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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

禁書目録とは わかりやすい世界史用語2593

著者名: ピアソラ
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禁書目録とは

禁書目録は、ローマ=カトリック教会が、信徒の信仰と道徳を守るという目的のために、危険と見なした書物の閲覧、所持、販売、印刷を禁止する、最初の包括的な公式リストでした。1559年に教皇パウルス4世の権威の下で公布されたこの禁書目録は、それまでの地域的な検閲の試みを、教皇庁が直接管理する中央集権的なシステムへと統合する画期的な試みであり、対抗宗教改革における思想統制の象徴的な出来事と見なされています。その厳格さと包括性において、後に出されるどの禁書目録よりも厳しいものであり、当時のカトリック教会の危機感と、異端思想に対する断固たる姿勢を色濃く反映しています。



禁書目録の成立前史

1559年のパウルス禁書目録の出現を理解するためには、その背景にある、15世紀半ばに始まった印刷革命と、それに伴う教会と国家による検閲の試みの歴史を遡る必要があります。書物の生産と流通の方法におけるこの根本的な変化が、思想の統制という問題を、これまでとは全く異なる次元へと引き上げたのです。
グーテンベルクの遺産

1450年代にヨハネス=グーテンベルクが活版印刷技術を発明する以前、ヨーロッパにおける書物の生産は、修道院の写字室などで、筆記者たちが手で一冊一冊書き写すという、時間と労力を要する骨の折れる作業でした。そのため、書物は極めて高価な希少品であり、その所有は教会、大学、そしてごく一部の富裕な貴族や学者に限られていました。知識と情報の流通は、非常に遅く、限定的なものでした。
活版印刷は、この状況を一変させました。同じテクストを、迅速かつ安価に、何百、何千部と複製することが可能になったのです。この技術は驚異的な速さでヨーロッパ全土に広まり、1500年までには、250以上の都市に1100を超える印刷所が設立され、推定で2000万冊もの書物(インキュナブラ=揺籃期本と呼ばれる)が印刷されたと言われています。これにより、聖書、古典文学、神学書、そして新しい思想を記したパンフレットなどが、聖職者や学者だけでなく、読み書きのできる商人、職人、そして一般市民の手にも届くようになりました。これは、知識の民主化に向けた、巨大な一歩でした。
しかし、教会と国家の権力者たちは、この新しい技術の両義的な側面にすぐに気づきました。印刷は、正統な教えや有益な知識を広めるための強力な道具であると同時に、異端思想、不道徳な内容、そして体制への批判を、制御不能な速さで拡散させる危険な媒体でもありました。権力者にとって、印刷された言葉は、祝福であると同時に、深刻な脅威でもあったのです。
初期の検閲の試み

印刷技術の普及に伴い、教会と世俗の権力は、その内容を管理下に置こうとする試みを始めました。当初、これらの検閲は、体系的なものではなく、地方の司教や大学、あるいは都市の当局が、それぞれの管轄区域内で個別に対応する形で行われました。
最初の公式な検閲の試みの一つは、1487年に教皇インノケンティウス8世によって発布された教皇勅書に見られます。これは、印刷業者に対して、司教やその代理人の許可なく、いかなる書物も印刷してはならないと命じるものでした。1501年には、教皇アレクサンデル6世が、特にドイツのケルン、マインツ、トリーアといった大司教区に対して、事前の検閲なしに書物を印刷することを禁じ、違反した場合には破門や罰金を科すと警告しました。
1515年、第五ラテラノ公会議は、この事前検閲の原則を、キリスト教世界全体に適用する普遍的な教会法として定めました。この布告によれば、いかなる書物も、印刷される前に、ローマでは教皇代理、その他の地域では管区の司教または異端審問官の許可を得なければならず、その許可は書物自体に印刷されなければならないとされました。
これらの初期の試みは、印刷物の内容を事前にコントロールしようとする「予防的検閲」のシステムを確立しようとするものでした。しかし、その実効性は限られていました。ヨーロッパは多数の主権国家や都市に分かれており、ある場所で印刷が禁止されても、別の場所で印刷して密輸することが容易でした。また、検閲の基準も地域によって異なり、統一されたものではありませんでした。
宗教改革と印刷

