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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

ウィーン包囲《第1次》とは わかりやすい世界史用語2565

著者名: ピアソラ
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ウィーン包囲《第1次》とは

1529年の秋、ヨーロッパの心臓部であるウィーンの城壁の下に、オスマン帝国の巨大な軍勢が出現した出来事は、キリスト教世界全体を震撼させました。この第1次ウィーン包囲は、単なる一都市の攻防戦ではなく、16世紀ヨーロッパの政治と宗教の力学を象徴する、文明の衝突とも言うべき一大事件でした。この歴史的な対決を理解するためには、その背景にある二つの巨大な帝国の拡大と、その間に挟まれたハンガリー王国の悲劇的な運命を遡る必要があります。一方の主役は、日の出の勢いで版図を拡大するオスマン帝国。そしてもう一方は、広大な領土を支配下に収めながらも、内憂外患に揺れるハプスブルク家です。



1520年、オスマン帝国のスルタン(皇帝)の座に即位したスレイマン1世は、後世に「壮麗帝」あるいは「立法帝」として知られることになる、帝国史上屈指の偉大な君主でした。彼は、父セリム1世が築いた強固な基盤の上に、野心的な西方拡大政策を推し進めます。彼の最初の標的となったのが、長年オスマン帝国のバルカン半島支配に対する頑強な抵抗の拠点となってきた、ハンガリー王国でした。1521年、スレイマンは、かつて彼の曽祖父メフメト2世も陥落させることができなかった難攻不落の要塞都市、ベオグラードを攻略します。この勝利は、オスマン軍にとってドナウ川中流域への扉を開くものであり、ハンガリー侵攻のための決定的な足掛かりとなりました。ベオグラードの陥落は、ハンガリー王国の防衛線に致命的な亀裂を生じさせ、キリスト教ヨーロッパに最初の衝撃波を送りました。
当時のハンガリー王国は、かつての栄光の影を失い、深刻な内部分裂に苦しんでいました。国王ラヨシュ2世は若く、経験も浅く、国内の有力貴族(マジャル貴族)たちの対立と権力闘争を抑えるだけの力を持っていませんでした。貴族たちは、王権を軽んじ、自らの領地の利益を優先し、国家的な防衛体制の構築に非協力的でした。財政は破綻状態にあり、国境の要塞群を維持し、強力な常備軍を組織するための資金が決定的に不足していました。ラヨシュ2世は、西ヨーロッパのキリスト教諸国、特にハプスブルク家や教皇庁に必死に援助を求めましたが、その声は空しく響くだけでした。当時のヨーロッパは、ハプスブルク家のカール5世とフランスのフランソワ1世との間の覇権争い、そしてマルティン=ルターによって引き起こされた宗教改革の混乱の真っ只中にあり、ハンガリーを助けるだけの余裕も意志もなかったのです。
そして1526年8月29日、ハンガリー王国の運命を決定づける日が訪れます。モハーチの平原で、スレイマン1世率いる10万とも言われるオスマン帝国の大軍と、ラヨシュ2世が率いるわずか2万5千ほどのハンガリー軍が激突しました。数と装備で圧倒的に劣るハンガリー軍は、勇敢に戦ったものの、オスマン軍の精鋭部隊であるイェニチェリの鉄砲隊と、大砲による圧倒的な火力の前に、わずか2時間足らずで壊滅的な敗北を喫します。国王ラヨシュ2世自身も、戦場から逃走する際に、ぬかるんだ小川で落馬し、重い鎧のために溺死するという悲劇的な最期を遂げました。このモハーチの戦いは、独立したハンガリー王国の終焉を告げる歴史的な大惨事でした。国王だけでなく、国家の指導層である大貴族や高位聖職者のほとんどがこの戦いで命を落とし、ハンガリーは統治能力を完全に喪失したのです。
