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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 重商主義と啓蒙専制主義

ニューアムステルダムとは わかりやすい世界史用語2679

著者名: ピアソラ
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ニューアムステルダムの建設

現代の巨大都市ニューヨークは数多くの異名を持ちます。その起源が17世紀初頭、オランダ西インド会社という一民間企業によって北米大陸の荒野に築かれた小さな交易拠点にあったと知る人は多くないかもしれません。その名はニューアムステルダム。わずか40年という短い期間だけ存在したこの町は、後のニューヨーク、ひいてはアメリカ合衆国そのものの性格を規定する驚くべき多様性と商業主義の精神をその誕生の瞬間から宿していました。
ニューアムステルダムの建設は単なる建物の建設という物理的な行為をはるかに超える意味を持ちます。それはヨーロッパの帝国主義的な野心、資本主義の論理、そして宗教的な対立が新大陸の広大な自然とそこに古くから住む先住民の社会と初めて本格的に交錯した壮大な歴史的事業でした。この事業はヘンリー=ハドソンの偶然の発見に端を発します。そしてビーバーの毛皮という一つの商品をめぐる欲望に駆り立てられ、オランダ西インド会社という当時としては革新的な組織の冷徹な計算に基づいて実行に移されました。



場所の選定

ニューアムステルダムという都市の誕生は、ある日突然無から有が生じたわけではありません。その建設に至るまでには十数年にわたる探検、交易、そして試行錯誤の歴史がありました。なぜオランダ西インド会社は北米大陸の広大な海岸線の中からマンハッタン島という特定の島を選び出したのでしょうか。その決定の背後には地理的な利点、経済的な計算、そして戦略的な思考が複雑に絡み合っていました。
ヘンリー=ハドソンの遺産

すべての物語は1609年、オランダ東インド会社に雇われたイギリス人探検家ヘンリー=ハドソンの航海から始まります。アジアへの北西航路を探していた彼は偶然にも後に彼の名を冠することになる雄大な川(ハドソン川)を発見しました。彼が探していた太平洋への道ではありませんでしたが、この川はそれ自体が計り知れない価値を持つ「道」でした。それは大西洋の港から北米大陸の奥深く、毛皮の豊富な内陸部へと直接アクセスできる類まれな水路だったのです。
ハドソンが持ち帰ったこの地域に生息するビーバーの毛皮がヨーロッパで莫大な利益を生むという情報は、アムステルダムの商人たちを瞬く間に行動へと駆り立てました。1610年代を通じて複数の小規模な貿易会社が競ってこの「ハドソン川」へと船を派遣し、先住民との間で活発な毛皮交易を開始します。
当初彼らの活動は季節的なものでした。船で川を遡り交易を終えるとヨーロッパへ帰還する。しかしすぐに年間を通じて滞在し交易を管理するための恒久的な拠点が必要であることが明らかになります。1614年いくつかの会社が合同して設立した「ニューネーデルラント会社」は、ハドソン川上流、現在のオールバニ市の近くに最初の拠点となる「フォート=ナッサウ」を建設しました。この場所は毛皮の主要な供給者であるイロコイ連邦のモホーク族との交易に理想的な立地でした。
しかしフォート=ナッサウはあくまで内陸の交易拠点であり植民地全体の中心地とはなり得ませんでした。大西洋を渡ってくる船が直接停泊できる安全な港。そして植民地全体の防衛と行政を司る主都。そうした機能を持つ新たな中心地の建設が求められていました。
西インド会社の設立と戦略的思考

