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ベーメン(ボヘミア)のプロテスタント貴族の反乱とは わかりやすい世界史用語2653
著作名: ピアソラ
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ベーメン(ボヘミア)のプロテスタント貴族の反乱とは

三十年戦争の直接的な引き金となったベーメンのプロテスタント貴族の反乱は、17世紀初頭のヨーロッパにおける宗教的、政治的、そして文化的な緊張が一点に集中し、爆発した事件です。この反乱は、単なる一地方の宗教紛争ではなく、神聖ローマ帝国内の複雑な権力構造、ハプスブルク家の絶対主義化への野心、そして宗教改革以来くすぶり続けてきたカトリックとプロテスタントの対立という、幾重にも重なった要因が絡み合った末に発生しました。1618年5月23日のプラハ窓外放出事件に象徴されるこの反乱は、当初はベーメン王国内の地域的な抵抗運動でしたが、瞬く間にドイツ全土、そしてヨーロッパの主要国を巻き込む大戦乱へと発展し、三十年という長きにわたる破壊と殺戮の時代の幕を開けることになります。



反乱の歴史的背景

ベーメンのプロテスタント貴族が1618年に反乱へと踏み切った背景には、1世紀以上にわたって蓄積されてきた根深い宗教的・政治的対立の歴史が存在します。ベーメン王国は、神聖ローマ帝国内で選帝侯の地位を持つ重要な王国でしたが、その宗教的景観は帝国内の他のどの地域よりも複雑で、独自の歴史的経緯をたどっていました。
フス戦争の遺産と宗教的多元主義

ベーメンにおけるプロテスタント的伝統のルーツは、マルティン・ルターの宗教改革よりも1世紀早い、15世紀初頭のヤン・フスの宗教改革運動にまで遡ります。プラハ大学の神学者であったフスは、カトリック教会の腐敗を批判し、聖書に基づく信仰の重要性を説きました。彼の思想はベーメンの民衆、特にチェコ人の間に広く浸透しましたが、1415年にコンスタンツ公会議で異端として火刑に処せられました。
フスの死は、ベーメンにおける大規模な反乱、すなわちフス戦争(1419年=1434年)を引き起こしました。フス派の信徒たちは、神聖ローマ皇帝兼ベーメン王ジギスムントが派遣した十字軍を何度も撃退し、その過程で独自の教会組織と神学を確立しました。フス派の主流は、聖体拝領の際に信徒にもパンとワインの両方を与える「両形色」を要求したことから、ウトラキスト(両形色派)と呼ばれました。長い戦いの末、1436年のバーゼル協約により、ウトラキスト教会はカトリック教会から一定の自治を認められ、ベーメン王国内で公的な地位を獲得しました。これは、宗教改革以前のヨーロッパにおいて、カトリック以外の教会が公認された極めて稀な例であり、ベーメンに宗教的多元主義の伝統を根付かせることになりました。
16世紀に入り、ルター派やカルヴァン派といった新しいプロテスタントの教えがドイツから伝わると、ベーメンの宗教状況はさらに多様化します。多くのドイツ系住民はルター派に、そして一部のチェコ人貴族や市民はより急進的なカルヴァン派に惹かれました。また、フス派の中から生まれた「ボヘミア兄弟団」は、平和主義的で厳格な信仰共同体を形成し、独自の活動を展開していました。こうして16世紀後半のベーメンでは、人口の大多数がカトリック以外の様々な宗派に属するという、ヨーロッパでも特異な状況が生まれていたのです。
ハプスブルク家の統治とアウクスブルクの和議

1526年、モハーチの戦いでベーメン兼ハンガリー王ラヨシュ2世がオスマン帝国軍に敗れて戦死すると、ベーメンの等族(貴族、聖職者、都市の代表からなる身分制議会)は、ラヨシュの義理の兄弟にあたるオーストリア大公フェルディナント1世を新たな国王に選びました。これにより、ベーメンはハプスブルク家の世襲領地に組み込まれることになります。
敬虔なカトリック教徒であったフェルディナント1世とその後のハプスブルク家の君主たちは、自らの領内にプロテスタントが広がることを快く思っていませんでした。しかし、彼らは同時に、神聖ローマ皇帝として帝国内の宗教対立を調停する立場にもありました。1555年に結ばれたアウクスブルクの和議は、帝国内の宗教紛争を一時的に収拾するための妥協の産物でした。この和議は、「その領域の支配者が、その領域の宗教を決定する」という原則を確立し、諸侯にカトリックかルター派のいずれかを選択する権利を与えました。
しかし、この和議には二つの大きな問題点がありました。第一に、個人の信仰の自由ではなく、あくまで領主の宗教選択権を認めたに過ぎない点です。第二に、そしてベーメンにとってより重要だったのは、この和議が認めたプロテスタントはルター派のみであり、当時勢力を拡大していたカルヴァン派や、ベーメン独自のウトラキスト、ボヘミア兄弟団といった宗派の地位が曖昧なままであったことです。ハプスブルク家の君主たちは、この曖昧さを利用して、ベーメンにおけるカトリックの復権(対抗宗教改革)を徐々に進めようと試みました。
ルドルフ2世と「皇帝勅書」

