西ポンメルンとは
1648年のウェストファリア条約は、三十年戦争というヨーロッパ大陸を荒廃させた大戦乱に終止符を打ち、近代の国際秩序の礎を築いたとされる歴史的な講和条約です。この条約は、宗教の自由をめぐる原則を確立し、主権国家の概念を明確にしただけでなく、ヨーロッパの政治地図を大きく塗り替えました。その中でも、バルト海南岸に位置するポンメルン公国の分割は、条約がもたらした地政学的な変化を象徴する、極めて重要な意味を持つ出来事でした。
この条約によって、長らく神聖ローマ帝国の領邦として存続してきたポンメルン公国は、その西側部分、すなわち西ポンメルンがスウェーデン王国に割譲されることになりました。これは、単なる領土の移譲ではありませんでした。それは、三十年戦争におけるスウェーデンの軍事的貢献に対する「満足金」として、また、バルト海におけるスウェーデンの覇権、すなわち「バルト帝国」を完成させるための戦略的な布石として、複雑な外交交渉の末に決定されたものでした。
条約以前のポンメルン
ウェストファリア条約がポンメルン公国にもたらした分割という劇的な結末を理解するためには、17世紀初頭のこの公国が置かれていた複雑な状況を把握することが不可欠です。ポンメルンは、神聖ローマ帝国の北東辺境に位置する領邦として、独自の歴史と伝統を持ちながらも、常に外部の強国の野心に晒されていました。特に、ブランデンブルク選帝侯との間に長年にわたって存在した継承契約は、公国の将来に大きな影を落としていました。
グリフィン家と神聖ローマ帝国
ポンメルン公国は、12世紀以来、グリフィン家(グライフェン家)として知られる土着の公爵家によって統治されてきました。この一族は、伝説上の生き物であるグリフィンを紋章としたことからその名で呼ばれ、数世紀にわたりポンメルンの独立性を維持し、その領土を統治してきました。1181年、ポンメルン公ボギスラフ1世は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)から公爵の地位を授けられ、ポンメルンは正式に帝国の直属の領邦、すなわち帝国等族となりました。
これにより、ポンメルンの公爵は帝国議会に議席を持ち、帝国の政治的意思決定に参加する権利と義務を負うことになりました。しかし、帝国の中心から遠く離れた辺境に位置するため、ポンメルンは比較的高い自律性を保っていました。公国は、西のフォアポンメルン(西ポンメルン)と東のヒンターポンメルン(東ポンメルン)に大別され、時には一族内で分割統治されることもありましたが、グリフィン家という一つの家門の下で統一された領邦としてのアイデンティティを維持していました。
宗教改革の時代には、ポンメルンは比較的早い段階でプロテスタント=ルター派を受け入れ、1534年には公国の公式な宗派として採用しました。これにより、ポンメルンは帝国内のプロテスタント諸侯の一員となり、その後の宗教対立において重要な役割を担うことになります。
ブランデンブルクとの継承契約
ポンメルン公国の運命に決定的な影響を与えたのが、隣接する強力な領邦、ブランデンブルク選帝侯領との関係でした。ブランデンブルクを統治するホーエンツォレルン家は、古くからポンメルンの領土に野心を抱き、その宗主権を主張しようと試みてきました。
両者の間の長年の対立と交渉の末、1529年にグリムニッツ条約が締結されました。この条約は、両国の関係を規定する画期的なものでした。まず、ポンメルン公国が神聖ローマ皇帝に直属する帝国領邦であることが再確認され、ブランデンブルクの宗主権の主張は退けられました。これは、グリフィン家にとって大きな外交的勝利でした。
しかし、その代償として、条約には極めて重要な継承に関する条項が盛り込まれました。それは、将来ポンメルンのグリフィン家が男系後継者を残さずに断絶した場合、ポンメルン公国全土の継承権はブランデンブルク選帝侯=ホーエンツォレルン家に与えられる、というものでした。この継承契約は、神聖ローマ皇帝によっても正式に承認され、法的な効力を持つものとなりました。
