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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / ルネサンス

ミケランジェロとは わかりやすい世界史用語2534

著者名: ピアソラ
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ミケランジェロとは

ミケランジェロは、盛期ルネサンスのイタリアが生んだ彫刻家、画家、建築家、そして詩人であり、その比類なき芸術的才能と圧倒的な作品群によって西洋美術の歴史に不滅の足跡を刻みました。同時代の人々から「イル=ディヴィーノ(神のごとき人)」と称賛された彼は、レオナルド=ダ=ヴィンチと並び立つルネサンスの典型的な万能人であり、その芸術は人間の肉体の美しさと精神性の高みを、かつてないほどの力強さと情熱をもって表現しています。フィレンツェ共和国のカプレーゼに生まれた彼は、若くしてメディチ家の庇護のもとで才能を開花させ、『ピエタ』や『ダヴィデ像』といった初期の傑作で彫刻家としての不動の名声を得た後、ローマ教皇ユリウス2世の命によりシスティーナ礼拝堂の天井画という巨大なフレスコ画の制作に挑み、絵画の歴史をも塗り替えました。彼の長い生涯は、フィレンツェとローマという二つの都市を舞台に、メディチ家や歴代の教皇といった強力なパトロンたちとの複雑な関係性の中で展開され、その芸術は後期に至るにつれて、より内省的で精神的な深みを増していきます。建築家としてはサン=ピエトロ大聖堂の設計を完成に導き、また数多くのソネットを残すなど、その創造活動は88歳でその生涯を閉じるまで衰えることを知りませんでした。



幼少期と芸術への目覚め(1475年–1492年)

ミケランジェロの芸術家としての運命は、彼の出自や家族の意向とは裏腹に、幼い頃から抗いがたい力によって定められていたかのようでした。1475年3月6日、フィレンツェ近郊のアレッツォに近いカプレーゼの町で、フィレンツェ共和国の地方判事を務めていたロドヴィーコ=ディ=レオナルド=ブオナローティ=シモーニとフランチェスカ=ディ=ネーリ=デル=ミニアート=ディ=シエーナの間に、5人兄弟の次男として生を受けました。ブオナローティ家は、かつては小貴族の家柄でしたが、ミケランジェロが生まれた頃にはその勢いを失っていました。生後まもなく、彼はフィレンツェ近郊のセッティニャーノに住む石工の妻に乳母として預けられ、この石切り場の町で過ごした幼少期の経験が、彼に大理石への生涯にわたる愛情を植え付けたと、後に彼自身が語っています。父親は、息子が芸術家という社会的地位の低い職業に就くことに強く反対しましたが、ミケランジェロの芸術に対する情熱は揺らぐことなく、最終的には父を説得して、フィレンツェで最も著名な画家の工房の門を叩くことになります。
ドメニコ=ギルランダイオの工房への弟子入り

父親の抵抗を乗り越え、1488年、13歳のミケランジェロは、フィレンツェで最も成功していた画家の一人であるドメニコ=ギルランダイオの工房に、3年契約の弟子として正式に入門しました。この工房で、彼はフレスコ画の基本的な技術、構図法、そして素描の重要性を徹底的に学びました。ギルランダイオは、サンタ=マリア=ノヴェッラ聖堂のトルナブオーニ礼拝堂の装飾など、大規模なフレスコ画の連作を手がけており、ミケランジェロはこれらのプロジェクトに助手として参加することで、実践的な経験を積んだと考えられます。しかし、ミケランジェロの並外れた才能は、すぐに師であるギルランダイオの注意を引くことになり、伝記作家によれば、彼は師の素描を完璧に模写するだけでなく、それを凌駕するほどの腕前を早くから示していたといいます。彼は、ギルランダイオの工房にわずか1年ほどしか留まらず、その才能は絵画の枠を超えて、より立体的で触知的な表現形式である彫刻へと向かうことになります。
メディチ家の庭園とロレンツォ豪華王の庇護

ミケランジェロの運命を決定的に変えたのは、フィレンツェの事実上の支配者であり、ルネサンス最大の芸術パトロンであったロレンツォ=デ=メディチ(豪華王)との出会いでした。ギルランダイオは、ロレンツォがサン=マルコ広場に設立した彫刻学校に、最も才能のある弟子としてミケランジェロを推薦しました。この学校は、メディチ家が収集した古代ギリシャ=ローマの彫刻コレクションを若手芸術家たちに学ばせるためのもので、ドナテッロの弟子であったベルトルド=ディ=ジョヴァンニが指導にあたっていました。ミケランジェロは、ここで古代彫刻の力強さや理想化された人体表現に深く魅了され、自身の芸術の核となる古典主義の基礎を築きました。彼の才能をいち早く見抜いたロレンツォは、ミケランジェロをメディチ宮殿に住まわせ、自身の息子たちと共に人文主義的な教育を受けさせ、家族同然に扱いました。この宮殿で、ミケランジェロは、アンジェロ=ポリツィアーノやマルシリオ=フィチーノといった当代一流の人文主義者や詩人たちと交流し、新プラトン主義哲学の洗礼を受け、その思想は彼の芸術に深い精神的な奥行きを与えることになります。
初期の彫刻作品:『階段の聖母』と『ケンタウロスの戦い』