1517年にマルティン=ルターが宗教改革を開始すると、印刷物の検閲は、単なる秩序維持の問題から、カトリック教会の存亡をかけた緊急の課題へと変貌しました。ルターは、活版印刷が「神が福音を広めるために与えたもうた、最後の、そして最大の賜物」であると述べ、この新しいメディアを最大限に活用しました。彼の「九十五か条の論題」や、聖書のドイツ語訳、そして数多くのパンフレットは、印刷を通じて驚異的な速さでドイツ全土、そしてヨーロッパ中に広まり、人々の心を捉えました。
プロテスタントの改革者たちは、印刷された言葉を、教皇庁の権威に挑戦し、自らの神学的立場を擁護し、大衆を動員するための、最も強力な武器として用いました。これに対し、カトリック側も、印刷物で反論しましたが、当初はその対応において後手に回っていました。
この状況に直面し、カトリック教会は、異端の教えを含む書物の流通を阻止するための、より強力で体系的な手段を必要とするようになりました。既存の事前検閲だけでは、すでに出回ってしまった膨大な量のプロテスタント文献に対処することは不可能でした。そこで、すでに出版された書物を対象とし、その閲覧や所持を禁止する「抑圧的検閲」の手段として、禁止された書物のリスト、すなわち「禁書目録」を作成するという考えが浮上してきたのです。
1520年代から1550年代にかけて、ルーヴァン大学、パリ大学(ソルボンヌ)、ヴェネツィア、スペインなど、ヨーロッパ各地の大学や異端審問所が、それぞれ独自の禁書目録を作成し、公布しました。これらのリストは、主にルター、カルヴァン、ツヴィングリといったプロテスタント改革者たちの著作を対象としていましたが、その内容は地域によって異なり、一貫性がありませんでした。例えば、ある地域では禁止されている書物が、別の地域では許可されているという状況も起こりえました。
カトリック教会が、この混乱した状況を収拾し、キリスト教世界全体に適用される、統一された権威ある禁書目録を必要としていることは、明らかでした。この課題に応えようとしたのが、厳格で妥協を許さない改革者、教皇パウルス4世でした。
パウルス4世とローマ異端審問所

1559年の禁書目録の厳格な性格は、その制定を命じた教皇パウルス4世の人物像と、彼が深く関わったローマ異端審問所の役割を抜きにしては理解できません。彼の治世は、対抗宗教改革の中でも、最も強硬で権威主義的な側面が前面に出た時代でした。
ジャン・ピエトロ・カラファ

パウルス4世ことジャン・ピエトロ・カラファは、1476年にナポリの貴族の家に生まれ、若い頃から厳格な禁欲主義と、教会改革への熱烈な情熱で知られていました。彼は、人文主義的な教養を身につけていましたが、エラスムスのような、教会との和解を模索する穏健な人文主義者たちには批判的であり、彼らの思想の中に異端の萌芽を見ていました。
彼は、聖職者の堕落と教会の世俗化を激しく憎み、教会はあらゆる妥協を排して、その純粋性と教義の完全性を守らなければならないと固く信じていました。1524年には、彼は後にテアティン会となる修道会を共同で設立し、清貧と献身的な司牧活動を通じて、聖職者の模範となることを目指しました。
1536年、教皇パウルス3世によって枢機卿に任命されると、カラファは教皇庁内で最も影響力のある改革派の一人となりました。しかし、彼の改革へのアプローチは、コンタリーニ枢機卿のような、プロテスタントとの対話を模索する穏健派とは全く異なっていました。カラファにとって、プロテスタントは交渉の相手ではなく、根絶すべき異端であり、彼らとのいかなる妥協も、信仰の裏切りに等しいものでした。
ローマ異端審問所の設立

