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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

イエズス会(ジェズイット教団)とは わかりやすい世界史用語2596

著者名: ピアソラ
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イエズス会(ジェズイット教団)とは

イエズス会(ジェズイット教団)とは、カトリック教会に属する男子修道会の一つであり、その会員は一般的に「イエズス会士(Jesuits)」として知られています。1540年にイグナチオ=デ=ロヨラとその仲間たちによって設立されたこの修道会は、近世以降の世界史、特にカトリック教会の対抗宗教改革、世界各地へのキリスト教布教、そして教育の分野において、極めて重要かつ広範な役割を果たしました。イエズス会は、その創設当初から、教皇への絶対的な服従、厳格な規律、高度な知性の追求、そして世界のあらゆる場所で活動する機動性を特徴としていました。その活動は、ヨーロッパにおけるプロテスタントとの神学論争から、南米のジャングルでの先住民共同体の建設、中国の宮廷での天文学者としての活躍、そして日本の戦国大名との交渉に至るまで、驚くべき多様性を持っています。



創設者イグナチオ=デ=ロヨラと会の誕生

イエズス会の精神と構造を理解するためには、まずその創設者であるイグナチオ=デ=ロヨラの劇的な人生と思想を知る必要があります。イエズス会は、彼の個人的な回心体験と、そこから生まれた独自の霊性(スピリチュアリティ)の直接的な産物だからです。
騎士から巡礼者へ

イグナチオ=デ=ロヨラ(俗名イニゴ=ロペス=デ=ロヨラ)は、1491年、スペインのバスク地方にあるロヨラ城で、下級貴族の家に生まれました。若い頃の彼は、典型的な騎士階級の青年であり、宮廷での華やかな生活、武勲を立てること、そして貴婦人へのロマンティックな奉仕に憧れを抱いていました。彼の人生の目標は、世俗的な名誉と栄光を手にすることでした。
その人生が根底から覆されたのは、1521年、彼が30歳の時のことでした。フランス軍とのパンプローナの戦いで、イグナチオは指揮官として城の防衛にあたっていましたが、砲弾が彼の両脚を砕き、重傷を負いました。この戦傷が、彼の人生の決定的な転換点となります。
長い療養生活の間、退屈を紛らわすために彼が求めた騎士道物語や恋愛小説は、城にはありませんでした。代わりに与えられたのは、ルドルフ=フォン=ザクセンの『キリストの生涯』と、ヤコブス=デ=ウォラギネの『黄金伝説』(聖人たちの列伝)の二冊だけでした。初めは不承不承読み始めたイグナチオでしたが、次第にその内容に深く引き込まれていきました。彼は、キリストの生涯や、聖フランシスコや聖ドミニコといった聖人たちの自己犠牲的な生き方に、これまで追い求めてきた世俗的な栄光とは全く異なる、新しい英雄像を見出しました。
彼は、自分の心の中で二つの異なる感情がせめぎ合っていることに気づきました。騎士道物語を読んでいるときは、その興奮は一時的なもので、後には虚しさが残りました。しかし、キリストや聖人たちのことを考えると、心の奥深くから、永続的な平和と喜びが湧き上がってくるのを感じました。この内的な識別の体験を通じて、彼は、神が自分を新しい道へと招いていることを確信しました。これが、彼の「回心」です。
回復したイグナチオは、もはやかつての騎士ではありませんでした。彼は、世俗的な野心をすべて捨て、キリストに仕える「神の騎士」として、巡礼の旅に出ることを決意します。彼は、バルセロナ近郊のモンセラートのベネディクト会修道院へ向かい、聖母マリア像の前で一晩中祈りを捧げ、自らの剣と短剣を祭壇に奉納しました。そして、豪華な貴族の服を脱ぎ捨て、粗末な巡礼者の服を身にまといました。これは、過去の自分との決別を象徴する儀式でした。
『霊操』の形成

