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ボダンとは わかりやすい世界史用語2652 |
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著作名:
ピアソラ
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ボダンとは
ボダンは、16世紀フランスの法学者、経済思想家、そして政治哲学者であり、その知的探求はルネサンスから近世へと移行する時代の混沌と革新を映し出す鏡のような存在です。彼の名は、何よりもまず「主権」という近代国家の根幹をなす概念を理論的に定式化したことで、政治思想史に不滅の足跡を刻んでいます。しかし、彼の思想の射程はそれにとどまらず、歴史学の方法論、比較法学、インフレーションに関する先駆的な経済分析、さらには魔術や悪魔学といった、一見すると相容れない広範な領域にまで及んでいました。宗教改革の嵐が吹き荒れ、フランスがユグノー戦争という深刻な内戦に引き裂かれた激動の時代を生きたボダンの生涯と著作は、秩序の回復を渇望し、新たな時代の知の枠組みを模索した一人の知識人の苦闘の軌跡そのものです。
若き日の形成期
ボダンの前半生は、その後の彼の知的活動の多様性を予感させるように、謎と憶測のベールに包まれた部分が多く残されています。彼が歴史の舞台に明確な姿を現すのは、1560年代にパリで法曹家として活動を始めてからであり、それ以前の経歴については、断片的な記録や後世の研究から推測するほかありません。
アンジェでの誕生とカルメル会での修道生活
ボダンは、1529年か1530年に、フランス西部のアンジュー地方の中心都市アンジェで生まれました。彼の家系は、裕福な職人階級に属していたと考えられています。父ギヨーム・ボダンは仕立物師の親方であり、母カトリーヌ・デュテイユは比較的恵まれた家柄の出身であったようです。このブルジョワ階級の出自は、ボダンが生涯を通じて貴族階級に対してある種の批判的な視点を持ち続け、また、商業や経済の問題に深い関心を寄せる素地となった可能性があります。
ボダンの少年時代に関する最も興味深く、そして最も議論の的となるのが、彼が若くしてカルメル会の修道院に入ったという経歴です。アンジェのカルメル会修道院で、彼は初期の教育を受けたとされています。当時の修道院は、神学だけでなく、古典語(ラテン語、ギリシャ語)や人文学を学ぶための重要な教育機関でした。ボダンがここで培ったであろう古典文献への深い造詣は、彼の後の著作の至る所に見られる博覧強記な引用スタイルに明確に表れています。
しかし、この修道生活は平穏なものではありませんでした。16世紀のフランスは、宗教改革の波が押し寄せ、カトリック教会内部でも改革の気運と異端への警戒が渦巻いていました。1547年から1548年にかけて、ボダンはパリのカルメル会修道院に派遣されますが、この時期に彼は異端の嫌疑をかけられるという深刻な事態に直面します。彼が具体的にどのような「異端」思想に関わったのかは定かではありません。一部の研究者は、当時パリで活動していた異端的な思想家たちの影響を受けた可能性を指摘しています。この事件は、最終的にボダンが修道請願の無効を宣言し、カルメル会を離れて俗世に戻るという形で決着しました。この若き日の挫折と宗教的権威との衝突は、彼の後の思想、特に宗教的寛容をめぐる思索に、複雑な影を落としたのかもしれません。
トゥールーズ大学での法学研究
カルメル会を去ったボダンが次に向かったのは、南フランスの学問の中心地、トゥールーズでした。1550年代、彼はトゥールーズ大学で法学を学び、また教鞭も執ったとされています。トゥールーズ大学は、当時、ローマ法の研究で名高く、フランス・ルネサンスの法的人文主義(モース・ガリクス)の拠点の一つでした。
法的人文主義者たちは、中世の註釈学派(モース・イタリクス)がローマ法を普遍的で時代を超えた法典として解釈したのに対し、ローマ法を特定の歴史的文脈、すなわち古代ローマ社会の産物として理解しようと試みました。彼らは、文献学的な手法を用いてローマ法の原文を厳密に読解し、その歴史的背景を探求しました。このアプローチは、法を歴史的・社会的な現象として捉える視点を育み、比較法学的な研究へと道を開くものでした。
