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ユグノー戦争とは わかりやすい世界史用語2647 |
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著作名:
ピアソラ
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ユグノー戦争とは
16世紀半ばのフランス王国は、外見上は一つのまとまりを保っていました。国王フランソワ1世とその息子アンリ2世の下、イタリア戦争を通じてヨーロッパの大国としての地位を固め、宮廷では華やかなルネサンス文化が花開いていました。しかし、そのきらびやかな幕の下では、王国を根底から揺るがしかねない深刻な亀裂が、静かに、しかし着実に広がっていました。それは、宗教改革という、抗いがたい時代の大きなうねりでした。
ドイツでマルティン=ルターが口火を切った宗教改革の波は、フランスにも押し寄せ、カトリック教会の腐敗や形式化した信仰に疑問を抱く人々の心を捉えました。特に、亡命先のジュネーヴからフランスの改革運動を指導したジャン=カルヴァンの教えは、フランス国内で急速に信者を増やしていきます。彼の厳格な神学と、聖書を中心とする信仰のあり方は、商人、職人、法律家といった都市の知識層から、地方の有力貴族に至るまで、幅広い階層の人々に受け入れられました。フランスのカルヴァン派信徒、すなわち「ユグノー」は、1560年代初頭には人口の約一割、200万人に達し、全国に2000以上の教会を組織する、もはや無視できない勢力となっていたのです。
このユグノーの急成長は、カトリックが国教であるフランスにおいて、深刻な緊張を生み出しました。国王アンリ2世は、ユグノーを国家の統一を脅かす「異端」とみなし、厳しい弾圧政策を推し進めましたが、それはかえってユグノーの結束を強める結果にしかなりませんでした。
そして1559年、この危うい均衡を崩す決定的な出来事が起こります。国王アンリ2世が、娘の結婚を祝う馬上槍試合の最中に不慮の事故で急死したのです。彼の死により、フランスは若く経験の浅い王たちが次々と即位する、不安定な時代へと突入しました。強力な指導者を失った宮廷では、権力を巡る貴族間の派閥争いが激化します。一方には、熱狂的なカトリックの擁護者であり、王家をもしのぐ権勢を誇るギーズ家。もう一方には、ブルボン家のアントワーヌ(ナバラ王)やその弟コンデ公ルイ、そしてコリニー提督といった、ユグノーに改宗した王族に近い大貴族たち。宗教的な対立は、この貴族間の権力闘争と分かちがたく結びつき、フランスを二つの陣営に引き裂いていきました。
アンリ2世の未亡人であり、若き国王シャルル9世の摂政として国政を担ったカトリーヌ=ド=メディシスは、この危機を乗り越えようと、両派の間に立ってバランスをとる融和政策を試みます。1562年1月、彼女はユグノーに限定的な信教の自由を認める「サン=ジェルマン勅令」を発布しました。これは、一つの国家の中に異なる信仰の存在を認めようとする、当時としては画期的な試みでした。しかし、この寛容への道は、双方の過激派によって無残にも閉ざされることになります。
ヴァシーの虐殺
1562年3月1日、日曜日。シャンパーニュ地方の小さな町ヴァシーで、一つの事件が起こりました。この事件そのものは、地方で起きた偶発的な衝突に過ぎなかったかもしれませんが、それは乾ききった草原に投げ込まれた一本の松明のように、フランス全土を焼き尽くす大火災の始まりとなりました。
カトリック派の巨頭であるギーズ公フランソワが、多数の武装した家臣を率いて自領へ向かう途中、このヴァシーの町を通りかかりました。その時、彼の耳に、町の一角にある大きな納屋から、賛美歌を歌う声が聞こえてきました。それは、サン=ジェルマン勅令に基づき、礼拝を行っていたユグノーたちの声でした。勅令では、城壁の外での礼拝は認められていましたが、ヴァシーのユグノーたちは城壁の内側で集会を開いていたのです。