メディチ家の庭園で過ごした1490年から1492年にかけての期間に、ミケランジェロは現存する最初期の彫刻作品を制作し、その早熟な才能を遺憾なく発揮しました。その一つである『階段の聖母』は、大理石の浅浮き彫りであり、師ベルトルドの師であったドナテッロの様式に深く影響を受けています。この作品では、聖母マリアが力強い横顔で描かれ、その膝の上で眠る幼児キリストは、驚くほど筋肉質で英雄的な肉体を持っており、後のミケランジェロの作品に見られる人体表現の萌芽がすでに見られます。もう一つの作品『ケンタウロスの戦い』は、ポリツィアーノの提案した主題に基づくとされ、神話的な戦闘場面をダイナミックな高浮き彫りで表現しています。この作品では、無数の裸体の人物が複雑に絡み合い、激しい動きと緊張感に満ちた一つの塊を形成しており、ミケランジェロの古代彫刻に対する深い理解と、人間の肉体を表現媒体として極限まで追求しようとする彼の生涯にわたる執念が、すでに明確に示されています。これらの初期作品は、彼がまだ10代であったにもかかわらず、すでに独自の芸術的個性を確立していたことを証明しています。
ボローニャと二度目のフィレンツェ滞在(1492年–1496年)

1492年に偉大なパトロンであったロレンツォ豪華王が亡くなると、ミケランジェロのフィレンツェでの安定した生活は終わりを告げ、彼のキャリアは新たな局面を迎えます。ロレンツォの後を継いだ息子のピエロ=デ=メディチは、父ほどの芸術的見識を持たず、フィレンツェの政治情勢も急速に不安定化していきました。フランス王シャルル8世のイタリア侵攻が迫る中、ミケランジェロは迫り来る混乱を予見し、1494年にフィレンツェを離れてヴェネツィア、そしてボローニャへと向かいました。ボローニャでの滞在は1年余りと短いものでしたが、彼はそこで新たなパトロンを見つけ、重要な彫刻制作の機会を得ます。この時期の経験は、彼の芸術的視野を広げ、フィレンツェの芸術的伝統とは異なる影響を彼に与えました。やがてフィレンツェの政治状況が変化し、ドミニコ会修道士ジロラモ=サヴォナローラの影響下でメディチ家が追放されると、ミケランジェロは再び故郷の土を踏むことになりますが、そこはもはや彼が知っていたフィレンツェではありませんでした。
ボローニャでの活動とヤコポ=デッラ=クエルチャからの影響

ボローニャに到着したミケランジェロは、貴族ジャンフランチェスコ=アルドヴランディの庇護を受け、彼の家でダンテやペトラルカの詩を朗読して過ごしました。アルドヴランディは、ミケランジェロに、ボローニャのサン=ドメニコ聖堂にある聖ドミニクスの墓(アルカ=ディ=サン=ドメニコ)を飾る、未完成だった3体の小彫像の制作を依頼しました。この墓は、すでにニッコロ=デッラルカによって主要部分が制作されていましたが、ミケランジェロは『聖ペトロニウス』、『聖プロクルス』、そして燭台を持つ天使像を制作し、先行する彫刻家の様式に合わせながらも、自身の力強い作風を刻み込みました。特に、このボローニャ滞在中に彼が深く学んだのが、初期ルネサンスの偉大な彫刻家ヤコポ=デッラ=クエルチャの作品でした。サン=ペトロニオ聖堂の扉口を飾るクエルチャの力強く、量感豊かな浮き彫りは、ミケランジェロに深い感銘を与え、その影響は後のシスティーナ礼拝堂天井画における『原罪と楽園追放』の場面などに顕著に見られます。
サヴォナローラ時代のフィレンツェへの帰還

1495年末、ミケランジェロはフィレンツェに戻りましたが、そこはかつての華やかな芸術の都ではなく、厳格な道徳改革を唱える修道士ジロラモ=サヴォナローラの神権政治の下にありました。サヴォナローラは、贅沢や異教的な芸術を「虚飾の焼却」と呼ばれる焚書によって糾弾し、フィレンツェの文化的な雰囲気は一変していました。この時期、ミケランジェロはメディチ家の分家であるロレンツォ=ディ=ピエルフランチェスコのために仕事をしたとされていますが、サヴォナローラの厳格な宗教的雰囲気が彼の芸術に与えた影響も無視できません。サヴォナローラの情熱的な説教は、罪や悔い改め、そして神の審判といったテーマを強調しており、これらの主題は、後のミケランジェロの作品、特に『最後の審判』に色濃く反映されることになります。この時期のミケランジェロは、古代彫刻を模した『眠れるクピド』を制作し、これを古代の作品と偽ってローマの枢機卿ラッファエーレ=リアーリオに売却するという事件を起こします。この出来事が、彼のキャリアを次なる舞台である永遠の都ローマへと導くきっかけとなりました。
最初のローマ滞在と名声の確立(1496年–1501年)

