イグナティウス=デ=ロヨラとは
イグナティウス=デ=ロヨラは、カトリック教会最大の修道会であるイエズス会の創設者であり、その初代総長です。彼の人生は、世俗的な栄光を追い求める野心的な騎士から、神にすべてを捧げる「神の騎士」へと劇的に転換した、深い回心の物語です。その個人的な霊的体験から生まれた『霊操』は、近代カトリック教会の霊性に最も大きな影響を与えた著作の一つとなり、彼が設立したイエズス会は、対抗宗教改革、世界宣教、そして教育の分野で、歴史を動かす巨大な力となりました。
前半生
イグナティウス=デ=ロヨラの劇的な後半生を理解するためには、まず彼がどのような人間であり、何を追い求めていたのか、その前半生を知る必要があります。彼の回心は、真空の中で起こったのではなく、それまでの彼の価値観や経験との、激しい葛藤の中から生まれたものだからです。
バスクの貴族
イグナティウス、本名イニゴ=ロペス=デ=ロヨラは、1491年、スペイン北部のギプスコア地方、アスペイティアの町近郊にあるロヨラ城で生まれました。彼は、バスク人の古い貴族の家系であるロヨラ家の、13人兄弟の末子でした。バスク地方は、その険しい山々と独自の言語、そして誇り高く独立心旺盛な人々で知られており、イニゴの不屈の精神と強固な意志は、この故郷の風土によって育まれたと言えるかもしれません。
ロヨラ家は、ギプスコア地方では名家でしたが、スペイン王国全体で見れば、下級貴族にすぎませんでした。イニゴが生まれた時代は、スペインが、グラナダを陥落させてレコンキスタ(国土回復運動)を完了し、コロンブスのアメリカ大陸到達によって、大航海時代の幕を開けた、まさに国家的な高揚期にありました。多くの野心的な若者たちと同様に、イニゴもまた、この新しい時代の中で、自らの剣と才覚によって、富と名誉を掴み取ることを夢見ていました。
彼は、聖職者になるための教育も受けましたが、その道には全く興味を示しませんでした。彼の心は、宮廷での華やかな生活、戦場での武勲、そしてロマンティックな恋愛といった、世俗的な栄光へと向かっていました。彼は、自伝の中で、若い頃の自分を「虚栄心に満ち、武勇伝や女性への奉仕に夢中であった」と率直に語っています。彼は、身体的な鍛錬に励み、剣術に長け、優雅な立ち居振る舞いを身につけた、魅力的な青年でした。しかしその一方で、短気で喧嘩早く、名誉を傷つけられたと感じれば、すぐに決闘に及ぶような、激しい気性の持ち主でもありました。
カスティーリャ王国財務官の宮廷にて
10代半ば頃、イニゴは、カスティーリャ王国の財務官であり、親戚でもあったフアン=ベラスケス=デ=クエリャルのもとへ、小姓として送られました。ベラスケスの宮廷は、国王フェルナンド(アラゴン王兼カスティーリャ摂政)の宮廷とも密接な関係にあり、イニゴはここで、宮廷人としての洗練された作法、政治的な駆け引き、そして上流社会の華やかさを、肌で感じることになります。
彼は、騎士道物語を読みふけり、物語に出てくる英雄たちのように、主君に忠誠を誓い、困難な任務を成し遂げ、そして身分の高い貴婦人に、自らの武勲を捧げることを、夢想していました。彼が心に描いていた貴婦人は、単なる貴族の娘ではなく、「女王にも劣らないほど高貴な女性」であったと、自伝は示唆しています。これは、彼の野心がいかに大きかったかを示すものです。彼は、恋愛においてさえ、最高のもの、最も困難なものを、追い求めていたのです。
この宮廷での生活は、彼に、世俗的な成功への渇望を、さらに強く植え付けました。彼は、外交的な任務にも従事し、その才覚を発揮したと言われています。しかし、1517年に、彼の庇護者であったベラスケスが、国王との関係悪化により失脚し、亡くなると、イニゴの宮廷でのキャリアは、突然終わりを告げました。