1621年オランダ西インド会社(GWC)が設立されニューネーデルラントにおけるすべての貿易と植民の独占権を与えられると、主都の建設はより体系的で戦略的な計画の下で進められることになります。
西インド会社は単なる貿易会社ではなくスペイン・ポルトガル帝国と世界規模で戦争を遂行するための国家的な機関でした。彼らの視点から見ればニューネーデルラントは単なる毛皮の供給地以上の重要な意味を持っていました。それは北はフランス領カナダ、南はイギリス領バージニアというライバル国の植民地の間に楔を打ち込む戦略的な拠点でした。またカリブ海でスペインの銀船団を襲撃する私掠船の基地としても利用できる可能性がありました。
このような戦略的な観点から主都の立地にはいくつかの絶対条件が求められました。
第一に卓越した港湾機能です。大西洋の荒波から船を守り数百トン級の大型船でも安全に停泊・荷役ができる広大で水深の深い港が不可欠でした。
第二に防衛上の優位性です。敵国の海軍による海上からの攻撃に対して守りやすく要塞化が容易な地形でなければなりませんでした。
第三に内陸へのアクセスです。ハドソン川という毛皮交易の生命線である水路への入り口を完全にコントロールできる場所である必要がありました。
候補地の検討とマンハッタン島の選定

西インド会社の取締役会である「19人会」はこれらの条件を基に主都の建設地を慎重に検討しました。当初いくつかの場所が候補として挙げられました。
コネチカット川の河口もその一つでした。この川もまた内陸へのアクセスを提供し良港の可能性を秘めていました。しかしこの地域はすでに東から進出してくるニューイングランドのイギリス人植民者との間で緊張が高まっており長期的な安全保障に不安がありました。
デラウェア川の流域も有力な候補でした。この川もまた広大で内陸深くまで航行可能でした。実際1624年に派遣された最初の植民者の一部は、この川の東岸に小さな砦(フォート=ナッサウ、ハドソン川の砦とは別)を築いています。しかしこの地域はハドソン川流域ほど毛皮交易が盛んではなく経済的な魅力にやや欠けていました。
最終的にすべての条件を最も理想的な形で満たしていると判断されたのが、ハドソン川の河口に位置する大きな島でした。先住民が「丘の多い島」という意味で「マナハッタ」と呼んでいた島です。
マンハッタン島の南端はまさに天与の要害でした。東はイースト川、西はハドソン川(当時はノース川と呼ばれた)、そして南は広大なアッパー湾に囲まれ、陸続きで攻撃を受ける危険があるのは北側だけでした。アッパー湾は世界でも有数の天然の良港であり数百隻の船が同時に停泊できるほどの広さと水深を誇っていました。そして何よりもこの場所はハドソン川、イースト川、そして大西洋へと抜けるすべての水路の合流点を完全にカバーする絶好の戦略的位置を占めていました。ここを抑えればニューネーデルラント全体の玄関口を支配することができるのです。
1624年最初の植民者の一部がマンハッタン島の対岸にある小さな島(現在のガバナーズ島)に一時的な拠点を築きました。そして翌1625年植民地の新たな総督として派遣されたウィレム=フェルフルストの指示の下、主都の建設地は正式にマンハッタン島の南端に決定されました。
この決定はニューネーデルラントのそしてその後のニューヨークの運命を決定づける極めて重要な瞬間でした。それは単に便利な場所を選んだというだけでなく、この植民地が海洋交易とグローバルな戦略の中にその未来を位置づけるという明確な意思表示でもあったのです。ハドソン川の毛皮と大西洋の航路がこの一点で交わる場所。ニューアムステルダムはその地理的な宿命を誕生の瞬間から背負っていたのです。
土地の確保=60ギルダーの神話

ニューアムステルダム建設の物語の中で、おそらく最も有名で同時に最も誤解されているエピソードがマンハッタン島の購入です。伝説によれば1626年オランダ西インド会社の総督ピーター=ミヌイットが先住民からわずか60ギルダー相当の安物と引き換えにマンハッタン島全体を手に入れたとされています。この話はしばしば抜け目のないヨーロッパ人が世間知らずの先住民をいかに安々と騙したかという象徴的な物語として語られてきました。
しかしこの単純化された物語は歴史の複雑な真実を覆い隠しています。この「取引」は単なる不動産売買ではなく土地の所有と利用に関する二つの全く異なる文化の根本的な価値観が衝突した最初の劇的な瞬間でした。この出来事を正しく理解することはその後のオランダ人と先住民の困難な関係の全体像を把握するための不可欠な鍵となります。
取引の唯一の証拠