国王の死によって、ハンガリーの王位は空位となりました。ここで、二人の対立する王位請求者が現れます。一人は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世の弟であり、オーストリア大公のフェルディナント1世です。彼は、亡きラヨシュ2世の姉アンナと結婚しており、1515年に結ばれたハプスブルク家とヤギェウォ家との間の婚姻協定に基づき、正当な王位継承権を主張しました。彼は、ハンガリー西部の貴族たちの一部によって国王に選出されます。もう一人は、ハンガリーで最も有力な大貴族の一人であった、トランシルヴァニア公サポヤイ=ヤーノシュです。彼は、外国人の王を嫌う国内の貴族層(国民派)の広範な支持を得て、別の議会でハンガリー国王に選出されました。こうして、ハンガリーは二人の対立する王によって、西部のハプスブルク領(王領ハンガリー)と、東部のサポヤイ領(東ハンガリー王国)へと分裂してしまいます。
当初、軍事的に劣勢であったサポヤイは、ハプスブルク家のフェルディナントに対抗するため、驚くべき、そしてキリスト教世界にとっては裏切りとも言える手段に訴えます。彼は、オスマン帝国のスレイマン1世に使者を送り、自らをハンガリー国王として認めてもらう見返りに、オスマン帝国の宗主権を認めることを申し出たのです。スレイマンにとって、これは願ってもない機会でした。彼は、サポヤイを自らの保護下に置くことで、ハンガリー全土を間接的に支配し、ハプスブルク家の勢力拡大を阻止するための絶好の口実を得たのです。1528年、スレイマンはサポヤイをハンガリー国王として正式に承認し、彼に敵対するフェルディナントをハンガリーから追放することを宣言しました。
1529年5月10日、スレイマン1世は、この宣言を実行に移すため、コンスタンティノープルから空前の大軍を率いて、再び西方への遠征を開始します。その公式な目標は、フェルディナントをハンガリーから駆逐し、サポヤイの王位を確立することでした。しかし、その真の狙いは、さらにその先にありました。それは、長年の宿敵であるハプスブルク家の中央ヨーロッパにおける本拠地、そして神聖ローマ帝国の事実上の首都であったウィーンを攻略し、キリスト教世界の心臓部にイスラムの三日月旗を打ち立てることでした。オスマン帝国軍は、モハーチの戦いが行われた平原でサポヤイ=ヤーノシュと合流し、彼にハンガリー王の聖冠を授けました。そして、ほとんど抵抗を受けることなくハンガリーを北上し、9月8日には首都ブダを占領しました。ついに9月下旬、その軍勢が、ハプスブルク家の都ウィーンの城門の前に姿を現したのです。こうして、ハンガリー王位継承をめぐる内戦は、オスマン帝国とハプスブルク帝国という二大勢力がヨーロッパの覇権を賭けて激突する、大規模な国際紛争へと発展し、ウィーン包囲という歴史的な舞台が整えられたのでした。
両軍の戦力とウィーンの防備

1529年9月27日、ウィーンの南方に広がる平原に、オスマン帝国の巨大な軍営が出現した時、市内の人々が感じた恐怖は筆舌に尽くしがたいものでした。スレイマン1世が率いる軍勢の正確な数については、歴史家の間でも意見が分かれますが、一般的には戦闘員だけで12万人、それに加えて輜重隊や非戦闘員を含めると、総勢20万人から30万人に達したと推定されています。これは、当時のヨーロッパでは考えられないほどの、まさに圧倒的な大軍でした。この巨大な軍団は、オスマン帝国の軍事力の粋を集めた、多民族からなる恐るべき戦闘機械でした。
その中核をなしていたのが、スルタン直属の常備歩兵軍団であるイェニチェリです。彼らは、バルカン半島のキリスト教徒の少年たちを徴集し、イスラム教に改宗させた上で、幼い頃から厳しい軍事訓練を施して育成されたエリート兵士でした。鉄の規律で結ばれ、スルタン個人への絶対的な忠誠を誓った彼らは、当時最新鋭の兵器であった火縄銃(マスケット銃)で武装しており、その一斉射撃はヨーロッパのいかなる歩兵部隊をも凌駕する威力を誇っていました。ウィーン包囲には、約1万2千人のイェニチェリが参加していたと言われています。