16世紀から17世紀初頭にかけて、この契約はポンメルンの政治的安定に寄与する面もありました。しかし、三十年戦争が近づくにつれて、グリフィン家の後継者問題は次第に深刻化していきます。当時のポンメルン公ボギスラフ14世には男子がおらず、一族の他の分家も後継者を欠いていました。グリフィン家の血筋が途絶える可能性が現実味を帯びるにつれて、グリムニッツ条約の継承条項が、ポンメルンの将来を左右する時限爆弾として動き始めたのです。
ブランデンブルク選帝侯ゲオルク=ヴィルヘルムは、この権利が実現する日を虎視眈々と待ち望んでいました。彼にとって、ポンメルンの獲得は、内陸国であるブランデンブルクがバルト海への出口を手に入れ、貿易と海軍力の拠点となる港湾都市を確保するための、国家的な悲願でした。シュテッティン(現在のシュチェチン)やシュトラールズントといったポンメルンの港は、ブランデンブルクの経済的・戦略的発展にとって計り知れない価値を持っていたのです。
このように、三十年戦争が勃発する直前のポンメルンは、一見平和に見えながらも、その存立基盤は極めて脆弱でした。公国の運命は、老いたる公爵ボギスラフ14世の寿命と、グリムニTT条約という法的な鎖によって、ブランデンブルクの野心に固く結び付けられていたのです。この状況が、スウェーデンの介入によって、誰も予想しなかった方向へと劇的に変化することになります。
三十年戦争とスウェーデンの介入
三十年戦争(1618年ー1648年)の勃発は、ポンメルン公国をその中立の夢から引きずり出し、ヨーロッパ全土を巻き込む大国のパワーゲームの渦中へと投げ込みました。当初は戦禍を避けようとした公国でしたが、その戦略的な位置ゆえに、やがて神聖ローマ皇帝軍とスウェーデン軍の双方から圧力を受け、最終的にはスウェーデンの主要な軍事拠点と化しました。この過程で、公国は荒廃し、その政治的独立性は失われ、そして決定的なことに、統治者であるグリフィン家が断絶しました。
中立の試みと挫折
戦争が始まると、ポンメルン公ボギスラフ14世は、賢明にも中立の立場を維持しようと努めました。彼は、帝国内のプロテスタントとカトリックのどちらの陣営にも加担せず、自国の領土を戦場としないことを望みました。しかし、バルト海沿岸というポンメルンの地理的な位置が、それを許しませんでした。
1620年代後半、皇帝フェルディナント2世側のカトリック軍が、アルブレヒト=フォン=ヴァレンシュタインの指揮の下、北ドイツを席巻しました。ヴァレンシュタインは、バルト海沿岸を制圧し、来るべきスウェーデンの介入に備えて海軍を創設しようと計画していました。1628年、皇帝軍はポンメルンに侵攻し、ボギスラフ14世に軍隊の駐留と兵站の提供を強制しました。これは、ポンメルンの中立を事実上踏みにじるものでした。
皇帝軍の占領は、ポンメルンに重い負担を強いました。兵士たちは略奪を働き、都市や農村は多額の軍税を課せられました。しかし、港湾都市シュトラールズントだけは、皇帝軍への服従を拒否し、城壁に立てこもって抵抗しました。この勇敢な抵抗は、外部からの助けなしには長くは続きませんでした。シュトラールズントは、デンマーク、そして最終的にはスウェーデンに救援を求めました。これが、スウェーデンがポンメルンの地に足を踏み入れる直接のきっかけとなったのです。
スウェーデンの上陸とシュテッティン条約
1630年7月、スウェーデン王グスタフ=アドルフは、プロテスタントの大義とスウェーデンの安全保障を掲げ、約1万3千の軍勢を率いてポンメルンのウーゼドム島に上陸しました。彼の目標は、皇帝軍を北ドイツから駆逐し、バルト海におけるスウェーデンの覇権を確立することでした。
