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デンマークとは わかりやすい世界史用語2655 |
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著作名:
ピアソラ
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デンマークとは
三十年戦争の時代におけるデンマーク=ノルウェー連合王国は、その野心的な君主クリスチャン4世の指導の下、北ヨーロッパにおける主要な軍事大国、そしてバルト海の覇者としての地位を確立しようと試みた、極めて重要な存在でした。17世紀初頭、デンマークは経済的繁栄の頂点にあり、その海軍力と戦略的な地理的位置は、ヨーロッパの政治情勢に大きな影響力を行使する基盤となっていました。しかし、ドイツで勃発した三十年戦争への介入というクリスチャン4世の野心的な決断は、デンマークの国運を大きく揺さぶり、最終的にはその覇権の夢を打ち砕き、ライバルであるスウェーデンの台頭を許すという皮肉な結果をもたらします。
クリスチャン4世の治世とデンマークの黄金時代
三十年戦争の時代を理解するためには、まずその中心人物であるデンマーク=ノルウェー王クリスチャン4世(在位1588年ー1648年)と、彼が統治した王国の状況を把握する必要があります。クリスチャン4世の60年にわたる長い治世の前半は、デンマーク史における「黄金時代」と見なされており、経済的繁栄と文化的興隆を背景に、王権の強化と国力の増強が精力的に推し進められました。
クリスチャン4世=ルネサンス君主の肖像
1577年に生まれたクリスチャン4世は、わずか11歳で父王フレゼリク2世の死により王位を継承しました。成人して親政を開始するまでの間、彼は貴族で構成される王国参事会(リグスロズ)の後見の下で、徹底した君主教育を受けます。彼は語学(デンマーク語、ドイツ語、ラテン語、フランス語、イタリア語)、神学、数学、そして築城術や航海術といった軍事技術に至るまで、幅広い知識を習得しました。その精力的な活動、尽きることのない好奇心、そして芸術や建築への深い造詣は、彼を典型的なルネサンス君主として特徴づけています。
クリスチャン4世は、自らをデンマークの偉大な建設者と位置づけ、数多くの都市、城塞、そして壮麗な建築物を建設しました。首都コペンハーゲンには、証券取引所(ボーアセン)の螺旋状の尖塔や、円塔(ルンデターン)、ローゼンボー城など、彼の時代の建築物が今なお数多く残されており、その野心と美的センスを物語っています。彼はまた、軍事力の強化にも並々ならぬ情熱を注ぎ、特に海軍の増強に力を入れました。彼の治世の終わりには、デンマーク海軍は60隻以上の艦船を擁するヨーロッパ有数の規模にまで成長しました。
しかし、その一方で、クリスチャン4世は衝動的で、自らの能力を過信する傾向がありました。彼はしばしば、貴族が多数を占める王国参事会の助言を無視して独断で行動し、その野心的な外交政策は、デンマークを危険な国際紛争の渦中へと引きずり込むことになります。彼の性格は、デンマークの繁栄を築いた原動力であると同時に、その後の衰退を招く要因ともなったのです。
サウンド海峡通行税と経済的繁栄
17世紀初頭のデンマークの国力の源泉は、何よりもまずサウンド海峡通行税にありました。サウンド海峡は、バルト海と北海を結ぶ唯一の海上交通の要衝であり、デンマークは海峡の入り口に位置するクロンボー城を拠点に、ここを通過するすべての外国船から通行税を徴収していました。
この時代、バルト海地域は西ヨーロッパにとって極めて重要な経済圏でした。オランダやイングランドの造船業はバルト海沿岸から産出される木材、タール、ピッチに依存し、穀物貿易もまた、この地域を経由して行われていました。サウンド海峡通行税は、この活発なバルト海貿易から莫大な利益をデンマークにもたらし、王室財政の根幹を支えました。クリスチャン4世は、この税収を原資として、壮大な建築事業や軍備拡張、そして自身の宮廷の華やかな生活を賄うことができたのです。