その後、イグナチオは、近くのマンレサという町の洞窟で、約1年間にわたる厳しい隠修士生活を送りました。彼は、祈り、断食、そして苦行に明け暮れましたが、その過程で、深刻な霊的な危機に直面します。過去の罪に対する罪悪感や、神の存在に対する疑念、そして自殺の誘惑といった、激しい内的な苦闘を経験しました。
しかし、この暗闇の体験を通じて、彼は、神の無条件の愛と慈しみを深く体験し、霊的な事柄を識別するための独自の洞察を得ていきました。彼は、人間の心に働きかける様々な「霊」(善霊と悪霊)の動きを見分け、神の御心(みこころ)がどこにあるのかを探し出すための、具体的な方法論を体系化していきました。このマンレサでの神秘体験と内省の記録が、後にイエズス会の霊性の根幹となる『霊操』の原型となります。
『霊操』は、単なる読み物ではなく、指導者の下で約30日間かけて行われる、体系的な祈りと黙想の実践プログラムです。その目的は、参加者が、自らの罪深い傾向から解放され、キリストの生涯を深く観想し、そして最終的には、神が自分に望んでおられる生き方(召命)を、完全に自由な心で選び取ることができるように導くことです。それは、個人の意志を鍛え、神の御心と一致させるための、霊的な訓練でした。この『霊操』の精神、すなわち、現実の世界の中で神の働きを見出し、神のより大いなる栄光のために行動するという思想は、イエズス会の活動のあらゆる側面に浸透していくことになります。
パリ大学での仲間たちとの出会い

マンレサを離れた後、イグナチオは、聖地エルサレムへの巡礼を果たしますが、そこで宣教活動を行うことは許されませんでした。彼は、人々を霊的に助けるためには、より深い学問、特に神学の知識が必要であると痛感し、33歳にして、ラテン語の初歩から学び直すことを決意します。スペインの大学を経て、彼は、当時のヨーロッパにおける学問の最高峰であった、パリ大学へと向かいました。
このパリ大学で、イグナチオは、彼の最初の仲間たち、そしてイエズス会の共同創設者となる6人の学友と出会います。彼らは、ピエール=ファーヴル、フランシスコ=ザビエル、シモン=ロドリゲス、ディエゴ=ライネス、アルフォンソ=サルメロン、そしてニコラス=ボバディリャでした。彼らは、国籍も気質も様々でしたが、イグナチオの人格と、彼が指導した『霊操』の体験を通じて、固い友情と共通の目的意識で結ばれていきました。
1534年8月15日、聖母被昇天の祝日に、イグナチオと6人の仲間たちは、パリのモンマルトルの丘にある聖ドニ記念聖堂の地下聖堂に集まりました。ファーヴルが司式するミサの中で、彼らは、清貧、貞潔、そして聖地エルサレムでの宣教活動という三つの誓願を立てました。もし聖地への渡航が不可能であった場合は、ローマへ赴き、教皇の判断に自らを委ね、教皇が派遣する場所なら世界のどこへでも行く、という条件も付け加えられました。この「モンマルトルの誓い」が、イエズス会の事実上の創立の瞬間と見なされています。
修道会の設立と特徴

モンマルトルで誓いを立てた仲間たちは、学業を終えた後、ヴェネツィアに集まり、聖地への渡航の機会を待ちました。しかし、当時、ヴェネツィアとオスマン帝国との間で戦争が勃発したため、聖地への道は閉ざされてしまいました。誓いの条件に従い、彼らはローマへ向かい、教皇パウルス3世に、自らを奉仕のために捧げました。
教皇は、彼らの学識と熱意を高く評価し、様々な任務を与えました。彼らは、説教、神学の講義、そして貧しい人々への奉仕活動で、すぐに高い評価を得ました。彼らの活動が効果的であることが明らかになるにつれて、この仲間たちのグループを、恒久的な修道会として、正式に組織化する必要性が生じました。
教皇による正式認可