パンプローナの戦いと負傷
新たな主君を求めたイニゴは、ナバラ副王であり、ナヘラ公爵でもあったアントニオ=マンリケ=デ=ララに、軍人として仕えることになりました。当時、ナバラ王国は、スペインとフランスの間の、長年にわたる係争地でした。
1521年5月、フランス王フランソワ1世は、スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)との対立の中で、ナバラ王国に大軍を送り込みました。フランス軍は、圧倒的な兵力で、ナバラの首都パンプローナに迫りました。パンプローナのスペイン守備隊は、戦意を喪失し、降伏を主張する者がほとんどでした。
しかし、30歳のイニゴは、降伏を断固として拒否し、最後まで戦い抜くことを、強く主張しました。彼の騎士としての名誉と誇りが、不名誉な降伏を許さなかったのです。彼の熱意に動かされ、守備隊は、城砦に立てこもって、抵抗することを決意しました。
5月20日、フランス軍の猛烈な砲撃が開始されました。城壁の上で指揮を執っていたイニゴの足元に、砲弾が着弾しました。砲弾は、彼の片方の脚の骨を砕き、もう片方の脚にも、重傷を負わせました。指揮官を失った城砦は、まもなく降伏しました。
フランス軍の兵士たちは、イニゴの勇敢さを称え、彼を丁重に扱いました。軍医による応急処置の後、彼は担架に乗せられ、故郷のロヨラ城へと、送り返されました。このパンプローナでの敗北と負傷は、彼の軍人としてのキャリアの終わりを意味しましたが、それは同時に、全く新しい人生の、予期せぬ始まりでもあったのです。
回心=霊的な目覚め
ロヨラ城での長い療養生活は、イグナティウスの人生における、決定的な転換点となりました。肉体的な苦痛と、強制的な静寂の中で、彼は、自らの内面と向き合わざるを得なくなり、そこで、神との劇的な出会いを体験します。
ロヨラ城での療養と読書
ロヨラ城に運び込まれたイニゴの容態は、深刻でした。フランス軍の軍医による最初の整復手術は、不完全でした。脚の骨は、ずれたまま癒合し始め、片方の脚が、もう片方よりも、短くなってしまいました。さらに、骨の破片が、醜く突き出ていました。
騎士としての外見を、何よりも重んじるイニゴにとって、この不格好な脚は、耐え難い屈辱でした。彼は、宮廷に再び戻り、美しいブーツを履きこなすために、医者たちに、再手術を懇願しました。それは、麻酔もない時代における、想像を絶するほど痛みを伴う手術でした。医者たちは、突き出た骨をノコギリで切り落とし、短くなった脚を、器具で無理やり引き伸ばそうとしました。イニゴは、悲鳴一つ上げず、ただ拳を握りしめて、その激痛に耐えたと伝えられています。このエピソードは、彼の驚異的な意志の強さと、世俗的な名誉への、執着の深さを示しています。
しかし、この苦痛に満ちた手術も、完全な成功には至りませんでした。彼の脚は、生涯にわたって、わずかに不自由なままとなります。もはや、かつてのように、優雅に舞踏を踊ったり、戦場で活躍したりすることは、不可能でした。彼の騎士としての夢は、完全に打ち砕かれたのです。
長い療養生活の間、ベッドの上で退屈を持て余した彼は、気晴らしになる読み物を求めました。彼が読みたかったのは、アマディス=デ=ガウラのような、お気に入りの騎士道物語でした。しかし、厳格なロヨラ城には、そのような世俗的な本は、一冊もありませんでした。兄が彼に与えたのは、ザクセンのルドルフによる『キリストの生涯』と、ヤコブス=デ=ウォラギネによる『黄金伝説』(聖人たちの列伝)の、二冊の宗教書だけでした。
