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オランダ独立戦争とは わかりやすい世界史用語2628
著作名: ピアソラ
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オランダ独立戦争とは

1568年から1648年まで、実に80年という長きにわたって続いたオランダ独立戦争は当初、世界に冠たるハプスブルク=スペイン帝国の辺境の一地方、ネーデルラントで起きた、領主の圧政に対する抵抗運動に過ぎませんでした。しかし、宗教改革の熱情、経済的な繁栄、そして古くからの自由を求める都市の気風が複雑に絡み合い、この抵抗はヨーロッパ最強の帝国に対する全面的な独立戦争へと発展していきました。



戦争前夜

80年にも及ぶ長い戦争の火種は、16世紀半ばのネーデルラント社会が抱えていた、深く根差した緊張の中にありました。それは、政治、宗教、そして経済という三つの側面から、ハプスブルク家の統治と衝突する運命にあったのです。
ハプスブルクの遺産

ネーデルラント、すなわち「低地地方」は、15世紀にブルゴーニュ公の下で統合され、17の州からなる一つの政治的単位を形成していました。これらの州は、それぞれが独自の法律、慣習、そして特権を持つ、独立性の高い共同体でした。しかし、婚姻政策を通じて、この豊かで戦略的に重要な土地は、ヨーロッパ最大の支配者であるハプスブルク家の手に渡ります。
この地で生まれ育った神聖ローマ皇帝カール5世は、ネーデルラントの伝統を理解し、貴族たちと協調しながら統治を行いました。彼は17州を法的に神聖ローマ帝国から切り離し、「ブルゴーニュ領」として一つのまとまりのある領土として確立しました。しかし、彼の統治にはすでに後の対立の芽が含まれていました。敬虔なカトリック教徒であった彼は、領内で急速に広まるルター派や再洗礼派といったプロテスタントの教えを「異端」とみなし、厳しい弾圧法(異端者布告)を制定しました。これは、多くのネーデルラントの人々にとって、古くからの都市の自由と個人の権利を侵害するものと映りました。
フェリペ2世の統治

決定的な転換点は、1555年にカール5世が退位し、その息子フェリペ2世がネーデルラントの君主となった時に訪れます。父とは対照的に、フェリペ2世はスペインで育ち、ネーデルラントの言語や文化に全く馴染みがありませんでした。彼は、この地を自身の広大なカトリック帝国を支えるための、単なる財源および戦略拠点としか考えていませんでした。
彼の政策は、ネーデルラント社会のあらゆる階層の反発を招きました。
第一に、彼は父の中央集権化政策をさらに推し進め、ネーデルラントの伝統的な自治権を脅かしました。彼は、統治の決定をアントワーヌ=ド=グランヴェル枢機卿のような少数の側近に集中させ、オラニエ公ウィレムをはじめとするネーデルラントの大貴族たちを政治の中枢から排除しました。これは、自分たちの発言権が奪われることへの貴族たちの強い不満を引き起こしました。
第二に、彼は宗教弾圧をかつてないほど強化しました。トリエント公会議の決定を厳格に実行し、プロテスタントに対する異端審問を容赦なく行いました。これは、すでに多くの市民がプロテスタントに共感を寄せていたフランドルやブラバントの都市部で、深刻な不安と恐怖を生み出しました。
第三に、彼はネーデルラントにスペイン軍部隊を常駐させ続けました。これは、外国の軍隊による占領と見なされ、市民の誇りを傷つけ、治安への不安を煽りました。
これらの政策は、ネーデルラントの人々にとって、自分たちの「自由」=すなわち古くから認められてきた特権や権利=が、外国の専制君主によって踏みにじられているという感覚を共有させる結果となったのです。
抵抗の始まり