イェニチェリを補佐するのが、シパーヒーと呼ばれる封建騎士階級の騎兵部隊です。彼らは、スルタンから封土(ティマール)を与えられる見返りに、戦時に軍役を務める義務を負っていました。彼らは、弓や槍、サーベルで武装した軽騎兵であり、その機動力と数の多さは、偵察、略奪、そして敵の側面を攪乱する上で絶大な効果を発揮しました。さらに、不正規の軽騎兵であるアキンジ部隊は、正規軍に先立って敵地に深く侵入し、恐怖と破壊をまき散らす役割を担っていました。彼らは、ウィーン周辺の村々を焼き払い、住民を虐殺・奴隷化することで、ウィーン市内の士気を挫こうとしました。
そして、オスマン軍のもう一つの切り札が、その強大な砲兵隊でした。15世紀のコンスタンティノープル攻略以来、オスマン帝国は攻城砲の製造と運用において世界最先端の技術を誇っていました。スレイマンは、この遠征のために約300門の大砲を用意していましたが、これはウィーンの運命を左右する重要な伏線となります。しかし、この巨大な軍勢は、その規模ゆえの弱点も抱えていました。コンスタンティノープルからウィーンまでの約1500キロに及ぶ長大な遠征路は、兵站(ロジスティクス)上の極めて大きな挑戦でした。特に、1529年の春から夏にかけては、バルカン半島全域が記録的な豪雨に見舞われました。道はぬかるみ、川は氾濫し、大砲や重い荷物を運ぶ牛やラクダの移動は困難を極めました。多くの大砲や荷駄が泥の中に放棄され、兵士たちは疲弊し、遠征のスケジュールは大幅に遅延しました。この天候不順は、スレイマンの計画に最初の影を落とすことになります。
一方、包囲される側のウィーンの状況は、絶望的と言っても過言ではありませんでした。オスマン軍の接近を知ったオーストリア大公フェルディナント1世は、兄である神聖ローマ皇帝カール5世やドイツの諸侯に必死に救援を求めましたが、その反応は鈍いものでした。カール5世はイタリアでの対フランス戦争に追われており、ドイツ諸侯は宗教改革をめぐる対立で一枚岩ではありませんでした。結局、ウィーンの防衛は、フェルディナントが独力でかき集めた、ごくわずかな兵力に委ねられることになります。
包囲が始まった時点で、ウィーン市内にいた守備隊の総数は、わずか2万人程度でした。その中核をなしたのは、ドイツ人のランツクネヒト傭兵(約7,000人)と、スペイン人の火縄銃兵(約1,000人)でした。ランツクネヒトは、パイク(長槍)とツヴァイヘンダー(両手剣)で武装した、勇猛果敢で経験豊富な兵士たちでしたが、しばしば給料の支払いが滞ると反乱を起こすなど、扱いにくい存在でもありました。一方、スペイン兵は、テルシオと呼ばれる先進的な歩兵戦術で知られ、その火縄銃の腕前は高く評価されていました。これらのプロの兵士たちに加え、ウィーン市民からなる民兵隊が守備の重要な一翼を担いました。
ウィーンの防衛を指揮したのは、70歳の老練な傭兵隊長、ニクラス=フォン=ザルム伯でした。彼は、1525年のパヴィアの戦いでフランス王フランソワ1世を捕虜にした武功で知られる、当代随一の軍事専門家でした。彼は、オスマン軍の到着に先立ち、ウィーンの防衛体制を強化するために精力的に活動しました。当時のウィーンの城壁は、中世に築かれたものであり、大砲を用いた近代的な攻城戦にはあまりにも脆弱でした。ザルム伯は、城壁の外側に土塁(アースワーク)を急造させ、砲弾の衝撃を吸収しようと試みました。また、市の四つの城門をレンガで固め、城壁の外にあった建物をすべて破壊して、オスマン軍が遮蔽物として利用できないようにしました。市内の指揮権は、ザルム伯と、ヴィルヘルム=フォン=ロゲンドルフ、そしてフェルディナントの代理であるフィリップ=フォン=デア=プファルツの三人に委ねられました。