この通行税は、デンマークに富をもたらす一方で、絶え間ない外交摩擦の原因ともなりました。特に、バルト海貿易の最大の担い手であったオランダは、この税を自国の商業活動に対する重荷と見なしており、しばしば税率の引き上げに抵抗しました。また、東のライバルであるスウェーデンは、自国の貿易船がこの税の対象となることに強い不満を抱いていました。サウンド海峡の支配は、デンマークの力の象徴であると同時に、そのアキレス腱でもあったのです。
バルト海の覇権
クリスチャン4世の外交政策の最大の目標は、「ドミニウム=マリス=バルティキ」、すなわちバルト海の覇権を確立することでした。彼は、デンマークがバルト海の支配者であり、この海域における政治的・経済的秩序を主導する存在であるべきだと考えていました。
しかし、この野望の前には、強力なライバルが立ちはだかっていました。それは、急速に国力を伸長させていたスウェーデンです。17世紀初頭、スウェーデンはグスタフ=アドルフ(後のグスタフ2世アドルフ)という有能な君主の下で、軍事改革と行政改革を断行し、フィンランド、エストニア、リヴォニアへと領土を拡大して、バルト海東岸に確固たる足場を築きつつありました。
デンマークとスウェーデンのライバル関係は、三十年戦争以前からすでに激しいものでした。クリスチャン4世は、スウェーデンの台頭を阻止するため、1611年から1613年にかけてカルマル戦争を引き起こします。この戦争でデンマークは勝利を収め、スウェーデンに多額の賠償金を支払わせ、領土的な譲歩を強いることに成功しました。この勝利は、クリスチャン4世の自信を大いに高め、彼に北ヨーロッパの覇者としての自負を植え付けました。しかし、この屈辱的な敗北はスウェーデンの対デンマーク敵対心を煽り、将来の復讐の機会をうかがわせる結果ともなりました。バルト海の覇権をめぐる両国の対立は、三十年戦争の全期間を通じて、北ヨーロッパの政治力学を規定する基本的な構図であり続けたのです。
三十年戦争への介入 デンマーク戦争(1625年ー1629年)
1618年に神聖ローマ帝国内で勃発した三十年戦争は、当初、デンマークにとって直接的な脅威ではありませんでした。しかし、戦争の第一段階であるベーメン=プファルツ戦争(1618年ー1623年)が皇帝フェルディナント2世とカトリック勢力の圧倒的勝利に終わると、戦況は大きく変化します。皇帝軍が北ドイツにまで進出し、プロテスタントが弾圧される状況は、クリスチャン4世に介入の口実と機会の両方を与えました。
介入の動機
クリスチャン4世が1625年にドイツへの軍事介入を決断した動機は、複合的で、宗教的、政治的、そして個人的な野心が絡み合っていました。
宗教的動機:クリスチャン4世は、敬虔なルター派の君主として、ドイツのプロテスタントがカトリック皇帝によって弾圧されている状況を座視できないと考えていました。彼は、自らをドイツのプロテスタントの保護者、そしてプロテスタントの大義の擁護者として位置づけようとしました。この「プロテスタントの大義」は、彼の介入を正当化するための重要なプロパガンダでした。
政治的=戦略的動機:これがより本質的な動機でした。ハプスブルク家の皇帝権力が北ドイツにまで及び、バルト海沿岸に皇帝軍の基地が築かれることは、デンマークの国家安全保障にとって深刻な脅威でした。特に、皇帝軍がメクレンブルクやポメラニアといったバルト海南岸の港湾を支配することは、デンマークの生命線であるバルト海の制海権を直接脅かすものでした。クリスチャン4世は、皇帝の勢力拡大を阻止し、北ドイツに緩衝地帯を確保する必要があると考えたのです。
領土的野心:クリスチャン4世は、この介入を、デンマークの勢力圏をドイツ北部に拡大する好機と捉えていました。彼は、ブレーメンとフェルデンという二つの重要な司教領を、自らの息子たちのために確保しようと画策していました。これらの司教領は、エルベ川とヴェーザー川の河口に位置する戦略的要衝であり、これを支配することは、北ドイツにおけるデンマークの影響力を飛躍的に高めることを意味しました。