カラファのこの強硬な姿勢が最も明確に表れたのが、1542年のローマ異端審問所の設立における彼の主導的な役割でした。当時、プロテスタントの思想は、イタリア半島にも深く浸透し始めており、カトリック教会の中心地でさえ、その影響は無視できないものになっていました。
この危機に対応するため、カラファは、教皇パウルス3世を説得し、中世の異端審問所をモデルとしながらも、より強力で中央集権的な機関として、「検邪聖省(Congregation of the Holy Office)」、通称ローマ異端審問所を設立させました。この新しい機関は、6人の枢機卿からなる委員会によって運営され、その長にはカラファ自身が就任しました。その権限は、キリスト教世界全体の信仰と道徳に関する問題を監督し、異端の疑いのある者を、その地位や身分に関わらず裁くという、絶大なものでした。
ローマ異端審問所は、秘密主義と厳格な手続きを特徴とし、密告、拷問による自白の強要、そして異端者に対する厳しい処罰(財産没収、投獄、火刑など)を通じて、イタリアにおけるプロテスタントの動きを徹底的に弾圧しました。カラファは、この機関こそが、教会の純粋性を守るための最も効果的な武器であると確信していました。
教皇パウルス4世の治世

1555年、79歳の高齢で教皇に選出されたカラファは、パウルス4世を名乗りました。彼の4年間の治世は、異端との妥協なき闘争に捧げられました。彼は、中断していたトリエント公会議を再開することを拒否し、公会議のような煩雑な手続きよりも、教皇の絶対的な権威によって、迅速かつ断固として改革を断行することを好みました。
彼の治世下で、ローマ異端審問所の活動は、その頂点に達しました。彼は、かつてプロテスタントとの対話を試みたレジナルド・ポール枢機卿や、ジョヴァンニ・モローネ枢機卿といった高位聖職者でさえ、異端の嫌疑で投獄することを躊躇しませんでした。また、彼は反ユダヤ的な政策を強化し、1555年には、ローマのユダヤ人をゲットーに強制的に居住させ、特定の職業に就くことを禁じる教皇勅書を発布しました。
このような人物が、カトリック世界初の公式な禁書目録の作成を命じたことは、必然的な帰結でした。パウルス4世にとって、異端の書物は、異端者そのものと同じく、教会の体を蝕む毒であり、徹底的に排除されなければならないものでした。彼は、それまでの地方的で一貫性のない検閲に業を煮やし、自らの最高権威の下で、あらゆる疑わしい書物を網羅する、決定的で普遍的なリストを作成することを、ローマ異端審問所に命じたのです。1559年の禁書目録は、まさにこの教皇の、妥協を許さない厳格な精神の産物でした。
1559年パウルス禁書目録の内容と構造

1559年初頭にローマ異端審問所によって公布された「禁書目録(Index Librorum Prohibitorum)」、通称「パウルス禁書目録」は、その包括性と厳格さにおいて、前例のないものでした。それは、単に既知のプロテスタント改革者の著作をリストアップするだけでなく、書物の検閲に関する一連の広範な規則を定め、カトリック信徒が接する可能性のある、あらゆる印刷物の世界を、厳格な管理下に置こうとする、野心的な試みでした。
三つのクラス分類

パウルス禁書目録の最も特徴的な点は、禁止された書物を、三つの主要なクラス(階級)に分類したことです。この分類方法は、後の禁書目録にも影響を与えましたが、パウルス禁書目録の定義は、特に厳しいものでした。
第一クラス: このクラスには、その著作の一部に異端的な内容が含まれていたり、あるいは単に異端の嫌疑をかけられたことのある著者の名前が、アルファベット順にリストアップされていました。このクラスに名前が挙げられた著者の場合、その人物が書いたすべての著作が、その内容に関わらず、無差別に禁止されました。例えば、宗教的な主題とは全く関係のない、科学や文学に関する著作であっても、著者がこのリストに載っているというだけで、自動的に禁書となったのです。このクラスには、マルティン=ルター、ジャン=カルヴァン、フルドリッヒ=ツヴィングリといった主要なプロテスタント改革者たちの名前が当然含まれていましたが、それだけではありませんでした。
第二クラス: このクラスには、特定の書物のタイトルがリストアップされていました。これは、著者が第一クラスには含まれていないものの、その特定の著作が異端であるか、または信仰に有害であると判断された場合です。このクラスには、匿名の著作や、複数の著者によるアンソロジーなども含まれていました。
第三クラス: このクラスは、最も広範で、論議を呼ぶものでした。ここには、まず、第二クラスにリストアップされたもの以外の、1519年以降に印刷されたすべての匿名の書物が含まれていました。さらに、このクラスは、特定のジャンルや種類の書物を包括的に禁止しました。例えば、占星術、魔術、黒魔術に関するあらゆる書物が、その対象となりました。
この三つのクラス分類は、非常に包括的であり、多くの書物を網羅的に禁止することを可能にしました。特に第一クラスの「著者の全著作を禁止する」という原則は、極めて厳しいものでした。
包括的な禁止規則