16世紀後半、神聖ローマ皇帝兼ベーメン王ルドルフ2世(在位1576年ー1612年)の治世下で、ベーメンの宗教的緊張は新たな段階に入ります。ルドルフ2世は、政治よりも錬金術や占星術、美術品の収集に熱中する風変わりな君主で、1583年に宮廷をウィーンからプラハに移しました。彼の治世下のプラハは、ヨーロッパ中から芸術家や科学者が集まる華やかな文化の中心地となりましたが、その一方で彼の政治的無関心は、帝国内の宗派対立を深刻化させる結果を招きました。
ルドルフ2世は、治世の初期には比較的寛容な政策をとっていましたが、次第にカトリック強硬派の影響を受け、プロテスタントへの圧力を強め始めます。これに対し、ベーメンのプロテスタント等族は、自らの宗教的権利を法的に保障するよう、ルドルフ2世に強く迫りました。
1608年、ルドルフ2世とその弟マティアスとの間でハプスブルク家の家督争いが激化すると、ルドルフはベーメン等族の支持を取り付けるため、大幅な譲歩を余儀なくされます。1609年7月9日、彼は「皇帝勅書」に署名しました。この勅書は、ベーメン王国のすべての住民に対して信仰の自由を保障し、プロテスタントが教会や学校を建設する権利を認めるという、画期的な内容でした。さらに、この勅書の遵守を監督するため、プロテスタント等族の中から「擁護官」が選出されることも定められました。
この「皇帝勅書」は、ベーメンのプロテスタントにとって、彼らの権利と自由を守るための憲法的な拠り所となりました。しかし、ハプスブルク家とその背後にいるカトリック勢力にとって、この勅書は屈辱的な譲歩であり、機会があればいつでも覆すべきものだと考えられていました。この勅書の解釈と遵守をめぐる対立こそが、ベーメンの反乱へと至る直接の導火線となったのです。
反乱への道筋

ルドルフ2世の死後、王位を継いだマティアス(在位1612年ー1619年)の治世下で、ベーメンにおける宗教的寛容の時代は急速に終わりを告げます。マティアス自身は比較的穏健でしたが、彼には跡継ぎがおらず、ハプスブルク家の次期当主として、従弟で熱烈なカトリック教徒であるシュタイアーマルク大公フェルディナントが有力視されていました。
フェルディナントの台頭と対抗宗教改革の強化

フェルディナントは、イエズス会の教育を受け、自らの領地であるシュタイアーマルクで徹底的な対抗宗教改革を断行し、プロテスタントを追放したことで知られる人物でした。彼の信条は「異端者の支配者になるくらいなら、砂漠を支配する方がましだ」という言葉に要約されています。ベーメンのプロテスタント貴族たちは、このフェルディナントがベーメン王位に就くことを、自らの存在に対する最大の脅威と見なしていました。
高齢で病弱なマティアスは、自らの死後の円滑な王位継承を確実にするため、まだ存命中の1617年に、ベーメン等族議会に対してフェルディナントを次期国王として承認するよう圧力をかけました。伝統的にベーメン王位は選挙王制であり、等族には国王を選ぶ権利がありましたが、ハプスブルク家はこれを世襲制であるかのように既成事実化しようとしていました。プロテスタント貴族の一部は激しく抵抗しましたが、ハプスブルク側の巧みな懐柔と脅迫の前に、結局、議会はフェルディナントの王位継承を承認してしまいます。
この決定は、ベーメンのプロテスタント等族にとって致命的な失策でした。フェルディナントが次期国王として承認されるやいなや、ベーメンにおけるカトリック化政策は露骨な形で強化され始めました。プラハ城内の聖ヴィート大聖堂の管理権がプロテスタントからカトリックへと移され、政府の要職はカトリック教徒で占められるようになりました。
教会建設問題と「皇帝勅書」

