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三十年戦争とは わかりやすい世界史用語2654
著作名: ピアソラ
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三十年戦争とは

三十年戦争は、1618年から1648年にかけて、主に神聖ローマ帝国の領域(現在のドイツ、オーストリア、チェコなど)を舞台に繰り広げられた、ヨーロッパ史上最も破壊的で複雑な国際紛争の一つです。この戦争は、1618年のベーメン(ボヘミア)におけるプロテスタント貴族の反乱という、一見すると地域的な宗教紛争として始まりました。しかし、それは瞬く間に神聖ローマ帝国内の宗教的の政治的対立の火種となり、さらにはデンマーク、スウェーデン、フランス、スペインといったヨーロッパの主要国が次々と介入する大規模な国際戦争へと発展していきました。
三十年戦争は、単一の戦争ではなく、それぞれ異なる性格を持つ複数の戦争段階が連なった複合的な紛争と理解するのが適切です。当初はカトリックとプロテスタントの宗教的対立が主要な動機でしたが、戦争が長期化するにつれて、その様相は大きく変化していきます。ハプスブルク家(オーストリアとスペイン)の覇権に対する他のヨーロッパ諸国の警戒、神聖ローマ帝国内における皇帝権力と領邦君主の自立性をめぐる闘争、そしてフランスのブルボン家とハプスブルク家の王朝間の宿命的なライバル関係といった、純粋に政治的=地政学的な要因が前面に押し出されてきました。
この戦争は、傭兵が主体となる軍隊の残虐行為、広範囲にわたる飢饉と疫病の蔓延によって、中央ヨーロッパに未曾有の荒廃をもたらしました。一部の地域では人口の半分以上が失われたと推定されています。そして、この長く続いた悲劇の終結点となった1648年のヴェストファーレン条約は、ヨーロッパの国際秩序に新たな原則を打ち立て、近代的な主権国家体制の基礎を築いた画期的な講和条約として、歴史にその名を刻んでいます。三十年戦争は、中世的なキリスト教共同体という理念が最終的に崩壊し、宗教よりも国益(国家理性)が優先される近代ヨーロッパの政治世界の幕開けを告げる、巨大な分水嶺であったと言えるでしょう。



戦争の根源

三十年戦争の勃発に至る背景には、16世紀の宗教改革以来、1世紀近くにわたってヨーロッパ、特に神聖ローマ帝国内に蓄積されてきた、根深い宗教的、政治的、そして構造的な緊張が存在しました。これらの要因が複雑に絡み合い、17世紀初頭のヨーロッパを、わずかな火花で大爆発を起こしかねない火薬庫のような状態にしていたのです。
宗教的分裂とアウクスブルクの和議の限界

戦争の最も根源的な原因は、宗教改革によってもたらされたキリスト教世界の分裂でした。マルティン=ルターの提唱に始まったプロテスタンティズムは、神聖ローマ帝国内の多くの領邦君主や都市に受け入れられ、カトリック教会との間に深刻な対立を生み出しました。この宗教戦争の最初の波を収拾したのが、1555年のアウクスブルクの和議です。
この和議は、「その領域の支配者が、その領域の宗教を決定する」という画期的な原則を打ち立てました。これにより、帝国内の各領邦君主は、自らの領地においてカトリックかルター派のいずれかを選択する権利を認められ、帝国内の宗教的共存にある種の法的枠組みが与えられました。しかし、この和議はあくまで一時的な妥協の産物であり、多くの構造的欠陥を抱えていました。
第一に、この和議が認めたプロテスタントはルター派のみであり、16世紀後半に急速に信者を増やしていたカルヴァン派の地位が全く考慮されていなかった点です。プファルツ選帝侯領をはじめとするいくつかの有力な領邦がカルヴァン派に改宗したことで、この問題は帝国の政治的安定を脅かす時限爆弾となりました。カルヴァン派の君主たちは、自らの信仰が法的に無防備な状態にあることに強い不満を抱いていました。
第二に、「教会領留保」と呼ばれる条項が、絶え間ない紛争の火種となりました。これは、カトリックの司教や修道院長がプロテスタントに改宗した場合、その聖職禄(領地とそれに伴う収入)はカトリック教会に返還されなければならない、と定めたものです。プロテスタント側は、この条項がカトリック側に一方的に有利であるとして、その有効性を認めず、多くの司教領が世俗化され、プロテスタント諸侯の手に渡りました。この「世俗化」された教会領の帰属をめぐる争いは、双方の不信感を増幅させました。
第三に、和議の原則が、領邦君主の権限が及ばない帝国都市において、どのように適用されるかが曖昧でした。カトリックとプロテスタントの市民が混在する都市では、しばしば宗派間の緊張が暴力的な衝突に発展しました。1606年のドナウヴェルト事件は、その典型例です。このルター派が多数を占める帝国都市で、カトリックの宗教行列が妨害されたことを口実に、バイエルン公マクシミリアン1世が軍事介入し、都市を占領して強制的に再カトリック化するという事件が起こりました。この事件は、プロテスタント諸侯に、カトリック側が武力を用いて和議の原則を覆そうとしているという強い危機感を抱かせました。
対抗宗教改革と宗派間の先鋭化