パウルス禁書目録は、単なるリストにとどまらず、書物の印刷、販売、所持、そして読書に関する、61条にわたる詳細な規則を定めていました。これらの規則は、禁書目録の精神を体現し、その実効性を確保するためのものでした。
聖書の翻訳と注解: 最も厳格な規則の一つが、聖書に関するものでした。ラテン語のヴルガータ訳以外の、いかなる俗語(各国の言語)訳の聖書の印刷、所持、読書も、異端審問所の書面による許可なく、全面的に禁止されました。これは、プロテスタントが聖書の俗語訳を重視し、信徒が直接聖書を読むことを奨励したことへの、直接的な対抗措置でした。カトリック教会は、信徒が教会の指導なしに聖書を解釈することが、異端を生む温床になると考えたのです。さらに、異端者によって書かれた聖書注解や注釈も、たとえその内容自体に問題がないように見えても、厳しく禁止されました。
印刷業者と書店主への義務: 印刷業者と書店主は、検閲システムの最前線に位置づけられました。彼らは、自らが印刷または販売するすべての書物のリストを保管し、異端審問官に提出する義務を負いました。また、禁書目録に載っている書物を印刷、販売、あるいは所持していることが発覚した場合、その書物は焼却され、彼ら自身も破門や罰金、その他の厳しい罰則を科せられました。
個人の責任: 信徒個人も、禁書目録に従う厳格な義務を負いました。禁書を所持している者は、それを司教または異端審問官に届け出なければなりませんでした。これを怠った場合、自動的に破門されると定められました。また、他人が禁書を所持していることを知った場合、それを当局に告発する義務もありました。これにより、信徒同士が互いを監視する、密告社会のような状況が生まれる可能性がありました。
学校と大学: 大学の教授や教師は、学生に対して禁書を使用したり、推奨したりすることを固く禁じられました。
これらの規則は、印刷された言葉の世界を、隅々まで教会の管理下に置こうとする、徹底した意志を示しています。それは、信徒の知的な生活に対する、前例のない規模の介入でした。
驚くべき禁止対象

パウルス禁書目録の厳しさを最も象徴しているのが、その禁止対象の広範さです。プロテスタント改革者の著作が禁止されたのは当然でしたが、リストには、カトリック教徒として生涯を終えた、多くの著名な人文主義者や作家の名前も含まれていました。
その最も衝撃的な例が、デジデリウス=エラスムスです。彼は、16世紀前半のヨーロッパで最も尊敬された人文主義者であり、その学識と穏健な教会改革への呼びかけで知られていました。彼は、生涯カトリック教会に留まり、ルターの教えを批判しましたが、同時に、教会の腐敗や聖職者の無知、そして迷信的な信仰実践を、痛烈な風刺で批判しました。
パウルス4世は、エラスムスのような穏健な批判者こそが、ルターのような公然たる反逆者よりも危険であると考えていました。彼は、エラスムスの著作が、教会への敬意を損ない、異端への道を開くものだと見なしたのです。その結果、パウルス禁書目録は、エラスムスのすべての著作を、第一クラスの禁書として、無条件に禁止しました。これには、彼の有名な『痴愚神礼賛』や、ギリシャ語新約聖書の校訂版といった、人文主義の記念碑的な著作も含まれていました。
もう一つの注目すべき例は、ニッコロ=マキャヴェッリです。彼の主著『君主論』は、道徳や宗教から切り離された、冷徹な現実主義に基づく政治技術を論じたものであり、教会の教えとは相容れないと見なされました。彼の著作もまた、第一クラスの禁書として、全面的に禁止されました。
さらに、ジョヴァンニ=ボッカッチョの『デカメロン』のような、不道徳と見なされた文学作品や、ラブレーの風刺的な物語などもリストに含まれていました。パウルス禁書目録は、単に神学的な異端だけでなく、教会の道徳的権威や、確立された秩序に挑戦する可能性のある、あらゆる書物を標的としていたのです。この包括的な禁止は、多くの学者や知識人に衝撃を与え、カトリック世界の知的活力を著しく損なうものとして、強い反発を引き起こしました。
パウルス禁書目録への反応とその後