個人的な名声とライバル意識:カルマル戦争の勝利者として、クリスチャン4世は自らを北ヨーロッパ最強の君主であると自負していました。彼は、この戦争で軍功を立て、ヨーロッパにおける自らの名声をさらに高めようとしました。また、ライバルであるスウェーデンのグスタフ=アドルフも、ドイツへの介入をうかがっていました。クリスチャン4世は、グスタフ=アドルフに先んじてプロテスタントの指導者としての地位を確立し、スウェーデンに主導権を渡すことを阻止したいという強い動機を持っていました。
これらの動機に後押しされ、クリスチャン4世は、イングランドとオランダからの資金援助の約束(ハーグ同盟)を取り付けると、ニーダーザクセン帝国クライス(神聖ローマ帝国の地方行政単位)のクライス長官として、1625年夏、約2万の軍隊を率いてエルベ川を渡り、ドイツへと侵攻しました。
ヴァレンシュタインの登場と戦局の転換
クリスチャン4世の侵攻に対し、皇帝フェルディナント2世は当初、ティリー伯ヨハン=セルクラエスが率いるカトリック連盟軍に頼るしかありませんでした。しかし、デンマークの脅威が現実のものとなると、皇帝は新たな軍事力を必要とします。ここで登場するのが、三十年戦争の歴史における最も謎めいた人物の一人、アルブレヒト=フォン=ヴァレンシュタインです。
ヴァレンシュタインは、ベーメン出身の傭兵隊長で、白山の戦い後の土地没収で巨万の富を築いた人物でした。彼は、皇帝に対し、自らの資金と信用で5万人の軍隊を組織し、維持するという前代未聞の提案を行います。彼の軍隊は「戦争は戦争を養う」という原則に基づき、占領地からの徹底的な徴発によって糧を得る、国家から半ば独立した巨大な私兵軍団でした。
ヴァレンシュタインの登場は、戦局を完全に変えました。1626年4月、ヴァレンシュタイン軍は、デンマークの同盟者であったエルンスト=フォン=マンスフェルトの軍をデッサウ橋の戦いで撃破します。そして同年8月27日、ティリー伯率いるカトリック連盟軍が、クリスチャン4世自身のデンマーク軍本隊と、ハルツ山地の麓のルッター=アム=バーレンベルゲで激突しました。
ルッターの戦いは、デンマークにとって完全な敗北でした。デンマーク軍は兵力の半分以上を失い、大砲や軍旗のほとんどを奪われました。クリスチャン4世自身も負傷し、辛うじて戦場から脱出しました。この敗北により、デンマーク軍の野戦能力は事実上崩壊し、戦争の主導権は完全に皇帝側に移りました。
デンマーク本土への侵攻とリューベックの和約
ルッターの戦いの後、ヴァレンシュタインとティリー伯の軍は、北ドイツ全域を席巻し、デンマークの本土であるユトランド半島にまで侵攻しました。デンマークの陸軍は抵抗することができず、半島全域が皇帝軍によって占領され、略奪されました。クリスチャン4世は、残った艦隊の力で島嶼部(シェラン島など)に立てこもり、かろうじて抵抗を続けました。
ヴァレンシュタインは、バルト海に皇帝の艦隊を創設し、デンマークの制海権に挑戦しようとさえ試みました。彼はメクレンブルク公の地位を与えられ、バルト海南岸に一大勢力圏を築き上げます。デンマークは、建国以来最大の危機に直面しました。
しかし、デンマークには幸運な点が二つありました。一つは、皇帝側に強力な海軍がなかったため、デンマークの島嶼部や首都コペンハーゲンを攻略することができなかったことです。もう一つは、ヴァレンシュタインのバルト海進出を警戒したスウェーデンが、デンマークを支援する動きを見せたことです。グスタフ=アドルフは、デンマークの完全な崩壊がスウェーデンの利益にならないことを理解しており、クリスチャン4世との間に同盟を結び、シュトラールズント港の防衛にスウェーデン軍を派遣しました。ヴァレンシュタインによるシュトラールズント包囲が失敗に終わったことは、彼のバルト海への野望の限界を示すものでした。
最終的に、国内外の圧力と、これ以上の戦争継続の困難さを認識した皇帝フェルディナント2世は、デンマークとの和平交渉に応じます。1629年5月、リューベックの和約が締結されました。この条約の条件は、デンマークにとって驚くほど寛大なものでした。クリスチャン4世は、今後ドイツの内政に干渉しないことを約束する代わりに、ユトランド半島を含む、戦争で失ったすべての領土を返還されました。