ボダンは、このトゥールーズでの経験を通じて、法的人文主義の洗礼を深く受けました。彼は、法を単なる条文の集積としてではなく、それぞれの民族の歴史、地理、気候、気質といった諸条件によって形成される文化的な産物として捉える視点を獲得します。この歴史主義的かつ比較的な法学研究の方法論は、彼の後の二つの主要な著作、『歴史認識の方法』と『国家論』の根幹をなすことになります。
トゥールーズ時代、ボダンは法学教育の改革にも情熱を燃やしたようです。彼は、人文主義的な教養と法学を統合した新しい教育機関をトゥールーズに設立しようと計画しましたが、この試みは市の当局の支持を得られず、失敗に終わりました。この二度目の挫折は、彼に学問の世界でのキャリアを諦めさせ、より実践的な道を歩ませるきっかけとなったのかもしれません。1561年頃、ボダンはトゥールーズを去り、フランスの政治と司法の中心であるパリへと向かいます。
パリでの法曹家時代と初期の著作
1560年代のパリは、ボダンにとって新たなキャリアの出発点であると同時に、彼の思想が成熟し、最初の重要な著作が生まれる舞台となりました。彼はパリ高等法院(パルルマン)の法廷弁護士として登録され、法曹家としての実務経験を積む一方で、旺盛な執筆活動を開始します。
『歴史認識の方法』
1566年、ボダンは彼の名を一躍ヨーロッパの学界に知らしめることになる大著、『歴史認識の方法』を出版しました。この著作は、単なる歴史学の入門書ではなく、歴史、法、政治、地理、そして神学を統合しようとする、壮大な知的野心に満ちた作品です。
この著作でボダンが試みたのは、歴史を「普遍法」の宝庫として捉え、そこから人間社会に関する普遍的な法則や原理を引き出すための方法論を確立することでした。彼は、トゥールーズで学んだ法的人文主義のアプローチをさらに発展させ、あらゆる民族の歴史と法制度を比較検討することの重要性を説きました。彼にとって、歴史とは単なる過去の出来事の記録ではなく、神の摂理が展開される壮大なドラマであり、また、国家の盛衰や法の変遷を理解するための実践的な知識の源泉でした。
『歴史認識の方法』の中心的なテーマの一つは、「普遍史」の構想です。ボダンは、従来の歴史叙述が特定の国家や民族の歴史に偏りがちであることを批判し、全人類の歴史を一つの統合された視野のもとで捉える必要性を主張しました。この普遍史の探求のために、彼は地理的要因の重要性を強調します。彼は、気候が人間の気質や身体的特徴、ひいては政治制度や法に大きな影響を与えるという「気候論」を体系的に展開しました。北方の民族は精力的で軍事には向くが知性に欠け、南方の民族は知的で思索的だが怠惰であるとし、その中間に位置する温帯の民族(フランス人を含む)が、両者の長所を兼ね備え、最も優れた政治体制を築くのに適していると論じました。この気候論は、後のモンテスキューの『法の精神』に先駆けるものであり、社会現象を自然環境と関連づけて説明しようとする試みとして注目されます。
さらにボダンは、この著作の中で、後の『国家論』で展開される主権論の萌芽となる議論を展開しています。彼は、国家を定義し、その統治形態を君主政、貴族政、民主政に分類しました。そして、歴史上の様々な国家の事例を比較検討しながら、それぞれの政体の長所と短所を分析しました。この時点で、彼はすでに、安定した統治のためには、分割されざる単一の最高権力が必要であるという考えに至っていたようです。
『歴史認識の方法』は、その博覧強記ぶりと野心的な構想によって、当時の知識人たちに大きな影響を与えました。それは、歴史を単なる物語から、社会を科学的に分析するための学問へと高めようとする試みであり、近代的な歴史学および社会科学の成立に向けた重要な一歩と評価されています。
『価格騰貴への応答』
ボダンの知的関心は、歴史や法学にとどまりませんでした。1568年、彼は『マルフェストロワ氏のパラドックスへの応答』という小冊子を出版します。これは、16世紀ヨーロッパが経験していた深刻な価格革命(インフレーション)の原因を分析した、経済思想史上、画期的な著作です。
当時、フランスでは物価の持続的な上昇が深刻な社会問題となっていました。王室の会計検査官であったマルフェストロワ氏は、この価格上昇の原因を、貨幣の品質改悪(含有される貴金属の量を減らすこと)に求め、物価が名目的に上昇しているだけで、実質的な価値は変わっていないと主張しました。