1559年のパウルス禁書目録は、その公布直後から、激しい論争と広範な抵抗に直面しました。そのあまりの厳格さと包括性は、多くの人々にとって、実行不可能であるだけでなく、不当でさえあると受け止められました。この反発は、最終的に、より穏健で実践的な新しい禁書目録の作成へとつながっていきました。
混乱と抵抗

禁書目録が公布されると、カトリック世界の各地で、特に印刷業者、書店主、そして学者たちの間で、大きな混乱と反発が巻き起こりました。
経済的打撃: 印刷業者や書店主にとって、この禁書目録は死活問題でした。彼らの在庫の多くが、突然、販売を禁じられた違法な商品と化してしまったのです。特に、エラスムスのような人気作家の全著作が禁止されたことは、大きな経済的打撃でした。多くの書店主は、破産を避けるために、禁書を隠したり、密かに販売し続けたりしました。ヴェネツィアのような、印刷業が主要な産業であった都市では、業界全体から強い抵抗がありました。
学問への影響: 学者や大学関係者も、この禁書目録に強く反発しました。エラスムスの著作は、当時の人文主義教育において、不可欠な教科書として広く用いられていました。彼の著作が全面的に禁止されたことは、学問研究や教育活動に深刻な支障をきたすものでした。また、聖書の俗語訳が禁止されたことは、聖書研究を志す多くの学者にとって、受け入れがたいものでした。
実行の困難さ: 禁書目録の規則は、あまりにも厳格で、現実的に施行することが困難でした。例えば、すべての匿名の書物を禁止するという規則は、膨大な数の書物を対象とするものであり、そのすべてを管理することは不可能でした。また、禁書を当局に引き渡すという義務も、多くの信徒によって無視されました。人々は、長年所有してきた書物を、自ら手放すことに強い抵抗を感じたのです。
司教たちの懸念: カトリック教会内部の司教たちの中にも、この禁書目録の厳しさに懸念を示す者がいました。彼らは、あまりに厳格すぎる規則は、かえって人々の反感を買い、教会の権威を損なうことになると考えました。また、異端審問所の許可なく聖書を読むことを全面的に禁じることは、敬虔な信徒の信仰生活を妨げることになりかねないと危惧しました。
トリエント公会議による修正

