傭兵《近世ヨーロッパ》とは
近世ヨーロッパにおける傭兵は、単なる金で雇われた兵士という言葉だけでは到底捉えきれない、複雑で多面的な存在でした。彼らは、ルネサンス期のイタリア戦争から三十年戦争を経て、絶対王政国家の常備軍が確立されるまでの約3世紀にわたり、ヨーロッパの戦争と社会のあり方を根底から規定した、不可欠な構成要素です。傭兵は、国家がまだ十分な軍事力を恒常的に保持できなかった時代において、君主や共和国が戦争を遂行するための主要な手段であり、その存在なくして近世の歴史を語ることはできません。彼らは、スイスのパイク兵やドイツのランツクネヒトに代表されるような、特定の地域や民族的アイデンティティに根差した戦闘集団として登場し、やがて軍事起業家と呼ばれる新たな階級を生み出しました。これらの起業家は、戦争そのものを巨大なビジネスとして組織し、国家に軍隊を「供給」する役割を担いました。しかし、傭兵の時代は、同時に戦争の残虐性と破壊を際限なく拡大させた時代でもありました。給料の支払いが滞れば、彼らは味方であるはずの住民に対して容赦ない略奪を行い、その行動はしばしば制御不能に陥りました。三十年戦争における「戦争が戦争を養う」という原則は、傭兵制度がもたらした破壊の論理を象徴しています。
傭兵時代の幕開け イタリア戦争と傭兵の類型
近世ヨーロッパにおける傭兵制度の確立は、15世紀末から16世紀にかけてイタリア半島で繰り広げられたイタリア戦争と密接に結びついています。この戦争は、中世的な封建軍から近世的な火器歩兵を中心とする軍隊への移行を決定づけ、傭兵が戦場の主役となる時代を告げました。この時代に登場した二つの代表的な傭兵集団、スイス傭兵とランツクネヒトは、その後のヨーロッパの戦争の様相を定義づける存在となります。
イタリア戦争 傭兵の実験場
15世紀末のイタリアは、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、教皇領、ナポリといった多数の国家が互いに覇を競い合う、政治的に分裂した地域でした。これらの都市国家は、商業的な繁栄を謳歌していましたが、その市民は兵役を嫌い、軍事力を外部に依存する傾向がありました。中世後期から、イタリアでは「コンドッティエーレ」と呼ばれる傭兵隊長が率いる傭兵団が戦争の主役となっていました。しかし、1494年にフランス王シャルル8世が大規模な軍隊を率いてイタリアに侵攻すると、戦争の規模と様相は一変します。
フランス軍は、重装騎兵(ジャンダルム)に加え、当時ヨーロッパ最強と謳われたスイス傭兵のパイク兵方陣、そして青銅製の軽量な攻城砲を伴っていました。これに対し、イタリア諸国や、イタリアの覇権を争うスペイン(アラゴン=カスティーリャ連合王国)や神聖ローマ帝国も、対抗上、同様の傭兵を大規模に雇用する必要に迫られました。こうしてイタリア半島は、ヨーロッパ中の君主たちが最新の軍事技術と戦術を競い合う、巨大な軍事実験場と化したのです。この過程で、火器(火縄銃)とパイク(長槍)を組み合わせた歩兵方陣が戦場の主役となり、それを運用できる専門的な訓練を受けた傭兵の需要が爆発的に増大しました。
スイス傭兵 最強の歩兵
近世初頭の傭兵市場において、スイス人ほどの名声と需要を誇った者たちはいませんでした。スイス誓約同盟は、アルプスの山々に囲まれた貧しい地域であり、その住民にとって傭兵稼業は、数少ない貴重な現金収入源でした。14世紀から15世紀にかけて、スイス兵はハプスブルク家の騎士軍をブルグンド戦争などで繰り返し打ち破り、密集したパイク兵方陣による突撃戦術の有効性をヨーロッパ中に知らしめました。
スイスのパイク兵方陣は、長さ5メートルから6メートルにも及ぶ長槍をハリネズミのように突き出した、巨大な動く要塞でした。彼らは、驚くべき規律と団結力を誇り、鬨の声を上げながら敵陣に突撃する様は、敵に恐怖を植え付けました。彼らの強さの秘密は、厳しい訓練と、カントン(州)ごとに組織された共同体意識にありました。彼らは単なる個人の集まりではなく、故郷の隣人や親族と共に戦う、固い絆で結ばれた戦闘集団だったのです。