『眠れるクピド』の真贋を巡る一件がきっかけとなり、1496年、21歳のミケランジェロは、古代遺跡とルネサンスの野望が交錯する都市、ローマへと初めて足を踏み入れました。この最初のローマ滞在は、彼のキャリアにおいて決定的な転換点となり、彼はここでフィレンツェの一青年に過ぎなかった立場から、イタリア全土にその名を知られる不世出の彫刻家へと飛躍を遂げます。ローマで彼を待っていたのは、古代彫刻の壮大な遺産と、強力な聖職者たちからの野心的な制作依頼でした。彼は、古代の傑作に触発されながらも、それを単に模倣するのではなく、キリスト教的な主題に新たな生命感と人間的な感情を吹き込むことで、独自の芸術世界を切り開いていきました。この時期に制作された『バッカス』と、そして何よりも彼の名を不滅のものとした『ピエタ』は、彼の驚異的な技術と、人間の肉体を通じて精神性を表現する卓越した能力を世に知らしめ、盛期ルネサンスの幕開けを告げる記念碑的な作品となりました。
『バッカス』像の制作

ローマに到着したミケランジェロは、当初、『眠れるクピド』を購入した枢機卿ラッファエーレ=リアーリオのために、古代の酒神を主題とする『バッカス』像の制作を始めました。しかし、完成した作品は、そのあまりにもリアルな酩酊状態の表現ゆえか、枢機卿の好みには合わず、最終的には銀行家ヤコポ=ガッリの庭園に設置されることになりました。この等身大の彫刻は、ミケランジェロが古代彫刻をいかに深く研究し、その様式を完全に自らのものにしていたかを示しています。彼は、不安定な足取りで立つ酒神の姿を、巧みなコントラポストを用いて表現し、その肉体は若々しい官能性を放っています。しかし、その表情にはどこか虚ろさが漂い、古代の神を単に理想化して描くのではなく、その神話的な性格に潜む人間的な弱さや危うさをも描き出そうとする、ミケランジェロ独自の解釈が見られます。この作品は、彼が古代の主題を扱いながらも、それに新たな心理的な深みを与える能力を持っていることを証明しました。
サン=ピエトロの『ピエタ』

ミケランジェロの名声を決定的にしたのは、フランス人のジャン=ド=ビレール枢機卿の依頼により、1498年から1499年にかけて制作されたサン=ピエトロの『ピエタ』です。この作品は、十字架から降ろされたキリストの亡骸を腕に抱き、悲しみに沈む聖母マリアの姿を、一点の傷もない純白の大理石から彫り出したもので、その技術的な完璧さと、抑制された感情表現の崇高さにおいて、ルネサンス彫刻の最高傑作とされています。ミケランジェロは、聖母マリアを、息子であるキリストよりも若く、理想化された姿で表現しました。この年齢設定に対する批判に対し、彼は、処女である聖母は神の恩寵によって永遠の若さを保っているのだと答え、その神学的な解釈によって、作品に深い精神性を与えました。キリストの肉体は、解剖学的な正確さと、死の重さを感じさせない優美さを兼ね備え、聖母の衣服の複雑で流麗なひだの表現は、大理石という硬い素材をまるで柔らかな布地のように感じさせます。この作品の完成後、その作者が誰であるかについて議論が起きた際、ミケランジェロは夜中に教会に忍び込み、聖母の胸元の帯に「フィレンツェ人ミケランジェロ=ブオナローティ、これを造る」と署名を刻み込んだという逸話は、彼の若き日の自信と誇りを物語っています。
フィレンツェへの凱旋と『ダヴィデ像』(1501年–1505年)

『ピエタ』の成功によってイタリア中に名声を轟かせたミケランジェロは、1501年、英雄として故郷フィレンツェに凱旋しました。この時期のフィレンツェは、サヴォナローラが失脚し、共和制の新たな気運が高まっていました。フィレンツェ共和国政府は、市の象徴となるような記念碑的な作品の制作を計画しており、その白羽の矢が立ったのが、今やフィレンツェが誇る最高の芸術家となったミケランジェロでした。彼に託されたのは、40年近くも前に他の彫刻家が手を付けたものの、その扱いにくさから大聖堂の作業場に放置されていた、巨大な大理石の塊でした。この石塊から、ミケランジェロは、3年以上の歳月をかけて、西洋美術史上最も有名で、最も完璧な男性裸体像である『ダヴィデ像』を彫り出します。この作品は、単なる聖書の英雄の像にとどまらず、フィレンツェ共和国の自由と独立の精神を体現する、政治的な象徴としての意味を担うことになりました。
『ダヴィデ像』の依頼と制作過程