パウルス4世が1559年8月に死去すると、彼の強硬な政策に対する反動が起こりました。ローマ市民は、異端審問所の建物を襲撃し、囚人を解放し、カラファ家の紋章を破壊しました。彼の後継者であるピウス4世は、より穏健で現実的な人物であり、パウルス禁書目録が引き起こした混乱を収拾する必要性を認識していました。
ちょうどその頃、中断していたトリエント公会議が、最後の会期(1562年=1563年)のために再開されました。公会議の参加者たちの間でも、パウルス禁書目録は厳しすぎるという意見が支配的でした。そこで、公会議は、禁書目録を改訂し、より実践的で公平な規則を作成するための委員会を設置しました。
この委員会の作業の成果として、1564年に、教皇ピウス4世によって新しい禁書目録、通称「トリエント禁書目録」が公布されました。この新しい禁書目録は、パウルス禁書目録の基本的な枠組みを維持しつつも、その最も厳格な部分を、大幅に緩和するものでした。
十の一般規則: トリエント禁書目録は、その冒頭に、書物の検閲に関する「十の一般規則」を掲げました。これは、個別の書物や著者をリストアップするだけでなく、どのような種類の書物が禁止されるべきかについての、より明確で体系的な基準を提供するものでした。
著者の全著作禁止の緩和: パウルス禁書目録の最も評判の悪かった点の一つである、第一クラスの著者の全著作を無差別に禁止するという原則は、放棄されました。トリエント禁書目録では、異端の首長と見なされる、ルターやカルヴァンのような人物の著作は、引き続き全面的に禁止されましたが、その他の異端の嫌疑のある著者の場合、宗教を扱っていない著作については、禁止の対象外とされました。
エラスムス問題の解決: この修正により、エラスムスの著作の多くが、再び読めるようになりました。彼の宗教に関する著作の一部は、依然として禁止されたり、修正が必要とされたりしましたが、彼の教育的な著作や古典の校訂版などは、禁止リストから外されました。
俗語訳聖書の条件付き許可: 俗語訳聖書の全面的な禁止も緩和されました。敬虔で学識のあるカトリック教徒によって翻訳され、教会の許可を得た俗語訳については、司教または異端審問官が、個々の信徒の信仰や知識のレベルを判断した上で、その読書を許可することができるとされました。ただし、この許可を得ることは、実際には依然として困難でした。
修正の導入: トリエント禁書目録は、書物を全面的に禁止するだけでなく、「修正されるまで禁止」という、新しいカテゴリーを導入しました。これは、書物全体としては有益であるが、一部に問題のある箇所が含まれている場合に、その箇所を削除または修正すれば、出版や読書が許可されるという、より柔軟なアプローチでした。ボッカッチョの『デカメロン』は、その不道徳な部分、特に聖職者をからかう部分を修正することを条件に、許可されることになりました。
このトリエント禁書目録は、パウルス禁書目録に比べて、はるかに穏健で、実行可能なものでした。それは、その後の禁書目録の基本的なモデルとなり、若干の修正を加えながら、20世紀に至るまで、カトリック教会の書物検閲の根幹をなし続けました。
禁書目録の歴史的意義

1559年のパウルス禁書目録は、わずか数年で、より穏健なトリエント禁書目録に取って代わられましたが、その歴史的な意義は決して小さくありません。それは、対抗宗教改革の一つの極点を画する、象徴的な出来事でした。
第一に、パウルス禁書目録は、カトリック教会が、印刷革命によってもたらされた思想の自由な流通という新しい現実に対して、いかに深刻な危機感を抱いていたかを、最も明確な形で示しています。それは、異端の「感染」から信徒を守るためには、彼らの知的な生活を、教会の厳格な管理下に置くことも辞さないという、権威主義的な姿勢の表明でした。
第二に、この禁書目録は、対抗宗教改革の内部に存在した、二つの異なるアプローチの間の緊張関係を浮き彫りにしました。一つは、パウルス4世に代表される、いかなる妥協も許さず、抑圧的な手段によって異端を根絶しようとする強硬なアプローチです。もう一つは、トリエント公会議の最終的な決定に見られる、より穏健で、司牧的な配慮に基づいた、現実的なアプローチです。パウルス禁書目録の失敗と、その後のトリエント禁書目録による修正は、カトリック教会が、最終的に後者の道を選択したことを示しています。
第三に、パウルス禁書目録は、検閲という行為が持つ、意図せざる結果を明らかにしました。あまりに厳格すぎる禁止は、かえって人々の好奇心を煽り、禁じられた書物の魅力を高める「禁断の果実」効果を生み出すことがあります。また、それは、権威に対する不信感や反感を招き、長期的には、その権威そのものを損なうことにもなりかねません。
禁書目録は、短命に終わった過激な実験であったかもしれません。しかし、それは、近代初期のヨーロッパにおける、宗教、権力、そして印刷された言葉の間の、複雑で緊張に満ちた関係を映し出す、貴重な歴史的文書です。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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