その圧倒的な強さから、スイス傭兵はヨーロッパ中の君主から引く手あまたとなりました。特にフランス王家はスイスと長期的な傭兵契約を結び、彼らを王軍の中核に据えました。1515年のマリニャーノの戦いでは、フランス軍のスイス兵と、ミラノ公に雇われた敵のスイス兵が、互いに一歩も引かずに壮絶な白兵戦を繰り広げたことが記録されています。スイス傭兵は非常に高価でしたが、その戦闘力は値段に見合うものと見なされていました。彼らの職業的誇りは高く、一度契約を結べば忠実でしたが、給料の支払いが滞れば、平気で雇い主を見捨てる冷徹さも持ち合わせていました。教皇の身辺を警護するスイス衛兵は、この時代のスイス傭兵の伝統を今に伝える唯一の存在です。
ランツクネヒト=スイスの模倣者にしてライバル
スイス傭兵の成功は、すぐに模倣者を生み出しました。その最も重要なライバルが、ドイツ南部出身の傭兵、ランツクネヒトです。ランツクネヒトは、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世によって、スイス傭兵に対抗するために創設されたと言われています。彼は、スイスの戦術を徹底的に研究し、それをドイツ人の兵士に導入しました。
「ランツクネヒト」とは「国の僕」を意味し、彼らもまたスイス兵と同様にパイクを主武装としましたが、より多くの火縄銃兵や、「ツヴァイヘンダー」と呼ばれる巨大な両手剣を操る熟練兵(ドッペルゾルドナー、二倍の給料取り)を含んでいました。彼らの最も際立った特徴は、その派手で奇抜な服装でした。体にぴったりした上着やズボンに無数の切れ込み(スリット)を入れ、そこから色の違う裏地をのぞかせるというファッションは、彼らの自由で無法な精神を象徴していました。
ランツクネヒトとスイス傭兵は、戦場で出会うたびに、互いを裏切り者や不忠者と罵り、情け容赦のない殲滅戦を繰り広げました。彼らの間には、傭兵市場における独占権をめぐる激しいライバル意識があったのです。1527年の「ローマ劫掠」では、皇帝カール5世に雇われた給料未払いのランツクネヒトたちが暴走し、ローマ市で凄まじい略奪、破壊、虐殺を行いました。この事件は、傭兵の持つ破壊的な側面をヨーロッパ中に知らしめる出来事となりました。ランツクネヒトはスイス傭兵よりも安価で雇用できたため、16世紀を通じて広く利用され、ドイツはスイスと並ぶヨーロッパ最大の傭兵供給地となったのです。
軍事起業家の時代=三十年戦争とヴァレンシュタイン
17世紀前半の三十年戦争は、傭兵制度がその頂点に達した時代でした。戦争の規模がかつてなく拡大し、数十万の兵士がヨーロッパ中で戦闘を繰り広げるようになると、もはや君主や国家が直接軍隊を組織し、維持することは困難になりました。この需要に応える形で登場したのが、「軍事起業家」と呼ばれる新たなタイプの傭兵隊長たちです。彼らは、戦争そのものを巨大なビジネスとして捉え、国家に対して軍隊という「商品」をパッケージで提供しました。
戦争の民営化と軍事起業家
軍事起業家とは、自らの資金、信用、そして人脈を駆使して軍隊を募集し、装備を整え、それを交戦国に売り込む人物のことです。彼らは単なる戦闘員ではなく、経営者であり、金融家であり、兵站の専門家でした。
そのシステムは次のようなものでした。まず、君主(雇い主)と軍事起業家との間で「カピチュレーション」と呼ばれる契約が結ばれます。この契約には、募集する兵士の数、兵種(歩兵、騎兵、砲兵)、給料、契約期間などが詳細に定められていました。契約が成立すると、起業家は自らが持つ大佐(カーネル)たちのネットワークに連絡し、彼らに連隊の編成を委託します。大佐たちはさらに下位の士官(大尉など)に中隊の募集を請け負わせ、募兵官が太鼓と笛の音と共に町や村を練り歩き、兵士を募集しました。