決定的な対立の火種となったのは、二つのプロテスタント教会の建設をめぐる問題でした。ブルマウ(チェコ語でブロウモフ)とクロークスターグラップ(クローステルグラブ、クラドルビ)という二つの町で、プロテスタント住民が「皇帝勅書」に基づいて教会を建設しようとしたところ、地元のカトリック領主(それぞれ大司教と修道院長)がこれを妨害し、教会を破壊するという事件が起こりました。
プロテスタント側は、これらの土地が国王直轄領であるため、「皇帝勅書」が適用され、教会建設は合法であると主張しました。一方、カトリック側は、これらが教会領であるため勅書の適用外であり、教会建設は違法であると反論しました。この問題は、勅書の解釈をめぐる根本的な対立に発展しました。
プロテスタント等族の代表である「擁護官」たちは、皇帝マティアスに抗議の使者を送りましたが、ウィーンの宮廷はカトリック側の主張を全面的に支持し、プロテスタントの抗議を退けました。さらに、プラハにいる国王代理の摂政官たちは、抗議活動を主導したプロテスタント貴族の集会を禁じる命令を出しました。
この一連の措置は、ベーメンのプロテスタント貴族たちに、ハプスブルク家が「皇帝勅書」を完全に踏みにじり、自分たちの権利と信仰を力ずくで奪おうとしていることを確信させました。彼らにとって、もはや法的な抗議や請願といった手段は尽き、残された道は実力行使による抵抗しかない、という認識が急速に広がっていきました。
プラハ窓外放出事件

1618年5月、プロテスタント等族の代表者たちがプラハに集まり、今後の対応を協議しました。トゥルン伯インジヒ・マティアスをはじめとする急進派は、国王の権威を代表する摂政官たちに直接行動で抗議することを主張し、その場の雰囲気を主導しました。
そして運命の日、5月23日、武装したプロテスタント貴族の一団が、プラハ城(フラッチャニ城)の宰相府へと押し入りました。彼らは、国王代理としてプラハを統治していた10人の摂政官のうち、最も強硬なカトリック派として知られていたヴィレーム・スラヴァタとヤロスラフ・ボジタ・マルティニツ、そして書記官のフィリップ・ファブリキウスの3人を捕らえました。
貴族たちは、彼らが「皇帝勅書」を侵害し、等族の権利を踏みにじった裏切り者であると激しく糾弾しました。短い問答の後、興奮した貴族たちは、スラヴァタとマルティニツを次々と宰相府の窓から突き落としました。書記官のファブリキウスも、彼らの後を追うように放り出されました。
窓の高さは約17メートル(56フィート)あり、通常であれば即死してもおかしくない状況でした。しかし、驚くべきことに、3人とも奇跡的に一命を取り留めました。彼らが落ちた場所が、城の堀に溜まっていたゴミや糞尿の山の上であったため、衝撃が和らいだとされています。カトリック側は、彼らが天使によって救われたのだと宣伝し、プロテスタント側は、彼らが糞尿の山に落ちたのは神の正義の表れだと嘲笑しました。
この「第二次プラハ窓外放出事件」(第一次はフス戦争中の1419年に発生)は、単なる暴力事件ではありませんでした。それは、ベーメンのプロテスタント等族が、ハプスブルク家の統治を公然と、そして象徴的な形で拒絶した、決定的な反乱の狼煙でした。窓から放り出されたのは、単に3人の役人だけでなく、国王の権威そのものであったのです。この事件によって、もはや後戻りは不可能となり、ベーメンはハプスブルク家との全面的な戦争へと突入していくことになります。
反乱の展開と敗北

プラハ窓外放出事件の後、ベーメンの反乱者たちは迅速に行動を開始しました。彼らは、30人からなる臨時政府(ディレクトーリウム)を樹立し、トゥルン伯を司令官とする独自の軍隊を組織しました。彼らの目的は、ハプスブルク家の支配を完全に排除し、ベーメンの伝統的な等族の権利と宗教の自由を回復することにありました。
反乱の拡大とフェルディナントの皇帝選出