他に何もすることがなかったため、イニゴは、不承不承、これらの本を読み始めました。しかし、読み進めるうちに、彼は、その内容に、深く引き込まれていきました。彼は、キリストの謙遜、慈愛、そして自己犠牲的な生涯に、心を打たれました。また、聖フランシスコや聖ドミニコといった聖人たちが、神のために、いかに偉大なことを成し遂げたかを知り、感銘を受けました。彼らの生き方は、彼がこれまで追い求めてきた、世俗的な英雄たちの生き方とは、全く異なるものでしたが、そこには、ある種の崇高な偉大さがありました。
霊の識別
この読書体験を通じて、イニゴは、自分の心の中で、奇妙な現象が起こっていることに気づきました。
彼が、かつてのように、仕えていた貴婦人のことや、戦場で武勲を立てることなどを、空想しているとき、その間は、確かに楽しい気分になりました。しかし、その空想が終わると、心は乾き、虚しさを感じました。
一方で、彼が、キリストがなさったことや、聖フランシスコのように、エルサレムへ巡礼したり、荒野で苦行したりすることを、想像しているとき、その想像が終わった後も、心の中には、深く、満ち足りた喜びと、平和な感情が、長く留まるのでした。
初めは、この違いに、彼は注意を払いませんでした。しかし、何度もこの体験を繰り返すうちに、彼は、この二つの異なる感情の源について、深く考えるようになりました。そして、彼は、ある重要な発見に至ります。一方の思いは、悪魔(悪霊)から来ており、もう一方の思いは、神(善霊)から来ているのだ、と。
これは、イグナティウスの霊性の核心となる、「霊の識別」の、最初の発見でした。彼は、自らの内的な感情の動きを、注意深く観察し、分析することによって、何が神の御心に由来し、何がそうでないのかを、見分ける方法を、学び始めたのです。彼は、自分の心が、神と悪霊が戦う、霊的な戦場であることに、気づきました。
この発見は、彼の人生観を、根底から覆しました。彼は、もはや世俗的な王に仕える騎士ではなく、天の王であるキリストに仕える「神の騎士」になりたいと、強く願うようになりました。彼は、聖フランシシスコや聖ドミニコが成し遂げた偉業を、自分も成し遂げたい、いや、彼ら以上に、神のために偉大なことをして見せると、決意しました。かつて、世俗的な競争心に燃えていた彼の情熱は、今や、霊的な競争心へと、その方向を変えたのです。
回復したイニゴは、もはや、かつての宮廷人ではありませんでした。彼の心は、一つの決意で満たされていました。それは、過去の罪深い生活を捨て、聖地エルサレムへ巡礼し、そこで、キリストの足跡を辿りながら、人々の魂を救うために、生涯を捧げるというものでした。
巡礼者として
ロヨラ城を出たイグナティウスは、巡礼者として、全く新しい人生の旅を始めました。この時期は、彼が、神との関係を深め、後に『霊操』として結実する、独自の霊性を形成していく上で、極めて重要な期間となります。
モンセラートでの奉献
彼の最初の目的地は、カタルーニャ地方にある、モンセラートのベネディクト会修道院でした。そこには、「黒いマリア」として知られる、聖母マリア像が祀られており、多くの巡礼者が訪れる聖地でした。
モンセラートへ向かう途中、彼は、一人のムーア人(イスラム教徒)に出会いました。二人は、聖母マリアの処女性について、議論を始めました。ムーア人は、マリアが処女のままキリストを産んだことは認めるが、その後も処女であり続けたとは信じられない、と主張しました。敬虔なマリア崇敬の念に燃えるイニゴは、この言葉に激しく憤慨しました。ムーア人が先に立ち去った後、彼は、深刻なジレンマに陥りました。聖母の名誉を汚したあの男を、追いかけて、短剣で刺し殺すべきではないか? 騎士としての古い本能が、彼に復讐を囁きました。