不満は、まず穏健な政治的要求として現れました。オラニエ公ウィレム、エフモント伯、ホールン伯といった大貴族たちは、国務評議会を舞台に、グランヴェル枢機卿の罷免と宗教弾圧の緩和を求めました。
1566年になると、抵抗はより直接的な形を取ります。約400人の下級貴族が「盟約」を結び、総督マルゲリータ=ディ=パルマに宗教弾圧の停止を求める請願書を提出しました。この時、宮廷の一人が彼らを「あの乞食ども(ヘーゼン)」と蔑んだことから、彼らは逆にそれを誇りとして「乞食党」を名乗るようになります。
この政治的な緊張が頂点に達したのが、1566年の夏でした。一時的に弾圧が緩んだ隙に、カルヴァン派の説教師による野外礼拝が爆発的に広まり、その熱狂が「聖像破壊運動」として暴発します。フランドル地方から始まったこの運動は、ネーデルラント全土に広がり、民衆が教会に押し入ってカトリックの象徴である聖像や祭壇を破壊しました。この暴力行為は、多くの穏健派を恐怖させましたが、同時に、フェリペ2世に軍事介入の完璧な口実を与えてしまったのです。
戦争の勃発

聖像破壊運動は、ネーデルラントの運命を決定づけました。フェリペ2世は、これを許しがたい反逆とみなし、武力による徹底的な鎮圧を決意します。ここで、80年にわたる長い戦争の幕が切って落とされました。
アルバ公の恐怖政治

1567年8月、フェリペ2世は、スペイン最強と謳われた将軍、アルバ公フェルナンド=アルバレス=デ=トレドを、1万の精鋭部隊「テルシオ」と共にネーデルラントに派遣しました。彼の任務は、反乱の指導者を処罰し、異端を根絶し、王権を絶対的なものにすることでした。
アルバ公はブリュッセルに到着すると、直ちに「騒擾評議会」を設置しました。しかし、その容赦ない弾圧から、人々はこの法廷を「血の評議会」と呼び恐れました。この評議会は、聖像破壊に関与した者だけでなく、反体制的と見なされた人々を次々と裁き、数千人を処刑しました。その中には、最後までフェリペ2世への忠誠を信じてブリュッセルに留まっていたエフモント伯とホールン伯も含まれていました。1568年6月5日、ブリュッセルのグラン=プラスで二人の英雄が斬首されたことは、ネーデルラント全土に衝撃を与え、和解の望みを打ち砕きました。
さらにアルバ公は、ネーデルラントの経済的自立を奪い、スペインへの財政的従属を強めるため、「十分の一税」という新たな売上税を導入しようとしました。これは、商業活動が生命線であるネーデルラントの都市経済にとって致命的な打撃であり、貴族だけでなく、商人や職人といった一般市民の激しい反発を招きました。アルバ公の恐怖政治は、皮肉にも、それまで分裂していたネーデルラントの人々を、共通の敵に対する憎悪で団結させる結果となったのです。
オラニエ公ウィレムの蜂起

アルバ公の到来を予見し、事前にドイツの所領に亡命していたのが、オラニエ公ウィレムでした。彼は、エフモント伯らの処刑とアルバ公の圧政を見て、もはや武力闘争以外に道はないと決意します。彼は自らの莫大な財産を投じて傭兵を雇い、ネーデルラント解放のための軍を組織しました。
1568年、ウィレムは複数の方向からネーデルラントへの侵攻を開始します。彼の弟ナッサウ伯ルートヴィヒが率いる部隊が、ヘイリヘルレーの戦いでスペイン軍に勝利を収めました。この戦いは、一般的にオランダ独立戦争の始まりとされています。しかし、この勝利は長続きしませんでした。アルバ公は自ら軍を率いて反撃し、ルートヴィヒ軍を壊滅させます。ウィレム自身が率いた本隊も、決戦を避けるアルバ公の巧みな戦術の前に成果を上げられず、冬の到来と共に撤退を余儀なくされました。
最初の軍事行動は失敗に終わりましたが、ウィレムは諦めませんでした。彼は、海上に逃れた船乗りたち「海の乞食党」を組織化し、スペインの海上交通路を脅かすゲリラ戦術に活路を見出します。そして1572年、この海の乞食党が、予期せぬ形で戦争の転換点を作り出すことになるのです。
反乱の拡大