こうして集められた兵士の給料や装備、食料の調達は、すべて起業家の責任でした。彼らは、そのために莫大な資金を立て替える必要があり、しばしばフッガー家やヴェーゼル家のような大商人や銀行家から融資を受けました。彼らの利益は、君主から支払われる契約金と、兵士の給料から差し引く手数料(実質的な中間搾取)によって得られました。このシステムは、君主にとって非常に便利でした。君主は、軍隊の組織や維持という煩雑な業務から解放され、必要な時に必要なだけの軍事力を「購入」することができたからです。これは、現代の言葉で言えば、戦争の「アウトソーシング」あるいは「民営化」に他なりませんでした。
ヴァレンシュタイン 軍事起業家の典型
この軍事起業家というシステムの頂点に立ち、その可能性と危険性の両方を体現したのが、三十年戦争で神聖ローマ皇帝に仕えたアルブレヒト=フォン=ヴァレンシュタインです。
ヴァレンシュタインは、ボヘミアの小貴族の出身でしたが、カトリックに改宗し、ハプスブルク家に仕えることで頭角を現しました。彼は、1618年のボヘミア反乱後のプロテスタント貴族の土地没収の過程で、巧みな投機によって巨万の富を築き、広大な領地(フリードラント公国)を手に入れます。
1625年、デンマークが三十年戦争に介入し、皇帝フェルディナント2世が窮地に陥った際、ヴァレンシュタインは皇帝に前代未聞の提案を行いました。それは、皇帝の資金に頼ることなく、自らの負担で5万人の軍隊を組織し、指揮するというものでした。彼の資金力と信用力は、それを可能にしました。彼は、自らの領地であるフリードラント公国を巨大な兵器廠に変え、武器、弾薬、軍服などを生産させました。そして、ヨーロッパ中に張り巡らせたネットワークを通じて、食料やその他の必需品を調達したのです。
ヴァレンシュタインの軍隊は、彼個人の私兵軍団であり、その忠誠は皇帝ではなくヴァレンシュタイン自身に向けられていました。彼は、この巨大な軍事力を背景に、皇帝さえも無視できないほどの政治的権力を手中に収めます。彼はメクレンブルク公の地位を与えられ、北ドイツに一大勢力圏を築き上げました。
「戦争が戦争を養う」 コントリビューツィオーン・システム
ヴァレンシュタインの軍隊を維持した経済システムの核心は、「コントリビューツィオーン」(軍税)と呼ばれるシステムでした。これは、「戦争が戦争を養う」という原則を組織化したものです。
彼の軍隊は、占領した地域に対し、現金、食料、飼料などを組織的に徴収しました。この徴収は、単なる無秩序な略奪とは異なり、地域の資産や生産力に応じて計画的に割り当てられ、地方の役人を通じて強制的に集められました。もし地域が支払いを拒否すれば、容赦ない略奪や放火が行われました。このシステムによって、ヴァレンシュタインは、皇帝からの資金援助がなくても、数十万の軍隊を敵地で長期間維持することが可能となったのです。
このコントリビューツィオーン・システムは、戦争のあり方を根本的に変えました。戦争の目的は、もはや敵軍を打ち破ることだけではなく、敵地を占領し、そこから資源を吸い上げることで自軍を維持し、敵を疲弊させることに重点が置かれるようになりました。このシステムは、敵味方を問わず、戦争が行われる地域の住民に壊滅的な負担を強いました。兵士たちは、たとえ「味方」の領土に駐屯していても、住民から食料や宿舎を徴発し、しばしば暴力や略奪を行いました。三十年戦争がヨーロッパ史上最も破壊的な戦争の一つとなった大きな要因は、この傭兵軍を維持するための収奪システムにあったのです。ヴァレンシュタインの成功は、他の軍事起業家たち(スウェーデン側のベルンハルト=フォン=ザクセン=ヴァイマールなど)にも模倣され、ドイツ全土が傭兵軍の巨大な餌食となりました。