これに対し、ボダンは鋭い反論を展開します。彼は、貨幣の品質改悪も一因ではあるが、価格上昇のより根本的な原因は、アメリカ大陸から流入する金銀の量の増大にあると喝破しました。彼は、商品の価格は、その需要と供給だけでなく、貨幣そのものの量によっても決まるという、貨幣数量説の基本的な考え方を明確に提示したのです。すなわち、市場に出回る貨幣(金銀)の量が増えれば、貨幣の価値は下がり、相対的に商品の価格は上昇するという論理です。
ボダンは、この主要因に加えて、独占、奢侈、輸出による商品の希少化、そして君主による貨幣の品質改悪といった他の要因も複合的に分析し、価格現象に対する多角的な視点を提供しました。彼の分析は、単なる理論的な考察にとどまらず、具体的なデータや観察に基づいており、近代的な経済分析の先駆けと見なされています。この著作により、ボダンは、ニコラウス・コペルニクスやスペインのサラマンカ学派の学者たちと並んで、貨幣数量説の初期の提唱者の一人として、経済学の歴史にその名を刻むことになりました。
宗教内戦の渦中で
1560年代から1570年代にかけて、ボダンの個人的なキャリアは順調に進展していましたが、彼が生きたフランス社会は、ユグノー戦争として知られる深刻な宗教内戦の泥沼にはまり込んでいました。カトリックとプロテスタント(ユグノー)の間の対立は、単なる宗教的な教義の争いにとどまらず、貴族間の派閥抗争や外国勢力の介入とも絡み合い、フランス王国を分裂と崩壊の危機に陥れていました。この時代の経験は、ボダンの政治思想に決定的な影響を与え、秩序の回復と国家の統一を至上の課題として追求させることになります。
サン・バルテルミの虐殺とポリティーク派
1572年8月24日、フランスの歴史上、最も暗い一日として記憶されるサン・バルテルミの虐殺が起こります。カトリックとユグノーの和解の象徴として行われた、ユグノーの指導者アンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ4世)と国王シャルル9世の妹マルグリット・ド・ヴァロワの結婚式の直後、パリで数千人ものユグノーが計画的に殺害され、虐殺の波は地方にも広がりました。
この事件は、宗派間の憎悪がいかに破壊的な結果をもたらすかを白日の下に晒し、多くの穏健な思想家たちに衝撃を与えました。ボダンもまた、この虐殺の夜、パリに滞在しており、危うく難を逃れたと伝えられています。この恐るべき体験は、彼に宗教的狂信の危険性を痛感させ、宗派間の対立を超越した強力な国家的権威の必要性を確信させたに違いありません。
サン・バルテルミの虐殺を契機として、フランスの政治思想界に新たな潮流が生まれます。それが「ポリティーク派」と呼ばれる人々です。彼らは、カトリック、ユグノーのいずれの陣営にも属さず、宗教的な統一よりも国家の統一と平和を優先させるべきだと主張しました。彼らにとって、最も重要なのは、内戦を終結させ、法と秩序を回復することであり、そのためには、国王が宗派を超えた絶対的な権威を持つ主権者として君臨し、国内のすべての党派をその下に服従させる必要があると考えました。ポリティーク派は、特定の組織化された政党ではありませんでしたが、ボダンをはじめ、大法官ミシェル・ド・ロピタルなど、多くの穏健なカトリックの法曹家や官僚たちが、この思想を共有していました。ボダンの主権論は、まさにこのポリティーク派の政治的プログラムに、堅固な理論的基礎を与えるものとして構想されたのです。
アランソン公フランソワの側近として
1570年代、ボダンは国王アンリ3世の末弟であり、王位継承権を持つアランソン公フランソワ(後にはアンジュー公)の宮廷に出入りするようになります。アランソン公は、野心的で気まぐれな人物でしたが、一時はユグノーや穏健カトリック教徒と結び、兄であるアンリ3世の宮廷や、強硬なカトリック派であるギーズ公の勢力に対抗しようとしました。彼は、ポリティーク派の理想とする、宗派を超えた調停者としての役割を演じようとしたのです。
ボダンは、アランソン公の法律顧問として、また請願長官として仕え、その政治活動に深く関与しました。この立場は、彼に宮廷政治の現実を間近で観察する機会を与えました。1581年には、アランソン公がイングランド女王エリザベス1世との縁談を進めるための使節団の一員として、イングランドへ渡っています。この旅行中、ボダンはイングランドの政治制度や社会を観察し、ケンブリッジ大学などで講義を行ったとされています。彼のイングランドに対する評価は必ずしも高いものではありませんでしたが、この経験は、彼の比較法学的な視野をさらに広げる上で有益であったと考えられます。