1501年8月、フィレンツェ大聖堂の造営委員会は、ミケランジェロに対し、長年放置されていた巨大なカッラーラ産大理石の塊から、旧約聖書の英雄ダヴィデの像を制作するよう正式に依頼しました。この石塊は、高さ5メートルを超え、しかも細長く、すでに他の彫刻家によって大まかに彫られていたため、制作には極めて高度な技術と構想力が要求されました。ミケランジェロは、この困難な課題に対し、石塊の制約の中で最大限の可能性を引き出すという挑戦を受け入れ、たった一人で、公開されることのない作業場で制作に没頭しました。彼は、伝統的にダヴィデ像がゴリアテの首を足元に置いた勝利後の姿で描かれるのとは異なり、これから巨人ゴリアテに立ち向かおうとする、緊張に満ちた瞬間の若き英雄の姿を選びました。この選択によって、作品には静的な勝利の記念碑ではなく、決意と精神的な集中力に満ちた、ダイナミックなエネルギーが宿ることになりました。
『ダヴィデ像』の図像と象徴性

ミケランジェロの『ダヴィデ像』は、その圧倒的な肉体美と、内に秘めた精神的な力強さにおいて、古典古代の理想とキリスト教的な精神性を見事に融合させています。ダヴィデは、完璧な均整の取れた裸体で表現され、その肉体は解剖学的に正確であると同時に、理想化された英雄的な力強さを湛えています。彼は、左肩に投石器をかけ、右手には石を握りしめ、その視線は鋭く遠くの敵(ゴリアテ)を見据えています。その表情には、若々しい不安と、それを克服する断固たる決意が同居しており、鑑賞者に深い心理的な共感を呼び起こします。この像は、単なる肉体的な力だけでなく、知性と精神の力によって強大な敵に打ち勝つという、フィレンツェ共和国が自らを投影した理想像を体現していました。すなわち、小国フィレンツェが、周囲の強大な敵(フランス、教皇庁、ミラノ公国など)に屈することなく、自由と独立を守り抜くという政治的寓意が込められていたのです。
設置場所を巡る議論とシニョリーア広場への設置

1504年に『ダヴィデ像』が完成すると、そのあまりの素晴らしさに、当初予定されていた大聖堂の屋根の上ではなく、もっと人々の目に触れる重要な場所に設置すべきだという意見が巻き起こりました。フィレンツェ政府は、レオナルド=ダ=ヴィンチやサンドロ=ボッティチェッリといった当代一流の芸術家たちを含む委員会を招集し、その設置場所について議論させました。様々な意見が出された末、最終的に、フィレンツェの政治の中心であるシニョリーア広場の、政庁舎(ヴェッキオ宮殿)の入口に設置されることが決定しました。この決定は、『ダヴィデ像』が持つ政治的な象徴性を最大限に活用しようとするものであり、これによって像はフィレンツェ共和国の守護者としての役割を担うことになりました。巨大な像を大聖堂の作業場から広場まで運ぶ作業は、4日間を要する一大イベントとなり、フィレンツェ市民は熱狂をもってこの新たなシンボルの誕生を迎えました。
教皇ユリウス2世の時代とシスティーナ礼拝堂(1505年–1516年)

『ダヴィデ像』の成功によって頂点に達したミケランジェロのフィレンツェでの活動は、1505年、野心的な新教皇ユリウス2世からのローマへの召喚によって、新たな、そしてより壮大な局面へと移行します。戦士教皇とも呼ばれるユリウス2世は、教皇庁の権威を再確立し、ローマをキリスト教世界の首都として壮麗に飾り立てることを目指しており、その壮大な計画を実現するために、当代最高の芸術家であるミケランジェロの力を必要としました。ミケランジェロは、まず教皇自身の巨大な霊廟の制作を依頼されますが、このプロジェクトは度重なる計画の変更と中断に見舞われ、彼の生涯を通じて「霊廟の悲劇」と呼ばれる苦悩の種となります。そして、この霊廟計画が中断される中、ユリウス2世はミケランジェロに対し、彼の意に反して、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画の制作を命じます。自らを彫刻家と任じ、絵画、特にフレスコ画の経験が乏しいと主張したミケランジェロでしたが、教皇の強硬な命令には逆らえず、この巨大な挑戦に一人で立ち向かうことになりました。
ユリウス2世の霊廟計画と「霊廟の悲劇」