しかし、兵力と装備における両軍の差は、誰の目にも明らかでした。2万の守備兵が、12万の精鋭を擁するオスマン軍を相手に、脆弱な城壁の背後で籠城するという構図は、多くの人々にとって、ウィーンの陥落はもはや時間の問題であると思わせるに十分でした。ウィーンが持ちこたえることができたのは、ザルム伯の卓越した指揮、守備兵と市民の英雄的な抵抗、そしてオスマン軍が抱えるいくつかの不運と誤算が、奇跡的に重なり合った結果だったのです。
包囲戦の経過

1529年9月27日、ウィーンの城壁を完全に包囲したオスマン軍は、ただちに攻撃準備を開始しました。スレイマン1世は、ウィーン南方のジンメリング地区に壮麗な本営を構え、そこから全軍の指揮を執りました。彼の戦略は、オスマン帝国の得意とする、圧倒的な工兵力と砲兵力を駆使した正攻法でした。その主眼は、城壁の特定の部分に砲撃を集中させて城壁を破壊し、そこから精鋭のイェニチェリ部隊を突入させて市内を制圧するというものでした。攻撃の主目標に選ばれたのは、市の南側に位置し、皇帝の居城であるホーフブルク宮殿に最も近いケルントナー門(ケルンテン門)でした。
しかし、オスマン軍の砲撃は、期待されたほどの効果を上げることができませんでした。その最大の理由は、遠征中の悪天候により、最も強力な攻城砲の多くを道中で放棄せざるを得なかったことでした。ウィーンに持ち込むことができたのは、比較的小口径の野戦砲が中心であり、その破壊力は、ザルム伯が急造した土塁と、その背後にある石の城壁を完全に粉砕するには不十分でした。ウィーンの守備隊は、昼夜を分かたず城壁の修復作業にあたり、砲撃によって生じた破れ目を、土嚢や木の梁で必死に塞ぎ続けました。
砲撃による城壁破壊が思うように進まないと悟ったオスマン軍は、次なる戦術として、坑道作戦に重点を移します。これは、城壁の下に向かってトンネル(坑道)を掘り進め、城壁の基礎部分に到達したところで大量の火薬を爆発させて、城壁そのものを崩落させるという、当時の攻城戦では一般的な手法でした。オスマン軍の工兵部隊は、キリスト教徒の捕虜や、バルカン半島から徴用された鉱夫たちを動員し、複数の場所から同時に坑道を掘り始めました。
この坑道作戦は、ウィーンの守備隊にとって最大の脅威となりました。城壁の上からの攻撃には備えることができても、足元から静かに忍び寄る見えない敵に対しては、常に神経を尖らせていなければなりませんでした。守備隊は、城壁の内側に沿って対抗坑道を掘り、敵のトンネルを探しました。彼らは、地面に置いた水の入った桶や、太鼓の上に撒いた豆の振動によって、敵の掘削作業の音を探知しようとしました。敵の坑道を発見すると、彼らはそこへ突入し、狭く暗い地下空間で、つるはしやシャベル、剣を振るっての、凄惨な白兵戦を繰り広げました。これは、包囲戦の中でも最も過酷で、 claustrophobic(閉所恐怖症的)な戦闘でした。時には、守備隊が敵の坑道に火薬を仕掛けて爆破したり、煙を送り込んで窒息させたりすることもありました。この目に見えない地下での攻防は、包囲戦の行方を左右する、もう一つの重要な戦線となったのです。
10月に入ると、オスマン軍は数度にわたり、総攻撃を試みました。10月9日、オスマン軍の坑道がケルントナー門近くの城壁下で爆発し、大きな破れ目が生じました。この突破口めがけて、イェニチェリ部隊が鬨の声を上げて殺到しましたが、ザルム伯に率いられたランツクネヒトとスペイン兵の決死の抵抗に阻まれます。彼らは、パイクの槍衾で突撃を食い止め、両手剣を振り回して敵兵をなぎ倒し、火縄銃と弓で十字砲火を浴びせました。数時間にわたる激しい白兵戦の末、オスマン軍は多大な損害を出して撃退されました。