悩んだ末、彼は、決断を、神の思し召しに委ねることにしました。彼は、乗っていたラバの判断に任せることにしたのです。道が二つに分かれる場所で、もしラバが、ムーア人が去っていった道を選べば、彼を追いかける。もし、主要な道を進み続けるならば、彼を許す。幸いにも、ラバは、主要な道を選びました。この出来事は、彼が、いまだに、衝動的で暴力的な古い自分と、神の慈悲を求める新しい自分との間で、引き裂かれていたことを、示しています。
モンセラートに到着したイニゴは、まず、告解の聴罪司祭のもとで、それまでの全生涯の罪を、三日間かけて、詳細に告白しました。そして、1522年3月24日の夜、受胎告知の祝日の前夜、彼は、騎士道物語に描かれた、武器の徹夜の儀式を、模倣しました。彼は、自分の豪華な貴族の服を、一人の乞食に与え、粗末な麻袋の巡礼服を身にまといました。そして、聖母マリア像の前で、一晩中、ひざまずき、あるいは立ったまま、祈りを捧げました。夜が明けると、彼は、自分の剣と短剣を、祭壇の柵に吊るしました。
これは、彼の過去の人生との、完全な決別を象徴する、決定的な儀式でした。彼は、世俗の騎士であることをやめ、聖母マリアに仕える、キリストの貧しい兵士となったのです。
マンレサでの内的な試練と光明
モンセラートを離れたイニゴは、聖地へ向かう船を待つために、近くのマンレサという小さな町に、滞在することにしました。当初は、数日間の滞在の予定でしたが、結局、彼は、この町に、約11か月間も、留まることになります。このマンレサでの期間は、彼の霊的生活において、最も重要で、かつ最も過酷な時期でした。
彼は、町の病院の施しを受けながら、洞窟の中で、隠修士のような生活を送りました。彼は、毎日7時間も祈り、厳しい断食と、苦行(体に苦痛を与える修行)に、その身を捧げました。髪も爪も伸ばし放題で、その姿は、まるで野獣のようでした。
しかし、この極端な苦行は、彼に、平安をもたらすどころか、深刻な霊的な危機を引き起こしました。彼は、過去の罪、特に若い頃の虚栄心に満ちた生活に対する、耐え難いほどの罪悪感と、良心の呵責に、苛まれるようになりました。彼は、モンセラートで、すでに全生涯の罪を告白したにもかかわらず、何か告白し忘れた罪があるのではないかという、強迫観念(スコラプル)に取り憑かれました。彼は、何度も何度も、同じ罪を告白し、聴罪司祭を、うんざりさせました。
この霊的な苦悩は、ますます深まり、彼は、絶望の淵に立たされます。神は、自分のような罪深い人間を、決して許してはくれないのではないか。彼は、神の慈悲を、全く感じることができなくなりました。そして、ついに、彼は、この苦しみから逃れるために、自殺したいという、強い誘惑に襲われます。彼は、建物の大きな穴から、身を投げようとさえしました。
この暗黒の体験の、まさにどん底で、彼は、ある決断をします。彼は、自分の力で、神の赦しを勝ち取ろうとすることを、やめることにしました。彼は、自分の惨めさや罪深さから目を離し、ただ、キリストの慈悲と憐れみに、信頼することを、決意したのです。そして、彼は、過去の罪について、もはや、自ら思い悩むことを、やめました。
この降伏とも言える決断が、転機となりました。彼の心を覆っていた暗雲は、次第に晴れていき、彼は、深い霊的な慰めと、平安を、再び感じるようになりました。
この危機を乗り越えた後、イニゴは、マンレサで、一連の、強烈な神秘体験、すなわち「光明」を、経験します。彼は、もはや、書物を通じてではなく、直接的に、神から、霊的な事柄についての、深い理解を与えられました。