グスタフ=アドルフは、ポンメルン公ボギスラフ14世に対し、同盟を結ぶよう強く迫りました。当初、ボギスラフ14世は皇帝への忠誠と中立への希望からためらいましたが、圧倒的な軍事力を背景にしたスウェーデンの圧力に屈せざるを得ませんでした。1630年9月、両者はシュテッティン条約を締結します。
この条約により、ポンメルンはスウェーデンと永久同盟を結び、スウェーデン軍の領内通過、駐留、そして港湾の使用を全面的に認めました。ポンメルンは、スウェーデン軍の兵站基地となり、その後のドイツでの軍事作戦の拠点となりました。その見返りとして、スウェーデンはポンメルンの領土と宗教的自由を守ることを約束しました。
しかし、この条約には、ポンメルンの将来にとって致命的な条項が含まれていました。それは、ボギスラフ14世が後継者を残さずに死去した場合、スウェーデンがその後継者問題が解決するまでの間、ポンメルン公国を「保護・管理」するというものでした。これは、ブランデンブルクが持つグリムニッツ条約に基づく継承権を、事実上棚上げにするものでした。グスタフ=アドルフは、ポンメルンを自らの軍事作戦に不可欠な拠点と見なしており、ボギスラフ14世の死後、この地が敵対的になる可能性のあるブランデンブルクの手に渡ることを、断じて容認できなかったのです。
グリフィン家の断絶
スウェーデン軍の駐留は、ポンメルンを皇帝軍の報復から守りましたが、同時に新たな負担をもたらしました。スウェーデン軍を維持するための費用は莫大であり、ポンメルンの経済は疲弊しました。公国は、事実上スウェーデンの軍事占領下に置かれ、ボギスラフ14世の権威は名目的なものとなっていきました。
そして1637年3月10日、ポンメルンの歴史を決定づける出来事が起こります。ボギスラフ14世が、後継者となる男子を残さずに死去したのです。これにより、約500年にわたってポンメルンを統治してきたグリフィン家は、完全に断絶しました。
この瞬間、二つの相反する法的権利が激突しました。一つは、1529年のグリムニッツ条約に基づくブランデンブルク選帝侯ゲオルク=ヴィルヘルムの継承権です。彼は、直ちにポンメルン全土の領有を宣言しました。もう一つは、1630年のシュテッティン条約に基づくスウェーデンの管理権です。スウェーデン宰相アクセル=オクセンシェルナは、ポンメルンがスウェーデンの軍事行動にとって死活的に重要であるとして、ブランデンブルクの主張を退け、公国全土をスウェーデンの軍政下に置きました。
現実の支配権は、ポンメルンを軍事的に占領しているスウェーデンが握っていました。ブランデンブルクは法的な権利を主張するものの、それを実行する力を持っていませんでした。こうして、ポンメルン公国の帰属問題は、三十年戦争を終結させるための講和会議における、最も困難で重要な議題の一つとして、ウェストファリアの交渉のテーブルに持ち越されることになったのです。
ウェストファリア条約の交渉
ウェストファリアの講和会議が始まると、ポンメルン公国の帰属問題は、スウェーデンとブランデンブルク選帝侯領との間の最も激しい対立点の一つとなりました。両者ともに、このバルト海沿岸の戦略的な土地に対して、譲ることのできない権利と利益を主張しました。この問題をめぐる交渉は難航を極め、フランスや神聖ローマ皇帝といった他の主要な参加者を巻き込みながら、複雑な駆け引きが繰り広げられました。最終的に成立した妥協案は、ポンメルン公国を分割するという、誰もが完全には満足しないものの、戦争を終わらせるためには受け入れざるを得ない解決策でした。
スウェーデンの要求
スウェーデンにとって、ポンメルンの確保は、講和における最優先事項でした。その要求は、二つの主要な論理に基づいていました。
