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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

エリザベス1世とは わかりやすい世界史用語2588

著者名: ピアソラ
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エリザベス1世とは

エリザベス1世は、テューダー朝の最後の君主であり、その44年間に及ぶ治世は「エリザベス朝」として知られ、イングランドの歴史における黄金時代の一つと見なされています。彼女の生涯は、母親の処刑と庶子への降格という不遇の始まりから、絶え間ない陰謀と戦争の危機を乗り越え、イングランドをヨーロッパの強国へと押し上げ、国民的アイデンティティの形成に決定的な役割を果たしました。



不確かな始まり=王女から庶子へ

エリザベス=テューダーは、1533年9月7日、ロンドンのグリニッジにあるプラセンティア宮殿で生まれました。父はイングランド国王ヘンリ8世、母は、ヘンリが最初の王妃キャサリン=オブ=アラゴンと離婚してまで結婚した、アン=ブーリンです。エリザベスの誕生は、父ヘンリにとっては大きな失望でした。彼は、アンとの間に待望の男子継承者が生まれることを確信しており、そのための祝賀試合まで準備していました。生まれたのが女児であったため、祝賀行事はすべて中止されました。
しかし、それでもエリザベスは当初、正統な王位継承者として扱われました。彼女は、異母姉であるメアリがかつてそうであったように、自身の壮麗な宮廷を与えられ、大切に育てられました。しかし、その安定した地位は、彼女がまだ2歳8ヶ月の時に、突如として崩れ去ります。男子を産めなかった母アン=ブーリンは、姦通と反逆という捏造された罪状で告発され、1536年5月19日にロンドン塔で斬首されました。
母の処刑に伴い、ヘンリ8世とアン=ブーリンの結婚は無効とされ、エリザベスは王女の地位を剥奪され、庶子「レディ=エリザベス」へと降格させられました。彼女は王位継承権を失い、宮廷から遠ざけられました。異母姉メアリがかつて経験したのと同じ屈辱的な転落でした。
しかし、エリザベスは、その後の不安定な子供時代を、驚くべき忍耐と知性で生き抜きました。彼女は、ケンブリッジ大学の著名な人文主義者であるロジャー=アスカムらの下で、最高水準の教育を受けました。彼女は、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語、スペイン語を流暢に操り、歴史、修辞学、哲学を学びました。この高度な教育は、彼女の鋭い知性を磨き上げ、後の治世において、複雑な政治や外交の駆け引きを乗り切るための強力な武器となりました。
父ヘンリ8世が次々と妻を変える中で、エリザベスの宮廷での立場は常に不安定でした。しかし、最後の継母であるキャサリン=パーは、エリザベスとその異母姉弟であるメアリ、エドワードに愛情を注ぎ、家族としての関係を修復させました。キャサリンのとりなしもあり、1544年、ヘンリ8世は新たな王位継承法を制定し、エドワード、メアリに次いで、エリザベスを第三位の王位継承者として復帰させました。彼女は庶子のままでしたが、再び王位への道を歩む権利を得たのです。
試練の青春時代=陰謀と嫌疑

