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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 重商主義と啓蒙専制主義

東インド会社《オランダ》とは わかりやすい世界史用語2669

著者名: ピアソラ
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東インド会社《オランダ》とは

その名は、歴史の教科書において、香辛料貿易と富、そして植民地主義の象徴としてしばしば登場します。オランダ東インド会社、正式名称を連合東インド会社。1602年にネーデルラント連邦共和国で設立されたこの組織は、単なる貿易会社の枠をはるかに超える存在でした。それは、世界で初めて株式を発行した公開会社であり、国家から条約締結権、交戦権、植民地経営権といった、主権国家さながらの特権を与えられた、前代未聞の巨大複合企業体でした。
2世紀にわたるその活動期間中、オランダ東インド会社は、喜望峰から日本の出島に至る広大な海域を支配し、アジアの香辛料貿易を独占して莫大な富を築き上げました。その富は、17世紀オランダの「黄金時代」と呼ばれる空前の繁栄を支える原動力となり、アムステルダムを世界経済の中心地へと押し上げました。精巧な金融システム、巨大な船団、そしてアジア各地に築かれた要塞と商館からなるそのネットワークは、まさに最初のグローバル企業と呼ぶにふさわしいものでした。
しかし、その栄光の物語には、常に暗い影が付きまといます。香辛料の独占を維持するための容赦ない暴力、現地住民への過酷な搾取、そして既存のアジア内交易網への破壊的な介入。会社の利益は、多くの人々の血と涙の上に築かれたものでした。その冷徹な商業主義は、利益のためには戦争も辞さないという、国家と見紛うほどの力を持つ企業の危険性を、歴史上初めて示した事例でもあります。

オランダ東インド会社の物語は、単なる過去の一企業の興亡史ではありません。それは、グローバリゼーションの初期衝動、資本主義の黎明期における光と影、そして企業権力と国家主権の関係性といった、現代にも通じる普遍的なテーマをはらんでいます。この巨大な組織の実像に迫ることは、近世ヨーロッパとアジアがどのように結びつき、そしてその後の世界の形がいかにして作られていったのかを理解するための、重要な鍵となるでしょう。



設立の背景

16世紀末のヨーロッパは、大航海時代の興奮と、アジアからもたらされる莫大な富への渇望に満ちていました。特に、胡椒、クローブ、ナツメグといった香辛料は、その希少価値から「黒い黄金」とも呼ばれ、ヨーロッパの食文化、医療、そして社会のステータスを象徴する極めて重要な商品でした。この貿易を長らく独占していたのが、ポルトガルでした。しかし、16世紀末、ヨーロッパの政治と経済の地殻変動が、このポルトガルの独占体制を揺るがし、新たな挑戦者たちの台頭を促すことになります。その最も強力な挑戦者こそ、スペインからの独立を目指して戦っていた、勃興期の海洋国家ネーデルラント連邦共和国でした。
ポルトガルの香辛料独占

15世紀末、ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰経由のインド航路を開拓して以来、ポルトガルはヨーロッパの香辛料貿易を完全に掌握していました。彼らは、インド洋から東南アジアの海域にかけて、ゴア、マラッカ、そして香料諸島(モルッカ諸島)のテルナテなどに要塞と商館を築き、強力な海軍力で他のヨーロッパ勢力を排除しました。アジアで安価に手に入れた香辛料は、ポルトガルの首都リスボンに集められ、そこからヨーロッパ各地へと高値で再販されました。
ネーデルラントの商人たちは、このポルトガルのシステムの中で、重要な役割を担っていました。彼らは、ヨーロッパにおける最大の海運業者であり、リスボンで買い付けた香辛料を、バルト海沿岸や北ヨーロッパ全域に輸送・販売する、いわば最終的な流通業者でした。アントワープや後のアムステルダムは、この中継貿易の拠点として繁栄しました。しかし、彼らはあくまで流通の末端を担う存在であり、香辛料貿易が生み出す莫大な利益の源泉、すなわちアジアとの直接交易からは締め出されていたのです。
ハプスブルク家との対立