この歴史的な取引について私たちが知っている事実は驚くほど限られています。取引そのものを記録した正式な契約書や権利証書は現存していません。私たちが持つ唯一の同時代の証拠は1626年11月5日付でオランダ西インド会社の役員であったピーテル=スハーヘンがアムステルダムで会社の取締役会に宛てて書いた一通の手紙です。
その手紙の中で彼はニューネーデルラントからちょうど帰還した船がもたらしたニュースを報告しています。その中に次のような一節があります。
「彼らはマンハッタン島を60ギルダーの値でインディアンから購入しました。その広さは11,000モルゲン(約22,000エーカー、約8,900ヘクタール)です。」
これがこの取引に関する唯一の、そして全ての一次資料です。この短い記述からは取引がいつどこで誰と誰の間で行われたのか、そしてその「60ギルダー」が具体的にどのような品物であったのか全く分かりません。ピーター=ミヌイットが取引を行ったという話も後世の歴史家による推測でありスハーヘンの手紙には彼の名前は出てきません。
「60ギルダー」という金額もその価値を現代の感覚で理解するのは困難です。しばしば「24ドル」と換算されますがこれは19世紀の歴史家が当時の為替レートを単純に適用したものでほとんど意味がありません。当時の60ギルダーは熟練した職人の数週間分の給料に相当する決して些細ではない金額でした。しかしマンハッタン島という世界で最も価値のある不動産の一つとなった土地の対価としてはもちろん天文学的に安い金額であることに変わりはありません。
二つの世界観の衝突

この取引をめぐる本当の問題は金額の多寡ではありません。それは取引の当事者であるオランダ人と先住民が「土地を売買する」という行為そのものを全く異なる概念で理解していたという点にあります。
17世紀のオランダ人にとって土地は明確な境界線で区切られ個人や団体が排他的に所有し自由に売買できる「商品」でした。彼らは法的な権利証書に基づいてその所有権を恒久的かつ絶対的に主張できると信じていました。彼らが先住民から土地を「購入」しようとしたのは単に彼らを騙すためだけでなくヨーロッパの国際法(特にキリスト教徒でない民族から土地を取得する際の手続き)に則って自らの領有権の正当性を内外に示すという目的もありました。
一方マンハッタン島に住んでいたレナペ族をはじめとするアルゴンキン語族系の先住民にとって土地は全く異なる意味を持っていました。彼らの世界観では土地は創造主から与えられたものであり特定の個人が排他的に所有するものではありませんでした。土地は部族や氏族といった共同体が全体としてその恵みを利用するものであり売買の対象とはなり得ませんでした。人々は土地を「所有」するのではなく土地に「属して」いたのです。
彼らの社会にも特定の集団が特定の領域(狩猟場や耕作地など)を優先的に利用するという慣習はありました。しかしその権利は絶対的なものではなく他の集団との相互の合意や贈与の交換といった複雑な関係性の中で常に変動するものでした。
したがってレナペ族の人々がオランダ人から斧や鍋、布地といった価値のある品物を受け取った時、彼らは自分たちの土地の所有権を永久にそして完全に放棄したとは考えていなかった可能性が極めて高いです。彼らはむしろオランダ人に対してその土地を「共有して利用する」権利を与えその見返りとして贈り物を受け取ったと解釈していたのかもしれません。それは彼らの文化における同盟関係を結び友好を維持するための伝統的な儀礼の一部でした。彼らはオランダ人がそこに家を建て畑を耕すことを許可したかもしれませんが、それは自分たちがその土地で狩りをしたり漁をしたり通行したりする権利を失うことを意味するとは夢にも思わなかったでしょう。
さらに問題を複雑にしているのはオランダ人が誰と取引をしたのかという点です。レナペ族の社会は中央集権的な権力構造を持っておらず多くの自律的な小集団に分かれていました。オランダ人が取引をした相手はマンハッタン島全体を代表する権限など持っていなかったかもしれません。彼らは島の特定の部分を利用していた一つの集団に過ぎなかった可能性もあります。他の集団はこの取引に全く関知していなかったかもしれません。
取引の長期的影響