16世紀後半から17世紀初頭にかけて、カトリック教会はトリエント公会議(1545年ー1563年)の決定に基づき、失地回復を目指す対抗宗教改革を強力に推進しました。イエズス会をはじめとする修道会が教育や宣教活動の先頭に立ち、ハプスブルク家やバイエルン公ヴィッテルスバッハ家といったカトリック諸侯は、これを政治的に後押ししました。彼らは自らの領内でプロテスタントを弾圧し、カトリック信仰を強制することで、領内の宗教的統一と君主権力の強化を図りました。
このカトリック側の攻勢に対し、プロテスタント側も警戒を強め、より戦闘的な姿勢をとるようになります。特にカルヴァン派は、その教義の性質上、妥協を許さない厳格な態度でカトリックと対峙しました。こうして、17世紀初頭には、双方の宗派的アイデンティティが先鋭化し、互いを打倒すべき敵と見なす雰囲気が醸成されていきました。
この宗派間の対立は、1608年のプロテスタント同盟(ウニオン)と、1609年のカトリック連盟(リーガ)という、二つの武装した軍事同盟の結成によって、決定的な段階を迎えます。プロテスタント同盟は、カルヴァン派のプファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主とし、カトリック連盟は、バイエルン公マクシミリアン1世がその指導者となりました。神聖ローマ帝国内に二つの敵対的な軍事ブロックが形成されたことで、帝国の平和維持機能は麻痺し、全面的な軍事衝突はもはや時間の問題となっていました。
神聖ローマ帝国の構造的問題とハプスブルク家の野心

神聖ローマ帝国は、中世以来の普遍的なキリスト教帝国という理念とは裏腹に、実際には皇帝を名目上の頂点としながらも、数百の領邦君主、帝国都市、聖職者領などが高度な自立性(「ドイツの自由」)を持つ、極めて分権的な政治体でした。皇帝の権力は、帝国議会(ライヒスターク)や選帝侯会議の協力なしには、ほとんど行使できないという制約がありました。
17世紀初頭のハプスブルク家の皇帝たち、特に三十年戦争の開始時に皇帝となるフェルディナント2世は、この状況を打破し、帝国内に中央集権的な絶対主義体制を確立しようという強い野心を持っていました。彼らは、対抗宗教改革を推進し、帝国内の宗教的統一を回復することが、皇帝権力を強化し、ハプスブルク家の支配を盤石にするための鍵だと考えていました。
これに対し、帝国内の多くの領邦君主たちは、皇帝の権力強化を、自らの伝統的な権利と自立性(領邦高権)に対する脅威と見なしていました。この対立は、宗教的な対立と完全に重なり合うわけではありませんでした。例えば、ルター派の有力諸侯であるザクセン選帝侯は、プロテスタントでありながらも、帝国の秩序を重んじ、当初は皇帝との協調路線をとりました。しかし、戦争が進むにつれて、皇帝の権力が過度に強大化することを恐れ、反皇帝側へと立場を変えることになります。このように、三十年戦争は、宗教戦争であると同時に、ドイツの国制、すなわち皇帝と領邦君主の間の権力配分をめぐる「憲法闘争」という側面を色濃く持っていました。
国際的な権力闘争