反乱は当初、ベーメンのプロテスタント等族に有利に進展しました。彼らは、ハプスブルク家の軍隊を打ち破り、ベーメン王国の大部分を支配下に置きました。さらに、この反乱はベーメン国内にとどまらず、同じくハプスブルク家の支配下にあったシレジア、ラウジッツ、モラヴィアといった周辺地域のプロテスタント等族もこれに同調し、反乱はベーメン王冠領全体に広がりました。
1619年3月、皇帝マティアスが死去すると、事態は新たな局面を迎えます。ベーメンの反乱者たちは、すでに次期国王として承認していたフェルディナントの王位継承を正式に拒否しました。そして1619年8月、彼らは新たなベーメン国王として、ドイツのプロテスタント諸侯の指導者であり、イングランド国王ジェームズ1世の娘婿でもあるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を選出しました。フリードリヒ5世は若く野心的なカルヴァン派の君主であり、反乱者たちは、彼を国王に迎えることで、ドイツ国内のプロテスタント諸侯連合(プロテスタント同盟)や、イングランド、オランダといった国外のプロテスタント勢力からの強力な支援が得られると期待したのです。
しかし、この期待は裏切られることになります。フリードリヒ5世は、ためらいの末にベーメン王位を受諾し、プラハで戴冠式を行いましたが、彼の治世はわずか一冬しかもたなかったため、後に「冬王」と揶揄されることになります。彼の舅であるイングランド王ジェームズ1世は、大陸の紛争への介入に消極的で、娘婿への支援を拒否しました。プロテスタント同盟の諸侯たちも、ハプスブルク家との全面対決を恐れて、多くは中立を保ちました。
一方で、フェルディナントは着々と反撃の準備を固めていました。1619年8月28日、彼はフランクフルトで行われた選挙で、満場一致で神聖ローマ皇帝フェルディナント2世として選出されます。皇帝となった彼は、その権威を行使して、フリードリヒ5世を帝国の反逆者として断罪し、彼からプファルツ選帝侯の地位を剥奪すると宣言しました。さらに、フェルディナント2世は、スペイン=ハプスブルク家からの資金援助と軍隊の派遣、そしてバイエルン公マクシミリアン1世が率いるカトリック同盟の強力な軍事支援を取り付けることに成功しました。マクシミリアン1世は、フリードリヒ5世から選帝侯の地位を奪い、自らがその地位に就くことを条件に、フェルディナントへの協力を約束したのです。
白山の戦いと反乱の終焉

1620年の秋、ティリー伯ヨハン・セルクラエスに率いられたカトリック同盟軍と、ブコワ伯シャルル・ボナヴァンテュールに率いられた皇帝軍が、ベーメンへと進軍しました。対するベーメンの反乱軍は、資金不足と指導者間の不和に苦しみ、士気は低迷していました。
1620年11月8日、両軍はプラハ西郊のビーラー・ホラ(白山)で激突しました。この「白山の戦い」は、三十年戦争の最初の主要な戦闘であり、反乱の運命を決定づけるものとなりました。戦闘は、わずか1時間あまりでカトリック側の圧勝に終わりました。数で勝り、訓練と装備も優れていた皇帝=カトリック同盟軍の前に、ベーメン軍は総崩れとなり、壊走しました。
「冬王」フリードリヒ5世は、戦いの報を聞くと、王冠を置いたままプラハから逃亡しました。彼の短い統治は、こうしてあっけなく幕を閉じました。
報復と再カトリック化

白山の戦いの勝利の後、フェルディナント2世はベーメンに対して徹底的な報復を行いました。1621年6月21日、反乱を指導した27人の貴族や市民が、プラハの旧市街広場で見せしめとして処刑されました。この中には、チェコの著名な学者であったヤン・イェセニウスも含まれていました。
処刑に続いて、大規模な財産没収が行われました。反乱に参加したプロテスタント貴族の土地や財産はすべて没収され、それは皇帝に忠誠を誓ったカトリック貴族や、戦争で功績のあった外国人の傭兵隊長たち(ヴァレンシュタインなど)に与えられました。これにより、ベーメンの土地所有構造は一変し、伝統的なチェコ人貴族層は壊滅的な打撃を受けました。
最も徹底して行われたのが、宗教的な弾圧です。フェルディナント2世は、1609年の「皇帝勅書」を自らの手で破り捨て、ベーメンにおけるプロテスタントの信仰を完全に非合法化しました。すべてのプロテスタントの聖職者は国外へ追放され、住民にはカトリックに改宗するか、国を去るかの二者択一が迫られました。この過酷な再カトリック化政策により、推定で15万人もの人々が故郷を捨てて亡命の道を選んだと言われています。その中には、著名な教育思想家であるコメニウス(ヤン・アーモス・コメンスキー)も含まれていました。
さらに、1627年には「改正州令」が発布され、ベーメン王国の政治体制も根本的に変えられました。ベーメン王位はハプスブルク家の世襲であることが法的に定められ、等族議会の権限は大幅に縮小されました。また、公用語としてドイツ語がチェコ語と同等の地位を与えられ、ベーメンのドイツ化が進められました。
こうして、ベーメンのプロテスタント貴族の反乱は、完全な敗北に終わりました。彼らが守ろうとした宗教の自由と等族の権利はすべて奪われ、ベーメンはハプスブルク家の絶対主義体制下に組み込まれ、徹底的な再カトリック化とドイツ化の道を歩むことになったのです。
反乱が三十年戦争へと拡大した経緯

