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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 主権国家体制の成立

オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)とは わかりやすい世界史用語2627

著者名: ピアソラ
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オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)とは

歴史の舞台には、自らの意図を超えて、時代の激流に飲み込まれ、やがてその流れそのものを変えてしまう人物が登場します。オラニエ公ウィレム1世は、まさにそのような人物でした。ドイツの小領主の家に生まれ、ハプスブルク帝国の宮廷で華やかな青年時代を送った彼は、本来であれば、ヨーロッパ随一の富と名声を持つ大貴族として、安楽な一生を終えるはずでした。しかし、彼の生きた16世紀という時代は、宗教改革の嵐が吹き荒れ、巨大な帝国がその権威を絶対化しようとする、激動の時代でした。故郷ネーデルラントの人々がスペイン王の圧政に苦しむ姿を目の当たりにした時、彼は安楽な道を選ぶことをせず、茨の道へと足を踏み入れます。それは、ヨーロッパ最強の帝国に反旗を翻し、ネーデルラントの自由のために戦うという、あまりにも無謀な挑戦でした。彼はその生涯で、軍事的勝利よりも多くの敗北を経験し、財産を失い、愛する者を次々と亡くしました。しかし、彼は決して屈しませんでした。その不屈の精神と、現実を見据えた粘り強い政治手腕によって、彼はばらばらだったネーデルラントの州々を一つの旗の下に結集させ、やがてヨーロッパ初の近代的な共和国が誕生する礎を築いたのです。



宮廷の寵児

反乱の指導者としての彼の後の姿からは想像もつきませんが、ウィレムの青年時代は、彼が後に戦うことになる体制の、まさに中心で形作られました。彼は、ハプスブルク帝国の宮廷が生んだ、最も輝かしい貴公子の一人だったのです。
ドイツの貴族、ブリュッセルの宮廷へ

ウィレムは1533年4月24日、ドイツのディレンブルク城で、ナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルムとその妻ユリアーナ=ツー=シュトルベルクの間に長男として生まれました。彼の家系であるナッサウ家は、神聖ローマ帝国内でも由緒ある貴族でしたが、決して最高位の家柄ではありませんでした。彼は、父のルター派の信仰の下で、厳格なプロテスタントとして育てられました。もし運命の歯車が少しでも違っていれば、彼はドイツの一領主として、その生涯を終えていたかもしれません。
その運命が劇的に変わったのは、彼が11歳の時でした。1544年、彼の従兄弟にあたるオラニエ公ルネ=ド=シャロンが、戦場で嗣子なくして戦死します。ルネは、南フランスの由緒あるオラニエ公国の君主であり、さらにネーデルラントとブルゴーニュに広大な所領を持つ、ヨーロッパでも屈指の大富豪でした。その莫大な遺産のすべてが、彼の遺言によって、若きウィレムに相続されることになったのです。
しかし、この相続には一つの条件がありました。ネーデルラントの君主であり、神聖ローマ皇帝でもあったカール5世は、これほど重要な所領を持つ若者が、プロテスタントとして育てられることを許しませんでした。彼は、ウィレムが相続を承認される条件として、ネーデルラントの首都ブリュッセルにある彼の宮廷で、カトリック教徒としての教育を受けることを要求したのです。ウィレムの両親は、息子の将来を思い、断腸の思いでこの条件を受け入れました。こうして、11歳のウィレムは故郷ドイツを離れ、ハプスブルク帝国の華やかな宮廷へと送られることになりました。
皇帝の寵愛

ブリュッセルの宮廷で、ウィレムはカール5世の妹であり、ネーデルラントの総督を務めていたマリア=フォン=ウンガルンの監督の下、最高の教育を受けました。彼は、フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語、ラテン語といった複数の言語を習得し、外交、軍事、そして宮廷儀礼のあらゆる側面に通じた、洗練された貴公子へと成長していきました。
カール5世は、この聡明で魅力的な若者を、まるで息子のように可愛がりました。皇帝は、ウィレムを自身の枢密院である「国務評議会」の会議に陪席させ、政治の機微を直接教え込みました。19歳の若さで、ウィレムはネーデルラント軍の騎兵隊の指揮官の一人に任命され、22歳の時には、ネーデルラント軍の最高司令官の一人に抜擢されるという、異例の出世を遂げます。
皇帝のウィレムへの信頼を象徴する、有名な逸話があります。1555年10月25日、ブリュッセルのクーデンベルク宮殿で、カール5世はその退位を宣言する感動的な式典を執り行いました。長年の統治と戦争で心身ともに疲れ果てた皇帝は、痛風に苦しむ体を支えるため、二人の人物の肩に寄りかかっていました。一人は、彼の後継者である息子のフェリペ。そしてもう一人が、22歳のオラニエ公ウィレムでした。この光景は、ウィレムがハプスブルク体制の中で、いかに重要で信頼された地位にあったかを、満天下に示すものでした。この時、ウィレム自身も、そして周囲の誰もが、彼がこの体制の忠実な柱として、その生涯を捧げるものと信じて疑いませんでした。
忠誠と疑念