1539年、イグナチオと仲間たちは、新しい修道会の会憲の草案を作成し、教皇に提出しました。その草案は「五か条の草案」として知られ、イエズス会の基本的な目的と精神を簡潔に示していました。その目的とは、「信仰の擁護と伝播、そしてキリスト教的生活と教義における人々の進歩」であり、その手段として、説教、講義、霊操の指導、子供や無学な人々の教育、そして告解の秘跡などが挙げられていました。
この草案の最も際立った特徴は、教皇への特別な服従の誓願でした。会員は、通常の清貧、貞潔、服従の三つの誓願に加えて、「教皇が、霊魂の救済と信仰の伝播に関わる任務のために、世界のどこへでも派遣することを望むならば、いかなる弁解もせず、即座に従う」という、第四の誓願を立てることになっていました。これは、教皇の直属の精鋭部隊として、世界のどこへでも迅速に展開できる、新しいタイプの修道会を創設するという、彼らの決意を示すものでした。
当初、教皇庁内には、新しい修道会の設立に反対する声もありました。しかし、パウルス3世は、プロテスタント宗教改革という危機に直面する教会にとって、この新しい修道会がいかに有用であるかを認識していました。1540年9月27日、教皇は、勅書「レジミニ=ミリタンティス=エクレシエ」(「戦う教会の統治のために」の意)を発布し、「イエズス会(Society of Jesus)」を、カトリック修道会として、正式に認可しました。会の名称は、イグナチオが、自らをイエス=キリストに仕える「仲間」であると考えていたことに由来します。
翌1541年、最初の会員たちは、イグナチオを、初代総長に選出しました。彼は、終身でその職に留まり、1556年に亡くなるまで、ローマから、急速に拡大していく修道会を、精力的に指導し続けました。
イエズス会の革新的な特徴

イグナチオが起草したイエズス会の会憲は、それまでの修道会の伝統とは一線を画す、いくつかの革新的な特徴を持っていました。
中央集権的な統治体制: イエズス会は、総長を頂点とする、強力な中央集権体制を特徴としていました。総長は、終身制であり、会のすべての会員と活動に対して、広範な権限を持っていました。このピラミッド型の階層構造は、軍隊組織にも似ており、会全体の迅速で統一的な行動を可能にしました。会員は、総長に対して、キリストの代理人として、完全な服従を誓いました。
長い養成期間と厳格な選抜: イエズス会士になるためには、極めて長く、厳格な養成期間を経る必要がありました。志願者は、まず2年間の修練期(ノビシアート)を過ごし、その間に『霊操』を体験し、会の精神を学びます。その後、人文学、哲学、そして神学を、十数年にわたって学びます。この長い養成期間は、知的にも、霊的にも、高度に訓練されたエリートを育成することを目的としていました。
修道院生活の簡素化: 伝統的な修道会では、聖務日課(一日に数回、共同で聖歌や祈りを唱えること)が、生活の中心でした。しかし、イグナチオは、会員が、より柔軟に、そして機動的に、使徒的活動に従事できるように、この共同での祈りを義務付けませんでした。イエズス会士は、修道院の壁の中に閉じこもるのではなく、世界に出て行って活動することが、期待されたのです。彼らは、特定の修道服も持たず、活動する地域の聖職者の服装を着用しました。
教皇への特別な服従(第四の誓願): 前述の通り、イエズス会の中核をなす誓願者は、教皇の命令であれば、世界のどこへでも派遣されるという、特別な誓願を立てました。これにより、イエズス会は、教皇の意向を、世界規模で実現するための、最も効果的な道具となりました。彼らは、しばしば「教皇の海兵隊」とも呼ばれました。
「観想のうちに活動的」: イエズス会の霊性の核心を表すこの言葉は、深い祈りの生活と、世界における積極的な活動とを、分かちがたく結びつける思想を示しています。イエズス会士は、活動の喧騒の中にあっても、常に神の存在を意識し、すべての活動を、神との対話の中で行うことを目指しました。
「神のより大いなる栄光のために」: これは、イエズス会のモットーであり、すべての行動の究極的な目的を示すものです。イエズス会士は、個人的な名誉や利益のためではなく、あらゆることにおいて、何が最も神の栄光に貢献するかを基準として、判断し、行動することが求められました。
これらの特徴は、イエズス会を、宗教改革後のカトリック教会において、最もダイナミックで、影響力のある組織の一つへと押し上げていく原動力となりました。
イエズス会の三大活動分野

設立当初から、イエズス会は、その目的を達成するために、三つの主要な分野に、そのエネルギーを集中させました。それは、教育、海外宣教、そしてプロテスタントへの対抗(信仰の擁護)でした。
教育=ヨーロッパの教育者