1572年は、戦争の様相を一変させた年でした。一つの偶然の出来事が、絶望的に見えた反乱の炎を、ネーデルラント全土に燃え広がらせるきっかけとなったのです。
ブリールの占拠とホラントの反乱

1572年4月1日、イギリスの港を追い出された「海の乞食党」の一団が、偶然にもほとんど無防備だったゼーラント州の港町ブリールを占拠しました。彼らはオラニエ公ウィレムの旗を掲げ、町を解放したと宣言します。
この小さな港町の占拠というニュースは、瞬く間にネーデルラント中に広まりました。アルバ公の圧政に苦しんでいたホラントとゼーラントの諸都市は、ブリールの成功に勇気づけられ、次々と反旗を翻しました。フロイシンゲン、ドルトレヒト、ライデン、ハールレムといった都市が、スペインの小規模な守備隊を追い出し、反乱側に参加しました。彼らは、亡命中のオラニエ公ウィレムを、自分たちの唯一正統な総督として承認しました。
同年7月、ホラント州の諸都市の代表は、ドルトレヒトに集まり、自主的に州議会を開催します。これは、王の許可なく開かれた革命的な議会でした。彼らは、ウィレムを総督として正式に承認し、戦争遂行のための資金を提供することを決議しました。ここに、後のネーデルラント連邦共和国の政治的・軍事的な中核となる、解放区が誕生したのです。戦争は、もはや散発的な抵抗ではなく、一つの地域を拠点とする組織的な闘争へと姿を変えました。
スペインの反撃と残虐行為

アルバ公は、この予期せぬ反乱の拡大に激怒し、徹底的な報復を開始しました。彼の息子ドン=ファドリケが率いるスペイン軍は、反乱都市を一つずつ攻略し、見せしめとして残虐行為を繰り返しました。メヘレンやズトフェンでは、降伏したにもかかわらず、市民が虐殺されました。ナールデンでは、ほぼ全ての住民が殺害されるという惨劇が起きました。
1572年末、スペイン軍はホラント州の中心都市の一つ、ハールレムの包囲を開始します。ハールレムの市民は、女性や子供も含めて英雄的な抵抗を見せましたが、7ヶ月にわたる過酷な包囲の末、飢餓のために降伏を余儀なくされました。降伏後、スペイン軍は約束を破り、守備隊の兵士のほとんどを処刑しました。
しかし、この恐怖による支配は、オランダ人の抵抗心をくじくどころか、逆に固める結果となりました。ハールレムの悲劇は、「降伏しても殺されるなら、最後まで戦うしかない」という決意を、他の都市に抱かせたのです。1573年、スペイン軍はアルクマールを包囲しますが、守備隊は堤防を決壊させて町を水浸しにし、スペイン軍を撤退に追い込みました。翌1574年には、ライデンが長期間の包囲に耐え抜き、ウィレムが再び堤防を決壊させて送り込んだ「海の乞食党」の艦隊によって、劇的な解放を遂げました。これらの勝利は、反乱軍の士気を大いに高め、スペインの無敵神話を揺るがしました。
統一と分裂

戦争が泥沼化する中、ネーデルラントの全17州が、宗教の違いを超えて一時的に団結するという、劇的な瞬間が訪れます。しかし、その統一は長くは続かず、やがて南北の決定的な分裂へと至ります。
ヘントの和約