ギーズ公とその家臣たちが、この集会を止めさせようとして納屋に近づいたことから、両者の間で口論が始まりました。緊張が高まる中、誰かが石を投げたのをきっかけに、事態は一気に暴力へと発展します。ギーズ公の家臣たちは剣を抜き、非武装のユグノーたちに襲いかかりました。納屋の中は、阿鼻叫喚の地獄と化しました。男も女も子供も、容赦なく斬りつけられ、銃で撃たれました。この虐殺で、50人以上が殺害され、100人以上が負傷したと言われています。
この「ヴァシーの虐殺」の報は、瞬く間にフランス中に広まりました。ユグノーたちにとって、これはカトリック側による計画的な攻撃であり、もはや王家が発布した勅令など何の役にも立たず、自分たちの信仰と生命は、自らの力で守るしかないことを示す、決定的な証拠でした。彼らの指導者であるコンデ公ルイは、武装蜂起を決意します。彼は、ユグノー貴族たちに檄を飛ばし、軍隊を組織して、ロワール川沿いの戦略的要衝であるオルレアンを占拠しました。
一方、カトリック側は、ギーズ公を異端から教会を守った英雄として称賛しました。ギーズ公は、国王シャルル9世と摂政カトリーヌ=ド=メディシスを事実上その保護下に置き、パリを掌握します。こうして、フランスは、コンデ公率いるユグノー軍と、ギーズ公=国王軍に代表されるカトリック軍という、二つの武装勢力が対峙する、紛れもない内戦状態へと突入したのです。カトリーヌ=ド=メディシスの融和政策は完全に破綻し、フランスはその後36年間にわたって続く、八度にも及ぶ内戦の泥沼にはまり込んでいくことになりました。
第一次から第三次戦争
ヴァシーの虐殺によって始まったユグノー戦争の最初の10年間は、激しい戦闘と、束の間の和平が交互に繰り返される、不安定な時期でした。この時期、三度にわたる大規模な戦争が繰り広げられ、双方の指導者が次々と戦場で命を落としていきました。
第一次戦争(1562年–1563年)
開戦直後、ユグノー軍は、その高い士気と優れた騎兵隊の機動力を活かし、フランス各地で蜂起、ノルマンディーからドーフィネに至る多くの都市を占拠しました。しかし、カトリック側も国王軍を中核とする強大な軍事力を有しており、戦況は一進一退となります。
この戦争の転換点となったのが、1562年12月のドルーの戦いです。これは、ユグノー戦争における最初の大規模な会戦でした。この戦いで、ユグノー軍は敗北し、その総大将であるコンデ公ルイが捕虜となってしまいます。しかし、カトリック側も無傷ではありませんでした。カトリック軍の三頭政治の一角であったサン=タンドレ元帥が戦死し、もう一人の指導者であるモンモランシー元帥もユグノー軍の捕虜となりました。
さらに翌1563年2月、ユグノーが占拠するオルレアンを包囲していたカトリック軍の総大将、ギーズ公フランソワが、ユグノーの貴族によって暗殺されるという事件が起こります。双方の主要な軍事指導者を失ったことで、和平への機運が高まりました。摂政カトリーヌ=ド=メディシスは、この機会を捉えて両者の調停に乗り出し、1563年3月、「アンボワーズの和議」が成立します。この和議は、ユグノー貴族には領地内での礼拝の自由を認めたものの、一般信徒の礼拝の自由は特定の都市に限定するなど、サン=ジェルマン勅令よりも後退した内容でした。多くのユグノー、特に指導者コリニー提督は、この和議に不満を抱きましたが、戦争の終結はやむを得ないものとして受け入れられました。
第二次戦争(1567年–1568年)
アンボワーズの和議による平和は、長続きしませんでした。ユグノーたちは、和議の条項が各地で遵守されず、自分たちの権利が侵害されていることに不満を募らせていました。また、カトリーヌ=ド=メディシスが、スペインのアルバ公と会見したことなどから、国際的なカトリック勢力がユグノーを根絶やしにしようとしているのではないか、という疑心暗鬼に駆られていました。