この状況が劇的に変化するきっかけとなったのが、ネーデルラントの独立戦争、すなわち八十年戦争でした。16世紀半ば、ネーデルラント17州は、スペイン=ハプスブルク家の支配下にありました。しかし、国王フェリペ2世によるカトリックの強制と重税、そして中央集権化政策は、プロテスタントが多く、都市の自治の伝統が強い北部ネーデルラントの激しい抵抗を招きます。この対立は、1568年、全面的な独立戦争へと発展しました。
さらに、1580年、ポルトガルで王位継承が途絶えると、スペイン国王フェリペ2世がポルトガル王位を兼ねることになり、ポルトガルとその広大な海外植民地はスペインの支配下に入ります。これにより、ネーデルラントの商人たちは、敵国スペインの支配下にあるリスボン港から締め出されるという、死活問題に直面しました。香辛料の供給源を断たれた彼らは、もはや中継貿易に頼ることはできなくなりました。生き残るためには、自らの手で、危険な海を越えてアジアの香料諸島へと直接到達し、ポルトガル=スペインの独占を打ち破る以外に道はなかったのです。
初期航海の試み

この国家的危機を背景に、オランダの商人たちは、アジアへの直接航路を開拓するための冒険的な試みを開始します。当初、彼らはポルトガルの航路を避け、北極海を抜けてアジアに至る「北東航路」の探索を試みましたが、ウィレム=バレンツの探検隊がノヴァヤゼムリャで氷に閉ざされるなど、これらの試みは失敗に終わりました。
転機となったのは、ヤン=ホイヘン=ファン=リンスホーテンという人物がもたらした情報でした。彼は、ポルトガルのゴア大司教の秘書として長年インドに滞在し、ポルトガルの航海術、貿易風の知識、そしてアジア各地の産物や商習慣に関する詳細な情報を密かに収集していました。帰国後、彼が1596年に出版した『東方案内記』は、これまで秘密のヴェールに包まれていたポルトガルのアジア航路の秘密を暴露するものでした。この本は、オランダ商人たちにとって、まさに宝の地図となりました。
この貴重な情報を元に、1595年、アムステルダムの商人たちが設立した「遠国会社」が、コルネリス=デ=ハウトマン率いる4隻の船団を、喜望峰経由で初めてアジアへと派遣しました。この最初の航海は、壊血病、船員の反乱、そして現地勢力との衝突によって多くの犠牲者を出し、商業的には大失敗でした。3年後に帰還できたのは、わずか87名の船員と、わずかな胡椒だけでした。
しかし、この航海の持つ象徴的な意味は、計り知れないほど大きなものでした。オランダ人が、自力でアジアに到達し、生きて帰ってくることが可能であると証明されたのです。この成功に刺激され、アムステルダム、ゼーラント、ロッテルダムといった各都市で、競うようにしてアジア貿易を目指す会社(「前会社」と呼ばれる)が次々と設立されました。
過当競争と統合の必要性

1598年から1601年にかけて、これらの「前会社」は、合計で15回の船団、65隻の船をアジアに送り込みました。当初、これらの航海は莫大な利益をもたらしました。しかし、あまりにも多くの会社が乱立し、互いに競争したため、すぐに深刻な問題が生じます。
アジアの港では、オランダの船団同士が香辛料を買い付けるために価格を吊り上げ、ヨーロッパの市場では、持ち帰った香辛料が供給過剰となって価格が暴落しました。この過当競争は、各社の利益を著しく損なうだけでなく、貴重な資本と人材の浪費でもありました。さらに、小規模な会社が単独で行動することは、強力なポルトガル海軍や、アジアの現地勢力に対してあまりにも脆弱でした。
この無秩序な競争が、対スペイン戦争という国家的な大事業の遂行を妨げることを懸念したのが、ネーデルラント連邦議会と、事実上の最高権力者であったホラント州法律顧問のヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトでした。彼は、この内輪もめを終わらせ、すべての力を結集して、ポルトガル=スペイン勢力に対抗し、アジア貿易の利益を国家のために最大化する必要があると考えました。彼の強力な政治的指導力のもと、連邦議会は、乱立していた各都市の「前会社」を、一つの巨大な独占企業へと統合させるための交渉を開始します。各都市や会社の利害が激しく対立し、交渉は難航しましたが、最終的にオルデンバルネフェルトは、各都市の代表からなる理事会構造を提案することで合意を取り付けました。
こうして、1602年3月20日、ネーデルラント連邦議会は、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立するための特許状を発行しました。それは、単なる商業的な判断だけでなく、スペインとの独立戦争を遂行するための、極めて戦略的な国家プロジェクトの始まりでもあったのです。
組織と革新

オランダ東インド会社が、先行する他の貿易会社と一線を画し、2世紀にわたって巨大な力を維持できた根源は、その革新的な組織構造と金融システムにありました。それは、国家の強力な後ろ盾を得て、民間資本を効率的に集め、長期的な視点で事業を展開することを可能にする、当時としては画期的な仕組みでした。世界初の株式会社、恒久資本、そして階層的な意思決定機構。これらの要素が組み合わさることで、会社は前例のない規模と持続性を手に入れたのです。
世界初の株式会社