この「60ギルダーの取引」がもたらした結果は悲劇的でした。オランダ人たちは自分たちが島の正当な所有者になったと信じ土地を測量し柵を立て自分たちの家畜を放ち始めました。彼らの牛や豚は先住民が食料としていたトウモロコシ畑を荒らしました。オランダ人たちは先住民が自分たちの「所有地」を自由に通行することを問題視し始めました。
一方先住民たちはオランダ人たちがなぜこれほど排他的に土地を独占しようとするのか理解できませんでした。彼らは自分たちの伝統的な生活様式が脅かされていると感じ不満と怒りを募らせていきました。
この土地をめぐる根本的な認識の齟齬は、その後のニューネーデルラントの歴史を通じて絶え間ない緊張と紛争の源泉となりました。1640年代に植民地全体を破滅の淵に追いやった「キーフトの戦争」もその根源にはこの土地問題がありました。
結論としてマンハッタン島の「購入」は狡猾な詐欺というよりもむしろ二つの相容れない世界観が互いを理解できないままに衝突した文化的な悲劇でした。オランダ人たちは自分たちの法的な論理で土地の所有権を確保しようとしましたがそれは先住民の文化と社会の根本的な構造を無視したものでした。この最初の出会いの瞬間に生まれた相互不信の種は、やがて暴力という最悪の形で発芽することになるのです。
理想と現実の都市計画

マンハッタン島の土地が確保されるとオランダ西インド会社はいよいよ植民地の主都となる新しい町の建設に本格的に着手しました。会社の取締役たちはアムステルダムの本社にいながら新大陸に秩序正しく防衛上有利でそして利益を生む理想的な都市を建設することを夢見ていました。しかしその壮大な計画はマンハッタンの荒々しい現実とそこに住む人々の手に負えないエネルギーの前に大きくその姿を変えざるを得ませんでした。ニューアムステルダムの物理的な発展はこの理想と現実の間の絶え間ないせめぎ合いの物語でした。
クリジン=フレデリクスの理想都市案

1625年西インド会社は技師であり測量士でもあったクリジン=フレデリクスをニューネーデルラントへ派遣しました。彼の任務は主都の建設を監督しそのための詳細な計画を立案することでした。彼が会社に提出した最初の都市計画案は当時のヨーロッパにおける最新の要塞都市理論を色濃く反映した極めて野心的なものでした。
フレデリクスの計画の中心にあったのは島の南端に建設される巨大な星形の要塞でした。これはイタリアで開発されオランдаで完成された稜堡式城郭と呼ばれる最新の築城術でした。突き出した五つの稜堡(バスティオン)は城壁に沿って死角のない十字砲火を浴びせることを可能にし、当時の大砲による攻撃に対して絶大な防御力を発揮しました。この要塞は「フォート=アムステルダム」と名付けられ、その内部には総督の公邸、兵舎、武器庫、そして教会などが配置されることになっていました。
要塞の北側には幾何学的な格子状の街路を持つ整然とした市街地が計画されていました。それぞれの街区は同じ大きさに区画され家々は通りに面して整然と並ぶことになっていました。計画には市場、病院、そして孤児院のための公共スペースも確保されていました。この計画はルネサンス期の理想都市の概念に強く影響されたものであり、無秩序な自然を人間の理性によってコントロールしようとする近代的な精神を体現していました。
もしこの計画が完全に実現されていたならニューアムステルダムは北米大陸で最も整然とし最も強力に要塞化されたヨーロッパ風の都市の一つになっていたでしょう。
建設の現実=労働力と物資の不足