1567年9月、コンデ公とコリニー提督は、先手を打って国王シャルル9世をモーの町で捕らえ、宮廷からギーズ家の影響力を排除しようと企てます(モーの奇襲)。この計画は失敗に終わりましたが、国王への攻撃は反逆と見なされ、第二次戦争の引き金となりました。
この戦争で最も重要な戦いは、1567年11月のサン=ドニの戦いです。パリ近郊で行われたこの戦いで、ユグノー軍は数で勝るカトリック軍と激しく戦いましたが、決着はつきませんでした。しかし、この戦いでカトリック軍の総司令官であった老将アンヌ=ド=モンモランシーが戦死し、カトリック側は大きな打撃を受けました。指導者を失い、財政的にも困窮した双方は、再び和平交渉の席に着き、1568年3月、「ロンジュモーの和議」が結ばれます。この和議は、基本的にアンボワーズの和議の内容を再確認するものであり、根本的な解決には至りませんでした。
第三次戦争(1568年–1570年)
ロンジュモーの和議は、単なる休戦に過ぎませんでした。和平からわずか数ヶ月後、カトリーヌ=ド=メディシスは融和策を放棄し、強硬策に転じます。彼女は、ユグノーの指導者であるコンデ公とコリニー提督の逮捕を命令しました。身の危険を察知した二人は、かろうじて追っ手を逃れ、ユグノーの拠点である港湾都市ラ=ロシェルへと逃げ込みます。これをきっかけに、第三次戦争が勃発しました。
この戦争は、それまでで最も大規模で国際的な性格を帯びたものとなりました。ユグノー側には、ドイツのプファルツ選帝侯からの援軍が加わり、カトリック側には、スペイン、教皇領、トスカーナからの援軍が送られました。
1569年3月、ジャルナックの戦いで、ユグノー軍は手痛い敗北を喫します。この戦いで、ユグノーの総大将であったコンデ公ルイが捕虜となった直後に殺害されるという悲劇が起こりました。ユグノー軍は指導者を失い、壊滅の危機に瀕します。しかし、コリニー提督が残存兵力を巧みにまとめ上げ、さらにナバラ女王ジャンヌ=ダルブレが、その息子である若きアンリ=ド=ナヴァール(後のアンリ4世)をユグノー軍の新たな名目上の総大将として擁立したことで、ユグノーは士気を取り戻しました。
コリニー提督は、驚くべき粘り強さで軍を再建し、南フランスからロワール渓谷へと進軍、カトリック軍を脅かしました。双方ともに戦争の継続が困難となり、三度目の和平交渉が行われます。そして1570年8月、「サン=ジェルマンの和議」が締結されました。この和議は、ユグノーにとって大きな勝利でした。彼らは、広範な信教の自由を認められただけでなく、その安全を保障するため、ラ=ロシェル、モントーバン、コニャック、ラ=シャリテという四つの要塞都市を2年間保持する権利を与えられたのです。この和議は、ユグノーが単なる宗教団体ではなく、無視できない軍事=政治勢力であることを、王権に認めさせたことを意味していました。
サン=バルテルミの虐殺
サン=ジェルマンの和議は、10年近く続いた内戦に終止符を打ち、フランスに待望の平和をもたらすかに見えました。この和平を確固たるものにするため、摂政カトリーヌ=ド=メディシスは、一つの大きな賭けに出ます。それは、カトリック教徒である彼女の娘マルグリット=ド=ヴァロワと、ユグノーの若き指導者であるナバラ王アンリを結婚させるという、前代未聞の政略結婚でした。この宗派を超えた結婚は、長年の敵意を乗り越え、王国を和解させる象徴となるはずでした。
1572年8月18日、パリのノートルダム大聖堂の前で、二人の結婚式が華々しく執り行われました。この歴史的な出来事を祝うため、ナバラ王アンリに付き従い、フランス全土からコリニー提督をはじめとする数千人のユグノー貴族とその従者たちが、首都パリに集結していました。パリの街は、祝祭の雰囲気に包まれているように見えました。