三十年戦争の舞台は神聖ローマ帝国でしたが、その展開は常にヨーロッパ全体の国際関係の力学に左右されていました。
最も重要な要因は、フランスのブルボン家とハプスブルク家(オーストリアとスペイン)の間の長年にわたる覇権争いです。フランスは、自国が東西からハプスブルク家の領土に挟撃される「ハプスブルク家の包囲網」を国家安全保障上の最大の脅威と見なしていました。そのため、宰相リシュリューに代表されるフランスの政治家たちは、たとえ自国がカトリック国であっても、ハプスブルク家の弱体化を最優先の国益(国家理性)と考え、帝国内のプロテスタント諸侯や、スウェーデンのようなプロテスタント勢力を支援することをためらいませんでした。
また、スペインは、八十年戦争(1568年=1648年)を戦っていたネーデルラント(オランダ)を屈服させることを目指しており、ドイツにおける紛争を、ネーデルラントを経済的・軍事的に孤立させる好機と捉えていました。スペイン軍のドイツへの介入は、戦争を国際化させる大きな要因となりました。
さらに、バルト海の覇権をめぐるデンマークとスウェーデンの競争も、戦争の展開に影響を与えました。両国は、ドイツ北部のプロテスタントの保護を名目に介入しましたが、その背後には、バルト海沿岸の港湾や交易ルートの支配権を確保するという、現実的な経済的・戦略的動機がありました。
これらの宗教的、政治的、構造的な亀裂が、1618年のベーメンのプロテスタント貴族の反乱という事件をきっかけに、一斉に噴出し、ヨーロッパ全体を巻き込む大動乱へと発展していったのです。
戦争の経過

三十年戦争は、一般的に四つの主要な段階に区分されます。それぞれの段階で、主要な参戦国や戦争の性格が変化していきました。
第一段階 ベーメン=プファルツ戦争(1618年ー1623年)

戦争の直接の引き金となったのは、1618年5月23日のプラハ窓外放出事件です。神聖ローマ皇帝マティアスの後継者として、熱烈なカトリック教徒であるフェルディナント(後の皇帝フェルディナント2世)がベーメン王に内定すると、ベーメンにおけるプロテスタントの権利を保障した「皇帝勅書」(1609年)が有名無実化されることへの危機感が高まりました。プロテスタント教会の建設が妨害されたことに抗議したプロテスタント貴族たちは、プラハ城で皇帝の摂政官を窓から突き落とし、公然とハプスブルク家の統治に反旗を翻しました。
反乱軍は当初優勢でしたが、1619年にプロテスタント同盟の盟主であるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新たなベーメン王に迎えたことが、事態を悪化させます。この行為は皇帝に対する明確な反逆であり、フェルディナント2世に軍事介入の口実を与えました。フリードリヒ5世は「冬王」と揶揄されるほど統治が短命に終わり、国外のプロテスタント勢力からの有効な支援も得られませんでした。
一方、皇帝フェルディナント2世は、カトリック連盟の指導者であるバイエルン公マクシミリアン1世と、スペイン=ハプスブルク家の支援を取り付けました。1620年11月8日、プラハ近郊の白山の戦いで、ティリー伯に率いられた皇帝=カトリック連盟軍は、ベーメン反乱軍に圧勝します。
この勝利の後、ベーメンでは徹底的な弾圧が行われました。反乱指導者は処刑され、プロテスタント貴族の土地は没収、プロテスタント信仰は完全に禁止され、ベーメンは強制的に再カトリック化されました。戦争はさらにフリードリヒ5世の本領であるプファルツに飛び火し、ティリー伯とスペイン軍によって占領されました。1623年、フェルディナント2世はフリードリヒ5世から選帝侯の地位を剥奪し、それをマクシミリアン1世に与えました。これにより、帝国内の選帝侯の宗派バランスがカトリック優位に傾き、プロテスタント諸侯の警戒感を一層高める結果となりました。
第二段階 デンマーク戦争(1625年ー1629年)