ある日、カルドネル川のほとりで祈っていると、彼の「理解の目」が開かれ、信仰の真理や、人間的な事柄を、全く新しい光の下で、理解することができました。彼は、三位一体の神秘、世界の創造、聖体の秘跡におけるキリストの現存などを、あたかも、目の当たりにするかのように、直感的に把握しました。彼は、自伝の中で、「この時、私が理解した事柄は、非常に多く、もし、私が、生涯を通じて学んだことすべてを、一つに集めたとしても、この一度に受けたものほどには、ならないだろう」と語っています。
このマンレサでの体験、すなわち、激しい霊的な苦闘(脱慰)、それに続く深い慰め、そして、神からの直接的な光明は、イグナティウスの霊性の基礎を、形作りました。彼が、後に『霊操』として体系化する、霊の識別のルール、祈りの方法、そして神の御心を見出すための指針は、すべて、このマンレサでの、彼自身の生々しい体験に、根差しているのです。彼は、霊的な事柄における、経験豊かな案内人となったのです。
エルサレム巡礼とその断念
1523年、イニゴは、ついに、長年の夢であった聖地エルサレムへの巡礼の旅に出発しました。彼は、無一文で、神の摂理のみに頼って、旅を続けました。バルセロナから船でイタリアに渡り、ローマで教皇ハドリアヌス6世の祝福を受け、ヴェネツィアから、聖地へ向かう巡礼船に乗り込みました。
エルサレムに到着した彼の喜びは、計り知れないものでした。彼は、キリストが歩き、教え、そして十字架につけられた場所を、一つ一つ、深い感動をもって訪れました。彼の願いは、この聖地に留まり、イスラム教徒の間で、福音を宣べ伝えながら、生涯を終えることでした。
しかし、その願いは、現地のフランシスコ会の管区長によって、無残にも打ち砕かれます。当時、聖地のキリスト教徒は、オスマン帝国の支配下で、非常に不安定な立場にありました。フランシスコ会は、教皇から、聖地の管理と、巡礼者の安全を守る権限を、与えられていました。管区長は、イニゴの無謀な計画が、イスラム教徒を刺激し、聖地のキリスト教徒全体を、危険に晒すことになると、判断しました。彼は、イニゴに、破門の権威をちらつかせながら、直ちにエルサレムを去るよう、厳命しました。
イニゴは、深く失望しましたが、教会の権威への服従の精神から、この命令に従いました。このエルサレムでの挫折は、彼にとって、第二の転換点となりました。彼は、人々の魂を助けたいという、自分の熱意だけでは、不十分であることを、痛感しました。神のために、より効果的に働くためには、学問、特に神学の知識が、不可欠である。そして、そのためには、まず、教会の正式な認可と、協力が必要である。彼は、スペインに戻り、一から勉強をやり直すことを、決意しました。この時、彼は、すでに33歳になっていました。
学生として
エルサレムでの計画を断念したイグナティウスは、その後、約11年間にわたって、学生として、スペインとフランスの大学を、渡り歩くことになります。この期間は、彼が、神学的な基礎を固めると同時に、彼のビジョンに共感する、最初の仲間たちを見つけ出し、イエズス会の土台を築いていく、重要な時期でした。
スペインでの勉学と宗教裁判
1524年、スペインに戻ったイグナティウスは、バルセロナで、ラテン語の文法の勉強を始めました。彼は、少年たちと一緒に、教室のベンチに座り、一から、動詞の活用を学びました。これは、かつて誇り高き騎士であった彼にとって、大きな謙遜を要求されることでした。
ラテン語の基礎を終えた後、彼は、アルカラ大学、次いでサラマンカ大学という、スペインの著名な大学で、哲学と神学を学びました。しかし、彼は、大学での公式な勉学と並行して、街頭や個人の家で、人々に、霊的な事柄について語り、自らがマンレサで得た、『霊操』の原型となる、霊的な指導を行っていました。