カール5世が退位し、その息子フェリペ2世がネーデルラントの新たな君主となると、ウィレムとハプスブルク体制との関係は、徐々に、しかし確実に変化し始めます。かつての寵児は、やがて体制への最も深刻な批判者へと変貌していくのです。
新君主フェリペ2世

フェリペ2世は、父カール5世とは全く異なるタイプの君主でした。ネーデルラントで生まれ育ち、諸国の言語を操ったコスモポリタンな父とは対照的に、フェリペはスペインで育ち、スペイン語しか話さず、その思考様式は厳格で、妥協を知らないスペイン=カトリックのものでした。彼は、ネーデルラントの貴族たちが伝統的に享受してきた自治や特権を、中央集権化の障害と見なし、彼らを信頼しませんでした。
当初、ウィレムは新君主にも忠実に仕えようとしました。彼は、ネーデルラントの最高位の貴族として国務評議会のメンバーであり続け、1559年には、ホラント、ゼーラント、ユトレヒトという、ネーデルラントで最も重要な3つの州の総督(スタットハウダー)に任命されました。これは、君主の名代として、その州の行政と司法を監督する、極めて重要な役職でした。
しかし、ウィレムとフェリペ2世の間の溝は、次第に深まっていきました。フェリペ2世は、統治の重要な決定を、アントワーヌ=ド=グランヴェル枢機卿をはじめとする、少数の側近だけで行うようになり、ウィレムをはじめとするネーデルラントの大貴族たちを、意図的に政治の中枢から遠ざけました。
「沈黙公」の誕生

ウィレムのニックネームである「沈黙公」の由来については、有名な伝説があります。1559年、フェリペ2世とフランス王アンリ2世との間の和平交渉の一環として、ウィレムは人質としてパリの宮廷に送られました。ある日、森で狩りをしていた時、事情を知らないアンリ2世は、ウィレムが当然知っているものと思い込み、フェリペ2世と共同で、ネーデルラント内のプロテスタント(異端者)を根絶やしにするという秘密の計画を漏らしてしまいます。ウィレムは、この恐るべき計画に内心衝撃を受けながらも、表情には一切出さず、平静を装って話を聞き続けました。この沈黙によって、彼はフランス王から重要な情報を引き出し、かつ自らの動揺を悟らせませんでした。この逸話から、彼は「沈黙公」と呼ばれるようになったとされています。
この逸話の歴史的信憑性については議論がありますが、それはウィレムの性格の一側面、すなわち、自らの感情や真意を軽々しく表に出さず、慎重に状況を観察し、行動すべき時が来るまで沈黙を守るという、彼の政治家としてのスタイルを的確に捉えています。
政治的抵抗の始まり

ブリュッセルに戻ったウィレムは、フェリペ2世の政策に対する公然とした批判の先頭に立つようになります。彼が問題視したのは、主に二つの点でした。
第一に、ネーデルラントの伝統的な政治的自由が侵害されていることでした。彼は、グランヴェル枢機卿を中心とする「陰の政府」が、国務評議会を形骸化させ、貴族たちの正当な発言権を奪っていると主張しました。ウィレムは、エフモント伯やホールン伯といった他の大貴族たちと連携し、グランヴェルの罷免をフェリペ2世に執拗に要求しました。この抵抗は功を奏し、1564年、フェリペ2世は不承不承ながらグランヴェルをネーデルラントから召還することに同意します。これは、貴族たちにとって大きな政治的勝利でした。
第二に、そしてより深刻な問題は、過酷な宗教弾圧でした。ウィレム自身は、この時点ではまだカトリック教徒でしたが、彼は、信仰の問題は個人の良心に関わることであり、国家が剣によって強制すべきではない、という強い信念を持っていました。彼は、プロテスタントを火あぶりや斬首に処する「異端者布告」が、あまりにも非人道的であり、また、ネーデルラント社会に深刻な混乱と対立をもたらしていると警告しました。1564年12月31日、彼は国務評議会で歴史的な演説を行い、君主が臣民の魂を支配することはできないと述べ、宗教的寛容を訴えました。この演説は、彼の思想の転換点を示す、重要なマイルストーンでした。
反乱の指導者

