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『項王の最期・項王自刎』(於是項王乃上馬騎〜)現代語訳(口語訳)・書き下し文と解説
著作名: 走るメロス
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史記『項王の最期・項王自刎』の原文・現代語訳と解説

このテキストでは史記の『項羽本紀』の一節『項王の最期・項王自刎』(於是項王乃上馬騎〜)の原文(白文)、書き下し文、現代語訳(口語訳)とその解説を記しています。書籍によっては『項王最期』や『四面楚歌』一節と題するものもあるようです。「自刎」は「じふん」と読み、「自分で自分の首を切る」ことを意味します。




史記とは

史記は前漢の第7代皇帝であった武帝(在位期間:前141年3月9日 - 前87年3月29日)の時代に、司馬遷(しば せん)によって編纂された歴史書です。


白文(原文)

於是項王乃上馬騎。
麾下壮士、騎従者八百余人。
直夜潰囲、南出馳走

平明、漢軍乃覚之、令騎将灌嬰以五千騎追之
項王渡
騎能属者、百余人耳。

項王至陰陵、迷失道。
問一田父
田父紿曰、
「左。」



左。乃陥大沢中。
以故漢追及之。
項王乃復引兵而東、至東城。
乃有二十八騎。
漢騎追者数千人。

書き下し文

是に於いて項王乃ち馬に上りて騎す。
麾下の壮士、騎して従ふ者八百余人なり。
直ちに夜囲みを潰やし、南に出でて馳走す。

平明、漢軍乃ち之を覚り、騎将灌嬰をして五千騎を以ゐて之を追はしむ。
項王淮を渡る。
騎の能く属する者、百余人のみ。

項王陰陵に至り、迷ひて道を失ふ。
一田父に問ふ。
田父紿きて曰はく、

「左せよ。」と。



左す。乃ち大沢中に陥る。
故を以て漢追ひて之に及ぶ。
項王乃ち復た兵を引きて東し、東城に至る。
乃ち二十八騎有り。
漢騎の追ふ者数千人なり。

現代語訳(口語訳)

そこで項王は馬に乗りました。
将軍直属の兵士で、馬に乗って項王に従う者は八百人ほどでした。
ただちに夜に囲みを破り、南に出て走りました。

夜が明けて、漢軍はこれ(項王が逃げたこと)を気づき、灌嬰将軍に命じて五千騎でこれ(項王)を追わせました。
項王は淮水を渡りました。
騎兵の中でついてこれた者は百人あまりでした。

項王は陰陵にたどり着きましたが、迷って道がわからなくなりました。
ある農夫に(道を)尋ねました。
農夫は欺いて言いました。



「左に行かれよ。」と。


(項王は)左に進みました。すると広い湿地の中にはまってしまいました。
そのために漢軍はこれ(項羽軍)に追いつきました。
項王はそこで兵を率いて東に向かい、東城に到着しました。
このとき(ついてきたのは)二十八騎でした。
漢軍の騎馬で追ってくる者は数千人でした。

単語・文法解説

麾下将軍じきじきの家来
壮士勇ましい者。ここでは兵士のことを指す
馳走走る
中国国内を流る川「淮水(淮河)」のこと
令騎将灌嬰以五千騎追之「令AB」で「AをしてBせしむ」と読み「AにBさせる」と訳す
田父農夫のこと



関連テキスト

・史記『晏子之御(晏子の御)

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