。6年近くにわたるこの孤立状態は、アムステルダムの内部に、現状維持派と反乱支持派との間の深刻な亀裂を生み出しました。
1578年の転換
1578年5月26日、アムステルダムの歴史を決定的に変える出来事が起こります。それが「アルタラティエ」、すなわち「転変」と呼ばれる無血クーデターです。
この日、反乱軍の支持者と、海上封鎖による経済的苦境に不満を募らせていた市民たちが結託し、行動を起こしました。彼らは市庁舎を占拠し、スペインに忠誠を誓っていたカトリックの市長と市参事会員たちを捕らえました。追放された市政担当者たちは、武器も持たされず、丁重に船に乗せられ、都市の外へと送り出されました。この政変は、一滴の血も流されることなく、驚くほど平和裏に遂行されました。
アルタラティエの結果、アムステルダムの市政は完全に刷新されました。カトリックの旧支配層に代わり、オラニエ公ウィレム1世を支持し、反乱に同調するプロテスタント(多くはカルヴァン派)の商人たちが市政の実権を握りました。市内のカトリック教会や修道院は接収され、プロテスタントの教会へと姿を変えました。そして最も重要なこととして、アムステルダムは正式に反乱側に参加し、ホラント州の他の都市との連携を回復したのです。
この転換は、アムステルダムにとって計り知れないほど大きな意味を持ちました。第一に、海上封鎖が解かれ、都市の生命線である交易活動が再開されました。アムステルダムは、独立を目指すネーデルラント北部(後のネーデルラント連邦共和国)の経済システムに完全に組み込まれ、その中心的な役割を担う準備が整いました。
第二に、市政の担い手が、保守的なカトリック支配層から、より進取の気性に富み、商業的利益を重視するプロテスタントの商人エリートへと交代したことです。この新しい指導者たちは、旧来の慣習にとらわれず、都市の経済的発展のためには、より大胆で革新的な政策を推進する用意がありました。
そして第三に、この政変は、アムステルダムの「寛容」の精神の基礎を築きました。アルタラティエは無血で行われ、追放されたカトリック指導者たちに対する報復もありませんでした。その後、アムステルダムではカトリックの公的な礼拝は禁止されたものの、私的な信仰はある程度黙認されました。この比較的寛容な姿勢は、後にヨーロッパ中から迫害を逃れてきた多様な宗教的マイノリティ(ユダヤ人、フランスのユグノーなど)を引き寄せる大きな要因となります。
アルタラティエによって、アムステルダムは過去のしがらみを断ち切り、新たな時代へと舵を切りました。この時点ではまだ、アントワープの没落という決定的な出来事は起こっていませんでしたが、アムステルダムは、その運命的な好機を最大限に活かすための、政治的・社会的な土台を築き上げたのです。
アントワープの陥落とアムステルダムの飛躍
オランダ独立戦争の過程で、アムステルダムの運命を決定的に変えた出来事は、1585年のアントワープ陥落でした。この事件は、ヨーロッパの経済地図を塗り替える地殻変動を引き起こし、その最大の受益者となったのがアムステルダムでした。アントワープの悲劇は、アムステルダムの「黄金時代」の幕開けを告げる号砲となったのです。
アントワープの没落
1576年の「スペインの憤激」と呼ばれるスペイン兵による略奪事件以降、アントワープは反乱側に加わっていましたが、スペインの名将パルマ公アレッサンドロ=ファルネーゼ率いる軍隊の猛攻に晒されていました。パルマ公は、都市を包囲し、その生命線であるスヘルデ川を封鎖しました。13ヶ月に及ぶ長い包囲戦の末、1585年8月、アントワープはついに降伏を余儀なくされました。
降伏の条件として、パルマ公はプロテスタントの市民に対し、4年間の猶予期間内にカトリックに改宗するか、さもなければ都市を去るかの選択を迫りました。この条件は、アントワープからの大規模な人口流出を引き起こしました。プロテスタントの信仰を守ることを選んだ商人、金融家、熟練職人、芸術家、知識人たちが、続々とアントワープを後にしたのです。
さらに決定的な打撃となったのが、反乱側(北部ネーデルラント)によるスヘルデ川の封鎖でした。北部の海軍は、スヘルデ川の河口を完全に支配下に置き、アントワープへの海上からのアクセスを遮断しました。これにより、アントワープは国際貿易港としての機能を完全に失い、その経済は壊滅的な打撃を受けました。かつて世界経済の中心として栄華を誇った大都市は、一地方都市へと転落していったのです。
人材と資本の流入
アントワープを逃れた人々の多くが目指したのが、同じネーデルラントの言語と文化を共有し、かつプロテスタントの信仰が保証されている北部の都市、特にアムステルダムでした。1585年以降、アムステルダムには、南ネーデルラントからの難民が津波のように押し寄せました。この大規模な移住は、アムステルダムの社会と経済に、計り知れないほどの恩恵をもたらしました。