オランダ東インド会社の最も重要な革新は、世界で初めて、不特定多数の一般市民から資本を公募し、その出資持分を自由に売買できる「株式」を発行したことでした。それ以前の貿易事業は、一回ごとの航海のために組合(パートナーシップ)が結成され、船が帰還して利益が分配されると、その組合は解散するのが一般的でした。これは、リスクを個々の航海に限定できる一方で、大規模で長期的な投資には不向きでした。
会社は、設立にあたり、アムステルダム、ゼーラント(ミデルブルフ)、デルフト、ロッテルダム、ホールン、エンクハイゼンの6つの都市に支部(カーメル)を置き、それぞれの都市で株式の公募を行いました。当初の募集期間はわずか1ヶ月でしたが、その呼びかけに応じ、商人や職人、さらには家政婦に至るまで、あらゆる階層の市民が出資しました。最終的に、約640万ギルダーという、当時としては天文学的な額の資本金が集まりました。これは、ライバルであるイギリス東インド会社の10倍以上の規模であり、会社の事業に圧倒的な資金的優位性を与えました。
出資者は、その出資額に応じて「株主」となり、会社の利益が出た場合には、配当を受け取る権利を得ました。そして、ここが画期的な点でしたが、株主は、自分の出資持分(株式)を、アムステルダムに設立された商品取引所(後の証券取引所)で、いつでも他人に売却することができました。これにより、出資者は、会社の解散を待つことなく、いつでも投資を現金化することが可能になったのです。この株式の流動性は、投資のリスクを大幅に低減させ、より多くの人々が安心して会社に出資することを促しました。世界初の株式市場の誕生であり、近代的な金融資本主義の幕開けを告げる出来事でした。
ヘーレン=セブンティーン

会社の最高意思決定機関は、「17人紳士」を意味する「ヘーレン=セブンティーン」と呼ばれる中央理事会でした。この理事会は、会社を構成する6つの支部の代表者によって構成されていました。各支部の代表者の数は、その支部が集めた資本金の額に応じて割り当てられていました。
アムステルダム支部: 8名
ゼーラント支部: 4名
デルフト支部: 1名
ロッテルダム支部: 1名
ホールン支部: 1名
エンクハイゼン支部: 1名
これらを合計すると16名になります。残りの1議席は、アムステルダム以外の5支部が、持ち回りで代表者を選ぶか、あるいはくじ引きで決定されました。この仕組みは、アムステルダム支部が資本金の半分以上を出資しているにもかかわらず、単独で理事会の決定を支配することを防ぎ、他の小規模な支部の発言権を保障するための、巧みな妥協の産物でした。
ヘーレン=セブンティーンは、年に数回、アムステルダムとミデルブルフで交互に会合を開き、会社の経営に関するすべての重要事項を決定しました。派遣する船団の規模、建造する船の種類、アジアで買い付けるべき商品のリストと価格、配当の方針、そしてアジアにおける総督の任命など、会社の基本戦略はすべてここで策定されました。この中央集権的な意思決定システムが、会社全体の行動に一貫性と統一性を与え、無秩序な競争を排除する上で決定的な役割を果たしました。
特許状と特権

会社の強大な力の源泉は、ネーデルラント連邦議会から与えられた「特許状」にありました。この特許状は、会社に、極めて広範な独占権と特権を付与するものでした。
まず、会社は、喜望峰からマゼラン海峡に至る、地球の半周分にも及ぶ広大な地域における、すべてのオランダ人の貿易を21年間にわたって独占する権利を与えられました。これにより、国内のライバルは完全に排除されました。
しかし、その特権は、単なる商業的な独占にとどまりませんでした。特許状は、会社に対して、以下のような、通常は主権国家のみが持つような権限を認めていたのです。
条約締結権: アジアの現地の君主や支配者と、会社自身の名で条約を結ぶ権利。
交戦権: 会社の利益を守るため、あるいは競争相手を排除するために、戦争を仕掛け、軍隊を組織する権利。
要塞建設権: 貿易ルートと商館を防衛するため、アジア各地に要塞を建設し、兵士を駐留させる権利。
植民地経営権: 占領または獲得した土地を統治し、独自の法律を制定し、司法権を行使する権利。
貨幣鋳造権: 会社独自の貨幣を発行し、アジアでの取引に用いる権利。
これらの特権により、オランダ東インド会社は、単なる民間企業ではなく、国家の代理人として、あるいは「国家の中の国家」として行動することが可能になりました。連邦議会は、遠く離れたアジアでの煩雑な統治や戦争遂行の負担とコストを、民間の会社に肩代わりさせたのです。この官民パートナーシップのモデルが、会社に、ライバルであるイギリス東インド会社(当初はこれほどの特権を持たなかった)を凌駕する、圧倒的な競争力を与えることになりました。
アジアにおける統治機構