イエズス会の活動の中で、最も永続的で、広範な影響を与えたのは、間違いなく教育の分野でした。興味深いことに、教育は、当初、イグナチオたちの主要な目的ではありませんでした。彼らが最初の学校を開いたのは、会の若い会員たちを養成するためでした。しかし、その教育の質の高さが評判を呼び、外部の学生にも門戸を開くよう、各地の都市や君主から、強い要請が寄せられるようになったのです。
1548年、シチリア島のメッシーナに、最初の一般学生向けのコレジオ(中等教育機関)が開校されました。これは、大成功を収め、その後、ヨーロッパ全土で、イエズス会の学校が、爆発的な勢いで設立されていきました。イグナチオが亡くなる1556年には、すでに約35校のコレジオが存在し、17世紀半ばには、その数は500校を超え、18世紀の社会抑圧直前には、800校以上に達していました。これらの学校は、ヨーロッパのカトリック圏における、エリート教育の中心的機関となりました。
イエズス会の教育システムの成功の秘訣は、その体系化された教育計画にありました。1599年に正式に公布された「ラティオ=ストゥディオルム」(「学習計画」の意)は、イエズス会学校のカリキュラム、教授法、そして学校運営のすべてを、詳細に規定した、包括的な教育マニュアルでした。その主な特徴は、以下の通りです。
体系的なカリキュラム: 教育は、文法、人文学、修辞学からなる下級課程と、哲学(論理学、物理学、形而上学、倫理学)、そして神学からなる上級課程に、明確に分かれていました。古典(ラテン語とギリシャ語)の習得が、特に重視されました。
人間形成の重視: イエズス会の教育は、単なる知識の伝達だけでなく、学生の人格形成を目指すものでした。キリスト教的な価値観に基づいた、雄弁で、道徳的なリーダーを育成することが、その目標でした。
競争と反復: クラス内での討論会(ディスプタティオ)や、成績優秀者の表彰など、競争の原理が巧みに取り入れられ、学生の学習意欲を高めました。また、定期的な復習と反復練習が、知識の定着のために、徹底されました。
無償教育: イエズス会の学校は、授業料を徴収しませんでした。これにより、才能のある若者であれば、家柄に関係なく、高度な教育を受ける機会が開かれました。学校の運営費は、裕福な後援者からの寄付によって、賄われました。
イエズス会の学校は、デカルト、モリエール、ヴォルテールといった、思想家、作家、科学者を数多く輩出しました。(皮肉なことに、ヴォルテールは、後にイエズス会の最も辛辣な批判者の一人となります。)彼らは、ヨーロッパの知的・政治的エリート層を形成し、その影響は、数世紀にわたって続きました。イエズス会は、まさに「ヨーロッパの教育者」となったのです。
海外宣教=世界の果てまで