しかし、アランソン公との関係は、ボダンに危険をもたらすことにもなりました。アランソン公の政治的策動はしばしば国王アンリ3世の不興を買い、ボダンもまた、その側近として国王の疑惑の目に晒されることがありました。結局、アランソン公の政治的野心は実を結ぶことなく、彼は1584年に病死します。庇護者を失ったボダンは、宮廷でのキャリアを断念し、地方都市ランへと退くことを余儀なくされました。
主著『国家論』の成立
アランソン公に仕え、宗教内戦の政治的現実に深く関与していた1576年、ボダンは彼の名を不朽のものとする主著、『国家論六編』(通称『国家論』)を出版しました。この著作は、サン・バルテルミの虐殺後の深刻な政治的危機に対する直接的な応答であり、分裂したフランスを再統一するための理論的処方箋でした。ボダンは、マキャヴェッリが君主の権力獲得と維持の術策を説いたのに対し、国家そのものの法的・哲学的基礎を問い直し、秩序ある統治の永続的な原理を確立しようと試みました。
『国家論』の目的と構成
『国家論』の序文で、ボダンは執筆の動機を明確に述べています。彼は、サン・バルテルミの虐殺以降、ユグノー派の著述家たち(モナルコマキ=暴君放伐論者)が、国王の権力は人民に由来し、人民は暴君に抵抗し、これを放伐する権利を持つと主張していることを激しく批判します。ボダンによれば、このような議論は国家の基盤を破壊し、無政府状態を招くだけの危険な思想でした。彼は、これらの理論に対抗し、国家の安定と秩序を保証するための揺るぎない原理として、「主権」の理論を提示する必要性を痛感していたのです。
『国家論』は、その名の通り6つの編から構成されています。
第一編:国家の最終目的、家族の統治、そして主権の定義。
第二編:君主政、貴族政、民主政という三つの国家形態(政体)の分析。
第三編:元老院、官職、団体などの国家の構成部分について。
第四編:国家の誕生、成長、最盛期、衰退、そして崩壊のサイクルについて。
第五編:気候論の再展開と、国家の政策を地理的条件に適応させる方法。
第六編:国制(統治形態)の比較、国家財政、そして正義論。
この壮大な構成は、ボダンが国家をあらゆる側面から体系的に論じようとしたことを示しています。彼は、古代ギリシャの哲学者(プラトン、アリストテレス)から、ローマの法学者、中世の神学者、そして同時代の歴史家や法学者まで、古今東西の膨大な文献を渉猟し、その知識を駆使して自らの理論を構築しました。
主権の理論
『国家論』の核心をなすのが、第一編で展開される「主権」の理論です。ボダンは、国家を「多数の家族と、それらの家族に共通の事柄とを、主権的権力によって正しく統治すること」と定義しました。この定義において、決定的に重要なのが「主権的権力」という概念です。
ボダンによれば、主権とは「国家における絶対的かつ永続的な権力」です。彼は、この主権の属性を以下のように説明しました。
永続的:主権は、特定の統治者の死や交代によって消滅するものではありません。それは、国家そのものに内在する永続的な権力です。君主や為政者は、主権を一時的に行使する者に過ぎず、主権そのものを所有しているわけではありません。
絶対的:主権的権力は、法によって拘束されません。「主権者はいかなる法にも拘束されない」というローマ法の原則を引用し、ボダンは、主権者自身が法を制定する者である以上、その法に縛られることはないと論じました。主権者は、既存の法を自らの意思で変更し、廃止することができます。また、主権者は、国内のいかなる個人や団体の権力にも優越し、それらに対して命令を下すことができます。
不可分:主権は、分割することができません。ボダンは、アリストテレス以来の混合政体論(君主政、貴族政、民主政の要素を組み合わせた政体が最善であるとする理論)を明確に否定しました。彼によれば、主権は単一の個人(君主政)、少数の集団(貴族政)、あるいは人民の多数(民主政)のいずれかに帰属しなければならず、それを分割することは、国家内に複数の最高権力を生み出し、必然的に対立と内乱につながると考えました。