しかし、その水面下では、危険な潮流が渦巻いていました。パリ市民の大多数は熱心なカトリック教徒であり、彼らにとって、異端者であるユグノーが、しかも武装して大挙して首都に滞在していること自体が、耐え難い侮辱でした。カトリック過激派の説教師たちは、この「不浄な」結婚を非難し、民衆の憎悪を煽っていました。
宮廷内でも、新たな緊張が生まれていました。ユグノーの指導者であるコリニー提督は、今や成年に達した国王シャルル9世の信頼を得て、大きな影響力を持つようになっていました。彼は、国王に対し、当時スペインの支配に対して反乱を起こしていたネーデルラントのプロテスタントを支援するため、カトリック国スペインと開戦するよう盛んに進言していました。この計画は、スペインとの戦争を何としても避けたいカトリーヌ=ド=メディシスの政策と真っ向から対立するものでした。カトリーヌは、コリニーが息子を危険な戦争へと引きずり込み、自らの政治的影響力を奪おうとしていると考え、彼を危険視し始めます。
結婚式から4日後の8月22日、事態を急変させる事件が起こります。コリニー提督がルーヴル宮殿から宿舎へ戻る途中、建物の中から何者かに銃で狙撃され、腕に重傷を負ったのです。暗殺は未遂に終わりましたが、このニュースはパリ中に衝撃を与えました。ユグノーたちは、これが宿敵であるギーズ家の仕業であると確信し、激しく憤慨しました。彼らは、国王に対し、犯人を裁かなければ自分たちの手で報復すると迫り、パリの空気は一触即発の状態となります。
国王シャルル9世と母カトリーヌは、パニックに陥りました。彼らは、ユグノーの報復が新たな内戦を引き起こし、王権そのものが転覆させられるかもしれないという恐怖に駆られました。追い詰められた彼らが、側近たちとの極秘会議の末に下した決断は、フランス史上最も暗く、血塗られた一頁を記すことになります。それは、ユグノーの指導者たちが一堂に会しているこの絶好の機会を捉え、彼らを先制攻撃によって皆殺しにし、ユグノーの力を根絶やしにしてしまおうという、恐るべき計画でした。
1572年8月24日の未明、聖バルテルミの祝日の鐘の音を合図に、虐殺が開始されました。まず、ギーズ公アンリに率いられた一団が、傷ついてベッドにいたコリニー提督の宿舎を襲撃し、彼を殺害、その遺体を窓から通りに投げ捨てました。これを皮切りに、王の衛兵とパリの民衆による、ユグノー狩りが始まったのです。ルーヴル宮殿内でも、結婚式のために招待されていたユグノー貴族たちが次々と殺害されました。ナバラ王アンリとコンデ公アンリは、カトリックへの改宗を強制されることで、かろうじて命を長らえました。
虐殺の狂気は、またたく間にパリ中に広がりました。カトリックの過激な説教師たちに煽られた民衆は、ユグノーと見なした人々を、男、女、子供の区別なく、手当たり次第に殺害し始めました。セーヌ川は、投げ込まれた死体で赤く染まったと言われています。この殺戮の嵐は数日間にわたって続き、さらにリヨン、オルレアン、ルーアン、トゥールーズといった地方都市にも飛び火しました。フランス全土で、この虐殺によって命を落としたユグノーの数は、控えめに見積もっても数千人、多い説では3万人にものぼるとされています。
この「サン=バルテルミの虐殺」は、ユグノー戦争の性格を決定的に変えました。和解の可能性は完全に断ち切られ、ユグノーたちは、ヴァロワ王家を、もはや信頼できない裏切り者、打倒すべき暴君と見なすようになります。彼らは、より強固に組織化され、南フランスに事実上の独立国家を形成し、徹底抗戦の構えを見せました。虐殺は、平和をもたらすどころか、フランスをさらに深く、絶望的な内戦の泥沼へと引きずり込んでいったのです。
マコンダとポリティーク
サン=バルテルミの虐殺は、ユグノーの抵抗の思想をより先鋭化させました。虐殺を生き延びたユグノーの思想家たちは、国王が神の法と民衆との契約に違反した場合、民衆はそれに抵抗し、さらにはその王を打倒する権利を持つとする、急進的な政治理論を展開し始めます。これらの理論家は「モナルコマキ(暴君放伐論者)」と呼ばれました。