イエズス会のもう一つの重要な使命は、キリスト教の福音を、全世界に広めることでした。大航海時代によって、ヨーロッパ人の地理的視野が、アジア、アフリカ、そしてアメリカ大陸へと拡大する中で、イエズス会士たちは、その最も勇敢で、献身的な開拓者となりました。彼らは、教皇への第四の誓願に忠実に、喜んで未知の世界へと旅立っていきました。
フランシスコ=ザビエルとアジア宣教
イエズス会の海外宣教の象徴であり、その先駆者となったのが、イグナチオの最初の仲間の一人である、フランシスコ=ザビエルでした。彼は、ポルトガル王ジョアン3世の要請を受け、1541年に、アジアへ向けてリスボンを出航しました。
インドのゴアを拠点として、ザビエルは、精力的な宣教活動を展開しました。彼は、インド南部の沿岸部、モルッカ諸島、そしてマラッカなどを巡り、多くの人々をキリスト教に導きました。彼の宣教方法の特徴は、現地の人々と生活を共にし、彼らの言葉を学び、そして何よりも、自らの聖性と献身的な愛の模範によって、人々の心を引きつけたことでした。
1549年、ザビエルは、日本人ヤジロウの案内で、日本に到着しました。これは、日本におけるキリスト教宣教の始まりでした。彼は、鹿児島、平戸、山口、そして都(京都)を目指しましたが、そこで天皇に謁見することは叶いませんでした。約2年間の滞在中、彼は、日本の文化と社会の複雑さを目の当たりにし、高度な文明を持つ国で宣教するためには、より洗練されたアプローチが必要であることを痛感しました。
ザビエルは、日本の文化に大きな影響を与えている中国こそが、アジア宣教の鍵であると考え、中国への入国を試みます。しかし、当時の中国(明)は、外国人の入国を厳しく制限しており、彼は、中国本土を目前にした広東沖の上川島で、病に倒れ、1552年に亡くなりました。彼の不屈の精神と世界的なビジョンは、後に続く多くのイエズス会宣教師たちの、偉大な模範となりました。
適応主義的アプローチ
ザビエル以降、イエズス会は、高度な文明を持つアジアの国々で宣教を行うために、「適応主義」と呼ばれる、独自の宣教方針を発展させました。これは、キリスト教の教義の核心部分を損なわない範囲で、現地の文化、慣習、そして思想様式を、可能な限り尊重し、取り入れようとするアプローチでした。宣教師たちは、単にヨーロッパの文化を押し付けるのではなく、現地の言葉を習得し、その国の古典を学び、そして現地の知識人と対等に議論できるだけの、知性を身につけることが求められました。
中国におけるマテオ=リッチ: この適応主義の最も成功した実践者が、中国で活動したマテオ=リッチでした。彼は、中国語を完璧に習得し、儒教の経典を深く研究しました。そして、自らを、西洋から来た儒学者として位置づけ、中国の知識人階級との間に、深い信頼関係を築きました。彼は、キリスト教の神(デウス)を、儒教の古典に出てくる「天」や「上帝」といった概念と結びつけて説明し、キリスト教が、儒教の教えと矛盾するものではなく、むしろそれを完成させるものであると論じました。また、彼は、西洋の天文学、数学、そして地理学の知識を紹介することで、中国の宮廷で高い評価を得て、北京での宣教の足がかりを築きました。
インドにおけるロベルト=デ=ノビリ: 南インドで活動したロベルト=デ=ノビリは、さらに徹底した適応主義を試みました。彼は、キリスト教が「パランギ」(ポルトガル人、すなわち低カーストの者の宗教)と見なされていることを知り、自ら、インド社会の最上位に位置する、バラモンの苦行者の生活様式を採用しました。彼は、サンスクリット語を学び、インドの哲学を研究し、キリスト教の教えを、ヴェーダの失われた部分であるとして、説きました。
この適応主義的アプローチは、非常に効果的であった一方で、カトリック教会内部で、激しい論争を引き起こしました。特に、ドミニコ会やフランシスコ会といった他の修道会は、イエズス会が、中国の祖先崇拝や、孔子を祀る儀式を容認したことを、異教的な慣習への妥協であり、偶像崇拝であると、激しく非難しました。この「典礼問題」は、1世紀以上にわたって続き、最終的には、教皇庁が、イエズス会の適応主義を禁止する裁定を下したことで、中国におけるイエズス会の活動は、大きな打撃を受けることになりました。
南米のレドゥクシオン
アメリカ大陸におけるイエズス会の活動で、特筆すべきは、現在のパラグアイ、アルゼンチン、ブラジルにまたがる地域で建設された、「レドゥクシオン」と呼ばれる、先住民(グアラニー族)の共同体です。
17世紀初頭から、イエズス会士たちは、グアラニー族を、スペインやポルトガルの植民者による奴隷狩りから保護するために、彼らを集めて、自給自足の共同体を組織しました。これらのレドゥクシオンでは、イエズス会士の指導の下、グアラニー族は、キリスト教を学びながら、農業、牧畜、そして工芸に従事しました。土地は共有され、生産物は共同で分配されました。彼らは、ヨーロッパの建築様式を学び、壮大な教会を建設し、また、バロック音楽の演奏や楽器製作において、驚くべき才能を発揮しました。
レドゥクシオンは、ある意味で、先住民の文化を尊重しながら、彼らをキリスト教文明へと導こうとする、一種のユートピア的な社会実験でした。それは、約150年間にわたって繁栄し、一時は10万人以上の人々が、30以上のレドゥクシオンで生活していました。しかし、このイエズス会の「国家の中の国家」とも言える独立した共同体は、植民地当局や、奴隷商人の嫉妬と敵意を招きました。1767年のイエズス会抑制令に伴い、宣教師たちが追放されると、レドゥクシオンは、急速に崩壊し、その住民は、再び植民地社会の過酷な現実に、引き戻されていきました。この悲劇的な歴史は、映画『ミッション』(1986年)の題材にもなっています。
対抗宗教改革の先兵