広大なアジアの海域で、ヘーレン=セブンティーンの指令を具体的に実行し、日々の業務を統括するために、会社はアジアにも独自の統治機構を設立しました。その頂点に立ったのが、「総督」でした。1609年、初代総督としてピーテル=ボートが任命され、彼はアジアにおける会社の全権を委任されました。
総督は、「インド政庁」と呼ばれる評議会と共に、アジアにおける会社のすべての商業活動、軍事行動、そして行政を統括しました。当初、このアジアにおける本拠地は移動していましたが、1619年、第4代総督ヤン=ピーテルスゾーン=クーンが、ジャワ島のジャカトラを征服し、そこに「バタヴィア」と名付けた新しい城塞都市を建設しました。以後、バタヴィアは、会社の解散に至るまで、アジアにおけるオランダの政治、経済、そして軍事の中心拠点として機能しました。
バタヴィアの総督とインド政庁の下には、アジア各地に広がる商館(ファクトリー)のネットワークが組織されていました。香料諸島のアンボンやバンダ、台湾のゼーランディア城、インドのコロマンデル海岸、そして日本の長崎・出島など、それぞれの商館には商館長が置かれ、現地の交易と情報収集にあたりました。この階層的で広範な統治ネットワークを通じて、会社は、アジアの隅々までその影響力を及ぼすことができたのです。
アジアでの拡大と独占

オランダ東インド会社は、その設立当初から、単なる平和的な貿易商人ではありませんでした。その目的は明確でした。すなわち、武力を用いてでもポルトガル勢力をアジアから駆逐し、最も利益の上がる香辛料貿易、特にクローブ、ナツメグ、メースといった高級香辛料の生産と流通を完全に独占することでした。この目的を達成するため、会社は、17世紀を通じて、外交、脅迫、そして容赦ない軍事力を行使し、アジアの海に巨大な海上帝国を築き上げていきました。
ポルトガルとの闘争

会社の初期の軍事行動は、アジアにおけるポルトガルの拠点に対する直接攻撃に集中しました。彼らは、ポルトガルのアジア貿易の心臓部であったマラッカ海峡や、香料諸島(モルッカ諸島)の支配権を奪うことを目指しました。
1605年、会社の艦隊は、クローブの主要な産地であったアンボン島とティドレ島から、ポルトガル勢力を駆逐することに成功します。これは、会社にとって最初の大きな軍事的勝利であり、香料諸島における足がかりを築く上で決定的な一歩となりました。
しかし、ポルトガルの最も重要な拠点であったマラッカの攻略は、はるかに困難でした。会社は、1606年以降、何度もマラッカを攻撃しましたが、その堅固な要塞に阻まれ、失敗を繰り返します。転機となったのは、会社が地元のスルタン国、特にジョホール王国と同盟を結んだことでした。長年マラッカのポルトガル人と敵対していたジョホール王国は、オランダに協力し、共同でマラッカを攻撃します。数ヶ月にわたる過酷な包囲戦の末、1641年、ついにマラッカは陥落しました。マラッカ海峡の支配権を握ったことで、会社は、インド洋と南シナ海を結ぶ重要なシーレーンを掌握し、ポルトガルのアジア内交易ネットワークに致命的な打撃を与えました。
香料諸島の征服とバンダの虐殺