ボダンは、この主権の最も重要な権能(標識)として、「すべての人民一般に対し、また各人に対し、彼らの同意なしに、法を与える権能」を挙げました。立法権こそが、主権の核心であり、宣戦講和、最高裁判権、官吏の任免権、恩赦権、貨幣鋳造権といった他のすべての権能は、この根本的な立法権から派生するものだと考えたのです。
主権の限界
しかし、ボダンの言う「絶対的」な主権は、現代的な意味での全体主義や無制限の専制を意味するものではありませんでした。彼は、主権者がいかに絶対的であっても、従わなければならないいくつかの根本的な限界が存在すると考えました。
第一の限界は、「神の法」と「自然法」です。ボダンは敬虔なキリスト教徒であり、地上のいかなる権力も、神が定めた普遍的な道徳律や、理性的存在である人間に生まれながらに備わっている自然法に反することはできないと信じていました。主権者は、正義や公正といった自然法の原則を尊重する義務を負っています。
第二の限界は、私有財産権です。ボダンは、家族を国家の基本的な単位と考え、財産の所有は家族に固有の権利であるとしました。主権者は、公共の利益のために必要な場合を除き、臣民の財産を恣意的に奪うことはできません。課税を行う際には、原則として臣民の同意(三部会などの身分制議会を通じて)を得る必要があると考えました。この点で、彼の主権論は、後のジョン・ロックの思想にも通じる要素を含んでいます。
第三の限界は、「王国の基本法」です。これは、フランス王国の国体そのものを規定する、憲法的な性格を持つ不文律のことです。具体的には、王位継承を男系男子に限定するサリカ法や、国王が王領を譲渡することを禁じる王領不可侵の原則などが含まれます。主権者である国王自身も、この王国の基本法を変更することはできず、それに従わなければなりません。
このように、ボダンの主権論は、一方では内戦を収拾するために、国王に法を超越した絶対的な権力を与えようとしながらも、他方では神法、自然法、財産権、そして王国の基本法によって、その権力に一定の枠をはめようとする、二重の性格を持っていました。それは、中世的な法の支配の理念と、近代的な国家理性の要求との間に、一つの理論的均衡点を見出そうとする試みであったと言えます。
政体論と国制論
ボダンは、主権の所在によって国家の形態(政体)を君主政、貴族政、民主政の三つに分類しました。そして、彼は、これらのうち君主政、とりわけフランスのような世襲君主政が最も安定し、優れた政体であると結論付けました。なぜなら、単一の個人に主権が帰属する君主政こそ、主権の不可分性という本質に最も合致しており、迅速な意思決定と強力なリーダーシップを可能にするからです。
しかし、ボダンは「政体」と「国制」を区別するという、独創的な議論を展開します。政体が主権の所在に関する理論的な問題であるのに対し、国制は、その主権が実際にどのように行使されるかという、統治の具体的な方法に関する問題です。
例えば、政体は君主政であっても、国王が統治を行う際に、貴族や民衆の意見を広く聞いたり、彼らを官職に登用したりすることで、その国制は貴族政的あるいは民主政的な要素を持つことができます。ボダンが理想としたのは、政体としては主権が単一の君主にある「王政君主政」であり、かつ、その国制においては、貴族にも平民にもそれぞれの能力に応じて官職や名誉が与えられ、調和が保たれている「調和的統治」でした。これは、主権の絶対性を維持しつつも、社会の様々な階層を統治に参加させることで、国家の安定を図ろうとする、現実的な政治的知恵の表れでした。
『国家論』は、その体系性と理論的明晰さによって、出版後すぐにヨーロッパ中で大きな反響を呼び、ラテン語をはじめ各国語に翻訳されました。それは、近代国家の理論的基礎を築いた記念碑的な著作として、ホッブズの『リヴァイアサン』やロックの『統治二論』、ルソーの『社会契約論』へと至る、近代政治思想の主要な流れを切り開くことになったのです。
ランでの晩年と最期の著作
宮廷でのキャリアを終えたボダンは、1584年頃から、フランス北東部の都市ランで生活の拠点を構えました。彼は、国王の検事という要職に就き、地方の行政と司法に携わりました。しかし、彼の晩年は、決して平穏なものではありませんでした。フランスの内戦は、アンリ3世の暗殺(1589年)と、プロテスタントであるアンリ・ド・ナヴァール(アンリ4世)の王位継承によって、新たな、そして最も激しい局面を迎えていたのです。
カトリック同盟の嵐