1505年、ミケランジェロがローマに召喚された当初の目的は、ユリウス2世が自身の生前に建立を計画した、前代未聞の規模を誇る巨大な霊廟の制作でした。当初の計画では、この霊廟は独立した建築物で、40体以上の等身大を超える彫刻で飾られるという壮大なものでした。ミケランジェロはこの計画に情熱を燃やし、自らカッラーラの石切り場に赴いて、何か月もかけて最高品質の大理石を選び出しました。しかし、彼がローマに戻ると、教皇の関心はサン=ピエトロ大聖堂の改築へと移っており、霊廟計画は突如として中断され、資金も凍結されてしまいます。この教皇の心変わりに激怒したミケランジェロは、身の危険を感じてローマを脱出し、フィレンツェへと逃げ帰りました。教皇との関係は後に修復されますが、この霊廟計画は、その後40年間にわたって、何度も規模を縮小され、計画を変更されながら、彼の心を苛み続けることになります。最終的に1545年に完成した霊廟は、当初の壮大な構想とは似ても似つかない小規模な壁面墓碑となり、その中心を飾る『モーセ像』に、ミケランジェロの当初の情熱と長年の苦悩の跡が刻まれています。
システィーナ礼拝堂天井画の依頼

ユリウス2世の霊廟計画が中断された後、1508年、教皇はミケランジェロに対し、システィーナ礼拝堂の天井画という、全く別の、そして彼が望まない依頼を命じました。ミケランジェロは、自分は彫刻家であり画家ではないこと、特にフレスコ画の経験がほとんどないことを理由に、この依頼を固辞しようとしましたが、教皇の意志は固く、最終的に彼はこの困難な仕事を引き受けざるを得ませんでした。伝記によれば、この依頼の背後には、ミケランジェロのライバルであった建築家ドナト=ブラマンテの陰謀があったとされています。ブラマンテは、ミケランジェロがこの困難な仕事に失敗し、名声を失うことを期待して、教皇に彼を推薦したというのです。当初の計画は、天井に十二使徒を描くという比較的単純なものでしたが、ミケランジェロはこの計画に満足せず、自らより壮大で複雑な図像プログラムを考案し、教皇にそれを認めさせました。
天井画の制作過程と技術的困難

システィーナ礼拝堂の天井画の制作は、1508年から1512年までの4年半に及び、ミケランジェロは、広さ500平方メートルを超える巨大な曲面天井に、ほとんど一人で、極めて過酷な状況下で取り組みました。彼は、自身で設計した特殊な足場の上に仰向けに近い不自然な姿勢で立ち、上から滴り落ちる絵の具にまみれながら、フレスコ画の制作を進めました。フレスコ技法は、湿った漆喰が乾く前に描かなければならないため、修正が効かず、迅速かつ正確な作業が求められます。制作の初期には、漆喰にカビが生えるという技術的な問題にも直面しましたが、彼は漆喰の配合を変えることでこの問題を克服しました。彼は、この巨大な画面を、下から見た際の効果を計算しながら、驚くべき速さと正確さで描き進めていきました。この過酷な作業は、彼の肉体と精神を極限まで追い込み、その苦痛は彼が残したソネットにも記されていますが、同時に彼の創造力を前例のない高みへと引き上げることにもなりました。
天井画の図像プログラム:創世記の物語

ミケランジェロが最終的に描き出した天井画の図像プログラムは、旧約聖書の『創世記』を主題とする、壮大な人類創生の物語です。天井の中央部分には、「天地創造」から「ノアの物語」に至る9つの場面が、時系列に沿って描かれています。これらの中央パネルを囲むように、キリストの到来を予言した7人の預言者(プロフェータ)と5人の巫女(シビュラ)が巨大な姿で描かれ、さらに画面の四隅の三角小間やルネット(半月形の画面)には、キリストの祖先たちや、イスラエルの民の救済の物語が描かれています。これら300人を超える人物像は、すべてが力強く、彫刻的な量感を持ち、複雑でダイナミックなポーズをとっています。特に有名な『アダムの創造』の場面では、神が生命を吹き込もうとするアダムに指を差し伸べる、まさにその直前の緊張感に満ちた瞬間が捉えられており、西洋美術における最も象徴的なイメージの一つとなっています。この天井画全体は、新プラトン主義的な思想を反映し、人間の堕落と、神の恩寵による救済への希望という、壮大な神学的ドラマを構成しています。
メディチ家教皇の時代とフィレンツェでの活動(1516年–1534年)

ユリウス2世が1513年に亡くなり、その後、ミケランジェロの若い頃の庇護者であったロレンツォ豪華王の次男がレオ10世として教皇に即位すると、ミケランジェロの活動の中心は再び故郷フィレンツェへと移ります。レオ10世とその従弟で後の教皇クレメンス7世という、二人のメディチ家出身の教皇の時代は、ミケランジェロにとって、一族への奉仕と、フィレンツェ共和国市民としての良心との間で引き裂かれる、複雑で苦悩に満ちた時期となりました。彼は、メディチ家の栄光を讃えるための壮大な建築プロジェクト、すなわちサン=ロレンツォ聖堂のファサード(正面)の装飾と、新聖具室(メディチ家礼拝堂)の建設を依頼されます。しかし、これらのプロジェクトは、パトロンの気まぐれや政治情勢の変化によって、彼の意図通りには進みませんでした。特に、1527年の「ローマ劫掠」を機にフィレンツェでメディチ家支配が打倒され、共和制が復活すると、ミケランジェロは共和国の防衛責任者として、かつてのパトロンであったメディチ家と敵対する立場に立たされるという、皮肉な運命に直面します。
サン=ロレンツォ聖堂ファサード計画