彼の活動は、多くの人々の注目を集めましたが、同時に、宗教裁判所(異端審問所)の疑念を招くことになりました。当時のスペインは、プロテスタントの思想や、「アルンブラドス(光明派)」と呼ばれる、神秘主義的な異端運動に対して、極度に警戒していました。神学の正式な学位も持たない、一介の平信徒であるイニゴが、人々に、霊的な指導を行っていることは、極めて異例であり、危険視されたのです。
彼は、アルカラとサラマンカの両方で、宗教裁判所に、何度も召喚され、投獄さえされました。彼の教えと、『霊操』の内容は、厳しく審査されました。しかし、審査官たちは、彼の教えの中に、いかなる異端も見出すことはできませんでした。彼は、無罪とされましたが、神学の研究を終えるまでは、霊的な事柄について、公に教えることを、禁じられました。
この経験を通じて、イグナティウスは、スペインでは、自分の活動が、常に当局の疑いの目で見られ、自由な活動ができないことを、悟りました。彼は、より自由で、国際的な学問の中心地で、研究を続けることを決意し、1528年、ヨーロッパ最高の学府である、パリ大学へと、向かいました。
パリ大学での出会い
パリ大学での生活は、イグナティウスにとって、実り多いものでした。彼は、サン=バルブ学院に入学し、これまでの断片的な学びを、一からやり直しました。彼は、優秀な学生として、着実に学業を進め、1534年には、文学修士の学位を取得しました。
しかし、このパリでの、最も重要な成果は、学問そのものよりも、彼が生涯の友となり、イエズス会の共同創設者となる、最初の仲間たちと出会ったことでした。
彼は、サン=バルブ学院で、二人の若いルームメイトを得ました。一人は、サヴォワ出身の、心優しいピエール=ファーヴル。もう一人は、ナバラ出身の、快活で野心的な、フランシスコ=ザビエルでした。
当初、ザビエルは、年上で、貧しい巡礼者のようなイグナティウスを、軽蔑していました。しかし、イグナティウスは、辛抱強く、彼らとの友情を育みました。彼は、ザビエルの学問的な野心を助け、時には、彼の学費の心配までしました。そして、彼は、イエス=キリストの「全世界の富を得ても、自分の魂を失ったなら、何の益があろうか」という言葉を、繰り返し、ザビエルに語りかけました。
やがて、ファーヴルとザビエルは、イグナティウスの深い霊性に、心を動かされ、彼から、『霊操』の指導を受けることを、受け入れました。『霊操』の体験は、彼らの人生を、完全に変えました。彼らは、世俗的なキャリアを捨て、イグナティウスと共に、神に仕える道を選ぶことを、決意しました。
彼らを中心に、同じ志を持つ、さらに4人の学友が集まりました。スペイン人の、ディエゴ=ライネスとアルフォンソ=サルメロンは、共に、卓越した知性を持つ、神学の俊英でした。同じくスペイン人のニコラス=ボバディリャと、ポルトガル人のシモン=ロドリゲスも、このグループに加わりました。
モンマルトルの誓い
1534年8月15日、聖母被昇天の祝日に、イグナティウスと、この6人の仲間たちは、パリのモンマルトルの丘に登りました。当時、そこは、パリ郊外の、静かな巡礼地でした。彼らは、聖ドニを記念する聖堂の地下聖堂に集まりました。
仲間の中で、唯一、すでに司祭に叙階されていた、ピエール=ファーヴルが、ミサを執り行いました。そして、聖体拝領の後、彼らは、一人ずつ、神の前に、厳かな誓いを立てました。
その誓いの内容は、以下の通りでした。
清貧の誓い: 生涯、個人的な財産を持たず、貧しい生活を送る。
貞潔の誓い: 生涯、結婚せず、神に身を捧げる。
エルサレムへの巡礼: 学業を終えた後、聖地エルサレムに渡り、そこで、人々の魂の救いのために働く。
そして、彼らは、この誓いに、重要な条件を付け加えました。もし、一年間待っても、戦争などの理由で、聖地へ渡ることができなかった場合は、ローマへ行き、教皇の御前に、自らを捧げ、教皇が、キリスト教世界のために、最も良いと判断する、あらゆる任務に、従う、というものでした。