ベーメンの反乱そのものは、1620年の白山の戦いで事実上鎮圧されました。しかし、この紛争はそこで終わらず、ヨーロッパ全土を巻き込む三十年戦争へと発展していきました。その背景には、ベーメンの問題が、神聖ローマ帝国内の、そしてヨーロッパ全体の権力均衡と深く結びついていたことがあります。
第一の要因は、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の処遇をめぐる問題です。皇帝フェルディナント2世は、フリードリヒ5世から選帝侯の地位と領地を剥奪し、それをバイエルン公マクシミリアン1世に与えました。選帝侯は、皇帝を選出する7人の最有力諸侯であり、その構成(カトリック4人、プロテスタント3人)は帝国内の宗派バランスの要でした。プファルツ選帝侯の地位がプロテスタントからカトリックのバイエルン公に移ることは、このバランスをカトリック優位に大きく傾けるものであり、帝国内の他のプロテスタント諸侯の強い反発を招きました。彼らは、フリードリヒ5世の権利回復を求め、皇帝の決定に抵抗しました。
第二に、スペイン=ハプスブルク家の介入が、紛争を国際化させました。スペインは、ネーデルラント(オランダ)との八十年戦争を再開しており、ネーデルラントを包囲するための戦略的な補給路(スパニッシュ・ロード)を確保する必要がありました。この補給路はライン川沿いを通っており、プファルツ選帝侯領はその経路上に位置していました。スペイン軍は、ベーメンの反乱と連動してプファルツに侵攻し、これを占領しました。このスペインの動きは、ネーデルラントだけでなく、フランスの警戒心をも強く刺激しました。
第三に、デンマークとスウェーデンという、北ヨーロッパのプロテスタント大国が相次いで介入したことです。デンマーク王クリスチャン4世は、ドイツ北部のプロテスタントの保護を名目に、1625年にドイツへ侵攻しました(デンマーク戦争)。彼は、皇帝権力の伸長が、自らのホルシュタイン公としての地位や、バルト海におけるデンマークの覇権を脅かすことを恐れたのです。しかし、デンマーク軍は皇帝軍の司令官ヴァレンシュタインの前に大敗を喫し、撤退を余儀なくされました。
デンマークの敗北後、今度はスウェーデン王グスタフ・アドルフが、フランスからの資金援助を受けて、1630年にドイツへ上陸しました(スウェーデン戦争)。「北方の獅子」と称されたグスタフ・アドルフは、革新的な軍事戦術を駆使して快進撃を続け、皇帝軍を次々と打ち破りました。彼の目的もまた、ドイツのプロテスタントの「自由」を守ること、そしてバルト海におけるスウェーデンの覇権(バルト帝国)を確立することにありました。
第四に、そして最終的に戦争を最も長期化させた要因は、フランスの介入です。カトリック国であるフランスは、宰相リシュリューの指導の下、国家理性を最優先し、自国を東西から包囲するハプスブルク家(スペインとオーストリア)の勢力を削ぐことを国是としていました。フランスは、当初はデンマークやスウェーデンに資金援助を行うという形で間接的に介入していましたが、1635年、ついにハプスブルク家スペインに直接宣戦布告し、三十年戦争に本格的に参戦しました(フランス戦争)。これにより、戦争はもはや宗教戦争としての性格を失い、ブルボン家とハプスブルク家という二大王朝によるヨーロッパの覇権をめぐる純然たる国家間戦争へと変貌したのです。
このように、ベーメンのプロテスタント貴族がプラハ城の窓から3人の役人を突き落とした小さな火種は、神聖ローマ帝国の構造的脆弱性、そしてヨーロッパの複雑な地政学的対立という燃えやすい薪に次々と燃え移り、大陸全土を焼き尽くす大火災へと発展していきました。ベーメンの反乱は、三十年戦争という悲劇の序章であり、近世ヨーロッパ史の転換点となる大動乱の幕開けを告げる事件だったのです。

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