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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / ルネサンス

軍事革命とは わかりやすい世界史用語2499

著者名: ピアソラ
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軍事革命とは

火器の使用などによる近世ヨーロッパの軍事革命は、15世紀から18世紀にかけてヨーロッパの戦争のあり方を根底から変え、その影響が政治、社会、そして世界の勢力図にまで及んだ一連の変革を指す歴史的出来事でした。

「軍事革命」という言葉は、広義には、近世ヨーロッパで軍事面の変化が起こり、戦術上の変化が中央集権化や騎士の没落などの社会変化につながったことを指します。特に歴史家マイケル=ロバーツが1955年に行った講演で初めて提唱され、学術的な議論の出発点となりました。ロバーツは、1560年から1660年にかけてのスウェーデンとネーデルラント(オランダ)における軍事技術と戦術の革新が、ヨーロッパの戦争の規模と複雑さを劇的に増大させ、近代的な国家機構の発展を促したと主張しました。彼の説は、その後の歴史研究に大きな影響を与えましたが、同時に多くの批判と修正を経て、より複雑で長期的なプロセスとして理解されるようになりました。



マイケル=ロバーツの提唱した四つの核心

ロバーツが提唱した軍事革命論の核心は、四つの相互に関連する要素から成り立っています。第一に、戦術の革命です。これは、中世以来の密集した歩兵方陣が、より柔軟で火力を重視した線形戦術へと移行したことを指します。特に、オラニエ公マウリッツやスウェーデン王グスタフ=アドルフが導入した、小銃兵の連続射撃(一斉射撃)を可能にする訓練とドリルがその中心でした。これにより、歩兵は戦場で持続的な火力を提供できるようになり、騎兵の突撃に対する防御力も向上しました。
第二に、軍隊規模の劇的な増大です。新しい戦術を効果的に運用し、広範な戦線を維持するためには、より多くの兵士が必要となりました。16世紀初頭には数万人規模であった軍隊は、三十年戦争(1618年=1648年)の時代には10万人を超え、18世紀初頭のルイ14世の時代には40万人にも達しました。この兵員数の爆発的な増加は、国家が動員し、維持しなければならないリソースの規模を根本的に変えました。
第三に、より野心的で複雑な戦略の採用です。軍隊規模の増大は、君主たちがより広範な領土をめぐり、より長期にわたる戦争を遂行することを可能にしました。戦争は、単一の会戦で決着がつくものではなくなり、兵站、補給線、要塞の攻略といった要素が絡み合う、複雑な戦略的思考を要求するようになりました。
そして第四に、戦争が社会全体に与える影響の増大です。巨大化した常備軍を維持するためには、莫大な費用が必要となります。国家は、効率的な徴税システム、中央集権的な官僚機構、そして財政を管理するための専門的な機関を整備する必要に迫られました。つまり、戦争の需要が、近代的な国家機構そのものを生み出す原動力となったのです。ロバーツによれば、この一連の変化が、ヨーロッパにおける絶対王政の確立と中央集権国家の台頭を決定づけたとされます。
ジェフリー=パーカーによる修正と拡大