第一に、「満足金」の論理です。スウェーデンは、三十年戦争においてプロテスタントの大義を守るために多大な血と資金を投じたと主張しました。グスタフ=アドルフ王の戦死をはじめとする甚大な犠牲を払い、ドイツのプロテスタント諸侯を皇帝の圧政から救った見返りとして、相応の領土的補償を得ることは正当な権利である、というのがスウェーデンの立場でした。ポンメルンは、スウェーデン軍がドイツで活動するための主要な拠点であり、その確保は、この「満足金」の核心部分と見なされました。
第二に、安全保障の論理です。スウェーデンは、バルト海を「スウェーデンの湖」と見なし、その沿岸全域を支配下に置くことで自国の安全を確保しようとする「バルト帝国」構想を追求していました。ポンメルンの港湾、特にシュテッティンとシュトラールズントを支配することは、バルト海の制海権を維持し、将来ドイツ側からスウェーデンへの脅威が生じるのを防ぐために、不可欠な戦略的要請でした。スウェーデンの交渉団は、ポンメルン全土の割譲を強硬に要求しました。
ブランデンブルクの抵抗
これに対して、ブランデンブルクは断固として抵抗しました。1640年に父の跡を継いだ若き選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルム(後に「大選帝侯」と呼ばれる)は、精力的に自国の権利を主張しました。彼の論拠は、極めて明快な法的正当性に基づいていました。
すなわち、1529年のグリムニッツ条約です。この条約は、グリフィン家が断絶した場合のポンメルン継承権をブランデンブルクに与えることを明確に規定しており、神聖ローマ皇帝によっても承認された、議論の余地のない法的文書でした。フリードリヒ=ヴィルヘルムは、スウェーデンの要求は、この正当な継承権を無視した、単なる力の論理による強奪であると非難しました。
彼は、帝国内の他の諸侯に働きかけ、帝国全体の法秩序がスウェーデンの武力によって破壊されようとしていると訴えました。もし、このような明白な継承契約が反故にされるならば、帝国内のどの諸侯の権利も、もはや安全ではないという論理です。この主張は、多くのドイツ諸侯の同情と支持を得ました。
フランスの仲介と分割案
ポンメルンをめぐるスウェーデンとブランデンブルクの対立は、講和交渉全体を停滞させるほどの膠着状態に陥りました。ここで重要な役割を果たしたのが、スウェーデンの同盟国であり、講和のもう一方の主役であるフランスでした。
フランスの宰相マザランは、戦争を終結させ、ハプスブルク家を弱体化させるという大目標を達成するためには、同盟国であるスウェーデンを満足させる必要があると理解していました。しかし同時に、彼はスウェーデンがバルト海で過度に強大になることを警戒していました。また、ブランデンブルク選帝侯との関係を完全に断ち切ることも得策ではないと考えていました。
フランスは、両者の仲介役として、妥協案を模索し始めました。その中で浮上してきたのが、ポンメルン公国を分割するというアイデアでした。この案は、当初両者から強い反発を受けました。スウェーデンは全土を要求し、ブランデンブルクは全土が自らの正当な遺産であると主張したからです。
しかし、交渉が長引くにつれて、両者ともに妥協の必要性を認識し始めました。スウェーデンは、ポンメルン全土の獲得が、帝国内の諸侯の強い反発を招き、講和全体の成立を危うくする可能性があることを理解しました。一方、フリードリヒ=ヴィルヘルムも、法的な権利だけを主張していても、現実にポンメルンを占領しているスウェーデン軍を撤退させることは不可能であり、最悪の場合、ポンメルン全土を失いかねないことを悟りました。
フランスの粘り強い仲介の結果、最終的に以下の内容を骨子とする分割案がまとまりました。
スウェーデンへの割譲: スウェーデンは、西ポンメルン(フォアポンメルン)全域を獲得する。これには、リューゲン島と、オーデル川東岸のいくつかの地域(シュテッティン、ダム、ゴルノウを含む)も含まれる。これにより、スウェーデンはオーデル川の河口と主要港シュテッティンを完全に支配下に置くことができる。