政治的な抵抗が限界に達し、ネーデルラントが暴力の渦に巻き込まれていく中で、ウィレムは体制内の改革者から、体制に反旗を翻す反乱の指導者へと、その立場を劇的に変えざるを得なくなります。
聖像破壊とアルバ公の到来

1566年、ネーデルラントの情勢は急速に悪化します。下級貴族たちが「乞食党」を名乗り、総督マルゲリータ=ディ=パルマに宗教弾圧の緩和を嘆願。その結果、一時的に弾圧が緩むと、カルヴァン派の野外説教が爆発的に広まりました。そして同年8月、その熱狂は「聖像破壊運動」として暴発し、ネーデルラント全土の教会でカトリックの聖像や祭壇が破壊されました。
この暴動は、穏健な改革を目指していたウィレムの意図とは全く異なるものでした。彼は総督として、アントワープの秩序回復に努めましたが、事態はもはや彼のコントロールを超えていました。遠くスペインでこの報を聞いたフェリペ2世は激怒し、ネーデルラントに「神と王」に対する罰を与えることを決意します。彼は、スペイン最強の将軍、アルバ公を1万の精鋭部隊と共に派遣しました。
アルバ公の任務は、反乱を根絶し、異端を撲滅し、絶対王政を確立することでした。ウィレムは、アルバ公の到来が、和解の可能性を完全に断ち切り、血なまぐさい弾圧をもたらすことを正確に予見していました。彼は、エフモント伯をはじめとする他の貴族たちに、共に武器を取るか、さもなくば亡命するよう説得しましたが、彼らはウィレムの警告を聞き入れませんでした。自らの身に危険が迫っていることを悟ったウィレムは、1567年4月、アルバ公がブリュッセルに到着する直前に、すべての所領と財産をなげうち、故郷であるドイツのディレンブルク城へと亡命しました。彼の予感は的中し、ブリュッセルに残ったエフモント伯とホールン伯は、アルバ公によって即座に逮捕され、翌年、見せしめとして斬首されました。
最初の軍事行動と敗北

ディレンブルク城で、ウィレムはネーデルラント解放のための軍資金を集め、傭兵を雇い入れました。彼は、自らの莫大な財産をすべて注ぎ込み、解放戦争の準備を進めます。彼の計画は、複数の方向から同時にネーデルラントに侵攻し、民衆の蜂起を促すというものでした。
1568年、ウィレムの弟ルートヴィヒが率いる部隊が、北部のヘイリヘルレーの戦いでスペイン軍の一部隊に勝利を収めました。これが、八十年戦争における最初の勝利とされています。しかし、この勝利は束の間の成功に過ぎませんでした。アルバ公は直ちに反撃し、ルートヴィヒの軍を壊滅させます。その後、ウィレム自身が率いる大軍がブラバントに侵攻しましたが、アルバ公は決戦を巧みに避け、ウィレムの軍は補給に窮し、冬の到来と共に撤退を余儀なくされました。
最初の軍事行動は、完全な失敗に終わりました。ウィレムは、莫大な借金を抱え、軍隊は解散し、彼の名声は地に落ちました。ネーデルラントの民衆も、アルバ公の恐怖政治の前に沈黙し、蜂起は起こりませんでした。続く数年間、ウィレムは亡命先を転々としながら、絶望的な状況の中で機会を待ち続けました。この時期、彼はプロパガンダの重要性を学び、パンフレットや文書を通じて、自らの大義の正当性を訴え続けました。また、彼は正式にカルヴァン派に改宗し、プロテスタントの大義と自らを一体化させました。
「海の乞食党」とホラントの反乱