会社の最も冷酷で残忍な独占政策が実行されたのが、ナツメグとメースの唯一の産地であったバンダ諸島でした。第4代総督ヤン=ピーテルスゾーン=クーンは、「貿易なくして戦争なく、戦争なくして貿易なし」という信念を持つ、冷徹なリアリストでした。彼は、香辛料の完全な独占を達成するためには、現地の住民を完全に会社の支配下に置く必要があると考えました。
バンダ諸島の住民は、会社の独占的な買い付け要求に従わず、より高い価格を提示するイギリス商人やアジアの商人と密かに取引を続けていました。この「契約違反」に激怒したクーンは、1621年、13隻の艦隊と約1,600名の兵士を率いてバンダ諸島に上陸し、徹底的な征服作戦を開始しました。
この作戦は、虐殺と呼ぶにふさわしいものでした。会社の軍隊は、抵抗する村々を焼き払い、住民を無差別に殺害しました。島の指導者たちは捕らえられ、見せしめとして惨殺されました。この虐殺によって、かつて15,000人ほどいたバンダ諸島の人口は、わずか1,000人以下にまで激減したと言われています。生き残った人々の多くは奴隷として他の場所へ送られ、無人となった土地には、会社が連れてきた奴隷や契約労働者を使い、ナツメグを栽培させるためのプランテーションが築かれました。
このバンダの虐殺は、オランダ東インド会社の歴史における最も暗い汚点であり、その利益が、いかに非人道的な暴力の上に成り立っていたかを象徴する事件です。この徹底した暴力によって、会社はナツメグとメースの生産を完全にコントロール下に置き、その価格をヨーロッパ市場で意のままに吊り上げることで、莫大な利益を手にしました。
アジア内交易網の構築

オランダ東インド会社は、単にヨーロッパとアジアの間で商品を往復させるだけの貿易を行っていたわけではありません。その成功の鍵は、アジア各地の異なる市場を結びつけ、一つの巨大な「アジア内交易」のネットワークを構築したことにありました。
当時のアジアには、それぞれ異なる需要と供給の構造を持つ、多様な地域経済圏が存在していました。例えば、日本は銀を産出しましたが、絹織物や鹿皮を欲していました。インドは綿織物の主要な生産地でしたが、日本の銀や東南アジアの香辛料を必要としていました。中国は陶磁器や絹を輸出しましたが、日本の銀や東南アジアの胡椒を輸入していました。
会社は、このアジア内の価格差と需要の違いに目をつけ、自社の船団を使って、ある地域で安く仕入れた商品を、別の地域で高く売ることで利益を上げました。例えば、インドのコロマンデル海岸で綿織物を買い付け、それを香料諸島に運び、クローブやナツメグと交換します。そして、その香辛料をヨーロッパに運ぶだけでなく、一部はインドやペルシャで販売し、さらに別の商品と交換しました。
このアジア内交易のシステムの中で、特に重要な役割を果たしたのが、日本との貿易でした。1609年、会社は平戸に商館を設立し、1641年以降は長崎の出島に商館を移転して、鎖国体制下の日本でヨーロッパ諸国として唯一、貿易を許可されました。日本は、当時世界有数の銀の産出国であり、会社は、日本の銀を大量に獲得することができました。この日本の銀は、アジア内交易における極めて重要な決済手段となり、インドの綿織物や中国の絹を買い付けるための資金として、会社の貿易ネットワーク全体を潤滑に機能させる血液のような役割を果たしたのです。バタヴィアを中継点として、日本、台湾、中国、ベトナム、シャム(タイ)、インド、ペルシャを結ぶこの複雑な貿易網を支配したことこそが、会社の富の真の源泉でした。
台湾の経営と喪失

アジア内交易網を機能させる上で、もう一つ重要な拠点となったのが台湾でした。1624年、会社は台湾南部にゼーランディア城を築き、ここを中国大陸との貿易の拠点としました。当時、明朝は海禁政策をとっており、直接の貿易が困難であったため、台湾は、中国産の絹や陶磁器を入手し、日本の銀を中国に輸出するための、理想的な中継貿易港となったのです。
会社は、台湾の原住民を支配下に置き、中国大陸から漢人の移民を奨励して、サトウキビや米のプランテーションを経営させました。台湾の砂糖は、日本やペルシャで高く売れる重要な商品となりました。このように、台湾は、中継貿易の拠点としてだけでなく、植民地経営による利益を生み出す生産拠点としても、会社にとって大きな価値を持っていました。
しかし、この台湾支配は長くは続きませんでした。1661年、明の復興を目指す鄭成功が、数万の大軍を率いて台湾に侵攻します。ゼーランディア城は9ヶ月にわたる包囲戦の末、1662年に降伏し、オランダ東インド会社は、38年間続いた台湾支配に終止符を打ちました。これは、会社のアジアにおける拡大の歴史の中で、最初の大きな後退でした。
黄金時代と社会への影響

オランダ東インド会社がアジアから持ち帰った莫大な富と、それが刺激した活発な経済活動は、17世紀のネーデルラント連邦共和国に、空前の繁栄をもたらしました。この時代は、経済的な豊かさだけでなく、芸術、科学、そして思想の分野でも目覚ましい発展が見られたことから、「オランダの黄金時代」と呼ばれています。会社の成功は、オランダ社会の隅々にまで影響を及ぼし、その姿を大きく変貌させていきました。
アムステルダムの繁栄