しかしフレデリクスの壮大な青写真はほとんど紙の上の計画に終わりました。その最大の理由は建設に必要な労働力と物資の深刻な不足でした。
17世紀のマンハッタン島は鬱蒼とした森、岩だらけの丘、そして湿地帯に覆われた未開の土地でした。巨大な要塞と市街地を建設するためにはまず広大な土地を開墾し整地する必要がありましたがこれは想像を絶する重労働でした。
会社はこの労働力を確保するために兵士、職人、そして契約労働者をヨーロッパから送りました。しかしその数は常に需要に追いつきませんでした。そこで会社が決定的に依存するようになったのがアフリカから強制的に連れてこられた奴隷たちの労働力でした。1626年頃に最初の奴隷たちがニューアムステルダムに到着して以来彼らはこの町のあらゆる公共事業の最前線で酷使されました。彼らは森を切り開き岩を砕き土を運び要塞の土塁を築きました。ニューアムステルダムの物理的な基礎が彼らの強制労働の上に築かれたことは紛れもない事実です。
物資の不足も深刻な問題でした。レンガ、瓦、そして高品質な木材といった多くの建材はヨーロッパから船で輸送してこなければならず時間もコストもかかりました。現地で調達できる木材は豊富にありましたが、それを加工するための製材所などのインフラが当初は整っていませんでした。
このような厳しい現実の中でフレデリクスの計画は大幅に縮小・変更されざるを得ませんでした。フォート=アムステルダムは当初の計画よりもはるかに小規模で簡素な土塁と木柵で囲まれた砦として建設されました。星形の稜堡も不完全な形でしか実現されませんでした。
有機的に発展する町

格子状の市街地計画もほとんど無視されました。植民者たちは会社の計画を待たずに自分たちの都合の良い場所に家を建て始めました。その結果ニューアムステルダムの街路は計画的なグリッドではなくかつてのインディアンの小道や牛が歩いた跡などをなぞるようにして自然発生的に形成されていきました。
町の中心となったのはフォート=アムステルダムの東側に沿ってイースト川の岸辺へと延びる道でした。この道は後に「パール通り」として知られるようになりますが当時は単に「ザ・ストランド(岸辺)」と呼ばれていました。港に近く商業活動の中心であったこの通り沿いに商人たちの住居兼店舗が次々と建てられていきました。
もう一つの主要な通りは、砦の正門から島の北側へとまっすぐに延びる道でした。これは「ヒーア=ストラート(紳士の道)」と呼ばれ、後のブロードウェイの原型となります。この道は非常に幅が広かったため中央には市場が開かれ町の社会的な中心地となりました。
家々の建築様式も当初は掘っ立て小屋や木と粘土でできた簡素なものがほとんどでした。しかし1640年代以降経済が安定してくるとオランダ本国の建築様式を模した切妻屋根を持つレンガ造りの家が建てられるようになります。これらの家々は通りにその狭い側面を向けて隣家と壁を接して密集して建てられました。一階が店舗や作業場、二階以上が居住空間という職住一体の構造が一般的でした。
こうしてニューアムステルダムは計画された理想都市とは全く異なる無秩序で雑然としながらも活気に満ちた有機的な港町として成長していきました。その不規則な街路パターンは会社の権威的な計画に対する個々の住民の実利的な選択と自律的なエネルギーの物理的な現れであったと見ることもできます。この町の姿はまさにその社会の性格、すなわち商業主義的で個人主義的でそしてややアナーキーな気風を映し出す鏡でした。現代のロウアー=マンハッタンがミッドタウン以北の整然とした格子状の街路とは全く異なる迷路のような不規則な街路網を持っているのはこのニューアムステルダム時代の有機的な発展の直接的な名残なのです。
象徴的な建造物

ニューアムステルダムの雑然とした街並みの中に植民地の権威、信仰、そして不安を象徴するいくつかの重要な建造物がその姿を現していきました。これらの建物の建設の物語はこの小さな共同体が直面していた課題とそのアイデンティティを雄弁に物語っています。
フォート=アムステルダム

町のそして植民地全体の心臓部であったのがフォート=アムステルダムでした。それは西インド会社の権威の物理的な象徴であり植民地の軍事的な司令部でした。前述の通りその建設は困難を極め、当初の壮大な計画からはほど遠い土と木でできた粗末な砦として完成しました。
しかしその象徴的な重要性は変わりませんでした。砦の内部には総督の公邸、会社の事務所、兵士たちの兵舎、そして植民地で最初の教会が置かれていました。砦の城壁には数門の大砲が据え付けられ港の入り口を睨んでいました。それは敵国の船だけでなく会社の支配に不満を持つ植民者たちに対しても無言の圧力をかける存在でした。
しかしこの砦の防衛力は常に疑わしいものでした。土塁は雨によってしばしば崩れ家畜がその上を自由に歩き回っていました。兵士たちの士気も決して高くはありませんでした。1664年イギリス艦隊が宣戦布告なしに港に現れた時この砦がほとんど抵抗することなく降伏したという事実はその脆弱性を何よりも物語っています。
教会と酒場