フランソワ=オットマンは『フランコ=ガリア』(1573年)の中で、フランスの王権は歴史的に選挙によるものであり、絶対的なものではないと主張しました。また、テオドール=ド=ベーズの『臣民に対する為政者の権利について』(1574年)や、フィリップ=デュ=プレシ=モルネーの偽名で出版された『暴君に対する反抗の権利』(1579年)は、より直接的に、不正な君主に対する抵抗権、さらには殺害さえも正当化する理論を構築しました。これらの著作は、ユグノーの抵抗運動に強力な理論的支柱を与え、彼らの戦いを、単なる自衛行為から、圧政に対する正義の戦いへと昇華させました。ユグノーは、南フランスに独自の議会と税制、軍隊を持つ、事実上の連邦共和国を形成し、ヴァロワ王権からの独立を目指すようになります。
一方で、この果てしなく続く内戦と、それに伴う社会の混乱、そして宗教的狂信の行き過ぎにうんざりする人々も現れ始めました。彼らは、カトリック、ユグノーのどちらの過激派にも与せず、宗教的な教義の違いよりも、フランスという国家の平和と統一を最優先に考えるべきだと主張しました。この穏健派の人々は、敵対者から軽蔑的に「ポリティーク(政治家)」派と呼ばれました。
ポリティーク派には、大法官ミシェル=ド=ロピタル(彼はサン=バルテルミの虐殺以前に失脚)のような高級官僚や、法服貴族、そして一部の穏健なカトリック貴族が含まれていました。彼らは、国家の安定のためには、強力な王権が必要不可欠であると考えました。しかし、その王権は、特定の宗教宗派に偏るのではなく、全ての臣民の上に立つ、公平な調停者でなければならない、と主張しました。彼らは、宗教的統一を強制することは、かえって国家を破壊するだけであると看破し、国内に二つの宗教が共存することを認める、宗教的寛容こそが唯一の現実的な解決策であると考えたのです。
このポリティーク派の思想は、国王アンリ3世の弟であるアランソン公フランソワのような、自らの政治的野心のために宗派間の対立を利用しようとする大貴族にも影響を与えました。1576年、アランソン公はユグノーと手を組み、国王に対して反乱を起こします。この反乱には、多くの穏健派カトリック貴族も加わりました。追い詰められたアンリ3世は、ユグノーに対して大幅な譲歩を認める「ボーリュー勅令(ムッシューの和約)」を結ばざるを得ませんでした。
しかし、この寛容な勅令は、カトリック過激派の猛烈な反発を招き、ギーズ公アンリを指導者とする「カトリック同盟」の結成を促すことになります。カトリック同盟は、ポリティーク派の台頭と、ユグノーへのいかなる譲歩にも断固として反対し、フランスから異端を根絶することを誓いました。こうして、フランスの政治状況は、ユグノー、王党派(ポリティーク派に近い)、そしてカトリック同盟という、三つの勢力が鼎立する、さらに複雑な様相を呈していくことになったのです。
カトリック同盟と三アンリの戦い
ユグノー戦争の最終段階は、王位継承問題を巡る、極めて複雑で血なまぐさい権力闘争によって特徴づけられます。この対立の中心にあったのが、カトリックの信仰を守ることを旗印に掲げた、強力な政治=軍事組織「カトリック同盟」でした。
カトリック同盟の結成
カトリック同盟(あるいは聖なる同盟)は、1576年に、国王アンリ3世がユグノーに大幅な譲歩を与えたボーリュー勅令に反発した、カトリック過激派によって結成されました。その指導者となったのが、カリスマ的な魅力を持ち、民衆から絶大な人気を誇っていたギーズ公アンリでした。同盟は、フランス全土に広がるネットワークを持ち、特にパリでは圧倒的な支持を得ていました。彼らの目的は、フランスからプロテスタントの異端を根絶し、カトリックの信仰を守ること、そして、ギーズ家の政治的影響力を拡大することにありました。同盟は、カトリックの大国スペインの国王フェリペ2世から、潤沢な資金援助と軍事支援を受けており、国王アンリ3世の権威を公然と脅かす、国家内国家とも言うべき存在となっていきます。