10月11日、オスマン軍は再び大規模な坑道爆破を行い、さらに大きな城壁の崩落を引き起こしました。翌12日、スレイマンは、この日を最終決戦の日と定め、全軍に総攻撃を命じます。攻撃に先立ち、彼は兵士たちに特別な報酬を約束し、その士気を鼓舞しました。二つの大きな突破口から、オスマン軍の精鋭部隊が波状攻撃を仕掛け、ウィーンの城壁は、かつてない危機に瀕しました。戦闘は熾烈を極め、ザルム伯自身も、この戦闘で敵の砲弾の破片を受け、重傷を負いました(この傷がもとで、彼は包囲戦の後に亡くなります)。しかし、ウィーンの守備隊は、市民たちも一体となって、驚異的な粘りを見せます。女性や子供たちまでもが、石や熱湯、煮えたぎるピッチを城壁の上から投げつけ、敵の攻撃を食い止めようとしました。三度にわたるオスマン軍の猛攻は、いずれも守備隊の頑強な抵抗の前に頓挫し、ついにオスマン軍は、死体の山を築いて退却を余儀なくされました。
この10月12日の総攻撃の失敗は、スレイマン1世に、ウィーン攻略が不可能であることを悟らせる決定的な出来事でした。彼の軍隊は、度重なる戦闘と、悪化する天候、そして食糧不足によって、士気も体力も限界に達していました。冬の到来が目前に迫っており、これ以上包囲を続ければ、大軍を維持することが困難になることは明らかでした。イェニチェリの間でさえ、不満の声が公然と上がり始めていました。10月14日の夜、スレイマンは軍議を開き、ついにウィーンからの撤退という、苦渋の決断を下します。その夜、ウィーンの守備隊は、オスマン軍の陣営から、負傷兵や捕虜の悲鳴が聞こえてくるのを聞きました。それは、オスマン軍が、撤退の足手まといになる者たちを処刑している音でした。翌10月15日の早朝、ウィーンの人々が城壁の上から見たものは、もぬけの殻となったオスマン軍の陣営と、降りしきる雪でした。突然の初雪は、あたかも神がウィーンに味方したかのような奇跡として、彼らの目に映ったのです。

撤退の理由と包囲戦の終結

1529年10月14日、スレイマン1世がウィーンからの撤退を決断した背景には、単一の理由ではなく、複数の要因が複雑に絡み合っていました。それは、軍事的、兵站的、そして気候的な困難が重なった、避けられない帰結であったと言えます。
第一に、そして最も直接的な理由として、ウィーンの守備隊による予想をはるかに超えた頑強な抵抗が挙げられます。スレイマンは、モハーチの戦いでハンガリー軍を赤子の手をひねるように打ち破った経験から、ウィーンも比較的容易に攻略できると楽観視していた可能性があります。しかし、ニクラス=フォン=ザルム伯の老練な指揮の下、ドイツ人傭兵、スペイン兵、そしてウィーン市民からなる混成部隊は、圧倒的な兵力差にもかかわらず、驚異的な勇気と粘り強さを示しました。彼らは、オスマン軍の度重なる総攻撃をことごとく撃退し、坑道戦においても一歩も引けを取りませんでした。特に、10月12日の最終的な総攻撃が失敗に終わったことは、オスマン軍の士気に決定的な打撃を与え、これ以上の力攻めは無益であるとスレイマンに悟らせました。
第二に、兵站(ロジスティクス)の問題が、オスマン軍の作戦遂行能力を深刻に蝕んでいました。1529年の遠征は、その開始時点から悪天候に見舞われました。春から夏にかけて続いた異常な長雨は、バルカン半島の道路を泥の海に変え、大軍の移動を著しく妨げました。特に、重量のある攻城砲の輸送は困難を極め、最も破壊力の大きい大砲の多くを道中で放棄せざるを得ませんでした。これが、ウィーンの城壁に対して決定的な打撃を与えられなかった大きな原因の一つとなります。また、遠征の遅延は、包囲を開始できる時期を秋の深まる9月下旬まで遅らせました。これは、中央ヨーロッパの厳しい冬が訪れる前に、作戦を完了しなければならないという、極めて厳しい時間的制約をスレイマンに課すことになりました。さらに、20万人もの大軍を敵地で長期間養うことは、兵站上の悪夢でした。アキンジ部隊がウィーン周辺の田園地帯を徹底的に略奪したため、現地での食糧調達はすぐに限界に達しました。遠方からの補給も滞りがちで、兵士だけでなく、軍馬や荷物を運ぶラクダの飼料も不足し始め、軍全体の継戦能力が著しく低下していきました。