皇帝とカトリック勢力の勝利は、北ドイツのプロテスタント諸侯と、バルト海の覇権をうかがうデンマーク王クリスチャン4世を刺激しました。クリスチャン4世は、イングランドとオランダからの資金援助の約束を得て、ドイツのプロテスタントの「自由」の保護を名目に、1625年にドイツ北部へ侵攻しました。
当初、皇帝軍はカトリック連盟軍に依存していましたが、この新たな脅威に対抗するため、フェルディナント2世は、ベーメン出身の傭兵隊長アルブレヒト=フォン=ヴァレンシュタインを起用します。ヴァレンシュタインは、自らの資金で巨大な私兵軍団を組織し、皇帝に提供するという前代未聞の提案を行いました。彼の軍隊は、「戦争は戦争を養う」という原則に基づき、占領地からの徹底的な徴発によって維持され、その行動は敵味方の区別なく、ドイツの民衆に甚大な苦しみをもたらしました。
ヴァレンシュタインの軍とティリー伯のカトリック連盟軍は、デンマーク軍を圧倒しました。1626年のルッターの戦いで決定的敗北を喫したクリスチャン4世は、ドイツからの撤退を余儀なくされます。1629年、リューベックの和約が結ばれ、デンマークは戦争から脱落しました。
この勝利の絶頂において、フェルディナント2世は、自らの権力の頂点を示すとともに、戦争の行方を大きく変えることになる二つの決定を下します。一つは、1629年3月に発布された「復旧勅令」です。これは、1552年以降にプロテスタントに世俗化されたすべての教会領を、カトリック教会に返還することを命じるものでした。この勅令は、アウクスブルクの和議の条項をカトリック側に有利に解釈し、プロテスタント諸侯の財産権を根本から脅かすものであったため、これまで皇帝に協力的であったザクセン選帝侯のような穏健なルター派諸侯までもが、反皇帝の立場に傾く原因となりました。
もう一つの決定は、その強大になりすぎた権力を諸侯から警戒されたヴァレンシュタインを、1630年に罷免したことです。皮肉なことに、皇帝が最も有能な司令官を解任したまさにその時、戦争における最も手ごわい敵がドイツの地に上陸しようとしていました。
第三段階 スウェーデン戦争(1630年=1635年)

1630年7月、スウェーデン王グスタフ=アドルフが、1万3000の精鋭部隊を率いて、北ドイツのポメラニアに上陸しました。彼の参戦動機は複合的でした。敬虔なルター派であった彼は、ドイツのプロテスタントの窮状を救うという宗教的情熱に燃えていましたが、同時に、バルト海を「スウェーデンの湖」にしようとする地政学的野心と、ハプスブルク家の勢力拡大がスウェーデンの安全保障を脅かすことへの懸念も大きな要因でした。彼の遠征は、フランスの宰相リシュリューからの多額の財政援助によって支えられていました。
グスタフ=アドルフは、当時ヨーロッパで最も先進的な軍隊を率いていました。彼は、軽量化された大砲による機動的な砲兵戦術、マスケット銃兵とパイク兵を組み合わせた柔軟な歩兵部隊の運用、そして規律の取れた国民軍を中核とするなど、軍事における「革命」を起こした人物として知られています。
当初、ザクセンやブランデンブルクといったドイツのプロテスタント諸侯は、スウェーデンとの同盟にためらいを見せました。しかし、1631年5月、皇帝軍のティリー伯が、中立を保っていたプロテスタントの都市マクデブルクを攻略し、市内で2万人以上が虐殺されるという残虐行為(マクデブルクの劫掠)が起こると、世論は一変します。プロテスタント諸侯は雪崩を打ってスウェーデン側につき、グスタフ=アドルフはドイツのプロテスタントの解放者として迎えられました。
1631年9月、ブライテンフェルトの戦いで、グスタフ=アドルフ率いるスウェーデン=ザクセン連合軍は、ティリー伯の皇帝=カトリック連盟軍に壊滅的な打撃を与えました。これは、戦争開始以来、プロテスタント側が初めて収めた大規模な野戦での勝利であり、戦況を劇的に転換させました。スウェーデン軍は南ドイツへと快進撃を続け、ミュンヘンまでもが占領されました。
窮地に陥ったフェルディナント2世は、不本意ながらも罷免したヴァレンシュタインを再起用せざるを得ませんでした。ヴァレンシュタインは再び巨大な軍団を組織し、グスタフ=アドルフの前に立ちはだかります。1632年11月、リュッツェンの戦いで両軍は激突しました。この戦いはスウェーデン軍の勝利に終わりましたが、その代償はあまりにも大きく、グスタフ=アドルフ自身が戦死してしまいました。
「北方の獅子」の死は、プロテスタント陣営にとって大きな打撃でした。スウェーデンの戦争指導は、宰相オクセンシェルナに引き継がれましたが、かつての勢いは失われました。一方、ヴァレンシュタインは、皇帝の意向を無視して独断で敵側と和平交渉を進めたため、反逆の嫌疑をかけられ、1634年2月に皇帝の刺客によって暗殺されました。
ヴァレンシュタインの死後、皇帝軍は再編され、スペインからの援軍も得て勢いを盛り返します。1634年9月、ネルトリンゲンの戦いで、皇帝=スペイン連合軍は、スウェーデンとその同盟軍に決定的勝利を収めました。この敗北により、スウェーデンは南ドイツにおける影響力を失い、多くのドイツ諸侯は皇帝との和平に傾きました。1635年、皇帝とザクセン選帝侯との間でプラハ条約が結ばれ、ほとんどのドイツ諸侯がこれに追随しました。この条約は、「復旧勅令」を事実上撤回するもので、ドイツ国内の和平への道を開くかに見えました。しかし、この条約は、一つの国を完全に除外していました。それは、この戦争を終わらせる気のないフランスでした。
第四段階 フランス戦争(1635年ー1648年)