絶望の淵にあったウィレムに、予期せぬ形で転機が訪れます。それは、陸からではなく、海からやってきました。
「海の乞食党」は、アルバ公の弾圧から逃れるために海上に逃れ、スペイン船を襲ってゲリラ的な抵抗を続けていた、ネーデルラント人の船乗りたちの集団でした。ウィレムは、彼らに私掠免許状を与え、自らの大義のために戦うよう組織化していました。
1572年4月1日、イギリス女王エリザベス1世によって港を追い出された海の乞食党の一団が、偶然にも、ほとんど無防備だったホラント州の港町ブリールを占拠しました。彼らは、「オラニエ公のために」町を占領したと宣言します。この小さな出来事が、巨大な連鎖反応を引き起こしました。ブリールの占拠に勇気づけられたホラントとゼーラントの多くの都市が、次々とスペインの守備隊を追い出し、反乱に加わりました。そして、それらの都市は、ウィレムを自分たちの指導者、そして正統な総督として迎え入れたのです。
ウィレムは、この好機を逃しませんでした。彼は再びネーデルラントに侵攻し、反乱は全土に広がりました。同年7月、ホラント州の諸都市の代表は、ドルトレヒトに集まり、ホラント州議会を自主的に開催しました。彼らは、ウィレムを唯一の正統な総督として承認し、彼に戦争遂行のための資金と全権を委任することを決議しました。ここに、後のネーデルラント共和国の中核となる、解放区が誕生したのです。ウィレムは、亡命した反乱の象徴から、一つの領域を統治する、現実的な政治指導者へと変貌を遂げました。
統一と分裂

ホラントとゼーラントを拠点として、ウィレムはネーデルラント全土をスペインの支配から解放するという、より大きな目標に向かって動き出します。彼の究極の理想は、宗教的な寛容の下で、17州すべてが平和的に共存する、統一されたネーデルラントでした。
ヘントの和約

戦争は、一進一退の攻防を繰り返しました。スペイン軍は、メヘレンやズトフェンで残虐な略奪を行い、ハールレムを長い包囲の末に陥落させました。しかし、アルクマールやライデンの包囲では、オランダ側が堤防を決壊させて土地を水浸しにするという決死の作戦で、スペイン軍を撃退しました。
こうした中、スペイン側にも大きな問題が生じます。フェリペ2世の国家財政が破綻し、ネーデルラント駐留軍への給料の支払いが滞ったのです。給料未払いに不満を募らせたスペイン兵は、各地で反乱を起こし、1576年11月4日、南部の経済的中心地であったアントワープで、大規模な略奪、放火、虐殺を行いました。この「スパニッシュ=フューリー」と呼ばれる惨劇は、3日間で7000人以上の市民が殺害されるという、戦争中最悪の出来事の一つでした。
この蛮行は、それまでスペイン側についていた南部の州々をも恐怖させ、反乱側との和解へと駆り立てました。ウィレムは、この機を逃さず、全ネーデルラントの団結を呼びかけます。その結果、1576年11月8日、ヘントにおいて、ネーデルラント17州の代表が一堂に会し、「ヘントの和約」が締結されました。
この和約は、ウィレムの政治家としてのキャリアの頂点ともいえる成果でした。その主な内容は、共通の敵であるスペイン軍をネーデルラントから追放すること、そして、宗教問題については、将来開催される全国議会で決定されるまで、現状を維持するというものでした。これは、プロテスタントが支配的な北部と、カトリックが優勢な南部が、宗教的な違いを乗り越えて、共通の政治目標のために団結するという、画期的な合意でした。ウィレムは、ブリュッセルに凱旋し、ネーデルラントの事実上の指導者として、歓呼の声で迎えられました。彼の理想であった、統一ネーデルラントの実現が、目前に迫っているかのように見えました。
ブリュッセル連合と分裂の兆し