この「モンマルトルの誓い」は、特定の修道会の規則に従うものではなく、志を同じくする「友人たちのグループ」が、自発的に立てた、約束でした。しかし、この誓いの中に、後のイエズス会の、基本的な精神、すなわち、清貧、使徒的活動への献身、そして、教皇への特別な服従の萌芽が、はっきりと見て取れます。この日、イエズス会は、まだ名前のない、小さな友愛の共同体として、産声を上げたのです。
総長として=イエズス会の組織化と指導
モンマルトルでの誓いの後、イグナティウスと仲間たちは、それぞれの学業を終え、1537年に、ヴェネツィアで再会しました。しかし、彼らが期待していた聖地への道は、ヴェネツィアとオスマン帝国との間の、新たな戦争によって、閉ざされてしまいました。
誓いの約束に従い、彼らは、ローマへと向かいました。この決断が、彼らの運命を、そしてカトリック教会の歴史を、大きく変えることになります。
イエズス会の正式認可
1538年、ローマに到着したイグナティウスと仲間たちは、教皇パウルス3世に、謁見を許されました。教皇は、宗教改革の嵐が吹き荒れる中で、教会の刷新に、強い意欲を持っていました。彼は、このパリ大学出身の、学識豊かで、熱意に燃えるグループに、深い感銘を受け、彼らに、ローマでの説教や、神学の講義といった、様々な活動を許可しました。
彼らの活動は、すぐに、ローマ市民の間で、高い評価を得ました。彼らのグループに、加わりたいと願う者も、現れ始めました。この時点で、彼らは、自分たちのグループを、恒久的な組織、すなわち、新しい修道会として、正式に設立すべきかどうかを、真剣に、討議し始めました。
1539年の春、彼らは、数週間にわたる、祈りと討議の末、新しい修道会を設立し、その長として、一人の総長を選び、彼に、服従を誓うことを、満場一致で決定しました。そして、彼らは、会の基本的な精神と目的を定めた「五か条の草案」を作成し、教皇に提出しました。その草案には、清貧、貞潔、服従の三誓願に加えて、教皇の命令であれば、世界のどこへでも派遣されるという、「第四の誓願」が、盛り込まれていました。
教皇庁内には、新しい修道会の設立に、慎重な意見もありましたが、パウルス3世は、この新しい組織の、将来性を見抜きました。1540年9月27日、教皇は、勅書「レジミニ=ミリタンティス=エクレシエ」を発布し、「イエズス会」を、カトリック修道会として、正式に認可しました。
1541年4月、最初の会員たちは、投票により、イグナティウスを、初代総長に選出しました。イグナティウスは、当初、自分はその器ではないとして、二度にわたって、その職を辞退しました。しかし、聴罪司祭の勧めに従い、彼は、最終的に、神の御心として、その重責を、受け入れました。
会憲の起草と統治
総長に就任したイグナティウスは、その後、1556年に亡くなるまでの15年間、ローマにある、小さな部屋から、一歩も外に出ることなく、急速に拡大していく、巨大な国際組織となったイエズス会を、統治し続けました。かつて、世界を巡り歩いた巡礼者は、今や、机に向かう、有能な行政家となったのです。
彼の総長としての、最大の仕事は、『イエズス会会憲』の起草でした。これは、単なる規則の書ではなく、イエズス会の精神、統治構造、会員の養成、そして使徒的活動のすべてを、詳細に規定した、包括的な文書でした。彼は、長年にわたって、祈りと、仲間たちとの協議、そして、世界各地から送られてくる報告を、注意深く検討しながら、この会憲を、書き進めました。