資本の移転: アントワープの商人や金融家たちは、彼らの莫大な富と共にアムステルダムへ移住しました。これにより、アムステルダムの資本市場は一挙に厚みを増し、大規模な商業的投資や投機活動が可能になりました。
商業ノウハウとネットワーク: 南からの移住者たちは、アントワープが築き上げた高度な商業技術と、世界中に広がる取引のネットワークを持ち込みました。彼らは、香辛料貿易、奢侈品取引、そして複雑な金融取引に関する深い知識と経験を持っていました。アムステルダムの商人たちが得意としていた嵩張る商品の取引と、アントワープ由来の高度な商業資本が見事に融合したのです。
技術と産業: 移住者の中には、織物、印刷、砂糖精製、ダイヤモンド加工といった、アントワープが誇った産業の熟練職人たちが数多く含まれていました。彼らはアムステルダムに新しい工房を設立し、都市の産業基盤を多様化させ、その質を飛躍的に向上させました。特に、アントワープから移ってきたユダヤ人コミュニティは、ダイヤモンド産業の発展に中心的な役割を果たしました。
この結果、アムステルダムの人口は爆発的に増加しました。1585年に約3万人だった人口は、1600年には6万人を超え、1622年には10万人を突破、そして17世紀半ばには20万人に達し、ロンドンやパリと並ぶヨーロッパ最大級の都市へと成長しました。都市は急速に拡大し、有名な環状運河(グラクテンゴルデル)が建設され、今日に至るアムステルダムの美しい都市景観が形成されていきました。
世界的な中継貿易港へ
アントワープの没落と、そこからの人材・資本の流入は、アムステルダムの商業構造を根本から変えました。それまでバルト海交易が中心だったアムステルダムは、アントワープに代わる世界的な中継貿易港(ステープル市場)へと変貌を遂げたのです。
アムステルダムの港には、世界中からあらゆる種類の商品が集められ、保管され、そして再輸出されていきました。バルト海の穀物や木材、ノルウェーの魚、スウェーデンの鉄や銅、フランスのワインや塩、スペインやポルトガルの植民地からの砂糖やタバコ、そしてアジアからの香辛料や絹、インドの綿織物。これらの商品がアムステルダムの倉庫に集積され、価格が決定され、ヨーロッパ中、さらには世界中へと配送されていきました。
アムステルダムは、単なる商品の通過点ではありませんでした。それは、世界の商品相場を決定する情報センターであり、価格形成の中心地でした。商人は、アムステルダムにいながらにして、世界中の商品の価格動向を把握し、売買を行うことができました。この中継貿易の機能こそが、17世紀のアムステルダムの繁栄の核心であり、その「黄金時代」を支える最大の基盤となったのです。アントワープの陥落は、意図せずして、その繁栄のすべてをアムステルダムに譲り渡す結果となったのでした。
金融革命の中心地
アムステルダムが17世紀の世界経済の頂点に君臨できた理由は、単に商品の取引量が多かったからだけではありません。それ以上に重要だったのは、アムステルダムが、当時のヨーロッパで最も先進的で効率的な金融システムを構築し、世界初の近代的な金融センターとなったことです。この「金融革命」は、1609年のアムステルダム為替銀行と、1611年の商品取引所の設立という、二つの画期的な出来事によって象徴されます。
アムステルダム為替銀行の設立
17世紀初頭のヨーロッパの商業は、一つの大きな問題に悩まされていました。それは、流通する貨幣の質の悪さと種類の多様さです。各国、各都市が独自に鋳造した金貨や銀貨は、摩耗したり、意図的に削り取られたりして、その品位(貴金属の含有量)は信用できないものでした。商取引の決済のたびに、大量の硬貨の品質を一つ一つ鑑定し、重量を測定するのは、非常に手間がかかり、非効率的でした。
この問題を解決するために、アムステルダム市は1609年、ヴェネツィアのリアルト銀行をモデルとして、アムステルダム為替銀行を設立しました。これは、ヨーロッパ初の公的な市立銀行でした。
為替銀行の仕組みは、画期的でした。商人たちは、手持ちの様々な種類の硬貨を銀行に預け入れました。銀行は、その硬貨の貴金属含有量を厳密に査定し、その価値に相当する「銀行フロリン」という安定した価値を持つ計算上・帳簿上の通貨で、商人の口座に振り込みました。これにより、商人たちは、物理的な硬貨をやり取りすることなく、口座振替によって、迅速かつ安全に、そして正確に大規模な決済を行うことができるようになりました。