なぜこれほど寛大な条件が提示されたのでしょうか。それは、皇帝が、より大きな目標、すなわちドイツ国内における絶対的権力の確立と、プロテスタント勢力の完全な制圧のために、デンマークとの戦争を早期に終結させることを望んだからです。彼は、この和約のわずか2ヶ月前に、すべての世俗化された教会領のカトリックへの返還を命じる「復旧勅令」を発布しており、その施行に全力を注ごうとしていました。また、スウェーデンの介入という新たな脅威が目前に迫っており、二正面作戦を避ける必要もありました。
こうして、デンマーク戦争は終結しました。クリスチャン4世は、領土を失うことはありませんでしたが、彼の威信は地に落ち、デンマークの国庫は破綻寸前でした。ドイツのプロテスタントの擁護者として介入した戦争は、結果的に皇帝権力をかつてないほど強化させ、ドイツのプロテスタントをさらに窮地に陥れるという、全く逆の結果をもたらしたのです。そして何よりも、デンマークの敗北は、北ヨーロッパにおけるパワーバランスの転換を決定づけました。プロテスタントの指導者の役割は、今や、バルト海の対岸で介入の時を待つ、スウェーデン王グスタフ=アドルフの手に渡ったのです。
スウェーデン時代のデンマーク(1630年=1648年)
デンマーク戦争の敗北後、クリスチャン4世は表向き中立政策をとりましたが、その心境は複雑でした。彼は、自らが敗れた皇帝軍を、今度はスウェーデンが打ち破っていく様子を、嫉妬と警戒の入り混じった目で見つめていました。三十年戦争の後半におけるデンマークの外交は、この対スウェーデン関係を軸に展開し、最終的にはデンマークにとってさらなる悲劇を招くことになります。
嫉妬深き中立
1630年、スウェーデン王グスタフ=アドルフがドイツに上陸し、快進撃を開始すると、クリスチャン4世はジレンマに陥りました。一方では、スウェーデンの勝利がハプスブルク家の脅威を退けることは、デンマークの安全保障にとって望ましいことでした。しかし、他方では、スウェーデンがドイツで大きな成功を収め、北ドイツに恒久的な足場を築くことは、デンマークの覇権に対する直接的な挑戦を意味しました。
クリスチャン4世は、両陣営の間で調停役を演じようと試みますが、その真意は、スウェーデンの成功を妨害し、漁夫の利を得ることにありました。彼は、ドイツのプロテスタント諸侯に対し、スウェーデンへの支援を思いとどまらせようと働きかけたり、皇帝側と秘密裏に交渉したりしました。しかし、彼の外交的策動は、スウェーデン宰相オクセンシェルナの不信感を招くだけで、ほとんど成果を上げることはありませんでした。
1632年のリュッツェンの戦いでグスタフ=アドルフが戦死すると、クリスチャン4世はスウェーデンの力が弱まることを期待しましたが、オクセンシェルナの巧みな指導の下、スウェーデンはハイルブロン同盟を結成して戦争を継続しました。デンマークの孤立は深まり、その影響力はますます低下していきました。
トルステンソン戦争(1643年ー1645年)
1640年代に入ると、デンマークとスウェーデンの関係は決定的に悪化します。クリスチャン4世は、スウェーデンの弱体化を図るため、いくつかの挑発的な行動に出ました。彼は、サウンド海峡通行税を大幅に引き上げ、スウェーデンの貿易に打撃を与えようとしました。また、ハンブルク市を圧迫し、エルベ川の支配を強化しようとしました。さらに、スウェーデンと敵対する皇帝側と、より緊密な関係を築き始めました。
これらの動きに対し、スウェーデンの摂政政府(女王クリスティーナはまだ若年)とオクセンシェルナは、デンマークの背後からの脅威を排除するため、先制攻撃を決断します。1643年、三十年戦争のドイツ戦線で皇帝軍と対峙していたスウェーデンの最も有能な司令官、レナート=トルステンソンは、突如として軍を北に向け、電撃的にデンマーク領のユトランド半島へと侵攻しました。
この奇襲攻撃は、デンマークの完全な不意を突きました。デンマーク陸軍は全くの無防備であり、ユトランド半島は再び、今度はスウェーデン軍によって瞬く間に占領されました。この戦争は、司令官の名をとって「トルステンソン戦争」、あるいはその角のような形状から「ホルン戦争」と呼ばれています。