黄金時代の中心地は、オランダ東インド会社最大の支部が置かれた都市、アムステルダムでした。会社の船がアジアから持ち帰った香辛料、陶磁器、絹織物といった商品は、すべてアムステルダムの倉庫に集められ、ここからヨーロッパ各地へと再販されました。会社の株式が取引される証券取引所、そして世界中の商品が集まる商品取引所は、アムステルダムを世界経済の心臓部へと押し上げました。
市の人口は爆発的に増加し、富裕な商人や投資家たちは、その富を誇示するかのように、運河沿いに壮麗な邸宅を次々と建設しました。今日のアムステルダムの象徴である運河網(グラクテンゴルデル)の多くは、この時代に建設されたものです。造船所は、会社の巨大な東インド船(イーストインディアマン)や、無数の商船を建造するために、昼夜を問わず稼働していました。金融業も飛躍的に発展し、1609年に設立されたアムステルダム振替銀行は、安定した通貨と効率的な決済システムを提供し、国際金融の中心地としての地位を確立しました。
消費文化と市民生活

アジアからもたらされた新しい商品は、オランダの人々の生活様式にも大きな変化をもたらしました。会社の貿易が軌道に乗るにつれて、かつては王侯貴族しか手に入れることができなかった胡椒やクローブといった香辛料が、富裕な市民の食卓にも上るようになりました。彼らは、料理に香辛料をふんだんに使うことで、自らの富と社会的地位を表現しました。
中国の磁器は、特に人気の高い輸入品でした。その白く滑らかな肌と、青で描かれたエキゾチックな文様は、ヨーロッパの人々を魅了しました。当初は非常に高価でしたが、やがてデルフトなどの都市で、中国磁器を模倣した陶器(デルフトウェア)が生産されるようになり、より広い階層に広まっていきました。インドの色彩豊かな綿織物(更紗)も、室内装飾や衣服として流行しました。
これらの輸入品は、単なる消費財にとどまらず、オランダの芸術にも大きな影響を与えました。17世紀のオランダ絵画、特に静物画には、中国の万暦磁器の鉢に盛られた果物や、ペルシャ絨毯の上に置かれた銀食器といったモチーフが頻繁に登場します。これらの絵画は、当時のオランダ社会の物質的な豊かさと、グローバルな貿易によって世界中の富が集まっていた様子を、生き生きと伝えています。
芸術と科学のパトロン

オランダ東インド会社の成功によって富を築いた商人、理事、そして株主たちは、芸術と科学の強力なパトロンとなりました。彼らは、レンブラント、フェルメール、フランス=ハルスといった画家たちに、自画像や家族の肖像画、あるいは邸宅を飾るための絵画を注文しました。この旺盛な需要が、黄金時代のオランダ絵画の隆盛を支える経済的な基盤となったのです。会社の理事たちが描かれた集団肖像画は、彼らの権威と自負心を象徴する記念碑となりました。
科学の分野でも、会社は重要な役割を果たしました。会社の船は、世界各地から、未知の動植物の標本や、詳細な地理情報、そして異文化に関する知識を持ち帰りました。これらの情報は、ライデン大学の植物園や、個人の収集家の「驚異の部屋(ヴンダーカンマー)」に集められ、植物学、動物学、地理学、そして民族誌学の発展に大きく貢献しました。会社の船医や役人の中には、滞在先のアジアの自然や文化について、詳細な記録を残した者もいました。例えば、ドイツ人医師エンゲルベルト=ケンペルが日本の出島滞在中に収集した情報は、長年にわたり、ヨーロッパにおける日本研究の最も重要な情報源となりました。
社会の暗部

しかし、黄金時代の輝かしい光の裏には、深い影も存在していました。会社の富は、アジアにおける暴力的な独占と、現地住民や奴隷の過酷な労働の上に成り立っていました。バンダ諸島での虐殺や、プランテーションでの強制労働といった事実は、当時のオランダ本国では、ほとんど知られていなかったか、あるいは意図的に無視されていました。
また、会社の船乗りたちの労働環境は、極めて過酷でした。長い航海の間に、壊血病や赤痢といった病気で命を落とす者は後を絶たず、無事にヨーロッパへ帰還できる船員は、出発した者たちの半分に満たないことも珍しくありませんでした。会社の兵士たちも、アジアでの絶え間ない戦闘や、熱帯の風土病によって、高い死亡率に苦しみました。黄金時代の繁栄は、名もなき多くの人々の犠牲の上に築かれていたのです。
さらに、18世紀に入ると、会社の内部では汚職が蔓延し始めます。会社の役人たちは、低い給料を補うために、会社の規則を破って私的な貿易を行い、莫大な利益を懐に入れました。この不正行為は、会社の収益を蝕み、組織全体の規律を緩ませ、後の衰退の大きな原因となっていきます。黄金時代の豊かさは、その根幹において、倫理的な問題を常に内包していたと言えるでしょう。
衰退と解散