第三に、気候の悪化が、撤退の決断を決定的なものにしました。10月中旬に入ると、気温は急激に低下し、雨が雪に変わりました。10月14日の夜から降り始めた初雪は、オスマン軍の兵士たちに、ハンガリー平原の過酷な冬の到来を実感させました。彼らの多くはアナトリアやバルカン半島といった、より温暖な地域の出身であり、中央ヨーロッパの冬の寒さに対する備えは十分ではありませんでした。これ以上の滞在は、凍傷や病気の蔓延によって、戦闘によらずして軍が壊滅する危険性をはらんでいました。スレイマンは、精鋭部隊を無益な消耗から守り、来たるべき次の戦いに備えるために、全軍が健在なうちに撤退することが賢明であると判断したのです。
第四に、オスマン軍内部の士気の低下も、無視できない要因でした。度重なる攻撃の失敗と、増え続ける死傷者の数は、兵士たちの間に厭戦気分を広げていました。特に、スルタンの近衛兵であり、軍の切り札であるはずのイェニチェリの間でさえ、不満が公然と口にされるようになりました。彼らは、これ以上の無謀な攻撃に参加することを拒否する姿勢さえ見せ始めていました。スルタンの絶対的な権威をもってしても、勝利の見込みのない戦いに兵士を駆り立て続けることには限界がありました。スレイマンは、軍の規律が完全に崩壊する前に、撤退を決断する必要に迫られたのです。
こうして、10月14日の夜、スレイマンは撤退を最終決定します。しかし、その撤退もまた、平穏なものではありませんでした。オスマン軍は、重い荷物や不要になった装備を焼き払い、足手まといになる数千人の捕虜を虐殺して、帰路につきました。ウィーンの守備隊は、この機を逃さず城外に打って出て、撤退するオスマン軍の後衛に攻撃を仕掛け、さらなる損害を与えました。雪とぬかるみに覆われた道中では、多くの兵士や家畜が凍え死に、あるいは飢え死にしました。オスマン軍がコンスタンティノープルに帰り着いた時には、その兵力は遠征開始時に比べて大幅に減少していたと言われています。
ウィーンの市民と守備隊にとって、オスマン軍の突然の撤退は、まさに奇跡であり、神の加護の証と映りました。約3週間にわたる絶望的な籠城戦は、予想外の勝利で幕を閉じたのです。この勝利の代償は決して小さくはありませんでした。守備隊は数千人の死傷者を出し、指揮官のザルム伯もこの時の傷がもとで翌年亡くなりました。ウィーンの街とその周辺地域は甚大な被害を受け、その復興には長い年月を要しました。しかし、彼らはヨーロッパのキリスト教世界全体を守り抜いたのです。第1次ウィーン包囲の失敗は、オスマン帝国の西方への拡大が、その頂点に達し、初めて大きな壁に突き当たったことを示す象徴的な出来事となりました。
歴史的な意義と後世への影響

1529年の第1次ウィーン包囲は、その軍事的な結末以上に、ヨーロッパとオスマン帝国の関係史、そしてその後の世界の歴史において、計り知れないほど大きな意義を持つ出来事でした。それは、オスマン帝国のヨーロッパにおける陸上での拡大が、その限界点に達したことを示す、最初の明確な指標となったのです。
まず、この包囲戦の失敗は、オスマン帝国の「不敗神話」に初めて大きな傷をつけました。15世紀のコンスタンティノープル攻略以来、オスマン軍は陸上において向かうところ敵なしの快進撃を続けてきました。特に、スレイマン1世の治世下では、ベオグラードを陥落させ、モハーチの戦いでハンガリー王国を滅亡させるなど、その軍事力はキリスト教世界にとって抗いがたい脅威と見なされていました。ウィーンの防衛成功は、このオスマン帝国の圧倒的な軍事力も、決して無敵ではないことを証明しました。それは、ヨーロッパのキリスト教諸国に、オスマン帝国の脅威に対して、団結して抵抗すれば勝利できる可能性があるという、大きな心理的な希望と自信を与えました。ウィーンは、イスラムの脅威に対するキリスト教世界の防波堤としての役割を、その身をもって果たしたのです。