ニューアムステルダムの社会生活の中心には二つの対照的な施設がありました。それは教会と酒場です。
植民地の公式な宗教はオランダ改革派教会でした。最初の礼拝は製粉所の上階など仮の場所で行われていましたが1633年頃フォート=アムステルダムの内部に最初の独立した教会堂が建設されました。しかしこれは簡素な木造の建物でした。
1642年総督ウィレム=キーフトの時代により立派な石造りの教会が同じく砦の内部に建設されることになります。セント=ニコラス教会と名付けられたこの教会は植民地の宗教的な中心であると同時に会社の権威を示すための威信をかけたプロジェクトでもありました。しかしその建設資金の調達方法はキーフトの狡猾な性格をよく表しています。彼はある結婚式の祝宴で招待客たちが酒に酔った頃を見計らって教会のための寄付金リストを回し皆が気前よく署名せざるを得ない状況を作り出したと伝えられています。
一方でニューアムステルダムはその人口に比して異常なほど多くの酒場(タバーン)があることで知られていました。ある記録によれば1640年代には町の建物の四軒に一軒がビールやワイン、ブランデーを提供する場所であったとされています。
酒場は単に酒を飲む場所ではありませんでした。それは商談がまとめられニュースが交換されそして政治的な不満が議論される重要な社交の場でした。船乗り、兵士、商人、農民、そして先住民までもがここで一堂に会しました。総督ピーター=ストイフェサントはこの無秩序な飲酒文化を社会の風紀を乱すものとして厳しく取り締まろうとしましたがほとんど効果はありませんでした。教会が公式の秩序と道徳を代表する場所であったとすれば酒場はこの町の雑多で手に負えない民衆のエネルギーが渦巻く場所でした。
防壁(ザ・ウォール)