18世紀に入ると、かつて世界を席巻したオランダ東インド会社の巨大な機構は、徐々にその輝きを失い始めます。内部からの腐敗と、外部からの激しい競争という、二つの大きな圧力に直面した会社は、もはや17世紀のような圧倒的な優位性を維持することができなくなりました。一世紀近くにわたる緩やかな衰退の末、ヨーロッパ全土を揺るがした政治的激変が、この巨大企業にとどめを刺すことになります。
イギリス東インド会社との競争

会社の衰退における最大の外的要因は、ライバルであるイギリス東インド会社の台頭でした。17世紀において、オランダ東インド会社は、その圧倒的な資本力と軍事力、そして中央集権的な組織構造によって、イギリス東インド会社を香料諸島から締め出し、アジア貿易の主導権を握っていました。
しかし、18世紀に入ると、状況は逆転し始めます。イギリス東インド会社は、インド亜大陸にその勢力を集中させ、現地の諸侯間の対立に巧みに介入することで、政治的・軍事的な影響力を着実に拡大していきました。特に、1757年のプラッシーの戦いでの勝利は決定的でした。この勝利によって、イギリス東インド会社は、豊かで広大なベンガル地方の事実上の支配者となり、その莫大な税収を軍事力のさらなる強化と貿易の拡大に投じることができるようになったのです。
これに対し、オランダ東インド会社は、依然として利益率の高い香辛料貿易に固執し、変化するアジアの政治経済状況への対応が遅れました。会社の主な関心は、インドネシア諸島における独占の維持にあり、インドにおけるイギリスの台頭を食い止めるための十分な資源を投入することができませんでした。
さらに、ヨーロッパの市場では、消費者の嗜好が変化し始めていました。かつてほどの価値を持たなくなった香辛料に代わり、インド産の綿織物(キャラコ)や、中国産の茶の人気が急速に高まっていました。これらの商品の貿易において、イギリス東インド会社は、インドと中国(広東)に強力な拠点を築き、オランダに対して優位に立つようになります。第四次英蘭戦争(1780年-1784年)は、両社の力の差を決定的に示すものとなりました。この戦争でオランダ海軍はイギリス海軍に完敗し、オランダ東インド会社はアジアにおける多くの商館を失い、その貿易ネットワークは壊滅的な打撃を受けました。
内部の腐敗と非効率

会社の衰退を加速させたもう一つの大きな要因は、組織内部に蔓延した構造的な問題でした。その最も深刻なものが、役人による汚職と私貿易でした。
会社の役人たちの公式な給与は、非常に低い水準に抑えられていました。そのため、彼らの多くは、その地位を利用して、不正な手段で富を築くことを常態化させていました。彼らは、会社の船を使って自分の商品を密輸したり、会社の物資を横領したり、あるいは現地の商人から賄賂を受け取ったりしました。この私貿易は、会社の正規の貿易と競合し、その利益を著しく損ないました。会社内部では、「VOC(会社の略称)はVergaan Onder Corruptie(汚職により滅ぶ)の略だ」と揶揄されるほど、腐敗は深刻でした。
衰退と解散

18世紀に入ると、かつて世界を席巻したオランダ東インド会社の巨大な機構は、徐々にその輝きを失い始めます。内部からの腐敗と、外部からの激しい競争という、二つの大きな圧力に直面した会社は、もはや17世紀のような圧倒的な優位性を維持することができなくなりました。一世紀近くにわたる緩やかな衰退の末、ヨーロッパ全土を揺るがした政治的激変が、この巨大企業にとどめを刺すことになります。
イギリス東インド会社との競争