アルバ公の強硬策が失敗に終わった後も、戦争は続きました。しかし、スペイン側にも限界が訪れます。フェリペ2世の国家財政が破綻し、ネーデルラント駐留軍への給料が支払えなくなったのです。
1576年、給料未払いに不満を募らせたスペイン兵が各地で反乱を起こし、規律は完全に崩壊しました。その頂点が、同年11月4日に起きた「スパニッシュ=フューリー」です。反乱兵が、当時ヨーロッパ有数の商業都市であったアントワープを襲い、3日間にわたって略奪、放火、虐殺の限りを尽くしました。この惨劇で7000人以上の市民が殺害され、都市の富は灰燼に帰しました。
この事件は、それまでスペイン王に忠実であった南部のカトリック州にも、強烈な衝撃と恐怖を与えました。彼らは、もはやスペイン軍が自らの安全を脅かす存在であると認識し、反乱を起こしていた北部の州との和解に傾きます。
この機を捉え、オラニエ公ウィレムの主導の下、1576年11月8日、ネーデルラント17州の代表はヘントに集まり、「ヘントの和約」を締結しました。これは、共通の敵であるスペイン軍部隊をネーデルラントから追放することを目的として、宗教的な対立を一時棚上げにして団結するという歴史的な合意でした。ウィレムはブリュッセルに凱旋し、ネーデルラントの指導者として迎えられました。17州の統一という彼の理想が、ついに実現したかに見えました。
アラス連合とユトレヒト同盟

しかし、ヘントの和約によって生まれた統一は、脆いものでした。根本的な原因は、やはり宗教的な不寛容にありました。ホラントとゼーラントで力を得た急進的なカルヴァン派は、和約の精神に反して、南部のフランドルやブラバントでカトリック教会を弾圧し、その勢力を拡大しようとしました。
一方、南部のワロン地方(フランス語圏)のカトリック貴族たちは、カルヴァン派の攻撃的な姿勢と、ウィレムが民衆に及ぼす影響力の増大に、強い警戒感を抱いていました。
この内部対立に巧みにつけ込んだのが、スペインが新たに派遣した総督、パルマ公アレッサンドロ=ファルネーゼでした。彼は優れた軍人であると同時に、熟練した外交官でもありました。彼は、南部のカトリック貴族たちに対し、彼らの伝統的な特権とカトリック信仰の保護を約束し、反乱戦線からの離脱を働きかけました。
この策略は功を奏し、1579年1月6日、エノー、アルトワといった南部の州は「アラス連合」を結成し、スペイン王への忠誠を再確認しました。これは、ヘントの和約による統一の完全な崩壊を意味しました。
これに対し、北部のプロテスタント州(ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラントなど)と、カルヴァン派が実権を握っていた南部の都市(アントワープ、ヘント、ブルッヘなど)は、同月23日に「ユトレヒト同盟」を結成して対抗しました。この同盟は、アラス連合とスペインに対抗するための軍事同盟であり、後のネーデルラント連邦共和国の事実上の憲法となりました。
この二つの同盟の結成によって、ネーデルラントは、スペインに忠誠を誓う南部と、抵抗を続ける北部に、決定的に分裂したのです。
共和国の誕生

ユトレヒト同盟の結成は、独立国家の誕生に向けた後戻りできない一歩でした。彼らはもはやフェリペ2世との和解を求めず、自らの手で主権国家を築き上げる道を選びます。
統治権喪失令

1580年、フェリペ2世はオラニエ公ウィレムを「無法者」と宣言し、彼の首に懸賞金をかけました。これに対し、ウィレムは「弁明書」を発表して自らの行動を正当化し、暴君を排除する臣民の権利を主張しました。
この理論に基づき、ユトレヒト同盟に加盟する州の全国議会は、1581年7月26日、「統治権喪失令」を布告しました。これは、フェリペ2世をネーデルラントの君主として正式に否認する、事実上の独立宣言でした。彼らは、君主が臣民の権利と自由を守るという暗黙の契約を破った時、臣民はその君主を捨てる権利があると宣言したのです。これは、王権神授説が支配的だった当時のヨーロッパにおいて、極めて革命的な思想でした。
パルマ公の征服とウィレムの暗殺