王位継承危機
1584年、事態を決定的に動かす出来事が起こります。国王アンリ3世の最後の弟であり、王位継承者であったアランソン公フランソワが病死したのです。アンリ3世自身には子供がいなかったため、ヴァロワ家の直系男子の血筋は、彼の代で途絶えることが確実となりました。
フランスの王位継承法であるサリカ法によれば、次に王位を継承する権利を持つのは、ブルボン家の当主であるナバラ王アンリでした。しかし、彼はユグノーの指導者であり、プロテスタントでした。カトリック教徒が国民の大多数を占めるフランスで、プロテスタントの王が誕生するなど、カトリック同盟にとっては到底容認できることではありませんでした。同盟は、ナバラ王アンリの継承権を否定し、代わりに彼の叔父にあたるカトリックのブルボン枢機卿を、シャルル10世として対立王に擁立しました。
三アンリの戦い
この王位継承危機を背景に、ユグノー戦争は最終局面である「三アンリの戦い」へと突入します。この戦争は、正統な国王であるアンリ3世、カトリック同盟の指導者であるギーズ公アンリ、そして正統な王位継承者であるナバラ王アンリという、三人の「アンリ」が、それぞれの目的のために三つ巴の戦いを繰り広げたことから、その名で呼ばれています。
当初、国王アンリ3世は、カトリック同盟の強大な圧力に屈し、ナバラ王アンリの継承権を剥奪し、ユグノーの信仰を全面的に禁止する条約に署名させられました。これにより、ナバラ王アンリは、再びカトリック同盟および国王軍と戦うことを余儀なくされます。ナバラ王アンリは、優れた軍事的才能を発揮し、1587年のクートラの戦いで国王軍を破るなど、善戦しました。
一方、パリにおけるギーズ公アンリの人気は絶頂に達していました。1588年5月、アンリ3世がギーズ公の影響力を削ごうとしてパリに軍隊を導入しようとしたところ、これに反発したパリ市民が蜂起し、市内にバリケードを築いて国王軍に抵抗します(バリケードの日)。身の危険を感じたアンリ3世は、パリからの脱出を余儀なくされ、ギーズ公がパリの事実上の支配者となりました。
国王としての権威を完全に失墜させられたアンリ3世は、この屈辱的な状況を打開するため、非情な決断を下します。同年12月、彼はブロワの城にギーズ公アンリとその弟を呼び出し、だまし討ちにかけて暗殺してしまいました。
この暗殺は、しかし、事態を収拾するどころか、火に油を注ぐ結果となりました。ギーズ公の死に激怒したカトリック同盟は、アンリ3世を暴君として公然と非難し、その廃位を宣言します。完全に孤立無援となったアンリ3世に残された道は、一つしかありませんでした。それは、皮肉にも、長年の宿敵であったナバラ王アンリと手を結ぶことでした。
1589年、国王アンリ3世とナバラ王アンリは同盟を結び、連合軍を率いて、カトリック同盟が支配するパリへと進軍します。パリの陥落は目前かと思われました。しかしその矢先、8月1日、アンリ3世が、カトリック同盟の刺客である狂信的な修道士によって暗殺されるという、衝撃的な事件が起こります。
アンリ4世とナントの王令
国王アンリ3世の暗殺によって、261年続いたヴァロワ朝は断絶しました。死の床で、アンリ3世は、ナバラ王アンリを正統な後継者として指名し、彼に忠誠を誓うよう廷臣たちに命じました。こうして、ユグノーの指導者であったナバラ王アンリが、アンリ4世としてフランス国王に即位し、ブルボン朝が始まることになります。
しかし、彼の即位は、戦争の終わりを意味しませんでした。プロテスタントの王が、カトリックが大多数を占めるフランス、特にカトリック同盟が強固に支配するパリに、すんなりと受け入れられるはずがなかったのです。カトリック同盟は、アンリ4世の即位を認めず、ブルボン枢機卿をシャルル10世として国王に推戴し、スペインの強力な軍事支援を受けて、アンリ4世に対する戦争を継続しました。