会社の衰退における最大の外的要因は、ライバルであるイギリス東インド会社の台頭でした。17世紀において、オランダ東インド会社は、その圧倒的な資本力と軍事力、そして中央集権的な組織構造によって、イギリス東インド会社を香料諸島から締め出し、アジア貿易の主導権を握っていました。
しかし、18世紀に入ると、状況は逆転し始めます。イギリス東インド会社は、インド亜大陸にその勢力を集中させ、現地の諸侯間の対立に巧みに介入することで、政治的・軍事的な影響力を着実に拡大していきました。特に、1757年のプラッシーの戦いでの勝利は決定的でした。この勝利によって、イギリス東インド会社は、豊かで広大なベンガル地方の事実上の支配者となり、その莫大な税収を軍事力のさらなる強化と貿易の拡大に投じることができるようになったのです。
これに対し、オランダ東インド会社は、依然として利益率の高い香辛料貿易に固執し、変化するアジアの政治経済状況への対応が遅れました。会社の主な関心は、インドネシア諸島における独占の維持にあり、インドにおけるイギリスの台頭を食い止めるための十分な資源を投入することができませんでした。
さらに、ヨーロッパの市場では、消費者の嗜好が変化し始めていました。かつてほどの価値を持たなくなった香辛料に代わり、インド産の綿織物(キャラコ)や、中国産の茶の人気が急速に高まっていました。これらの商品の貿易において、イギリス東インド会社は、インドと中国(広東)に強力な拠点を築き、オランダに対して優位に立つようになります。第四次英蘭戦争(1780年-1784年)は、両社の力の差を決定的に示すものとなりました。この戦争でオランダ海軍はイギリス海軍に完敗し、オランダ東インド会社はアジアにおける多くの商館を失い、その貿易ネットワークは壊滅的な打撃を受けました。
内部の腐敗と非効率

会社の衰退を加速させたもう一つの大きな要因は、組織内部に蔓延した構造的な問題でした。その最も深刻なものが、役人による汚職と私貿易でした。
会社の役人たちの公式な給与は、非常に低い水準に抑えられていました。そのため、彼らの多くは、その地位を利用して、不正な手段で富を築くことを常態化させていました。彼らは、会社の船を使って自分の商品を密輸したり、会社の物資を横領したり、あるいは現地の商人から賄賂を受け取ったりしました。この私貿易は、会社の正規の貿易と競合し、その利益を著しく損ないました。会社内部では、「VOC(会社の略称)はVergaan Onder Corruptie(汚職により滅ぶ)の略だ」と揶揄されるほど、腐敗は深刻でした。
また、2世紀近くを経て、会社の組織そのものが巨大化・官僚化し、非効率になっていました。ヨーロッパのヘーレン=セブンティーンと、アジアのバタヴィア政庁との間の通信には、往復で1年以上かかることも珍しくなく、急速に変化する現地の状況に対して、迅速で的確な意思決定を下すことが極めて困難でした。アジアの役人たちは、本国の理事会の目が行き届かないことを良いことに、独断で行動したり、不正に走ったりすることが容易でした。会社の帳簿は複雑で不透明になり、正確な経営状態を把握することすら難しくなっていきました。
財政破綻と国有化

第四次英蘭戦争による壊滅的な打撃と、構造的な赤字経営により、会社の財政は破綻状態に陥りました。会社は、もはや自力で立ち直ることができず、ネーデルラント連邦政府からの巨額の融資によって、かろうじて存続している状態でした。会社の負債は雪だるま式に膨れ上がり、18世紀末には、その額は1億ギルダーを超える、天文学的な数字に達していたと言われています。
会社の運命に最終的な判決を下したのは、フランス革命でした。1795年、フランス革命軍がネーデルラントに侵攻し、オラニエ公がイギリスへ亡命すると、親フランスのバタヴィア共和国が樹立されます。この新しい共和制政府は、旧体制の象徴であり、腐敗と非効率の温床と見なされていたオランダ東インド会社を、もはや維持する価値がないと判断しました。
1796年、バタヴィア共和国政府は、会社の特許状を更新しないことを決定し、その経営権を事実上接収しました。そして、1799年12月31日、設立から約2世紀にわたってアジアの海に君臨したオランダ東インド会社は、その歴史に幕を閉じ、正式に解散されました。その莫大な負債と、インドネシア諸島に残された植民地領土は、すべてオランダ国家(バタヴィア共和国とその後のオランダ王国)に引き継がれました。こうして、一民間企業の植民地であったインドネシアは、「オランダ領東インド」として、国家による直接統治の時代へと移行していくことになります。かつて世界初の株式会社として歴史に登場した巨大企業は、最終的に国家に吸収されるという形で、その長い物語を終えたのです。
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・東インド会社《オランダ》とは わかりやすい世界史用語2669

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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