陸上では完全に敗北したデンマークでしたが、クリスチャン4世は、自らが育て上げた強力な海軍を頼りに、海上での抵抗を試みます。1644年7月1日のコルベルガー=ハイデの海戦では、67歳の老王クリスチャン4世自身が旗艦「三位一体」号の甲板で指揮を執り、砲弾の破片で片目を失いながらも奮戦しました。この戦いは引き分けに終わりましたが、デンマーク国民の士気を大いに高めました。
しかし、海軍の奮戦も長くは続きませんでした。スウェーデンは、同盟国であるオランダの艦隊を呼び寄せ、デンマーク海軍に対抗させます。オランダは、サウンド海峡通行税の引き下げを狙って、スウェーデン側についたのです。1644年10月、フェーマルン島沖の海戦で、デンマーク=オランダ連合艦隊はデンマーク艦隊に決定的勝利を収め、デンマークの制海権は失われました。
ブレムセブルーの和約とデンマークの衰退
陸海ともに敗北し、首都コペンハーゲンも脅かされるに至り、クリスチャン4世は屈辱的な和平交渉に応じざるを得ませんでした。フランスとオランダの仲介の下、1645年8月、ブレムセブルーの和約が締結されました。
この条約は、デンマークにとって壊滅的なものでした。
デンマークは、バルト海に浮かぶゴットランド島とサーレマー島をスウェーデンに割譲しました。
ノルウェーの一部であるイェムトランド地方とハルイェダーレン地方を割譲しました。
今後30年間にわたり、ハッランド地方をスウェーデンに担保として譲渡しました。
スウェーデン船に対するサウンド海峡通行税を免除することを認めさせられました。
ブレムセブルーの和約は、デンマークの歴史における一つの時代の終わりを告げるものでした。サウンド海峡通行税の免除は、デンマークの財政基盤を大きく揺るがし、領土の喪失は、バルト海におけるデンマークの戦略的地位を決定的に低下させました。カルマル戦争以来続いてきたバルト海の覇権をめぐる争いは、この条約によってスウェーデンの完全な勝利に終わり、デンマークは北ヨーロッパの主役の座から転落したのです。
クリスチャン4世は、この敗北から立ち直ることなく、1648年2月に失意のうちに世を去りました。皮肉なことに、彼が亡くなったその年、ヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争もまた、ヴェストファーレン条約によって終結を迎えます。
三十年戦争の時代におけるデンマークは、クリスチャン4世という一人の野心的な君主のリーダーシップの下で、国力の絶頂期から衰退期へと劇的な転換を経験しました。17世紀初頭の経済的繁栄と軍事的成功は、クリスチャン4世に、ドイツのプロテスタントの擁護者、そして北ヨーロッパの覇者としての役割を演じることができるという過信を抱かせました。
しかし、1625年のドイツへの介入は、ヴァレンシュタインという予想外の強敵の前に惨憺たる敗北に終わり、デンマークの軍事的威信を失墜させました。さらに深刻だったのは、その後の対スウェーデン政策の失敗です。ライバルであるスウェーデンの成功への嫉妬から、中立の立場を逸脱して妨害工作を行い、最終的にスウェーデンの予防攻撃を招いたことは、致命的な失策でした。トルステンソン戦争の敗北とブレムセブルーの和約は、デンマークが1世紀以上にわたって維持してきたバルト海の覇権を完全にスウェーデンに明け渡すことを意味しました。
三十年戦争という激動の時代を通じて、デンマークは、宗教的情熱や君主個人の名誉欲といった動機が、冷徹な国益計算と地政学的現実の前ではいかに脆いものであるかを痛感させられました。クリスチャン4世の治世は、デンマークに壮麗な建築物と文化的な遺産を残しましたが、その外交政策の失敗は、国力を大きく損ない、その後のデンマークの歴史の方向性を決定づけることになったのです。三十年戦争の文脈において、デンマークの物語は、野心が現実を超えた時にもたらされる悲劇的な結末を示す、一つの教訓として記憶されています。
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