独立を宣言したものの、若い共和国の未来は多難でした。パルマ公アレッサンドロ=ファルネーゼの軍事的天才の前に、反乱軍は苦戦を強いられます。彼は、巧みな包囲戦術を駆使して、フランドルとブラバントの都市を次々と陥落させていきました。1585年には、反乱側の経済的・文化的な中心地であったアントワープが、1年以上にわたる包囲の末に降伏しました。アントワープの陥落は、反乱にとって大きな打撃であり、南ネーデルラントがスペインの支配下にとどまることを決定的にしました。
さらに、共和国は、その指導者を失うという最大の悲劇に見舞われます。1584年7月10日、オラニエ公ウィレムが、デルフトの自宅で、狂信的なカトリック教徒バルタザール=ジェラールによって暗殺されたのです。「祖国の父」を失った共和国は、存亡の危機に立たされました。
イングランドの介入と無敵艦隊

指導者を失い、パルマ公の軍事的圧力の前に絶望の淵にあった共和国に、救いの手が差し伸べられます。それは、スペインの強大化を恐れるイングランド女王エリザベス1世でした。1585年、彼女はオランダとノンサッチ条約を結び、軍資金と部隊を派遣して、公然とオランダの独立を支援することを決定しました。
イングランドの介入は、フェリペ2世を激怒させました。彼は、異端の女王エリザベスを打倒し、イングランドをカトリックに戻すため、史上最大規模の艦隊「無敵艦隊(アルマダ)」を編成し、イングランド侵攻を計画します。しかし、1588年、この無敵艦隊は、英仏海峡での海戦と、その後の嵐によって、壊滅的な敗北を喫しました。
無敵艦隊の敗北は、世界史の転換点でした。それは、スペインの海上覇権の終わりの始まりを告げると同時に、オランダ共和国にとっては、スペインの脅威が一時的に後退し、息を吹き返す絶好の機会をもたらしました。パルマ公はイングランド侵攻の準備に忙殺され、オランダへの圧力を弱めざるを得なかったのです。
十年間の栄光と休戦

無敵艦隊の敗北後、共和国は奇跡的な反撃に転じます。1588年から1598年にかけての10年間は、「十年間の栄光」と呼ばれ、共和国がその領土を確立し、独立を不動のものにした時代でした。
マウリッツとオルデンバルネフェルト

この反撃を主導したのは、二人の天才でした。一人は、暗殺されたウィレムの息子、オラニエ公マウリッツ。彼は、古代ローマの戦術を研究し、軍制に革命的な改革をもたらした軍事の天才でした。彼は、兵士の訓練を標準化し、より小型で機動的な部隊を導入し、包囲戦術を科学的なレベルにまで高めました。
もう一人は、ホラント州の法律顧問、ヨハン=ファン=オルデンバルネフェルト。彼は、卓越した政治家・外交官であり、共和国の複雑な国内政治をまとめ上げ、財政を安定させ、イングランドやフランスとの同盟を維持しました。
マウリッツの軍事的才能と、オルデンバルネフェルトの政治的手腕という、この「二人三脚」のリーダーシップの下、共和国軍は快進撃を続けます。ブレダ、ズトフェン、デーフェンテル、ナイメーヘンといった、パルマ公に奪われた重要都市を次々と奪還。1597年までに、共和国は、現在のオランダの国境線とほぼ同じ領域を確保することに成功しました。
12年休戦協定

長年の戦争は、スペインと共和国の双方を疲弊させていました。スペインは度重なる財政破綻に苦しみ、共和国もまた、莫大な戦費に喘いでいました。1606年頃から、和平交渉が始まり、オルデンバルネフェルトは、共和国の商業的利益のために、戦争の終結を強く主張しました。一方、マウリッツは、スペインを完全に打ち負かすまで戦争を続けるべきだと主張し、二人の間に対立が生じました。
最終的に、オルデンバルネフェルトの意見が通り、1609年、ハーグにおいて、スペインと共和国の間で「12年休戦協定」が結ばれました。この協定で、スペインは、共和国を事実上の独立国家として承認しました。これは、80年にわたる戦争の、前半戦の終わりを告げるものでした。
この休戦期間中、オランダは経済的に空前の繁栄を謳歌し、「黄金時代」の絶頂期を迎えます。しかし、国内では、オルデンバルネフェルトが支持する寛容なアルミニウス派と、マウリッツが支持する厳格なゴマルス派との間で、激しい宗教論争が政治対立に発展。最終的に、マウリッツがクーデターを起こし、1619年、建国の功労者であったオルデンバルネフェルトは、反逆罪の濡れ衣を着せられて処刑されるという悲劇が起こりました。
戦争の終結