イエズス会が設立された直接の背景には、プロテスタント宗教改革の広がりという、カトリック教会の危機がありました。そのため、プロテスタントの教えに反論し、カトリック信仰を擁護し、そして失われた地域を再カトリック化することは、イエズス会の最も重要な任務の一つでした。
イエズス会士たちは、その高度な神学知識と弁論術を武器に、プロテスタントの指導者たちと、激しい論争を繰り広げました。ディエゴ=ライネスやアルフォンソ=サルメロンといった、創設メンバーは、トリエント公会議に、教皇神学顧問として参加し、カトリックの教義の明確化に、大きく貢献しました。
特に、ドイツ、オーストリア、ポーランドといった、プロテスタントの影響が強かった地域において、イエズス会は、再カトリック化の先兵として、精力的に活動しました。彼らの主な武器は、暴力ではなく、教育と説得でした。
君主の聴罪司祭: イエズス会士は、しばしばカトリック君主の聴罪司祭(告解を聞く司祭)や、宮廷顧問となりました。彼らは、その個人的な影響力を通じて、君主の政策を、カトリック教会に有利な方向へと導きました。フランスのルイ14世や、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の宮廷における、イエズス会士の役割は、特に重要でした。
教育を通じた再カトリック化: イエズス会は、これらの地域に、数多くのコレジオを設立し、次世代の貴族や指導者層を、カトリックの信仰の下で教育しました。イエズス会の学校で学んだ卒業生たちが、社会の指導的な地位に就くにつれて、その地域は、徐々にカトリックへと回帰していきました。
民衆への宣教: イエズス会士は、民衆の心をつかむための、効果的な説教や、巡回宣教を行いました。彼らは、演劇、音楽、そして華やかな行列といった、バロック時代の表現方法を駆使して、カトリック信仰の魅力を、人々の感情に訴えかけました。
しかし、このような活動は、プロテスタント側から、強い警戒と敵意を招きました。特に、エリザベス1世統治下のイングランドでは、潜入したイエズス会宣教師たちは、国家への反逆者と見なされ、捕らえられれば、残虐な拷問の末に、処刑されました。エドマンド=キャンピオンなどの殉教者は、カトリック側からは英雄と見なされましたが、プロテスタント側からは、教皇の手先である危険な陰謀家と見なされました。イエズス会は、宗教改革後のヨーロッパにおける、宗教的対立の最前線に、常にその身を置いていたのです。
イエズス会の抑制と再興

18世紀半ば、その絶頂期にあったイエズス会は、突如として、全面的な崩壊の危機に直面します。その強大な影響力と富、そして教皇への絶対的な忠誠は、啓蒙時代の絶対君主や、他の修道会、そして世俗の哲学者たちから、共通の敵と見なされるようになったのです。
抑制への道

イエズス会への反感は、様々な要因が複雑に絡み合って、増幅していきました。
政治的・経済的な影響力への嫉妬: イエズス会は、各国の宮廷で、聴罪司祭として、政治的に大きな影響力を持っていました。また、その広大な土地所有や、海外貿易への関与は、莫大な富をもたらし、各国の政府や商人たちの嫉妬を招きました。南米のレドゥクシオンは、その象徴的な例でした。
他の修道会との対立: ドミニコ会やフランシスコ会は、典礼問題などをめぐって、長年イエズス会と対立しており、彼らの神学的な傲慢さや、特権的な地位を、非難していました。
啓蒙思想家からの批判: ヴォルテールやパスカル(その著書『プロヴァンシアル』において)といった啓蒙思想家たちは、イエズス会を、狂信、権威主義、そして知的欺瞞の象徴として、激しく攻撃しました。彼らは、イエズス会の「目的は手段を正当化する」という、歪曲されたイメージを、世に広めました。
国家教会主義(ガリカニスム)との衝突: 18世紀の絶対君主たちは、自国内の教会を、教皇の権威から独立させ、国家の管理下に置こうとする、国家教会主義的な政策を推進していました。教皇への特別な服従を誓う、国際的な組織であるイエズス会は、この動きにとって、最大の障害と見なされました。
反イエズス会の動きは、まずポルトガルで火が付きました。1759年、宰相ポンバル侯爵は、国王暗殺未遂事件にイエズス会が関与したとして、彼らを国内から追放し、その財産を没収しました。続いて、フランスが1764年に、スペインとその植民地が1767年に、同様の措置を取りました。ブルボン朝の君主たちは、教皇クレメンス13世に対して、イエズス会を完全に解散させるよう、強力な圧力をかけ始めました。
教皇による全面的な抑制