この会憲に示された、イグナティウスの組織論は、極めて独創的で、効果的なものでした。それは、強力な中央集権体制と、個々の会員の、柔軟な自発性を、巧みに組み合わせたものでした。総長は、終身制で、会全体に対して、絶対的な権限を持っていましたが、その決定は、常に、世界中の会員との、緊密なコミュニケーションに基づいていました。彼は、会員たちに、定期的に、詳細な手紙を送ることを義務付け、彼らの活動、成功、そして失敗から、常に学ぼうとしました。
彼が、総長として、世界中の会員に宛てて書いた手紙は、7000通近くにも上ります。これらの手紙を通じて、彼は、インドで活動するザビエルを励まし、ドイツでプロテスタントと論争するカニシウスに助言を与え、そして、ブラジルで先住民と暮らすアンシエタを、指導しました。彼は、物理的には、ローマの小さな部屋にいましたが、その心と精神は、常に、世界の果てで働く仲間たちと共にありました。
晩年と死
長年にわたる過酷な苦行と、絶え間ない激務は、イグナティウスの健康を、徐々に蝕んでいきました。彼は、胃の病気に、長年苦しんでいました。
1556年の夏、彼の容態は、急速に悪化しました。7月30日の午後、彼は、秘書に、教皇の祝福を、求めてくるように、頼みました。しかし、秘書は、病状を、それほど深刻だとは考えず、「明日でもよいでしょう」と答えました。
しかし、その夜、イグナティウスの容態は、急変しました。他の会員たちが、彼の危篤に気づいたときには、すでに手遅れでした。彼は、終油の秘跡(病者の塗油)も、教皇の祝福も、受けることなく、1556年7月31日の早朝、一人、静かに、息を引き取りました。65歳でした。
かつて、華々しい武勲と、栄誉に満ちた死を夢見た騎士は、誰にも看取られることなく、ローマの片隅で、その生涯を終えました。しかし、彼が遺した組織、イエズス会は、彼が亡くなった時、すでに、約1000人の会員を擁し、ヨーロッパから、アジア、アフリカ、アメリカ大陸に至るまで、世界中に、100以上の、コレジオと神学院を、設立していました。
イグナティウス=デ=ロヨラは、1609年に列福され、1622年に、フランシスコ=ザビエルと共に、聖人の列に加えられました。彼の祝日は、彼が亡くなった、7月31日です。
イグナティウスの遺産
イグナティウス=デ=ロヨラの遺産は、多岐にわたり、その影響は、今日に至るまで、カトリック教会と、世界の歴史に、深く刻まれています。
第一の遺産は、言うまでもなく、『霊操』です。これは、個人の内的な体験に基づいて、神の御心を探し求めるための、具体的で、実践的な方法論を、提示した、画期的な著作でした。それは、近代における、個人の主体性と、内面性を重視する、新しい霊性の流れを、切り開きました。今日でも、『霊操』は、世界中の、何百万人もの人々によって、実践されています。
第二の遺産は、彼が創設したイエズス会そのものです。イエズス会は、その中央集権的な組織、機動性、そして、教皇への忠誠によって、対抗宗教改革における、最も効果的な力となりました。彼らは、教育、宣教、そして、知的探求の分野で、カトリック教会の、新たな地平を切り開きました。
第三に、イグナティウスは、活動と観想(祈り)を、統合する、新しい修道生活のモデルを、示しました。「観想のうちに活動的であること」という、彼の理想は、修道者が、修道院の壁の中に閉じこもるのではなく、世界のただ中で、神の栄光のために働くという、新しい生き方を、可能にしました。
イグナティウス=デ=ロヨラの生涯は、一発の砲弾によって、その方向を、完全に変えられました。しかし、彼は、その挫折を、単なる不運として、受け止めるのではなく、神からの呼びかけとして、捉え直しました。そして、彼は、かつて、世俗の王に捧げようとした、そのすべての情熱、エネルギー、そして、組織的な才能を、神の国を、地上に建設するという、より大きな目的のために、捧げ尽くしたのです。