ロバーツの理論に最も重要な修正と拡大を加えたのが、歴史家ジェフリー=パーカーです。パーカーは、軍事革命の起点をロバーツが主張した16世紀後半よりも早い15世紀末から16世紀初頭に求め、その地理的範囲をヨーロッパ全土、さらにはヨーロッパの海外進出にまで広げました。
パーカーが特に重視したのは、火薬兵器、とりわけ大砲の発展がもたらした影響です。15世紀後半に登場した、巨大な石弾ではなく鉄の砲弾を射出できる、より機動性の高い攻城砲は、中世以来の高く薄い城壁をいとも簡単に粉砕する能力を持っていました。フランス王シャルル8世が1494年に行ったイタリア侵攻では、フランス軍の最新鋭の砲兵隊が、イタリア諸都市の城壁を次々と破壊し、戦争の様相を一変させました。
この「砲兵革命」に対抗するため、イタリアの軍事技術者たちは、全く新しいタイプの要塞を考案しました。それが「星形要塞」、あるいはイタリア式築城術として知られるものです。これは、高くそびえる石の城壁に代わり、低く厚い土塁を煉瓦で覆い、砲弾の衝撃を吸収、分散させる構造を持っていました。さらに、城壁からは「稜堡」と呼ばれる、矢じりのような形の突出部が突き出ており、これにより城壁の前面に死角がなくなり、複数の稜堡から十字砲火を浴びせることで、接近する敵を撃退することができました。
この星形要塞の登場は、戦争の性質を再び変えました。攻城戦は、力任せの破壊から、数ヶ月、時には数年に及ぶ、計算され尽くした消耗戦へと姿を変えたのです。要塞を包囲し、攻略するためには、より多くの兵士と、より高度な工兵技術、そして膨大な兵站が必要となりました。パーカーは、この星形要塞の普及こそが、ロバーツが指摘した軍隊規模の増大を不可避にした最大の要因であると主張しました。
さらにパーカーは、このヨーロッパで発展した新しい軍事技術=戦術システムが、ヨーロッパ勢力による世界の他の地域に対する軍事的優位性の源泉となったと論じました。「火薬帝国」と呼ばれたオスマン帝国やムガル帝国、中国の明朝なども火器を使用していましたが、ヨーロッパは、火器を搭載した海上戦力(武装帆船)と、規律ある歩兵による火力戦術、そして星形要塞という防御システムを組み合わせることで、世界的な規模でその力を投射することが可能になったのです。パーカーによれば、この軍事革命こそが、「西洋の台頭」を説明する鍵でした。
軍事革命の構成要素:技術、戦術、組織の変革

近世ヨーロッパの軍事革命は、単一の出来事ではなく、長期間にわたる多岐にわたる要素が相互に作用し合った複雑なプロセスでした。その中核をなすのは、火薬兵器の進化、それに伴う戦術の変革、そして軍隊の組織と規模の根本的な変化です。
火薬兵器の進化:大砲からマスケット銃へ

軍事革命の原動力となった技術的変化の根源には、火薬兵器の持続的な改良がありました。14世紀にヨーロッパの戦場に登場した初期の大砲は、巨大で扱いにくく、発射速度も遅いものでしたが、15世紀後半には、より軽量で機動性に富んだ青銅製の攻城砲が開発され、城壁に対する圧倒的な破壊力を示すようになりました。これにより、封建領主が立てこもる中世的な城は急速にその軍事的価値を失い、国王による領土統一と中央集権化を後押しする一因となりました。
野戦においても、大砲の役割は徐々に重要性を増していきました。初期の野戦砲は、発射準備に時間がかかり、戦闘中に移動させることは困難でしたが、16世紀を通じて小型化と標準化が進み、より軽量な砲架が開発されたことで、戦場での機動性が向上しました。特に、三十年戦争におけるスウェーデン王グスタフ=アドルフは、連隊ごとに軽量な「連隊砲」を配備し、歩兵の火力を直接支援するという革新的な運用を行いました。これにより、砲兵はもはや戦闘開始前の砲撃だけでなく、戦闘の推移に合わせて柔軟に火力を提供する、戦術的に不可欠な兵科へと変貌を遂げたのです。
歩兵の主兵装もまた、火薬兵器の登場によって劇的な変化を遂げました。15世紀末から16世紀にかけて、火縄銃(アーキバス)や、より大型で強力なマスケット銃が登場し、従来の弓やクロスボウに取って代わるようになりました。これらの初期の火器は、命中精度が低く、装填に時間がかかり、雨天時には使用できないなど多くの欠点を抱えていました。しかし、その一方で、鎧を貫通する威力と、使用者の訓練が比較的容易であるという大きな利点を持っていました。長弓兵を一人前に育てるには長年の訓練が必要でしたが、マスケット銃兵は数週間の訓練で戦力になることができたのです。これは、大規模な軍隊を短期間で編成することを可能にしました。
17世紀に入ると、火縄式に代わって、より信頼性の高いフリントロック式(燧石式)の発火装置が普及し始めます。さらに17世紀末には、銃剣(バヨネット)が発明され、マスケット銃に取り付けることで、銃兵が接近戦において槍兵のように振る舞うことが可能になりました。これにより、歩兵部隊を銃兵と槍兵に分ける必要がなくなり、すべての歩兵がマスケット銃で武装するようになります。このフリントロック式マスケット銃と銃剣の組み合わせは、18世紀のヨーロッパの戦場を支配する、完成された歩兵兵器システムとなりました。
戦術の革命:テルシオから線形戦術へ