しかし、ヴァレンシュタインの独立した権力は、やがて皇帝自身の脅威となります。彼は、皇帝の意向を無視して敵と独断で和平交渉を進めていると疑われ、1634年、皇帝の命令によって暗殺されました。彼の死は、一人の軍事起業家が国家をも上回る権力を持ち得た、傭兵時代の頂点とその終焉を象徴する出来事でした。
傭兵の生活と社会
近世ヨーロッパの傭兵の生活は、自由と暴力、仲間意識と裏切り、そして常に死と隣り合わせの、極めて過酷なものでした。彼らは、通常の社会から切り離された移動集団を形成し、その中には兵士だけでなく、女性や子供を含む多くの民間人も含まれていました。
誰が傭兵になったのか
傭兵になった人々の動機は様々でした。最も大きな動機は、貧困からの脱出でした。近世ヨーロッパの農村は、人口増加と土地不足により、多くの次男や三男、土地を持たない農民を生み出していました。彼らにとって、傭兵稼業は、食い扶持を稼ぎ、一攫千金を夢見ることができる数少ない選択肢の一つでした。
しかし、経済的な動機だけではありませんでした。冒険心や名誉欲に駆られて軍隊に志願する若者もいました。また、犯罪を犯して故郷にいられなくなった者や、宗教的迫害から逃れてきた者もいました。三十年戦争の時代には、戦争によって故郷を破壊され、生きるために軍隊に入るしかなくなった農民や市民も数多くいました。一度軍隊に入ると、その生活様式に染まり、平和な市民生活に戻ることは困難でした。こうして、兵士であること自体がアイデンティティとなる、専門的な軍人階層が形成されていったのです。
軍隊の日常と規律
傭兵の日常生活は、退屈な行軍と、過酷な労働、そして時折訪れる激しい戦闘の繰り返しでした。彼らは一日に20キロから30キロもの距離を行軍し、野営地の設営や要塞の建設といった肉体労働に従事しました。食事は粗末で、固い乾パンとスープが主食であり、しばしば飢えに苦しめられました。
軍隊内の規律は、表面的には非常に厳格でした。窃盗、脱走、上官への反抗といった罪には、鞭打ちや吊し刑などの厳しい体罰が科されました。しかし、その規律が実際にどの程度守られていたかは疑問です。特に、給料の支払いが滞ると、兵士たちの不満は爆発し、反乱(ミューティニー)が頻繁に発生しました。反乱を起こした兵士たちは、自分たちの代表(「エレクト」と呼ばれる)を選出し、士官を人質に、未払い給料の支払いを要求しました。これは、一種の労働争議であり、兵士たちが自分たちの権利を主張するための最終手段でした。多くの場合、指揮官は兵士たちの要求を受け入れ、略奪を許可することで反乱を収拾せざるを得ませんでした。
野営地 移動する社会
近世の傭兵軍は、兵士だけの集団ではありませんでした。それは、「トロス」(Tross)と呼ばれる、膨大な数の民間人を伴った、巨大な移動社会でした。トロスには、兵士たちの妻や恋人、子供たち、そして洗濯女、料理人、商人、職人などが含まれていました。
女性たちは、兵士たちの身の回りの世話(洗濯、炊事、傷の手当て)をする上で不可欠な存在でした。彼女たちは兵士と同じように過酷な行軍に耐え、時には戦闘にも参加しました。商人たちは、兵士に酒やタバコ、食料などを売り、職人たちは武器や馬具の修理を行いました。このトロスは、軍隊が機能するための兵站システムの一部を担っており、その規模はしばしば戦闘員の数を上回りました。例えば、1万人の兵士からなる軍隊が、2万人以上の民間人を引き連れていることも珍しくありませんでした。
この巨大な移動社会は、それ自体が消費と略奪の主体でした。彼らが通過した後の地域は、食料や家畜が食い尽くされ、ぺんぺん草も生えないほどの惨状を呈したと言われています。傭兵軍がもたらす破壊は、戦闘そのものよりも、この巨大な集団を維持するための収奪によって引き起こされる部分が大きかったのです。
傭兵時代の終焉 常備軍の台頭
三十年戦争の破壊と混乱は、ヨーロッパの君主たちに、傭兵に依存する軍事システムの危険性を痛感させました。戦争の終結後、特にフランスのルイ14世の下で進められた軍事改革は、傭兵の時代に終止符を打ち、国家が直接管理する常備軍の時代を到来させました。