ランの街は、プロテスタントの王を認めない強硬なカトリック同盟(リーグ)の強力な拠点でした。国王の役人であるボダンは、極めて困難な立場に立たされます。彼は、ポリティーク派として、また『国家論』の著者として、王国の法に従い、正統な王位継承者であるアンリ4世を支持すべきだと考えていました。しかし、カトリック同盟の力が支配するランの街で、その立場を公然と表明することは、自らの生命を危険に晒すことを意味しました。
1589年、ボダンは、カトリック同盟の圧力に屈し、同盟への忠誠を誓うことを余儀なくされたと伝えられています。この行動は、彼の生涯における大きな汚点として、また、彼の理論と実践の間の苦悩に満ちた乖離を示すものとして、後世の多くの研究者によって議論されてきました。彼は、自らが理論化したはずの、法を超越した主権者の権威が、宗教的狂信と暴力的な現実の前ではいかに無力であるかを、身をもって体験したのです。
しかし、ボダンは完全に沈黙していたわけではありません。彼は、ランの市民たちに対して、内戦の悲惨さと、平和と秩序を回復するためにはアンリ4世を受け入れるしかないことを、粘り強く説き続けたと言われています。1594年、アンリ4世がカトリックに改宗し、パリに入城してその王権を確立すると、ランの街もついに国王に降伏しました。ボダンは、この和平の実現に、水面下で重要な役割を果たしたと考えられています。
悪魔学研究
晩年のボダンを理解する上で、避けて通れないのが、彼のもう一つの顔、すなわち悪魔学研究家としての一面です。1580年、彼は『魔女の悪魔狂』という、異色の著作を出版しています。この本は、当時のヨーロッパで広く信じられていた魔女や悪魔の存在を証明し、魔女狩りの必要性を訴えるという、現代の我々から見れば極めて非合理的で残酷な内容を含んでいます。
『国家論』で示されたような理性的で体系的な思考と、この悪魔学への傾倒は、どのように両立するのでしょうか。この問いは、ボダン研究における長年の謎の一つです。
一つの解釈は、これをボダンの思想の矛盾としてではなく、16世紀という時代の知の枠組みの中で理解しようとするものです。当時の人々にとって、神の存在が自明であったのと同様に、悪魔や霊的な世界の存在もまた、疑いようのない現実でした。ボダンにとって、魔女は神の秩序を破壊し、国家に混乱をもたらす悪魔の手先であり、彼らを放置することは、神の法と国家の法に対する重大な違反でした。彼は、裁判官としての経験から、魔術の存在を確信し、それを法的に裁くための手続きを確立することが、社会の秩序を維持するために不可欠だと考えたのです。彼は、『魔女の悪魔狂』の中で、証拠の集め方や拷問の使用、判決の基準などについて、驚くほど詳細な議論を展開しています。それは、彼の法学者としての思考様式が、悪魔学という対象に向けられた結果であったと見ることもできます。
また、別の解釈では、ボダンの悪魔学への関心は、彼の宇宙論や神学と深く結びついていると指摘されます。彼は、宇宙を、神を頂点とする霊的な存在の階層(ヒエラルキー)として捉えており、人間と神の間には、天使や悪魔といった様々な霊的存在が介在していると考えていました。魔術は、この宇宙の秩序を乱し、悪魔と結びつくことで超自然的な力を得ようとする危険な行為であり、それを根絶することは、宇宙的な秩序の回復にもつながる、というわけです。
いずれにせよ、『魔女の悪魔狂』は、ボダンの思想の複雑さと、ルネサンス期の知識人が、合理的な思考と、我々が今日「前近代的」と見なすような世界観とを、いかに分かちがたく併せ持っていたかを示す、格好の事例と言えるでしょう。
最後の著作
1596年、ボダンはペストによってその波乱に満ちた生涯を閉じました。彼の死後、一つの謎めいた草稿が残されました。それは、『賢者の秘密についての七つの部分からなる対話』と題された、ラテン語の対話篇です。この著作は、その内容のあまりの大胆さから、ボダンの存命中には決して出版されることはなく、19世紀半ばまで写本としてひそかに流布するにとどまりました。
この対話篇は、ヴェネツィアのある邸宅に、七人の異なる宗教的・哲学的立場を持つ賢者が集い、真の宗教とは何か、そして神の本質とは何かについて、自由な対話を繰り広げるという設定になっています。登場するのは、カトリック、ルター派、カルヴァン派のキリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、自然神論者(特定の啓示宗教を信じず、理性をとして神を認識しようとする者)、そして懐疑論者です。