ブランデンブルクへの割譲: ブランデンブルクは、東ポンメルン(ヒンターポンメルン)の大部分を獲得する。
ブランデンブルクへの代償: ポンメルンの西半分を失うことへの代償として、ブランデンブルクは、帝国内の他の地域で領土的な補償を受ける。具体的には、これまで司教領であったミンデン、ハルバーシュタット、そしてマクデブルク公領の継承権がブランデンブルクに与えられることになった。
この妥協案は、オスナブリュック条約の第10条として正式に盛り込まれました。それは、両者の主張を部分的に満たす、苦渋の産物でした。スウェーデンは、オーデル川河口という最も戦略的に重要な地域を確保し、バルト帝国建設の夢を大きく前進させました。一方、ブランデンブルクは、ポンメルンの半分を失うという痛手を負いましたが、正当な継承権の一部を実現し、さらに代償として得た領土によって、結果的にその国力を大きく増強させることになりました。この代償領土は、後のプロイセン王国の発展にとって重要な基盤となったのです。
スウェーデン領ポンメルン
ウェストファリア条約によって西ポンメルンがスウェーデンに割譲された結果、この地は「スウェーデン領ポンメルン」として、約170年間にわたる新たな歴史を歩み始めました。この時代、西ポンメルンはスウェーデン王国の主権下にありながら、同時に神聖ローマ帝国の領邦でもあるという、二重の法的地位を持つことになりました。スウェーデンによる統治は、この地域の政治、経済、社会に大きな影響を与えましたが、それは完全なスウェーデン化を意味するものではなく、地域の伝統的な制度や文化との共存と緊張の中で展開されました。
二重の地位
オスナブリュック条約の規定により、スウェーデン王は、フランス王がアルザスで得た地位と同様に、西ポンメルン公として神聖ローマ帝国の帝国等族となりました。これは、スウェーデン王が、外国の君主でありながら、神聖ローマ帝国の帝国議会に議席と投票権を持つことを意味しました。スウェーデンは、この地位を利用して、帝国内の政治に直接介入する権利を得ました。これは、スウェーデンのヨーロッパ大陸における影響力を維持するための重要な手段となりました。
しかし、この地位には義務も伴いました。スウェーデン王は、ポンメルン公として、帝国の法と秩序を尊重し、皇帝に対して一定の臣従義務を負いました。スウェーデン領ポンメルンは、スウェーデン本国とは法的に区別された存在であり、帝国の枠組みの中に留まり続けました。
この二重性は、統治のあらゆる側面に影響を及ぼしました。例えば、最高裁判所は、スウェーデン本国から独立した形で、ヴィスマール(後にグライフスヴァルトに移転)に設置されました。この裁判所は、地域の法と慣習に基づいて裁判を行い、スウェーデン法が直接適用されることはありませんでした。
スウェーデンの統治政策
スウェーデンは、西ポンメルンを本国に完全に同化させるのではなく、主に軍事的・経済的な拠点として利用することを重視しました。統治の中心は、シュテッティン(後にシュトラールズント)に置かれた総督でした。総督はスウェーデン国王の名代として、軍事、行政、司法の最高権力を握りました。
しかし、日常的な行政の多くは、地域の伝統的な身分制議会(ラントターク)との協力によって行われました。この議会は、貴族、都市、聖職者の代表から構成され、特に課税に関しては強い発言権を持っていました。スウェーデン国王は、新たな税を課す際には、この身分制議会の同意を得る必要があり、両者の間ではしばしば財政をめぐる対立が生じました。
経済面では、スウェーデンは西ポンメルンの港湾、特にオーデル川河口のシュテッティンを支配下に置いたことで、莫大な利益を得ました。スウェーデンは、この地を通過するすべての貿易品、特にポーランドやシレジアから輸出される穀物に対して高い関税を課しました。この関税収入は、スウェーデン国家の重要な財源となりました。しかし、この政策は、ブランデンブルクをはじめとする近隣諸邦の経済活動を阻害し、両国間の新たな緊張の原因ともなりました。