プラハ条約によってハプスブルク家がドイツ国内で和解を進め、その勢力を回復することを恐れたフランスの宰相リシュリューは、ついに直接介入を決意します。1635年、フランスはスペインに宣戦を布告し、三十年戦争は最終段階に突入しました。
この段階に至ると、戦争から宗教的な色彩はほとんど消え失せ、ブルボン家(フランス)とハプスブルク家(スペインとオーストリア)という二大王朝による、ヨーロッパの覇権をめぐる純然たる国家間戦争の様相を呈しました。フランスは、スウェーデンや、オランダ、そしてベルンハルト=フォン=ザクセン=ヴァイマールのようなドイツの傭兵隊長と同盟を結び、ドイツ、ネーデルラント、イタリア、イベリア半島と、広範な戦線でハプスブルク家と戦いました。
戦争は、決定的な会戦よりも、消耗戦と外交交渉が中心となりました。両陣営ともに財政は破綻寸前で、軍隊の規模は縮小しましたが、その破壊行為は続きました。コンデ公ルイ2世やテュレンヌ子爵といったフランスの若き名将たちが頭角を現し、戦局は徐々に反ハプスブルク側に有利に傾いていきます。1643年のロクロワの戦いでは、コンデ公率いるフランス軍が、不敗神話を誇ってきたスペイン陸軍(テルシオ)を壊滅させ、スペインの軍事的優位の時代の終わりを象徴する出来事となりました。
スウェーデン軍も、ヨハン=バネールやレナート=トルステンソンといった有能な司令官の下で勢いを盛り返し、皇帝領の奥深くへと侵攻を繰り返しました。1645年のヤンカウの戦いでの勝利は、皇帝の本拠地ウィーンに直接的な脅威を与えました。
長年の戦争に疲弊しきったすべての当事国は、和平を模索せざるを得なくなりました。1644年から、ヴェストファーレン地方の二つの都市、ミュンスターとオスナブリュックで、ヨーロッパ史上初となる多国間の国際講和会議が始まりました。交渉は困難を極め、戦場の状況に左右されながら、数年間にわたって続けられました。そして1648年、ついに三十年戦争を終結させる一連の条約、すなわちヴェストファーレン条約が締結されたのです。
戦争の結末と影響

三十年戦争は、1648年のヴェストファーレン条約によって終結しました。この条約は、単一の文書ではなく、ミュンスターとオスナブリュックで締結された複数の条約の総称であり、近世ヨーロッパの国際秩序を再編成する画期的なものでした。戦争がもたらした結末と影響は、政治、宗教、そして社会の各側面に深く、そして永続的に及んでいます。
ヴェストファーレン条約と新たな国際秩序