対話の中で、彼らはそれぞれの教義を擁護し、互いの教義を批判しますが、誰か一人が他の全員を論破するという結論には至りません。むしろ、対話を通じて浮かび上がってくるのは、特定の教義や儀式の背後にある、より普遍的な倫理や、唯一の神への信仰です。対話の終わりで、彼らは、互いの違いを認めつつも、共に音楽を奏で、調和のうちに暮らすことを選びます。
この著作は、ボダンが最終的に到達した宗教的寛容の思想を最も明確に示しています。彼は、国家の秩序のためには単一の公的宗教が必要だと考えつつも、個人の内面的な信仰のレベルでは、多様な道があり得ることを認めていたようです。彼は、どの啓示宗教も、唯一の真理の一側面を捉えたものに過ぎず、その核心にあるのは、自然法に基づいた道徳的な生き方であると考えていたのかもしれません。この思想は、公の場では決して表明できない、ボダンの最も内密な信条の告白であったと言えるでしょう。若き日に異端の嫌疑をかけられ、宗教内戦の狂信を目の当たりにし、そして晩年にはカトリック同盟の圧力に苦しんだボダンが、その知的遍歴の最後にたどり着いたのは、宗派間の対立を超越した、ある種の普遍主義的な自然宗教の境地だったのです。
ボダンの歴史的遺産
ボダンの生涯は、16世紀という激動の時代そのものを体現しています。彼は、法曹家、政治顧問、歴史家、経済学者、そして悪魔学者と、驚くほど多様な顔を持つ知識人でした。彼の思想は、一見すると矛盾に満ちているように見えます。主権の絶対性を説きながらその限界を論じ、合理的な経済分析を行いながら魔女の存在を固く信じ、公的にはカトリック教徒でありながら私的には大胆な宗教的寛容論を書き記しました。
しかし、この多様性と矛盾の背後には、一貫した探求の動機を見出すことができます。それは、宗教戦争によって引き裂かれた世界に、新たな秩序と安定の原理を見出そうとする、切実な願いです。彼が『国家論』で定式化した主権の理論は、宗派間の対立を超越した、世俗的な国家権力の優位性を確立しようとする試みであり、近代国家の理論的礎石となりました。彼の歴史学や法学における比較的なアプローチは、社会現象を客観的に分析しようとする近代社会科学の精神を先取りするものでした。そして、彼の経済思想は、近代経済学の重要な一分野の基礎を築きました。
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- ヨーロッパの拡大と大西洋世界
- 大航海時代
- ルネサンス
- 宗教改革
- 主権国家体制の成立
- 重商主義と啓蒙専制主義
- ヨーロッパ諸国の海外進出
- 17~18世紀のヨーロッパ文化
- ヨーロッパ・アメリカの変革と国民形成
- イギリス革命
- 産業革命
- アメリカ独立革命
- フランス革命
- ウィーン体制
- ヨーロッパの再編(クリミア戦争以後の対立と再編)
- アメリカ合衆国の発展
- 19世紀欧米の文化
- 世界市場の形成とアジア諸国
- ヨーロッパ諸国の植民地化の動き
- オスマン帝国
- 清朝
- ムガル帝国
- 東南アジアの植民地化
- 東アジアの対応
- 帝国主義と世界の変容
- 帝国主義と列強の展開
- 世界分割と列強対立
- アジア諸国の改革と民族運動(辛亥革命、インド、東南アジア、西アジアにおける民族運動)
- 二つの大戦と世界
- 第一次世界大戦とロシア革命
- ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
- アジア・アフリカ民族主義の進展
- 世界恐慌とファシズム諸国の侵略
- 第二次世界大戦
- 米ソ冷戦と第三勢力
- 東西対立の始まりとアジア諸地域の自立
- 冷戦構造と日本・ヨーロッパの復興
- 第三世界の自立と危機
- 米・ソ両大国の動揺と国際経済の危機
- 冷戦の終結と地球社会の到来
- 冷戦の解消と世界の多極化
- 社会主義世界の解体と変容
- 第三世界の多元化と地域紛争
- 現代文明
- 国際対立と国際協調
- 国際対立と国際協調
- 科学技術の発達と現代文明
- 科学技術の発展と現代文明
- これからの世界と日本
- これからの世界と日本
- その他
- その他
