文化的には、スウェーデンは1665年にグライフスヴァルト大学を再興するなど、教育や学術の振興に貢献しました。しかし、住民の言語や文化をスウェーデン化しようとする積極的な試みはほとんど行われませんでした。住民の大多数はドイツ語を話し続け、その生活様式や法制度も、ドイツの伝統が色濃く残りました。
その後の歴史
スウェーデン領ポンメルンは、17世紀後半から18世紀にかけて、スウェーデンの大国としての地位が揺らぐ中で、度々戦場となりました。特に、ブランデンブルク=プロイセンやデンマークとの間で行われた北方戦争では、この地は何度も占領と奪還を繰り返しました。
1720年のストックホルム条約により、スウェーデンはポンメルンの一部、特にオーデル川東岸のシュテッティンを含む地域を、台頭してきたプロイセン王国に割譲することを余儀なくされました。これは、スウェーデンのバルト海における覇権が終焉に向かっていることを象徴する出来事でした。
最終的に、ナポレオン戦争後のヨーロッパの再編の中で、スウェーデンは残りの西ポンメルンもプロイセンに割譲しました。1815年のウィーン会議でこの割譲が正式に決定され、スウェーデン領ポンメルンの歴史は完全に幕を閉じました。こうして、かつてウェストファリア条約によって分割されたポンメルンは、2世紀近い時を経て、プロイセンという一つの国家の下で再び統一されることになったのです。
ウェストファリア条約がポンメルン公国にもたらした分割という結末は、17世紀ヨーロッパの地政学的な変動を凝縮した出来事でした。それは、法的な継承権と、戦争の現実が生み出した力の論理とが激しく衝突し、最終的に外交的な妥協によって新たな秩序が形成されていく過程を、明確に示しています。
条約以前、ポンメルン公国の運命は、グリフィン家の断絶という生物学的な偶然と、グリムニッツ条約という法的な必然によって、ブランデンブルク選帝侯領へと引き継がれることがほぼ確定していました。しかし、三十年戦争という未曾有のカタストロフが、この筋書きを根底から覆しました。スウェーデンの軍事介入と、その後のポンメルンの占領は、ブランデンブルクの法的な権利に対抗する、強力な「既成事実」を生み出したのです。
ウェストファリアの講和会議における交渉は、この法と力の対立をいかに調停するかという難題でした。スウェーデンは戦争の「満足金」と安全保障を盾にポンメルン全土を要求し、ブランデンブルクは揺るぎない継承権を主張して一歩も譲りませんでした。この膠着状態を打開したのが、ポンメルンを西と東に分割するという、フランスの仲介による妥協案でした。
この分割により、西ポンメルンはスウェーデンに割譲され、「スウェーデン領ポンメルン」として新たな歴史を刻むことになります。スウェーデンは、オーデル川河口と主要港を確保し、バルト海における覇権を確立するという戦略目標を達成しました。スウェーデン王はポンメルン公として神聖ローマ帝国の帝国議会に議席を得て、ヨーロッパ大陸の政治への影響力を確保しました。
一方で、ブランデンブルクはポンメルンの半分を失うという痛手を負いましたが、その代償として得た領土は、後のプロイセン王国の発展の礎となりました。皮肉なことに、ポンメルンをめぐる敗北が、ブランデンブルクをより強大な国家へと成長させる一因となったのです。
したがって、ウェストファリア条約における西ポンメルンの割譲は、単にスウェーデンが戦勝の果実を得たというだけの出来事ではありません。それは、バルト海地域の勢力図を塗り替え、スウェーデンを一時的に北方の覇者へと押し上げると同時に、そのライバルとなるプロイセンの台頭を遠因的に促すという、二重の歴史的帰結をもたらしました。