金印勅書とは
金印勅書は
黄金文書ともいわれ、中世ヨーロッパの
神聖ローマ帝国の皇帝選出権を、
7人の有力な諸侯である
選帝侯がそれぞれ持つということを取り決めた文章のことです。
この勅書は
1356年に決められ、
マインツ・トリール・ケルンの三大司教、
ベーメン王・ブランデンブルク伯・ザクセン公・ファルツ伯の7名が選帝侯となります。
神聖ローマ帝国とは
911年に
東フランク王国のカロリング朝の血統が途絶えた後、ドイツでは東フランク王国の大諸侯の一人だったザクセン家の
ハインリヒ1世(在位919〜936)がドイツ王となり
ザクセン朝が開かれました。
ザクセン朝第2代の
オットー1世(在位936〜973)は、
マジャール人や
スラブ人を撃退し、ベーメンやイタリアを制圧しました。こうした功績からローマ教皇
ヨハネス12世がオットー1世に帝冠を授け(
962〜973在位)、962年
神聖ローマ帝国が成立します。
神聖ローマ帝国とは、中世のドイツ国家の呼び名で、当初ヨーロッパで最大最強の封建国家でした。
ところが、次第に諸侯の勢力が強くなり、有力諸侯を中心とした選挙によって、国王や皇帝を選ぶ伝統が生まれてきました。
ドイツ国王は、ドイツの一定の領域を治める一君主だったのですが、神聖ローマ帝国皇帝にも即位し、ローマ教皇から帝冠を授かったことから、理念上「キリスト教会の保護者」として他国の国王よりも権威が高かったとされています。
イタリア政策
神聖ローマ帝国の皇帝は、「ローマ皇帝」位にふさわしい実力をキリスト世界に示すために、オットー1世以降積極的にイタリア遠征を繰り返しました。
これを
イタリア政策といい、名目上はローマ教皇と教皇領の保護を目的としていましたが、神聖ローマ帝国が教会組織を帝権の下に置き統治に利用した
帝国教会政策を維持するために行われました。
度重なる外征を繰り返したため、ドイツ統治がおろそかになり、結果的に大諸侯の力はますます増していきました。
ザクセン朝のあと
シュタウフェン朝に入っても、イタリア政策は重要視され、国内は混乱し、次第に帝権が衰退していきます。
1256年以降、シュタウフェン朝断絶後に事実上皇帝不在の
大空位時代を迎え、帝権の弱体化がさらに進みます。
金印勅書とドイツの分裂
こうした状況の中、大空位時代を経て
ルクセンブルク朝の皇帝として即位した
カール4世(在位1347〜1378)が、教皇に介入をさせず、政治的な混乱を解決することを目的として1356年に金印勅書を発布することになるのです。
金印勅書は、国王選挙を7選帝侯の
多数決制にし、併せて選帝侯の
裁判・貨幣鋳造・関税徴収などの特権を公認しました。諸侯のもつ領地は、王権の支配を受けない事実上の独立国(
領邦)となったのです。
これにより、選帝侯の特権的地位が確立し、領邦の割拠と皇帝権の弱体化が決定的となります。ドイツ中央集権化はより一層困難となり分裂がすすみ、ドイツ統一は19世紀後半になるまで実現しませんでした。