ヴェストファーレン条約は、ヨーロッパの政治地図を大きく塗り替え、新たな国際関係の原則を確立しました。
領土の変更:フランスは、アルザス地方の大部分と、メッツ、トゥール、ヴェルダンといったロレーヌ地方の司教領を獲得し、長年の目標であったライン川への国境線の拡大を達成しました。スウェーデンは、西ポメラニア、ヴィスマール、ブレーメン=フェルデン司教領などを獲得し、バルト海と北海の主要な河口を支配する「バルト帝国」としての地位を確立しました。また、ブランデンブルク=プロイセンやバイエルンといったドイツの有力領邦も領土を拡大し、将来の発展の基礎を築きました。
独立の承認:スイスとネーデルラント(オランダ)が、神聖ローマ帝国から完全に独立した主権国家であることが、国際的に正式に承認されました。
宗教問題の解決:アウクスブルクの和議の原則が再確認され、さらにその適用対象がカルヴァン派にも拡大されました。これにより、カルヴァン派はルター派、カトリックと並んで、帝国内で公式に認められた宗派となりました。また、教会領の帰属問題については、1624年を基準年とし、その時点で各宗派が領有していた状態を維持することが定められ、「復旧勅令」は完全に無効化されました。個人の信仰の自由もある程度認められ、領主の宗派と異なる信仰を持つ臣民も、私的な礼拝や国外移住の権利が保障されました。これにより、宗教が国家間の戦争の主要な原因となる時代は、事実上終わりを告げました。
神聖ローマ帝国の国制:条約は、帝国内の各領邦君主が、外交や同盟締結を含む高度な自立性、すなわち「領邦高権」を持つことを確認しました。ただし、その権利は皇帝と帝国に敵対しない範囲内に限られました。これにより、皇帝が帝国内に中央集権的な絶対主義を確立しようとする野心は完全に挫折し、神聖ローマ帝国は、名目上の帝国という枠組みの中で、数百の主権国家に近い領邦が共存する、極めて分権的な国家連合体としての性格が確定しました。この体制は、1806年にナポレオンによって帝国が解体されるまで続くことになります。
ヴェストファーレン条約の最も重要な意義は、「主権国家体制」の確立にあります。この条約を通じて、各国家は、その領土内において最高の統治権(主権)を持ち、他国からの内政干渉を受けないという原則が、国際関係の基礎として暗黙のうちに承認されました。教皇や皇帝といった超国家的な権威は相対化され、それぞれの国益を追求する主権国家が、合従連衡を繰り返すという、近代的な国際政治の舞台が整えられたのです。
社会的・経済的荒廃

三十年戦争がヨーロッパ社会、特にその主戦場となったドイツに残した傷跡は、計り知れないほど深いものでした。
人口の激減:戦争による直接的な戦闘での死者よりも、傭兵による虐殺、そして戦争が引き起こした飢饉と疫病(特にペスト)による死者の方がはるかに多かったとされています。神聖ローマ帝国全体の人口は、戦争前の約2100万人から、戦後には約1350万人へと、約3分の1が減少したと推定されています。特に被害の大きかったポメラニアやヴュルテンベルクのような地域では、人口の半分以上が失われました。この人口動態上の打撃からドイツが回復するには、1世紀以上の時間が必要でした。
経済の崩壊:「戦争は戦争を養う」という原則で行動した傭兵軍は、敵味方の区別なく、農村や都市を徹底的に略奪しました。農地は荒廃し、家畜は奪われ、多くの村が廃墟と化しました。商工業も壊滅的な打撃を受け、かつて繁栄していたアウクスブルクやニュルンベルクといった南ドイツの都市は、その経済的重要性を失いました。経済の中心は、戦争の被害を免れたオランダやイングランドといった大西洋沿岸の国々へと移っていきました。
社会の荒廃と精神的影響:長年にわたる暴力と無法状態は、社会の道徳的基盤を揺るがしました。魔女狩りが激化したのも、この社会不安の時代と重なります。戦争の恐怖と悲惨さは、当時の人々の心に深いトラウマを残し、グリンメルスハウゼンの小説『阿呆物語』のような文学作品や、ジャック=カロの版画集『戦争の惨禍』といった芸術作品に、その生々しい記憶が刻まれています。
軍事における変革

三十年戦争は、近世ヨーロッパの軍事史における転換点でもありました。グスタフ=アドルフによって導入された新しい戦術は、その後の軍事思想に大きな影響を与えました。また、ヴァレンシュタインが実践したような、国家から独立した巨大な傭兵軍は、その危険性から敬遠されるようになり、戦後は、国家が直接管理し、財政的に支える「常備軍」の整備が、各国の君主にとって重要な課題となりました。絶対主義王政の確立と常備軍の創設は、密接に関連したプロセスでした。
結論として、三十年戦争は、ヨーロッパに未曾有の破壊をもたらした巨大な悲劇でした。しかし、その灰の中から、宗教的寛容、主権国家、そして勢力均衡といった、近代ヨーロッパの国際秩序を規定する新たな原則が生まれました。この戦争は、中世的な宗教的統一の世界観に最終的なとどめを刺し、国益と理性を羅針盤とする、冷徹で現実的な近代国際政治の時代の到来を告げる、長く、そして血塗られた産みの苦しみであったと言えるでしょう。

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