1547年にヘンリ8世が亡くなり、9歳の異母弟エドワード6世が即位すると、13歳のエリザベスは、亡き父の妻であったキャサリン=パーとその新しい夫、トマス=シーモアの邸宅で暮らすことになりました。トマス=シーモアは、国王エドワード6世の叔父にあたる野心的な人物で、若きエリザベスに過度な親密さで接し始めました。彼の朝の訪問は、寝間着姿のエリザベスをくすぐったり叩いたりするという、不適切な戯れにエスカレートしていきました。この危険な関係は、妊娠中のキャサリン=パーによって気づかれ、エリザベスは別の屋敷へと移されました。
キャサリン=パーが出産後に亡くなると、トマス=シーモアの野心はさらに露わになります。彼は、エリザベスと結婚し、彼女を通じて権力を掌握しようと企てました。この陰謀が発覚し、シーモアは1549年に反逆罪で処刑されました。エリザベス自身も、この陰謀への関与を厳しく尋問されましたが、彼女は15歳とは思えない冷静さと明晰さで、自らの無実を主張し通し、難を逃れました。この経験は、彼女に、宮廷の危険な権力闘争と、男性の野心に利用されることの恐ろしさを、身をもって教えました。
さらに大きな試練が、カトリック教徒である異母姉メアリ1世の治世(1553年=1558年)に訪れます。メアリがスペイン皇太子フェリペとの結婚を進めると、イングランド国内ではプロテスタントによる反乱「ワイアットの反乱」(1554年)が勃発しました。反乱軍は、メアリを退位させ、エリザベスを女王に擁立しようと計画していました。反乱が鎮圧されると、エリザベスは首謀者との共謀を疑われ、ロンドン塔に投獄されました。そこは、かつて彼女の母アン=ブーリンが最期の日々を過ごした場所でした。
エリザベスは、自らの死を覚悟しました。しかし、彼女が反乱に関与したという決定的な証拠は見つからず、また、メアリの夫となったフェリペが、エリザベスを処刑すれば、次に王位に最も近いスコットランド女王メアリ=スチュアート(フランスの王太子妃であった)がイングランドの王位を主張し、フランスの勢力が強まることを懸念したため、エリザベスは処刑を免れました。彼女は、ロンドン塔からウッドストックの邸宅へと移され、厳しい監視下での軟禁生活を余儀なくされました。この一連の経験は、エリザベスに、政治的な慎重さと、自らの感情を決して表に出さないという鉄の自制心を植え付けました。
女王の即位と「エリザベス朝の宗教的解決」

1558年11月17日、子どもを残さずにメアリ1世が亡くなると、ヘンリ8世の遺言に基づき、25歳のエリザベスがイングランド女王として即位しました。彼女の即位は、メアリの治世下で弾圧されていたプロテスタントたちからは熱狂的に歓迎され、宗教的な対立に疲弊していた国民に、新たな時代の到来を期待させました。
エリザベスが即位した当時のイングランドは、深刻な問題を抱えていました。国庫は破綻状態にあり、フランスとの戦争に敗れてカレーを失ったことで国民の士気は低下し、そして何よりも、国を二分する宗教対立は、内戦の危機をはらんでいました。
新女王が最初に取り組むべき最重要課題は、この宗教問題でした。エリザベス自身はプロテスタントとして育てられましたが、彼女の態度は極めて現実的で政治的なものでした。彼女が目指したのは、過激なカトリックでも、大陸のカルヴァン主義に傾倒する急進的なプロテスタント(ピューリタン)でもない、「中道(Via Media)」を行く、包括的で安定した国民教会を確立することでした。
1559年、彼女の最初の議会は、「エリザベス朝の宗教的解決」として知られる二つの重要な法律を可決しました。
首長法と礼拝統一法

一つは、新しい「首長法」です。これは、イングランド君主が教会に対して最高の権威を持つという父ヘンリ8世以来の原則を再確立し、ローマ教皇の権威を再び完全に否定するものでした。しかし、エリザベスは、父が用いた「最高の首長」という称号を避け、代わりに「最高の統治者」という、より穏当な称号を採用しました。これは、女性が教会の「首長」であることへの神学的な反発を和らげ、君主への政治的忠誠と教皇への霊的忠誠を区別したいカトリック教徒に配慮した、巧みな政治的判断でした。
もう一つは、「礼拝統一法」です。これは、プロテスタント的な共通祈祷書の使用をイングランド全土で義務付けるものでした。しかし、その内容は、幅広い信徒に受け入れられるよう、意図的に曖昧な部分を残していました。例えば、聖餐式のパンとワインについての言葉遣いは、プロテスタント的な象徴説とも、カトリック的な実在説とも解釈できるような表現が選ばれました。この法律は、すべての国民に毎週日曜日の教会礼拝への出席を義務付けましたが、内心の信仰までは問わないという、比較的寛容な姿勢が示されました。
この「宗教的解決」は、イングランド(イギリス)国教会(アングリカン=チャーチ)の基本的な性格を決定づけました。それは、教義的には穏健なプロテスタントでありながら、組織構造(司教制)や礼拝形式にはカトリックの伝統を色濃く残すという、独特の「中道」の教会でした。この妥協的な解決策は、エリザベスの長い治世を通じて、イングランドの宗教的な安定の基礎となったのです。
処女王