しかし、この統一は、脆い基盤の上に成り立っていました。和約によってもたらされた平和は、長続きしませんでした。
根本的な問題は、やはり宗教でした。ホラントとゼーラントの急進的なカルヴァン派は、和約の精神を無視して、フランドルやブラバントで攻撃的な布教活動を行い、カトリック教会を弾圧しました。一方、南部のカトリック貴族たちは、カルヴァン派の台頭と、ウィレムの民衆への影響力の増大に、強い警戒感を抱いていました。
スペイン側も、この分裂の兆しを見逃しませんでした。フェリペ2世が新たに派遣した総督、ドン=フアン=デ=アウストリア(レパントの海戦の英雄)は、一旦はヘントの和約を承認しましたが、すぐにそれを反故にし、戦闘を再開しました。ドン=フアンの死後、後任となったパルマ公アレッサンドロ=ファルネーゼは、優れた軍事能力と、巧みな外交手腕を兼ね備えた、ウィレムにとって最も手ごわい敵でした。
パルマ公は、南部のワロン地方のカトリック貴族に対し、彼らの伝統的な特権とカトリック信仰の完全な保護を約束し、反乱戦線からの離脱を働きかけました。この策略は成功し、1579年1月6日、エノー、アルトワなどの南部の州は「アラス連合」を結成し、スペイン王への忠誠を再確認しました。
これに対し、北部の州々と南部のカルヴァン派都市は、同月23日に「ユトレヒト同盟」を結成して対抗します。ウィレムは、当初、この同盟がネーデルラントの分裂を決定的にするとして、署名をためらいました。彼は最後まで全17州の統一という理想を捨てきれませんでした。しかし、アラス連合の結成によって、もはや統一が不可能であることを悟った彼は、同年5月、ユトレヒト同盟に署名し、北部の抵抗運動の中核に身を置くことを決断します。ヘントの和約によって達成されたかに見えた統一の夢は、わずか2年余りで、南北の決定的な分裂という現実に取って代わられたのです。
最後の戦い

ネーデルラントが南北に分裂し、パルマ公の軍事的天才の前に南部の都市が次々と陥落していく中で、ウィレムの晩年は、絶え間ない闘争と、個人的な悲劇、そして自らの信念を後世に伝えるための最後の努力に捧げられました。
統治権喪失令と君主探し

ユトレヒト同盟の結成後、ウィレムと北部の州々は、もはやフェリペ2世との和解は不可能であると結論付けました。1580年3月、フェリペ2世は、ウィレムを「人類の敵である害虫」と断罪し、彼の首に2万5000金クロンの懸賞金をかける「追放令」を発布しました。
これに対し、ウィレムは沈黙しませんでした。彼は、1581年に「弁明書(アポロジー)」を発表し、フェリペ2世の告発の一つ一つに反論し、自らの行動の正当性を主張しました。この文書の中で、彼は、君主が神との契約に背き、臣民の権利を踏みにじる暴君となった場合、臣民はもはや彼に忠誠を誓う義務はない、という革命的な抵抗権の理論を展開しました。
この理論を実践に移したのが、1581年7月26日に全国議会が布告した「統治権喪失令」です。これは、ウィレムの「弁明書」の論理に基づき、フェリペ2世のネーデルラントにおける統治権を正式に放棄するという、事実上の独立宣言でした。
しかし、君主を否認したものの、彼らはすぐに共和制に移行したわけではありませんでした。当時のヨーロッパの常識では、国家には君主が必要だと考えられていたからです。ウィレムは、スペインに対抗するための強力な後ろ盾を求め、フランス王の弟であるアンジュー公フランソワを新たな君主として迎え入れることを主導しました。しかし、この試みは悲惨な失敗に終わります。権力欲の強いアンジュー公は、与えられた権限に不満を抱き、1583年にアントワープでクーデターを試みて市民の激しい抵抗に遭い、失脚しました(フレンチ=フューリー)。この失敗は、ウィレムの政治的威信に大きな傷をつけました。
デルフトでの暗殺

フェリペ2世による追放令は、ウィレムの命を狙う暗殺者たちを惹きつけました。1582年、アントワープで、フアン=デ=ハウレギという若者がウィレムをピストルで狙撃しました。弾はウィレムの顎を貫通し、彼は瀕死の重傷を負いましたが、奇跡的に一命を取り留めました。しかし、この事件の心労がたたったのか、彼の三番目の妻であったシャルロット=ド=ブルボンが、看病の末に亡くなるという悲劇に見舞われました。
アンジュー公のクーデター失敗の後、ウィレムはアントワープを離れ、反乱の中心地であるホラント州のデルフトに拠点を移しました。彼は、ここで四番目の妻となるルイーズ=ド=コリニーと結婚し、抵抗運動の指揮を執り続けました。
そして、1584年7月10日、運命の日が訪れます。その日、ウィレムはデルフトのプリンセンホフ(旧修道院で、彼の住居兼執務室)で昼食を終え、階段を上がろうとしていました。その時、数日前からフランスのカルヴァン派貴族を装ってウィレムに接近していた、バルタザール=ジェラールというブルゴーニュ出身の狂信的なカトリック教徒が、物陰から飛び出し、2丁のピストルを至近距離からウィレムの胸に発射しました。
ウィレムは即死でした。彼の最後の言葉は、「おお、神よ、我が魂と、この哀れな民を憐れみたまえ」であったと伝えられています。4発の弾丸のうち3発が命中し、オランダ独立の父、オラニエ公ウィレムは、51年の波乱に満ちた生涯を閉じました。彼の亡骸は、デルフトの新教会に壮麗な墓碑と共に葬られ、そこは以後、オラニエ=ナッサウ家の代々の墓所となりました。
ウィレムの遺産