火薬兵器の進化は、戦場の様相、特に歩兵戦術を根底から覆しました。16世紀の戦場を支配したのは、スペインが生み出した「テルシオ」と呼ばれる戦闘単位でした。テルシオは、数千人の槍兵が密集して形成する巨大な方陣の四隅を、火縄銃兵の部隊が固めるという陣形でした。槍兵の密集方陣は、当時最強の突撃力を誇ったフランス重装騎兵の攻撃を防ぐための強固な「壁」となり、その周囲に配置された火縄銃兵が敵に損害を与えました。この槍と銃の組み合わせは、攻守に優れた強力な戦闘隊形であり、スペイン軍の覇権を支えました。
しかし、テルシオは巨大で機動性に乏しく、その火力の多くが方陣の内側で死蔵されてしまうという欠点も抱えていました。この問題を解決し、歩兵の火力を最大限に引き出すための戦術革新を主導したのが、八十年戦争(オランダ独立戦争)におけるオラニエ公マウリッツでした。マウリッツは、古代ローマ軍の戦術に学び、巨大なテルシオを解体し、より小規模で柔軟な大隊へと部隊を再編成しました。そして、兵士たちに反復訓練(ドリル)を徹底させ、「反転行進」として知られる連続射撃戦術を導入しました。これは、前列の兵士が射撃した後、列の後ろに下がって装填し、その間に後列の兵士が前に進み出て射撃するという動作を繰り返すことで、途切れることのない一斉射撃を可能にするものでした。
このネーデルラントで生まれた新しい戦術をさらに発展させ、完成させたのが、三十年戦争におけるスウェーデン王グスタフ=アドルフでした。彼は、マウリッツの戦術をさらに改良し、歩兵の横隊を6列と浅くすることで、より多くの銃が同時に火を噴けるようにしました。さらに、前述の通り、機動性の高い連隊砲を歩兵部隊に組み込み、騎兵にもピストルやカービン銃で武装させて突撃前に射撃させるなど、歩兵、騎兵、砲兵の三兵科を連携させる「三兵戦術」を確立しました。1631年のブライテンフェルトの戦いでは、グスタフ=アドルフ率いるスウェーデン軍が、この新しい戦術を用いて、旧来のテルシオ陣形をとる皇帝軍に圧勝し、軍事史における一つの転換点となりました。
17世紀後半から18世紀にかけて、この火力重視の思想はさらに推し進められ、「線形戦術」として完成の域に達します。銃剣の普及により槍兵が不要になると、歩兵大隊はわずか3列程度の非常に薄い横隊を組み、戦場に長大な戦列を形成しました。兵士たちは、士官の号令一下、機械のような規律で前進し、敵の至近距離で破壊的な一斉射撃を交わし、最後は銃剣突撃で決着をつけました。この線形戦術の時代、戦争の勝敗は、兵士たちの勇気や個人的な武勇よりも、彼らがどれだけ厳しい訓練に耐え、砲火の下で隊列を維持し、命令通りに銃を操作できるかという、組織としての規律と練度にかかるようになったのです。
軍隊の組織と規模の変化:常備軍の誕生