女王として即位したエリザベスにとって、宗教問題と並ぶ最大の課題は、結婚と王位継承の問題でした。当時のヨーロッパでは、女性君主は、夫である王を助け、そして何よりも世継ぎを産むことによって、その役割を果たすものと考えられていました。議会や枢密院は、女王に早く結婚して後継者を確保するよう、繰り返し圧力をかけました。
ヨーロッパ中の王侯貴族が、エリザベスの求婚者として名乗りを上げました。その中には、かつての義兄であったスペイン王フェリペ2世、フランス国王の弟たち、スウェーデン王エリク14世、神聖ローマ皇帝の息子などが含まれていました。エリザベスは、これらの求婚を、巧みな外交カードとして利用しました。彼女は、どの求婚者にも明確な返事をせず、思わせぶりな態度をとり続けることで、各国の思惑を操り、イングランドに有利な外交的状況を作り出そうとしました。
彼女が本当に愛した唯一の男性は、幼なじみであり、彼女が即位してからは主馬頭として常に側に仕えた、ロバート=ダドリー(後のレスター伯)であったと言われています。しかし、ダドリーはすでに妻帯者であり、さらにその妻が謎の転落死を遂げたことで、彼が妻を殺して女王と結婚しようとしているというスキャンダルが広まりました。エリザベスがもし彼と結婚すれば、王室の権威は失墜し、国は内乱に陥る可能性がありました。エリザベスは、個人的な感情よりも、女王としての責任を優先し、ダドリーとの結婚を断念しました。
結局、エリザベスは生涯独身を貫きました。彼女は、自らを「イングランドと結婚した」と宣言し、「処女王」としてのイメージを巧みに作り上げていきました。このイメージは、聖母マリア信仰が失われたプロテスタントのイングランドにおいて、国民の忠誠心を集めるための強力な象徴となりました。彼女は、自らの身体が「弱き女性のもの」であっても、心と気概は「国王のもの、イングランド国王のもの」であると演説し、国民の愛国心を鼓舞しました。
しかし、彼女が独身を続けたことは、常に王位継承の問題を未解決のままにしました。エリザベスに最も近い血筋の継承者は、彼女の従姪にあたるスコットランド女王メアリ=スチュアートでした。しかし、メアリは敬虔なカトリック教徒であり、多くのカトリック教徒から、アン=ブーリンの娘であるエリザベスよりも正統なイングランド女王と見なされていました。この存在が、エリザベスの治世を通じて、絶え間ない陰謀と脅威の源泉となるのです。
スコットランド女王メアリとの対決

エリザベスの治世における最大の国内的脅威は、スコットランド女王メアリ=スチュアートの存在でした。ヘンリ7世の曾孫にあたるメアリは、カトリック教徒であり、エリザベスが庶子であると主張する人々にとっては、正統なイングランド王位継承者でした。
フランスで育ち、フランス王フランソワ2世の妃であったメアリは、夫の死後、1561年にスコットランドに帰国しました。しかし、すでにプロテスタント宗教改革が進んでいたスコットランドで、カトリック女王である彼女の立場は困難なものでした。彼女は、イングランド貴族のダーンリー卿ヘンリー=スチュアートと再婚し、息子ジェームズ(後のイングランド王ジェームズ1世)をもうけますが、この結婚はすぐに破綻します。ダーンリー卿が謎の爆殺を遂げ、メアリがその殺害の主犯と疑われるボスウェル伯と再婚したことで、スコットランド貴族の反乱を招き、彼女は退位を余儀なくされました。
1568年、メアリはスコットランドからイングランドへと逃亡し、エリザベスに庇護を求めました。これは、エリザベスにとって、極めて厄介な事態でした。隣国の正統な女王を囚人として扱うことは国際的な非難を招き、かといって彼女を自由にすれば、イングランド国内のカトリック教徒を扇動して王位を狙う陰謀の中心となることは明らかでした。エリザベスは、メアリをイングランド各地の城に、19年近くにもわたって軟禁するという、苦渋の決断を下します。
エリザベスの懸念通り、軟禁下のメアリは、次々と発覚するカトリック教徒によるエリザベス暗殺とメアリ擁立の陰謀の中心人物と見なされるようになりました。1569年の「北部諸侯の乱」、1571年の「リドルフィの陰謀」など、ローマ教皇やスペインの支援を受けた陰謀が相次ぎました。1570年、教皇ピウス5世は、エリザベスを破門し、臣下の忠誠義務を解くという教皇勅書を発布し、エリザベス暗殺を正当化しました。
決定打となったのは、1586年の「バビントンの陰謀」でした。エリザベスの諜報長官であったフランシス=ウォルシンガムの巧みな罠により、メアリがエリザベス暗殺計画を承認する内容の暗号書簡が押収されました。これは、メアリが反逆罪に加担した動かぬ証拠となりました。
議会と枢密院は、メアリの処刑をエリザベスに強く迫りました。しかし、エリザベスは、神によって油注がれた君主を、別の君主が処刑するという前例を作ることの重大さに、長く悩み続けました。数ヶ月にわたる苦悩の末、彼女はついにメアリの死刑執行令状に署名しました。そして1587年2月8日、メアリ=スチュアートはフォザリンゲイ城で斬首されました。エリザベスは、後に、自分が署名したのは本意ではなかったと主張しましたが、この処刑により、彼女の治世における最大の国内的脅威は取り除かれました。しかし、それは同時に、カトリックの大国スペインとの全面戦争を不可避とするものでした。
スペイン無敵艦隊との戦い