12年間の休戦が終わると、戦争は再開されました。しかし、その性格は、もはやオランダとスペインの二国間の戦いではなく、ドイツを主戦場とする、ヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争の一部となっていました。
三十年戦争と最後の戦い

1621年に戦争が再開されると、当初はスペインが優勢でした。スピノラ将軍が率いるスペイン軍は、1625年に要衝ブレダを陥落させました(この場面はベラスケスの名画「ブレダの開城」に描かれています)。
しかし、マウリッツの跡を継いだ弟のフレデリック=ヘンドリック(「都市の征服者」として知られる)の下で、オランダは再び反撃に転じます。彼は、1629年にス=ヘルトーヘンボスを、1632年にマーストリヒトを攻略し、南部の国境線を固めました。
海上では、オランダの優位は決定的でした。1628年、ピート=ハイン提督が、キューバ沖でスペインの銀船団を丸ごと拿捕するという歴史的な快挙を成し遂げます。この戦利品は、共和国の戦費を大いに潤しました。そして1639年、マールテン=トロンプ提督が率いるオランダ艦隊が、ダウンズの海戦でスペインの大艦隊を壊滅させ、スペインの制海権に終止符を打ちました。
陸上でも、フランスがオランダ側で本格的に参戦すると、スペインはフランスとオランダの二正面作戦を強いられ、次第に追い詰められていきました。
ミュンスター条約と独立の承認

長年の戦争に疲れ果てた各国は、和平を模索し始めます。1644年から、ヴェストファーレン地方のミュンスターとオスナブリュックで、大規模な講和会議が始まりました。
オランダとスペインの交渉は、ミュンスターで行われました。そして、実に80年という長い歳月を経た1648年1月30日、両国はついに講和条約に署名しました。これがミュンスター条約です。
この条約によって、スペインは、ネーデルラント連邦共和国の完全な独立と主権を、公式に承認しました。国境線は、戦争終結時点での支配領域に基づいて画定され、これが現在のオランダとベルギーの国境の基礎となりました。また、スヘルデ川の河口はオランダが封鎖し続けることが認められ、これにより、かつてのライバルであったアントワープの商業的地位は決定的に低下し、アムステルダムの覇権が確立されました。
1648年5月15日、ミュンスター市庁舎で、両国の代表が条約を批准する誓いを立てました。この瞬間、80年間にわたる血と涙の闘争は、ついに終わりを告げ、オランダは、国際社会が公認する独立国家として、その歴史の新たな一歩を踏み出したのです。

オランダ独立戦争は、その期間の長さ、戦術の革新性、そして歴史的な結果において、近代ヨーロッパの形成に決定的な影響を与えました。それは、宗教的信念と政治的自由を求める人々の抵抗が、巨大な帝国を打ち破りうることを証明しました。この戦争を通じて、オランダは単に独立を勝ち取っただけではありません。彼らは、主権在民と連邦制を基本とする共和制国家を創り上げ、マウリッツの軍事改革によって近代的な戦争のあり方を示し、そして何よりも、その後の「黄金時代」の経済的・文化的繁栄の礎を築きました。80年にわたる闘争の記憶は、オランダという国家のアイデンティティの核心に深く刻み込まれ、圧政に対する自由の勝利の象徴として、後世に語り継がれています。この長い戦争の終結は、中世的な帝国の時代が終わり、主権国家が並び立つ近代ヨーロッパ世界の幕開けを告げる、重要な出来事だったのです。

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