1516年、教皇レオ10世は、フィレンツェにあるメディチ家の菩提寺であるサン=ロレンツォ聖堂の未完成だったファサードを、壮麗な大理石の彫刻で飾るという壮大な計画をミケランジェロに依頼しました。ミケランジェロは、このプロジェクトに建築家と彫刻家の両方として取り組み、ファサード全体を一つの巨大な彫刻作品として構想し、数多くの彫像や浮き彫りを配した詳細な木製模型を制作しました。彼は、この計画のために再びカッラーラやピエトラサンタの石切り場に赴き、何年もの歳月を大理石の調達と、その輸送路の確保に費やしました。しかし、莫大な費用と技術的な困難、そして教皇の関心の低下により、この計画は1520年に突然中止されてしまいます。ファサードは結局、一枚の大理石も設置されることなく未完のまま放置され、ミケランジェロの多大な労力と時間は水泡に帰しました。この経験は、彼にとって大きな失望となり、「霊廟の悲劇」に次ぐ、もう一つの未完のプロジェクトとして彼のキャリアに影を落としました。
メディチ家礼拝堂(新聖具室)

サン=ロレンツォ聖堂のファサード計画が頓挫した後、ミケランジェロのエネルギーは、同じ聖堂内にある新聖具室、通称メディチ家礼拝堂の建設へと向けられました。この礼拝堂は、ロレンツォ豪華王の息子ジュリアーノ(ヌムール公)と、孫のロレンツォ(ウルビーノ公)の墓廟を収めるために計画されたもので、ミケランジェロは建築と彫刻の両方を統合した、一つの完璧な芸術空間を創造しようと試みました。彼は、ブルネレスキが設計した旧聖具室と対になる形で、正方形のプランと、ピエトラ=セレーナ(灰色の砂岩)と白い漆喰のコントラストが美しい、古典的で調和の取れた建築空間を設計しました。そして、その壁面に設置された二つの墓廟には、理想化された姿のジュリアーノとロレンツォの彫像と、その下の石棺の上には、それぞれ『夜』と『昼』、『曙』と『黄昏』を寓意する、力強くも苦悩に満ちた4体の裸体像を配置しました。これらの寓意像は、時間の経過と、その下で眠る死者の運命、そして新プラトン主義的な魂の解放といった複雑な思想を象徴しており、ミケランジェロ後期の様式であるマニエリスムの到来を告げる、極めて独創的な作品となっています。
ラウレンツィアーナ図書館

メディチ家礼拝堂と同時期に、ミケランジェロは、サン=ロレンツォ聖堂に隣接するラウレンツィアーナ図書館の設計も手がけました。この図書館は、メディチ家が収集した膨大な写本を収蔵するために計画されたもので、ミケランジェロは特に、閲覧室へと続く玄関ホール(リチェット)において、建築の伝統的な規則を大胆に破る、極めて独創的で劇的な空間を創造しました。彼は、壁から突き出た円柱を壁龕(へきがん)に埋め込み、構造的な機能を果たさない装飾的な要素として扱ったり、巨大でダイナミックな階段が、まるで溶岩が流れ落ちるかのように、狭い空間を埋め尽くすように設計しました。この空間では、壁が前進し、柱が後退するなど、伝統的な建築の文法が逆転しており、鑑賞者に不安や緊張感を与える、マニエリスム的な効果が生み出されています。この革新的なデザインは、バロック建築の先駆けと見なされており、ミケランジェロが建築の分野においても、いかに既成概念を打ち破る革命家であったかを示しています。
ローマへの永住と『最後の審判』(1534年–1549年)

1534年、フィレンツェ共和国が最終的に崩壊し、メディチ家による公国制が確立されると、ミケランジェロは愛する故郷を永久に離れ、ローマへと移り住むことを決意します。この時、彼はすでに60歳に近くなっていましたが、彼の創造活動は衰えるどころか、新たな教皇クレメンス7世、そしてその後を継いだパウルス3世のもとで、最後の、そして最も壮大な頂点を迎えることになります。ローマに永住してからの彼の最初の巨大プロジェクトは、かつて彼が天井画を描いたシスティーナ礼拝堂の、祭壇の背後の壁全体を飾るフレスコ画『最後の審判』の制作でした。この作品は、天井画の制作から20年以上を経て、宗教改革の動乱や「ローマ劫掠」という衝撃的な出来事を経験したミケランジェロの、変化した世界観と芸術観を反映しており、ルネサンス的な調和と秩序に代わって、混沌とした不安と神の恐るべき審判のドラマが、圧倒的なスケールで描き出されています。
『最後の審判』の図像と裸体論争