戦術の変化とそれに伴う戦争の規模の拡大は、軍隊の組織そのものを恒久的に変えました。中世の軍隊は、封建領主が戦時に自らの家臣を率いて参集する、臨時編成のものが中心でした。近世初期には、傭兵が軍隊の主力を占めるようになります。傭兵は専門的な戦闘技術を持つプロフェッショナルでしたが、忠誠心は金次第であり、給料の支払いが滞れば、反乱や略奪を起こす危険性を常にはらんでいました。三十年戦争では、ヴァレンシュタインの軍隊のように、傭兵隊長が独自の権力基盤を築き、君主の統制を離れて行動することさえありました。
このような傭兵への依存がもたらす不安定さを克服し、国家の軍事力を安定的に確保するため、ヨーロッパの君主たちは「常備軍」の創設へと向かいました。常備軍とは、平時においても解散されることなく、国家によって恒久的に維持される軍隊のことです。フランスのルイ14世は、その治世を通じて常備軍の整備を強力に推し進め、統一された制服、標準化された兵器、明確な階級制度、そして国王に直属する兵站・管理機構を導入しました。プロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム1世(「兵隊王」)は、国家予算の大部分を軍事費に注ぎ込み、ヨーロッパで最も規律正しく、訓練された常備軍を築き上げ、プロイセンを列強の一角へと押し上げました。
常備軍の創設と維持は、国家にとって莫大な財政的負担を意味しました。兵士への給与、食料、被服、武器弾薬の供給、そして兵舎や要塞の建設と維持。これらの需要を満たすためには、国家はかつてない規模で社会のリソースを動員する必要がありました。その結果、徴税を担当する財務官僚、軍隊を管理する陸軍省、兵器を製造する国営工場といった、近代的国家に不可欠な行政機構が次々と整備されていきました。軍事革命は、単に戦争のやり方を変えただけでなく、国家と社会の関係そのものを再定義し、強力な中央集権国家=「財政=軍事国家」を生み出す原動力となったのです。
軍事革命がもたらした広範な影響

軍事革命は、戦場の中だけの出来事ではありませんでした。それは、ヨーロッパの政治構造、社会、経済、そして世界におけるヨーロッパの地位にまで、深く広範な影響を及ぼしました。
近代国家の形成と絶対王政の確立

軍事革命がもたらした最も重要な政治的帰結は、近代的で中央集権的な国家の形成を促進したことです。前述の通り、大規模な常備軍を維持し、長期にわたる消耗戦を戦い抜くという軍事的な要請は、国家がその統治能力を飛躍的に向上させることを強いました。
第一に、財政能力の強化が不可欠となりました。国家は、より効率的で広範な徴税システムを構築する必要に迫られました。貴族や聖職者、都市といった中間団体が持っていた伝統的な免税特権は徐々に切り崩され、国王の課税権が王国全土に行き渡るようになりました。塩税(ガベル)や人頭税(タイユ)といった全国的な税が導入され、その徴収を担う専門的な官僚機構が整備されました。また、国債の発行や国立銀行の設立といった、近代的な財政金融システムも、戦争の資金を調達する過程で発展しました。
第二に、行政能力の集権化が進みました。国王は、軍隊の指揮権をその手に集中させ、封建貴族の軍事的な自立性を奪っていきました。陸軍省のような中央官庁が創設され、兵士の徴募、訓練、装備、昇進といった軍政のあらゆる側面を国王の官僚が管理するようになりました。これにより、軍隊はもはや封建領主の私兵の寄せ集めではなく、国家に忠誠を誓う統一された組織へと変貌しました。
第三に、国内の暴力を国家が独占するプロセスが進行しました。強力な常備軍を持つ国王は、国内の反乱を鎮圧し、独立的な気風の強い大貴族を抑え込む能力を格段に高めました。かつては私的な戦争(フェーデ)が横行していた国内において、暴力を行使する権利は国家の専権事項となっていきました。
これらの財政=行政=軍事の権力集中プロセスは、ヨーロッパにおける絶対王政の確立と密接に結びついていました。ルイ14世のフランスやフリードリヒ大王のプロイセンは、軍事革命の申し子ともいえる強力な「財政=軍事国家」の典型例でした。戦争が国家を作り、国家が戦争を遂行するという相互作用のサイクルが、近代ヨーロッパの国家システムを形作っていったのです。
社会と経済へのインパクト