三十年戦争の教訓
三十年戦争は、戦争の民営化がもたらす弊害を白日の下に晒しました。
忠誠心の欠如:傭兵の忠誠心は、究極的には給料の支払いに依存しており、国家や君主への忠誠は二の次でした。彼らはより良い条件を提示する敵に寝返ることもあり、信頼性に欠けていました。
規律の欠如と破壊:給料の未払いは、兵士の反乱と制御不能な略奪を頻繁に引き起こし、自国の領土さえも荒廃させました。ヴァレンシュタインのような強力な軍事起業家は、君主自身の権威を脅かす存在となりました。
非効率性:軍事起業家システムは、多くの仲介者(大佐や大尉)が利益を差し引くため、君主が支払う費用の割に、実際に戦場に投入される兵士の質や数が伴わないことがありました。
これらの問題は、君主が軍隊をより直接的に、そして恒常的に管理する必要性を浮き彫りにしました。
ルイ14世の軍事改革
傭兵時代の終焉を決定づけたのは、17世紀後半のフランス王ルイ14世とその有能な陸軍大臣ルーヴォワが進めた一連の軍事改革でした。
軍隊の国有化:ルイ14世は、軍事起業家や大佐が私的に軍隊を所有するシステムを廃止しました。連隊の所有権は国王に帰属するものとされ、士官は国王から任命される国家の役人と位置づけられました。これにより、軍隊の忠誠心は国王と国家に向けられることになりました。
兵站と管理の国家管理:ルーヴォワは、兵士の給料、食料、軍服、装備などを国家が一元的に管理する兵站システムを構築しました。国境地帯には巨大な兵器廠や食料貯蔵庫が建設され、軍隊はもはや現地での略奪に頼る必要がなくなりました。これにより、軍隊の規律は劇的に向上し、民間人への被害は減少しました。
階級制度と訓練の標準化:明確な階級制度が導入され、昇進は年功や功績に基づいて行われるようになりました。また、国王の名の下に統一された訓練教範が作成され、全軍で標準化された訓練が行われるようになりました。これにより、フランス軍はヨーロッパで最も規律正しく、均質な軍隊へと変貌しました。
これらの改革によって創設されたフランスの常備軍は、国王が平時においても維持し、意のままに動かすことができる、強力な政治的・軍事的道具となりました。プロイセンやオーストリア、ロシアといった他のヨーロッパ諸国も、フランスのモデルに倣って次々と常備軍を整備していきました。18世紀には、ヨーロッパの主要国はすべて、傭兵に依存するのではなく、国家が管理する大規模な常備軍を持つようになります。
もちろん、傭兵が完全に姿を消したわけではありませんでした。18世紀になっても、ヘッセン=カッセル方伯領のようなドイツの小邦は、財政収入を得るために「兵士貸し業」を続け、その兵士たちはアメリカ独立戦争でイギリス軍の一部として戦いました。しかし、彼らはもはや戦争の主役ではなく、国家が管理する常備軍を補完する存在でしかありませんでした。戦争の主導権は、完全に国家の手に移ったのです。
近世ヨーロッパの傭兵は、封建的な社会から近代的な国民国家へと移行する、激動の時代が生み出した産物でした。彼らは、イタリア戦争の戦場で歩兵戦術の革命を主導し、三十年戦争では軍事起業家という新たなシステムの下で戦争の規模を空前に拡大させました。彼らの存在は、君主が領土と権力を拡大するための不可欠な道具でしたが、同時に、その制御不能な暴力と破壊性は、社会に深刻な傷跡を残しました。
スイス兵やランツクネヒトの勇猛さ、ヴァレンシュタインの野心、そして名もなき兵士たちの過酷な日常は、近世という時代の光と影を映し出しています。傭兵の時代は、戦争が利益を生むビジネスであり、兵士が国際的な労働市場を移動する商品であった時代でした。しかし、そのシステムがもたらした際限のない破壊は、最終的に国家による軍事力の独占と、より規律正しい常備軍の創設を促しました。