アンリ4世は、その後4年以上にわたり、フランスの統一をかけて、カトリック同盟とその背後にいるスペイン軍との困難な戦いを続けなければなりませんでした。彼は、1589年のアルクの戦いや、1590年のイヴリーの戦いなどで、優れた軍事的才能を発揮し、数で勝る敵軍を次々と打ち破りました。イヴリーの戦いの前、彼は部下たちに「もし汝らが軍旗を見失ったら、我が白い羽飾りのもとに集まれ。汝らは常に、名誉と勝利への道の上にそれを見出すであろう」と語りかけたという逸話は、彼のカリスマ性を示すものとして有名です。
しかし、軍事的な勝利だけでは、パリを、そしてフランス国民の心をつかむことはできませんでした。パリは、アンリ4世による包囲で飢餓に苦しみながらも、頑強に抵抗を続けました。アンリ4世は、この状況を打開するためには、もはや軍事力だけでは不十分であり、根本的な解決が必要であることを痛感します。彼は、フランス王国の平和と統一という、より大きな目的のために、個人的な信仰を犠牲にするという、重大な政治的決断を下すのです。
1593年7月25日、アンリ4世は、パリ郊外のサン=ドニ大聖堂で、荘厳な儀式をもってカトリックへと改宗しました。この決断に際して、彼が「パリはミサを執り行う価値がある」と言ったとされる言葉は、彼の現実主義的な政治判断を象徴するものとして、後世に語り継がれています。
この改宗は、劇的な効果をもたらしました。フランス国民の大多数は、国王がカトリック信仰に復帰したことを歓迎し、彼を正統な君主として受け入れるようになりました。カトリック同盟の抵抗の根拠は失われ、指導者たちは次々とアンリ4世に帰順していきました。1594年3月、アンリ4世は、ついにパリ市民の熱狂的な歓迎を受けながら、無血で首都に入城を果たしました。
その後も、スペインとの戦争は続きましたが、1598年5月、ヴェルヴァンの和約が結ばれ、スペインもアンリ4世をフランス国王として正式に承認しました。これにより、半世紀近くにわたってフランスを分裂させ、荒廃させたユグノー戦争は、ついに名実ともに終結したのです。
戦争を終結させたアンリ4世は、王国の再建という、さらに大きな課題に取り組みます。その第一歩として、彼は、長年にわたって自分を支え、共に戦ってきたユグノーたちの処遇を決定する必要がありました。彼のカトリックへの改宗は、多くのユグノーに裏切りと映り、彼らの間には不信感が渦巻いていました。
アンリ4世は、彼らの不安を解消し、その権利を法的に保障するため、1598年4月13日、「ナントの王令」を発布しました。この勅令は、カトリックをフランスの国教と定めつつも、ユグノーに対して、これまでのどの和平令よりも広範で恒久的な権利を認めました。ユグノーには、良心の自由、限定された地域での礼拝の自由、そしてカトリック教徒と完全に同等の市民権が保障されました。さらに、彼らの安全を確保するため、ラ=ロシェルなどの要塞都市を保持することも許可されました。
ナントの王令は、一つの国家の中に、異なる宗教を信仰する共同体が法の下で共存することを認めた、当時としては画期的なものでした。それは、宗教的熱狂がもたらした悲劇の末に、フランスがようやくたどり着いた、寛容と共存という理念の表明でした。ユグノー戦争は、数え切れないほどの犠牲と破壊をもたらしましたが、その苦難の中から、フランスは、絶対王政の下での強力な中央集権国家として、そして宗教的寛容を(一時的にではあれ)受け入れた近代国家として、生まれ変わることになったのです。
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- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