当初、教皇は、この圧力に抵抗していましたが、次の教皇クレメンス14世は、カトリック教会とブルボン朝諸国との全面的な断絶を避けるために、ついに屈服しました。
1773年7月21日、クレメンス14世は、教皇小書簡「ドミヌス=アク=レデンプトール」(「主にして救い主」の意)を発布し、イエズス会を、全世界において、永久に抑制し、解散することを宣言しました。この時、イエズス会は、約2万3000人の会員を擁し、世界中で、教育、宣教、そして科学の分野で、活発に活動していました。この命令は、会にとって、まさに青天の霹靂でした。
イエズス会士たちは、教皇への服従の誓いに従い、抵抗することなく、この決定を受け入れました。彼らの学校や教会、財産は、すべて没収され、会員たちは、教区司祭となるか、あるいは還俗(俗人に戻る)するかの選択を迫られました。総長ロレンツォ=リッチは、ローマのサンタンジェロ城に投獄され、無実を訴えながら、獄中で亡くなりました。
皮肉なことに、イエズス会が存続を許されたのは、カトリックではない、二つの国だけでした。プロイセンのフリードリヒ2世と、ロシアのエカチェリーナ2世は、どちらも啓蒙専制君主でしたが、彼らは、自国内のイエズス会の学校が、教育システムにとって不可欠であると判断し、教皇の抑制令を、自国で公布することを、拒否しました。これにより、イエズス会は、ロシア国内においてのみ、組織として、かろうじて生き延びることができたのです。
イエズス会の再興

フランス革命とナポレオン戦争は、ヨーロッパの政治地図を、完全に塗り替えました。イエズス会を弾圧したブルボン朝の絶対王政は崩壊し、教皇庁は、革命によって引き起こされた、世俗化と反教会的な思想の奔流に対抗するために、かつての最も忠実な僕であった、イエズス会の復活を、必要とするようになりました。
1814年8月7日、ナポレオンの失脚後、教皇ピウス7世は、勅書「ソリキトゥード=オムニウム=エクレシアルム」(「すべての教会の配慮」の意)を発布し、41年ぶりに、イエズス会を、全世界で、公式に再興しました。
再興後のイエズス会は、かつての勢力を取り戻すために、多くの困難に直面しました。しかし、彼らは、再び、教育と宣教の分野で、精力的に活動を開始しました。彼らは、アメリカ合衆国に、ジョージタウン大学やボストンカレッジといった、数多くの大学を設立し、19世紀から20世紀にかけて、再び、カトリック教会における、主導的な修道会の一つとしての地位を、確立していきました。
イエズス会の遺産

イグナチオ=デ=ロヨラの個人的な回心から始まったイエズス会は、その設立から約5世紀の間に、世界の歴史に、深く、そして消しがたい足跡を残しました。
その遺産は、まず、教育の分野に見られます。イエズス会が築き上げた、体系的で、人間形成を重視する教育システムは、近代的な学校教育のモデルの一つとなり、世界中に、数多くの優れた学問・研究機関を、生み出しました。
次に、その世界的な宣教活動は、異なる文明間の、最初の本格的な出会いと対話の場を、創出しました。マテオ=リッチのような宣教師たちは、単なる福音の伝達者ではなく、文化の仲介者でもありました。彼らは、西洋の科学と知識を東洋に伝え、同時に、東洋の文化と哲学を、西洋に紹介しました。彼らの活動は、グローバルな世界の形成における、初期の重要な一歩でした。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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