1653年ニューアムステルダムの北の境界線に沿って一本の長い防壁が建設されました。この壁は後に世界で最も有名な金融街の名前の由来となる「ウォール街」の「ウォール」です。
この壁の建設は第一次イギリス=オランダ戦争(1652年-1654年)の勃発に直接起因しています。ニューイングランドのイギリス植民地から陸路での攻撃があるかもしれないという恐怖が現実のものとなったのです。
総督ストイフェサントの命令の下町の住民そして会社の奴隷たちが総動員され急ピッチで建設作業が進められました。壁は高さ約12フィート(約3.7メートル)の木の杭を地面に深く打ち込んで作られた粗末な木柵でした。壁に沿っていくつかの稜堡が設けられ大砲が据え付けられました。壁は東はイースト川の岸辺(現在のパール通り)から西はノース川(ハドソン川)の岸辺(現在のグリニッチ通り)まで町の北側を完全に横断していました。
この壁は実際にイギリス軍の攻撃を防ぐために使われることはありませんでした。しかしその存在はいくつかの重要な意味を持っていました。
第一にそれはニューアムステルダムがもはや単なる開かれた交易拠点ではなく明確な境界を持つ要塞化された都市であることを内外に示しました。
第二にそれは町の物理的な成長を一時的に堰き止める役割を果たしました。町の人口が増加するにつれて壁の内側の土地はますます過密になり地価は高騰しました。
そして第三にそれは植民地が常に外部からの脅威にさらされているという住民たちの絶え間ない不安感を象徴していました。壁はイギリス人や敵対的な先住民といった「他者」から自分たちの共同体を守るための物理的な境界線でした。
フォート=アムステルダム、教会、そして防壁。これらの建造物はそれぞれ権威、信仰、そして不安というニューアムステルダム社会の三つの重要な側面を象徴していました。それらは理想的な計画と厳しい現実の間で妥協しながらも確かにこの地に根を下ろそうとしたオランダ人の意志の石と木による証言者だったのです。
ニューアムステルダムの建設はわずか40年という歴史の瞬きほどの期間で幕を閉じました。1664年第二次イギリス=オランダ戦争の前哨戦としてイングランド国王チャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズが派遣した艦隊が宣戦布告なしに港に姿を現した時この町の運命は事実上決しました。総督ピーター=ストイフェサントは徹底抗戦を主張しましたが戦っても勝ち目がないことを悟った町の有力者たちの説得を受け入れ無血で降伏しました。町の名は新たな所有者であるヨーク公にちなんで「ニューヨーク」と改名されました。
こうしてオランダによる北米大陸での植民地経営の夢は終わりを告げました。しかしニューアムステルダムの建設という事業がその後の歴史に残した遺産は計り知れないほど大きくそして永続的なものでした。
第一にその物理的な遺産です。現代のロウアー=マンハッタンを歩く時、私たちは今もニューアムステルダムの上を歩いています。ブロードウェイ、パール通り、そしてウォール街。これらの通りの名前とその不規則なレイアウトはオランダ時代の直接的な名残です。バッテリー・パークにあるフォート=アムステルダムの跡地やストーン通りに残る石畳の道は、この町の微かな記憶を今に伝えています。
第二にその文化的な遺産です。オランダ語は公用語としてはすぐに英語に取って代わられましたがその影響は地名や日常的な言葉の中に生き残りました。「ブルックリン」(ブローケレン)、「ハーレム」(ハーレム)、「ブロンクス」(ヨナス=ブロンクの土地)、「コニーアイランド」(コーナイン=アイラント、ウサギの島)。そして「ボス」(baas、親方)、「クッキー」(koekje)、「サンタクロース」(シンタクラース)といった言葉はすべてオランダ語に由来します。
しかしニューアムステルダムが残した最も重要で本質的な遺産は、その物理的な痕跡や言葉の断片ではありません。それはこの町がその誕生の瞬間から体現していた二つの根本的な精神、すなわち「商業主義」と「多様性」です。
ニューアムステルダムは宗教的な理想や農業による定住ではなく、徹頭徹尾利益の追求を目的として建設された町でした。そこではあらゆるものが商品として取引の対象となりました。毛皮、タバコ、そして人間(奴隷)までもが利益を生むための計算の対象でした。このあらゆるものを金銭的な価値に換算し取引するという精神は、後のニューヨークが世界の金融と商業の中心地として発展していくためのDNAそのものでした。ウォール街がかつての町の防壁の上に築かれたのは単なる偶然以上の象徴的な意味を持っています。
そしてもう一つのより重要な遺産が多様性とそれに伴うある種の寛容性の精神です。西インド会社は道徳的な理由からではなく労働力不足を解消するという極めて実利的な理由から国籍や宗教を問わずあらゆる人々を受け入れました。ワロン人、ドイツ人、スカンディナビア人、ユダヤ人、そしてアフリカ人。彼らは互いに異なる言語を話し、異なる神を信じながらもこの狭い土地で隣り合って生きていくことを学ばなければなりませんでした。
もちろんこの社会は決して理想的な多文化共生の楽園ではありませんでした。そこにはピーター=ストイフェサントによる宗教的マイノリティへの抑圧がありました。そしてその社会の基盤には奴隷制度という根本的な不正義が深くそして不可分に組み込まれていました。
しかしそれでもなおニューアムステルダムは北米大陸の他のどの植民地にも見られないコスモポリタンな気風を育みました。それはピューリタンの宗教的な均質性を求めるニューイングランドともアングリカン教会の階層的な秩序を重んじるバージニアとも全く異なる社会でした。この雑多で混沌としていながらもダイナミックな多様性こそがニューヨークという都市を常に世界中から新たな移民を引き寄せ新たな文化を生み出し続ける特別な場所にしている力の源泉なのです。
ニューアムステルダムの建設は壮大な理想と厳しい現実そして人間の欲望と計算が複雑に絡み合った壮大なドラマでした。その物語はわずか40年で終わりを告げましたが、その精神は決して消え去ることはありませんでした。それはイギリスの支配下でそしてアメリカ合衆国の独立後もこの都市の深層部に生き続けやがて世界で最も偉大な都市の一つを形作っていく力強い底流となったのです。ニューヨークの摩天楼のその礎の下には今もオランダ人たちが築いた小さな港町の忘れられた記憶が静かに眠っているのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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