ミケランジェロの『最後の審判』は、その図像において多くの点で伝統を打ち破っています。中心に描かれた審判者キリストは、髭のない若々しいアポロのような姿で、慈悲深い救い主としてではなく、恐るべき力で罪人を地獄に突き落とす、厳格な裁き主として表現されています。彼の周りには、聖母マリアや洗礼者ヨハネ、そして殉教した聖人たちが、救いを求める者としてではなく、審判の証人として集っています。画面全体は、400人を超える人物で埋め尽くされていますが、そのほとんどが裸体で描かれており、この点が完成直後から激しい論争を巻き起こしました。教皇の儀式の中心である神聖な礼拝堂に、これほど多くの裸体を、しかも性器を露わにしたまま描くことは、甚だしく不敬であると非難されました。特に、教皇の式部官であったビアージョ=ダ=チェゼーナは、この作品を酷評し、ミケランジェロは報復として、地獄の裁判官ミノスをチェゼーナの顔で描き、蛇に性器を噛ませるという形で作品に描き込みました。この裸体論争はミケランジェロの死後も続き、トリエント公会議の決定を受けて、1565年に画家ダニエーレ=ダ=ヴォルテッラによって、多くの人物の腰に布(腰布)が描き加えられることになりました。
晩年の建築プロジェクトと死(1546年–1564年)

『最後の審判』を完成させた後、70歳を超えたミケランジェロの創造活動は、主に建築の分野へと注がれていきました。彼は、教皇パウルス3世から、ローマにおける最も重要で野心的な建築プロジェクトである、新しいサン=ピエトロ大聖堂の首席建築家に任命されます。この晩年のミケランジェロは、もはや単なる芸術家ではなく、深い信仰心と、自身の芸術に対する絶対的な権威を備えた、孤高の巨匠としてローマに君臨していました。彼は、サン=ピエトロ大聖堂の設計において、それまでの計画を根本から見直し、自身の力強い彫刻的なヴィジョンを建築に適用しました。また、カピトリーノの丘の広場の設計など、都市計画の分野でもその才能を発揮しました。彼の健康は次第に衰えていきましたが、その創造意欲は尽きることなく、死の直前まで彫刻のノミを握り続け、『ロンダニーニのピエタ』のような、極限まで無駄を削ぎ落とした、深い精神性を湛える作品を制作しました。1564年2月18日、ミケランジェロはローマの自宅で、88歳の波乱に満ちた生涯を静かに閉じました。
サン=ピエトロ大聖堂の首席建築家

1546年、ミケランジェロは、前任者であったアントニオ=ダ=サンガッロ(子)の死を受けて、サン=ピエトロ大聖堂の首席建築家という大役を引き受けました。彼は、この仕事を無報酬で引き受け、神への奉仕としてこのプロジェクトに献身しました。彼は、サンガッロによる複雑で巨大な計画案を「あまりにも多くの隠れ場所があり、貨幣偽造やその他の悪事の温床になる」と批判し、これを破棄しました。そして、初代建築家であったドナト=ブラマンテの、ギリシャ十字形の集中式プランに立ち返ることを提案しました。しかし、彼はブラマンテの設計を単に復活させるのではなく、それをより力強く、統一感のある、彫刻的な塊として再構成しました。彼は、外部の壁体を、巨大なオーダー(柱式)のピラスター(付け柱)によってリズミカルに分節し、光と影の劇的な効果を生み出しました。そして、この大聖堂の最高の栄光となる、巨大なクーポラ(円蓋)の設計に取り組みました。彼が制作した詳細な木製模型に基づいて、クーポラは彼の死後にジャコモ=デッラ=ポルタらによって完成され、ローマのスカイラインを永遠に定義する象徴となりました。
カピトリーノの丘の広場

サン=ピエトロ大聖堂と並行して、ミケランジェロは、古代ローマの中心であったカピトリーノの丘の再整備計画も手がけました。このプロジェクトは、1538年に教皇パウルス3世が、古代ローマ皇帝マルクス=アウレリウスの騎馬像をこの丘に移設したことを機に始まりました。ミケランジェロは、この騎馬像を中心に据え、既存の二つの建物(セナトリオ宮とコンセルヴァトーリ宮)のファサードを改修し、さらにコンセルヴァトーリ宮と対になる形で第三の建物(ヌオーヴォ宮)を建設することで、調和の取れた台形の広場(カンピドーリオ広場)を創り出しました。彼は、コンセルヴァトーリ宮とヌオーヴォ宮のファサードに、2層にまたがる巨大なオーダーのピラスターを用い、建物に記念碑的な統一感を与えました。広場の地面には、騎馬像を中心に放射状に広がる、複雑な楕円形の幾何学模様がデザインされ、天上の世界と地上の世界が交差する、宇宙的な中心としての広場の役割を象徴しています。この広場は、建物、彫刻、そして舗装のデザインが一体となった、バロック的な都市計画の先駆けとなる傑作です。
晩年の『ピエタ』像