為替銀行は、アムステルダムで行われる一定額以上のすべての為替手形の支払いを、自行の口座振替によって行うことを義務付けました。これにより、銀行の信用は絶大なものとなり、ヨーロッパ中の商人がアムステルダム為替銀行に口座を開設しました。銀行フロリンは、国際貿易における最も信頼性の高い決済手段となり、その安定性は18世紀末まで揺らぐことはありませんでした。この銀行の存在は、アムステルダムが国際金融の中心地としての地位を確立する上で、決定的な役割を果たしたのです。
商品取引所と証券取引
アムステルダムの金融革命を象徴するもう一つの柱が、取引所(ブールス)の存在です。アントワープにも取引所はありましたが、アムステルダムのそれは、その規模と機能において、前例のないものでした。
1611年、建築家ヘンドリック=デ=カイゼルによって、恒久的な商品取引所の建物が建設されました。この広大な中庭を持つ建物には、毎日数千人の商人、仲買人、船主、投機家たちが集まり、ありとあらゆる情報の交換と取引を行いました。ここでは、現物の商品だけでなく、穀物、ニシン、香辛料、コーヒー、砂糖といった様々な商品に関する先物取引やオプション取引といった、高度な金融デリバティブ取引が日常的に行われていました。これにより、商人は将来の価格変動のリスクをヘッジしたり、あるいは価格変動そのものを投機の対象とすることができました。
さらに重要なのは、この取引所が、世界初の本格的な常設の証券取引所としても機能したことです。取引の対象となったのは、主に1602年に設立されたオランダ東インド会社(VOC)の株式でした。VOCの株式は、自由に売買することが可能であり、その株価は、会社の業績やアジアからの船団の到着に関するニュース、さらには政治情勢など、様々な要因によって日々変動しました。
投資家たちは、この取引所でVOCの株式を売買し、キャピタルゲインを狙いました。空売り(株式を借りて売り、価格が下落したところで買い戻して利益を得る)や、信用取引(資金を借りて株式を購入する)といった、現代の証券取引と変わらないような投機的な手法も、この時代のアムステルダムで既に行われていました。この活発な株式市場の存在は、VOCが巨大な資本を調達し、世界的な商業活動を展開することを可能にしました。
為替銀行が提供する安定した決済システムと、取引所が提供する流動性の高い市場。この二つの革新的な金融インフラが両輪となって、アムステルダムは、世界中から資本を引き寄せ、それを最も効率的に運用する、近代的な金融センターへと発展したのです。この金融システムこそが、アムステルダムの黄金時代を支える、見えざる、しかし最も強力なエンジンでした。
グローバル交易の拠点
17世紀のアムステルダムの繁栄は、ヨーロッパ域内の交易にとどまるものではありませんでした。この都市は、世界初の多国籍企業ともいえる二つの巨大な勅許会社、オランダ東インド会社(VOC)とオランダ西インド会社(WIC)の設立と運営を通じて、ヨーロッパの枠を超えたグローバルな商業帝国の司令塔となりました。アムステルダムの商人たちが主導したこれらの会社は、武力と商業を融合させ、アジア、アフリカ、そしてアメリカ大陸へとその触手を伸ばし、莫大な富をアムステルダムにもたらしました。
オランダ東インド会社(VOC)
16世紀末、ポルトガルが独占していたアジアからの香辛料貿易に、オランダの商人たちが割り込み始めました。当初、多くの小規模な会社が個別に船団をアジアへ派遣していましたが、過当競争による利益の低下と、ポルトガルや現地の勢力との武力衝突のリスクが問題となっていました。
この状況を打開するため、ネーデルラント連邦議会とホラント州の政治指導者ヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトの主導により、1602年、オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie, VOC)が設立されました。これは、それまで競争関係にあった複数の会社を統合し、アジア貿易に関する国家的な独占権を与えられた、巨大な合本会社でした。
VOCは、多くの点で画期的な組織でした。第一に、その巨大な資本力です。VOCは、アムステルダムの取引所で株式を公開し、広く一般から出資を募りました。これにより、国家予算に匹敵するほどの莫大な資本を調達することに成功しました。第二に、その権限の大きさです。VOCは、単なる商社ではありませんでした。連邦議会から、条約の締結、要塞の建設、軍隊の保有、そして戦争の遂行といった、国家のような権限を与えられていました。
VOCの運営の中心はアムステルダムにありました。会社の最高意思決定機関である「17人会」の議席の半数(8議席)はアムステルダム支部に割り当てられ、事実上、アムステルダムの商人たちが会社の経営を牛耳っていました。VOCの船団はアムステルダムの港から出航し、アジアで得た胡椒、クローブ、ナツメグ、シナモンといった香辛料や、絹、陶磁器、茶などを満載して帰還しました。これらの商品は、アムステルダムの市場で競売にかけられ、ヨーロッパ中に販売されて、株主に莫大な配当をもたらしました。