ウィレムは、自らの目標であった、スペインからの完全な独立と、統一されたネーデルラントの平和を見ることなく、その生涯を終えました。彼が亡くなった時、反乱の将来は、極めて不確かなものに見えました。しかし、彼が蒔いた種は、彼の死後に力強く芽吹き、一つの国家として結実することになります。
オランダの父

ウィレムは、オランダ国民から「祖国の父」として敬愛されています。それは、彼が軍事的な天才であったからではありません。事実、彼は多くの戦いに敗れています。彼が「父」と呼ばれる理由は、絶望的な状況にあっても決して諦めず、自らの財産と生命を賭して、ネーデルラントの自由という大義に身を捧げた、その不屈の精神にあります。彼は、ばらばらだった州や都市、そして異なる宗派の人々を、一つの共通の目標の下に結びつけようと、生涯をかけて努力しました。彼の粘り強いリーダーシップがなければ、ネーデルラントの反乱は、単なる地方の暴動として、早い段階で鎮圧されていた可能性が高いです。
オラニエ=ナッサウ家と共和国

ウィレムの死後、彼の息子たちがその遺志を継ぎました。特に、次男のマウリッツは、父とは対照的に、軍事的な天才でした。彼は、軍制改革を断行してオランダ軍をヨーロッパ最強の軍隊の一つに育て上げ、パルマ公亡き後のスペイン軍に対して、次々と勝利を収めました。彼の軍事的成功が、ネーデルラント連邦共和国の独立を事実上不動のものにしました。
ウィレムの子孫であるオラニエ=ナッサウ家は、その後も共和国の総督として、国家の歴史に深く関わり続けました。そして、ナポレオン戦争後の1815年、ネーデルラント王国が成立した際、ウィレムの子孫が初代国王ウィレム1世として即位しました。現在のオランダ王室が、オラニエ公ウィレムの直系の子孫であることは、彼がオランダという国家にとっていかに象徴的な存在であるかを示しています。オランダのナショナルカラーがオレンジ色であるのも、彼の家名「オラニエ」に由来しています。
寛容の理念

ウィレムの政治思想の核心には、宗教的寛容の理念がありました。彼は、カトリック教徒として育ち、ルター派の家庭に生まれ、最終的にはカルヴァン派として亡くなりましたが、その生涯を通じて、信仰が個人の良心の問題であるという信念を持ち続けました。彼は、異なる信仰を持つ人々が、一つの政治的共同体の中で平和的に共存できる社会を夢見ていました。
彼が理想とした完全な宗教的平等は、彼の生前にも、そしてその後の共和国においても、完全には実現しませんでした。しかし、彼がユトレヒト同盟の第十三条に込めた「良心の自由」の原則は、ネーデルラントを、当時のヨーロッパで最も寛容な社会の一つとし、思想、科学、そして経済の発展の礎となりました。この寛容の精神は、ウィレムが後世に残した、最も貴重な遺産の一つと言えるでしょう。

オラニエ公ウィレムの生涯は、一人の人間が、その信念と行動によって、いかに歴史の行方を変えうるかを示す、力強い証です。ハプスブルクの宮廷で栄華を約束された貴公子は、故郷の人々の自由のために、そのすべてを投げ打つ道を選びました。彼は、軍事的敗北、政治的裏切り、そして個人的な悲劇に次々と見舞われながらも、決して屈することはありませんでした。彼の理想であった、宗教的に寛容で、統一されたネーデルラントは、彼の存命中には実現しませんでした。しかし、彼の不屈のリーダーシップは、ネーデルラント北部に独立の精神を植え付け、ヨーロッパ初の近代的な共和国、ネーデルラント連邦共和国の誕生を準備しました。彼は、自らの死によって、その大義のための殉教者となり、オランダという国家の永遠の象徴となりました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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