ミケランジェロは、晩年に至るまで彫刻制作への情熱を失うことはなく、自身の墓のために、あるいは純粋に個人的な信仰の表明として、複数の『ピエタ』像を制作しました。フィレンツェのドゥオーモ美術館に所蔵される『フィレンツェのピエタ』(または『バンディーニのピエタ』)は、キリストの亡骸を、聖母マリア、マグダラのマリア、そしてニコデモ(ミケランジェロ自身の自画像とされる)が支えるという複雑な構成の作品ですが、制作途中に大理石の欠陥に苛立った彼自身によって、一部が破壊されてしまいました。そして、彼の死の直前まで制作が続けられたのが、『ロンダニーニのピエタ』です。この作品では、もはや解剖学的な正確さや肉体的な美しさは追求されていません。立っている聖母マリアが、力なく崩れ落ちるキリストの体を背後から支えるという、ゴシック彫刻を思わせる垂直的な構成の中で、二人の人物はほとんど一つの、幽霊のような姿に融合しています。極限まで削ぎ落とされ、未完成のまま残されたこの彫刻は、物質的な世界を超越し、魂の救済と神との合一を求める、ミケランジェロの最後の、そして最も深い精神的な祈りの表明として、見る者の胸を打ちます。
私生活と人物像

ミケランジェロの私生活は、その芸術と同様に、情熱的で、複雑で、そしてしばしば苦悩に満ちたものでした。彼は生涯独身を通し、その莫大な収入にもかかわらず、質素で禁欲的な生活を送りました。彼は、気難しく、短気で、他者に対して不信感を抱きがちな性格であったと伝えられており、その「テリビリタ(恐ろしさ、荘厳さ)」と評される気性は、彼の芸術にも通じるものでした。しかしその一方で、彼は家族や親しい友人に対しては深い愛情を注ぎ、特に、彼が晩年に出会った二人の人物、若いローマの貴族トンマーゾ=デ=カヴァリエーリと、高潔な未亡人であった詩人ヴィットリア=コロンナとの精神的な交流は、彼の人生に大きな慰めとインスピレーションを与えました。彼の性的指向については、多くの議論がありますが、彼がカヴァリエーリに宛てた情熱的なソネットや素描は、同性愛的な感情の存在を強く示唆しています。彼の信仰心は、特に晩年に至るにつれて深まり、その芸術は、美の追求から、魂の救済という、より内面的なテーマへと向かっていきました。
トンマーゾ=デ=カヴァリエーリとの関係

1532年、57歳のミケランジェロは、20代前半の若く美しいローマの貴族、トンマーゾ=デ=カヴァリエーリに出会い、生涯で最も情熱的で深い愛情を抱くことになります。ミケランジェロは、カヴァリエーリの完璧な美しさと知性に魅了され、彼を「光の化身」と呼び、数多くの情熱的なソネットや、『ガニュメデスの略奪』『パエトンの墜落』といった、神話的な主題を借りて自身の感情を表現した、極めて完成度の高い素描を彼に捧げました。この関係が肉体的なものであったかどうかは定かではありませんが、ミケランジェロがカヴァリエーリに抱いた感情が、新プラトン主義的な美への憧憬と、激しい人間的な愛情とが分かちがたく結びついたものであったことは間違いありません。カヴァリエーリは、ミケランジェロの芸術の理解者であり、生涯を通じて忠実な友人であり続け、ミケランジェロが亡くなる際には、その最期を看取った一人となりました。
ヴィットリア=コロンナとの精神的交流

1530年代後半、ミケランジェロは、ペスカーラ侯爵の未亡人であり、当代随一の女性詩人として知られたヴィットリア=コロンナと出会い、深い精神的な友情で結ばれました。コロンナは、宗教改革の思想にも通じた、敬虔で知的な女性であり、彼女との交流を通じて、ミケランジェロの信仰はより深く、内省的なものへと変化していきました。二人は、信仰、芸術、そして魂の救済といったテーマについて頻繁に書簡を交わし、共に詩作に励みました。ミケランジェロは、コロンナのために、十字架上のキリストを描いた素描や、『ピエタ』の素描を制作し、これらの作品には、信仰のみによって義とされるという、当時の改革派的な神学思想の影響が見られます。コロンナの存在は、ミケランジェロの孤独な晩年における大きな精神的な支えであり、1547年に彼女が亡くなった際、彼は深い悲しみに打ちひしがれたと伝えられています。
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・ミケランジェロとは わかりやすい世界史用語2534

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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