軍事革命は、ヨーロッパの社会と経済にも大きな変化をもたらしました。軍隊規模の増大は、社会の幅広い階層から兵士を動員することを意味しました。17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの成人男性のかなりの割合が、人生のある時期に兵士として過ごしたと推定されています。これは、多くの若者にとって、故郷の村を離れ、規律、訓練、そして暴力に満ちた全く異なる世界を経験することを意味しました。
軍隊は、ある種の「社会のるつぼ」としても機能しました。異なる地方出身の、異なる方言を話す人々が、同じ制服を着て、同じ命令の下で生活し、戦うことを通じて、地域的なアイデンティティを超えた、より広範な国家への帰属意識が育まれる土壌が生まれました。
経済的には、戦争は巨大な需要を生み出しました。数万、数十万の兵士に食料を供給するための農業生産、彼らが着る制服を製造するための繊維産業、そして彼らが使うマスケット銃や大砲、火薬を生産するための冶金・化学産業。これらの軍需産業は、初期の産業発展において重要な役割を果たしました。国営の兵器工場や造船所は、当時最先端の技術と大規模な労働力を集約した、近代的な工場の先駆けともいえる存在でした。
一方で、戦争は破壊と荒廃をもたらす最大の要因でもありました。特に三十年戦争では、ドイツの広大な地域が戦場となり、軍隊による略奪、疫病の蔓延、飢饉によって、人口の3分の1から半分が失われたとさえ言われています。戦争のコストは、重税となって民衆の生活に重くのしかかり、しばしば民衆反乱の原因ともなりました。軍事革命は、国家の力を増大させると同時に、社会に深刻な緊張と負担をもたらす、両刃の剣であったのです。
「西洋の台頭」と世界史的影響

ジェフリー=パーカーが強調したように、軍事革命の最も広範な影響は、ヨーロッパが世界史の他の地域に対して軍事的な優位性を確立し、世界的な覇権を握るプロセス、すなわち「西洋の台頭」を可能にした点にあります。
この優位性の鍵となったのが、陸上の軍事力と海上の軍事力を効果的に組み合わせる能力でした。15世紀末から、ヨーロッパの造船技術は飛躍的に発展し、遠洋航海に耐えうる頑丈な船体に、多数の大砲を搭載した武装帆船(ガレオン船など)が登場しました。これらの「浮遊する砲台」は、それまでの海上戦で主流だった、漕ぎ手が主力のガレー船や、兵士が乗り移って白兵戦を行う方式を時代遅れのものにしました。
ポルトガルは、この新しい海軍力を駆使して、インド洋に進出し、現地の海上勢力を打ち破って、香辛料貿易の独占を確立しました。スペインは、アステカ帝国やインカ帝国を征服する際に、火器、馬、そして鋼鉄の剣といった軍事技術の優位性を利用しましたが、その広大なアメリカ大陸の植民地帝国を維持し、本国と結びつけたのは、大西洋を支配する海軍力でした。
17世紀から18世紀にかけて、オランダ、イギリス、フランスといった国々は、このヨーロッパ式の軍事=海軍システムをさらに発展させ、世界中に交易所、植民地、そして勢力圏を拡大していきました。彼らは、規律ある少数のヨーロッパ兵と、現地で徴募した兵士(セポイなど)を組み合わせ、ヨーロッパ式の訓練と戦術を施すことで、しばしば数で勝るアジアやアフリカの軍隊を打ち破ることができました。インドにおけるプラッシーの戦い(1757年)で、イギリス東インド会社の軍隊が、圧倒的多数のベンガル太守軍に勝利を収めたのは、その典型的な例です。
もちろん、ヨーロッパの海外進出の成功は、軍事的な要因だけで説明できるものではありません。経済的な動機、宗教的な情熱、そして現地の政治的な分裂を利用した巧みな外交など、様々な要素が絡み合っていました。また、ヨーロッパが直面した疫病に対する免疫の差も、特にアメリカ大陸においては決定的な役割を果たしました。しかし、ヨーロッパで鍛え上げられた、規律、火力、そして持続的な軍事力を投射する能力が、彼らの野心を現実のものとするための不可欠な手段であったことは間違いありません。軍事革命は、ヨーロッパ内部の戦争のルールを変えただけでなく、ヨーロッパと世界の他の地域との間のパワーバランスを、決定的に変えてしまったのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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