VOCは、武力を背景に、ポルトガルの拠点を次々と奪い、香料諸島(モルッカ諸島)における香辛料生産を暴力的に独占しました。バタヴィア(現在のジャカルタ)にアジアにおける総督府を置き、日本(出島)、台湾、インド、セイロン島(スリランカ)など、アジア各地に商館や拠点を築き、広大な貿易ネットワークを構築しました。このVOCの活動を通じて、アムステルダムは、アジアの富がヨーロッパへと流れ込む、巨大なパイプラインの起点となったのです。
オランダ西インド会社(WIC)
VOCの成功に続き、1621年、大西洋地域(アメリカ大陸とアフリカ西岸)での交易と植民活動を目的として、オランダ西インド会社(West-Indische Compagnie, WIC)が設立されました。WICもまた、アムステルダムがその運営の中心でした。
WICの活動は、VOCとはやや性格が異なりました。その主な目的の一つは、独立戦争の相手国であるスペインとその同盟国ポルトガルの海上勢力に対する、経済的・軍事的な攻撃でした。WICは、国家から「私掠免許」を受け、スペインの銀船団やポルトガルの植民地を襲撃しました。1628年にピート=ハイン提督がスペインの銀船団を拿捕した事件は、会社に莫大な利益をもたらし、共和国の戦費を潤しました。
交易面では、WICは主に三つの分野で活動しました。一つは、ブラジル北東部をポルトガルから奪い、広大な砂糖プランテーションを経営したことです。二つ目は、北米での植民活動であり、ハドソン川の河口にニューアムステルダム(後のニューヨーク)を建設し、毛皮交易の拠点を築きました。
そして三つ目は、極めて暗い側面である、大西洋奴隷貿易への本格的な参入です。WICは、アフリカ西岸のエルミナ城砦などを拠点に、アフリカ人奴隷を「商品」として捕らえ、ブラジルやカリブ海のプランテーションへと輸送しました。この非人道的な三角貿易は、WICの収益の重要な柱の一つとなり、アムステルダムの商人たちに富をもたらしました。
WICは、VOCほどの商業的成功を収めることはできませんでしたが、その活動は、アムステルダムが、アジアだけでなく、大西洋世界にも深く関与し、その富と資源を吸い上げるグローバルなシステムの中心であったことを示しています。VOCとWICという二つの巨大企業を通じて、アムステルダムは、17世紀における最初のグローバル資本主義の司令塔として、世界中にその影響力を及ぼしたのです。
結論
オランダ独立戦争の勃発から、その終結とウェストファリア条約の締結に至る約80年間で、アムステルダムが遂げた変貌は、世界史的にも稀有な現象でした。戦争前夜には、アントワープの巨大な影の下にある一介の地方商業都市に過ぎなかったアムステルダムは、この未曾有の動乱期を経て、ヨーロッパ、そして世界経済の頂点に立つ、最初の近代的なグローバル都市へと駆け上がりました。
その成功の要因は、単一ではありません。それは、歴史の偶然と、都市が内包していた必然とが、絶妙に絡み合った結果でした。1578年の「アルタラティエ」は、アムステルダムを保守的なカトリック支配の軛から解き放ち、より進取の気性に富むプロテスタント商人エリートに都市の舵取りを委ねさせました。これは、来るべき変化の波を受け入れるための、重要な内的準備でした。
そして、1585年のアントワープ陥落という、ライバル都市の悲劇的な没落が、決定的な好機をもたらしました。南から流入した膨大な数の難民は、単なる労働力ではなく、彼らが携えてきた資本、高度な商業・金融技術、そして国際的な人的ネットワークという、計り知れない価値を持つ「贈り物」をアムステルダムにもたらしました。アムステルダムが元来持っていたバルト海交易のノウハウと、アントワープ由来の洗練された資本主義とが融合し、ここに世界史上類を見ない強力な経済エンジンが誕生したのです。
このエンジンを駆動させたのが、為替銀行や取引所といった革新的な金融インフラでした。安定した決済手段と流動性の高い資本市場は、アムステルダムを世界中から資本を引き寄せる磁石に変え、その富をさらに増幅させました。そして、その資本は、VOCやWICといった巨大な勅許会社を通じて、ヨーロッパの枠を超え、アジアやアメリカ大陸の富を吸い上げるための強力な道具となりました。
アムステルダムの「黄金時代」は、宗教的寛容という社会的な土壌なくしては語れません。カトリック教徒への比較的穏健な対応に始まり、迫害を逃れてきたポルトガル系ユダヤ人やフランスのユグノーを受け入れたその姿勢は、多様な才能と文化を都市に集積させ、その活力と創造性の源泉となりました。