メアリ=スチュアートの処刑は、長年にわたってイングランドと対立してきたスペイン王フェリペ2世に、イングランド侵攻の口実を与えました。フェリペは、自らをカトリック世界の守護者と任じ、異端の女王エリザベスを打倒し、イングランドをカトリックに復帰させることを神聖な義務と考えていました。また、フランシス=ドレークに代表されるイングランドの私掠船が、スペインの植民地や宝船を繰り返し襲撃していたことも、彼の怒りを増幅させていました。
1588年、フェリペ2世は、「アルマダ」として知られる、130隻の艦船と約3万人の兵士からなる巨大な無敵艦隊を、イングランドに向けて出撃させました。その目的は、オランダに駐留するスペイン陸軍の精鋭部隊を輸送し、イングランド南部に上陸させることでした。
イングランド中が、この未曾有の危機に震撼しました。エリザベスは、陸軍が集結していたティルベリーの陣地を自ら訪れ、馬に乗り、甲冑を身につけて兵士たちの前に立ち、歴史に残る演説を行いました。
「私は、裏切りを恐れて民衆の前から姿を隠すような暴君を望みません。…私は、我が神、我が王国、そして我が民のために、たとえ我が血が塵にまみれようとも、名誉のために生き、そして死ぬことを誓います。私は、か弱き女性の身体を持っています。しかし、私には国王の心と気概があるのです。イングランド国王の心と気概があるのです」
この演説は、兵士たちの士気を大いに高め、国民を一つに結束させました。
海戦は、イングランド側に有利に進みました。チャールズ=ハワード卿とフランシス=ドレークが率いるイングランド海軍は、スペインの巨大なガレオン船に比べて、小型で操作性に優れた艦船を駆使し、遠距離からの砲撃でスペイン艦隊に損害を与えました。決定打となったのは、カレー沖での夜間、イングランド側が仕掛けた火船攻撃でした。これによりスペイン艦隊の密集した陣形は混乱に陥り、続くグラヴリンヌ沖海戦で大きな打撃を受けました。
上陸作戦を断念したアルマダは、スコットランドとアイルランドの沖を大きく迂回して帰国の途につきましたが、激しい嵐に見舞われ、多くの艦船が難破しました。スペインに帰り着くことができたのは、出撃した艦船の半分程度でした。
無敵艦隊の敗北は、イングランドの歴史における画期的な出来事でした。それは、小国イングランドが、大国スペインの侵攻を打ち破った、ダビデとゴリアテの戦いにもなぞらえられました。この勝利は、イングランドの国民的自信を飛躍的に高め、プロテスタント国家としてのアイデンティティを確立させました。そして、エリザベス女王は、国を守り抜いた英雄として、その名声を不動のものとしたのです。
エリザベス朝の文化と社会