次に、この出来事は、中央ヨーロッパにおけるハプスブルク家とオスマン帝国の間の勢力均衡線を、事実上画定する役割を果たしました。ウィーン包囲の失敗により、スレイマン1世は、ハプスブルク家の本拠地を直接脅かすことの困難さを痛感しました。これ以降、オスマン帝国の主な関心は、ハンガリーの支配権を確保し、ハプスブルク家との間に緩衝地帯を維持することへと移っていきます。1532年、スレイマンは再び大軍を率いてウィーンを目指しますが、ハンガリー西部のケーセグ要塞での小規模ながら英雄的な抵抗に時間を費やされ、ウィーンに到達することなく撤退します。この二度の失敗を経て、オスマン帝国がウィーンを直接攻撃することは、1683年の第2次ウィーン包囲まで、150年以上にわたって途絶えることになります。その間、両帝国はハンガリーを主戦場として、一進一退の長い消耗戦を繰り広げることになりますが、ウィーンがハプスブルク家の首都として、そしてキリスト教ヨーロッパの東の砦としての地位を維持し続けたことが、その後のヨーロッパ史の展開を大きく規定しました。
また、ウィーン包囲は、ヨーロッパの軍事技術、特に要塞建築のあり方に大きな影響を与えました。ウィーンの中世的な城壁が、かろうじて持ちこたえたという経験は、大砲を用いた近代的な攻城戦に対して、従来の垂直な高い城壁が無力であることをヨーロッパ中に知らしめました。この教訓から、16世紀半ば以降、ヨーロッパでは「星形要塞」として知られる、新しい様式の要塞が急速に普及します。これは、稜堡(バスティオン)と呼ばれる突き出た角を持つ、低くて厚い土塁を星形に配置することで、城壁のどこにも死角が生まれないようにし、十字砲火を浴びせることができるように設計されたものでした。ウィーン自身も、包囲戦の直後から、この新しいイタリア式の要塞へと大規模な改築が進められました。この要塞技術の革新は、攻城側と防衛側の間のバランスを大きく変化させ、その後の戦争の様相を一変させることになります。
さらに、この包囲戦は、文化的な領域においても、深い痕跡を残しました。オスマン帝国に対する恐怖と、それに対する英雄的な勝利の記憶は、「トルコの脅威」というテーマとして、ヨーロッパ人の集合的意識の中に深く刻み込まれました。この出来事は、数多くのパンフレット、民衆本、歌、そして絵画の題材となり、ヨーロッパにおけるオスマン帝国(トルコ人)のステレオタイプなイメージを形成する上で大きな役割を果たしました。それは、残虐で異教徒の侵略者という否定的なイメージであると同時に、その強大な軍事力や壮麗な文化に対する畏怖と好奇の念が入り混じった、複雑なものでした。また、この包囲戦をきっかけに、コーヒーやクロワッサンがウィーンに伝わったという有名な伝説も生まれました。これらの伝説は、歴史的な事実とは異なる部分もありますが、この出来事が、いかに人々の記憶に強く残り、文化的な物語として語り継がれていったかを示しています。
第1次ウィーン包囲は、スレイマン1世の治世における数少ない、決定的な敗北でした。オスマン帝国は、その後も地中海やインド洋でその勢力を拡大し、巨大な帝国として君臨し続けますが、ヨーロッパの陸地深くへと進撃する道は、このウィーンの城壁の前で、事実上閉ざされたのです。それは、ヨーロッパが、オスマン帝国の征服の対象から、対等な(あるいはそれ以上の)競争相手へと移行していく、長い歴史的プロセスの始まりを告げる、分水嶺となる出来事でした。ウィーンの勝利は、ハプスブルク帝国が中央ヨーロッパの覇権を確立し、その後の数世紀にわたってヨーロッパの主要なプレイヤーとして君臨するための、重要な礎となったのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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