エリザベスの治世は、軍事的な勝利だけでなく、文化の面でも輝かしい開花の時代でした。エリザベス朝のイングランドは、文学、演劇、音楽、建築の分野で、ルネサンスの頂点を迎えました。
特に演劇は、ウィリアム=シェイクスピア、クリストファー=マーロウ、ベン=ジョンソンといった天才的な劇作家たちを輩出し、空前の繁栄を遂げました。ロンドンには、「グローブ座」などの常設劇場が次々と建設され、あらゆる階層の人々が、その悲劇や喜劇に熱狂しました。
文学の世界では、エドマンド=スペンサーが、女王を寓意的に称えた長大な叙事詩『妖精の女王』を著し、フィリップ=シドニーらが洗練されたソネットを生み出しました。音楽の分野でも、ウィリアム=バードやトマス=タリスといった作曲家たちが、宗教音楽と世俗音楽の両方で、美しい作品を数多く残しました。
探検と冒険の精神も、この時代を特徴づけるものでした。フランシス=ドレークは、世界一周航海を成し遂げ、ウォルター=ローリーは、北アメリカ大陸に植民地を建設しようと試み、「ヴァージニア」と名付けました。これらの航海は、後の大英帝国の基礎を築くことになります。
エリザベス自身も、芸術の偉大なパトロンであり、その華やかな宮廷は、文化活動の中心でした。彼女は、年に一度、国内各地を巡幸し、地方の貴族や民衆にその姿を見せることで、国民との絆を深め、自らの権威を視覚的に示しました。
晩年と死

無敵艦隊の勝利の後も、エリザベスの治世は安泰ではありませんでした。スペインとの戦争は続き、アイルランドでは大規模な反乱が起こり、国庫を圧迫しました。宮廷内では、次世代の寵臣たちが派閥争いを繰り広げました。かつて愛したロバート=ダドリーをはじめ、ウィリアム=セシルやフランシス=ウォルシンガムといった、彼女の治世を支えてきた忠実な顧問たちが次々と世を去り、エリザベスは深い孤独に沈んでいきました。
1601年、彼女が晩年に寵愛した若きエセックス伯ロバート=デヴァルーが、宮廷での権力争いに敗れて反乱を起こし、処刑されるという悲劇も起こりました。
1603年初頭、エリザベスは深い憂鬱に襲われ、健康状態が急速に悪化しました。彼女は、後継者を指名することを最後まで拒み続けましたが、死の床で、側近たちに対し、スコットランド王ジェームズ(かつて彼女が処刑したメアリ=スチュアートの息子)を後継者とすることを示唆したと伝えられています。
1603年3月24日、エリザベス1世は、リッチモンド宮殿で、69年の波乱に満ちた生涯を閉じました。彼女の死によって、118年間続いたテューダー朝は終わりを告げました。

エリザベス1世は、イングランド史上、最も偉大な君主の一人として記憶されています。彼女は、女性であるというハンディキャップを乗り越え、分裂し破産状態にあった小国を、ヨーロッパの主要な大国へと変貌させました。
彼女の最大の功績は、イングランドに宗教的な安定をもたらし、国民的な統合を成し遂げたことです。「エリザベス朝の宗教的解決」は、その後のイングランド国教会の基礎を築き、無敵艦隊に対する勝利は、イングランドの国民的自信とプロテスタント国家としてのアイデンティティを確立しました。
彼女は、結婚という伝統的な女性の役割を拒否し、「処女王」として国に身を捧げることで、自らの権威を確立しました。そのカリスマ性、知性、そして政治的な手腕は、44年間にわたる長い治世を通じて、イングランドを巧みに導きました。彼女の時代は、シェイクスピアに代表される文化の爛熟期であり、ドレークに象徴される海洋進出の始まりでもありました。
エリザベス1世の生涯は、逆境を乗り越え、自らの運命を切り開き、一国の母として国民に愛され、記憶されるに至った、一人の卓越した女性の物語です。彼女が残した遺産は、その後のイギリス、そして世界の歴史に、深く永続的な影響を与え続けています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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